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14 利き手

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 彼女と食料品店で会った次の日の金曜日。この日は夏休み前の終業式だった。全学年の集会があり、クラスで宿題をたくさん出された後、昼に帰るために学校を出た。

 いつも通り制服のまま『桜ヶ丘珈琲』へやってきて、温玉トマトチーズパスタとアイスティーを頼んで二階へ上り、バルコニーへ出らずにバルコニー傍の室内の席へ移動する。さすがに真夏の昼は風が吹くバルコニーでも暑いから、しばらくの間はクーラーのついた室内にいようと思う。

 ランチを食べた後は、いつもどおりスケッチブックをテーブルに開いて、タブレットでお絵描きタイムだ。

 二時間ほど黙々と絵を描いていると、彼女がチャットで『今日は夕方カフェにいるよね?』とのことなので『今日は終業式で学校は昼までだから、もういるよ』と送る。

 チャットの十五分後、彼女がやってきて僕の隣の椅子に座った。クリームたっぷりのアイスほうじ茶ラテをテーブルに置いた。

「今日はバルコニーじゃないの?」
「さすがに夏の昼間に外は無理。しばらくこの席にいると思う」
「そうなんだー。外、あっついもんねぇー」

 彼女はハンディーファンで顔に風を当てている。

「明日から夏休みだよね?」
「うん」
「いつも夕方にここに来る感じ?」
「いや、たぶん十一時くらいから夜までここにいると思う」

 僕が夏休みとて、親は二人とも昼間は仕事で家にいないし、そうなると静かすぎる家にいるのが嫌なのだ。叔父たちは僕がカフェの一部を占領していても好きなだけいていいと言ってくれているし、その言葉に甘えている。

「じゃあ、私も時々昼には来ようかな~」
「無理しない程度になら、来てもいいよ」
「うん」

 彼女は嬉しそうな笑みを向けた。

 それから、彼女はいつもの背中に背負うオシャレで小さいリュックではなく、サブバッグのようなものからスケッチブックとお絵描き帳を取り出した。お絵描き帳は小さい子が使うような可愛いキャラクターが表紙になっている。

「この前、自分の手帳に絵を描くのは無理があったから、これ買って来たんだ。私も絵を描きたいと思って。優しく指導してね」
「俺が教える前提なんだ」
「そりゃそうでしょ~。今日は丸が描けるプロになるから」
「丸はある程度描ければいいよ。丸が描けるようになったら、その丸の中に顔と頭を入れていくイメージで練習しようか」
「分かった~」

 彼女はお絵描き帳にペンで丸をたくさん描きこんでいく。僕はタブレットに戻り、絵の続きを描く。
 彼女は丸を描きながら口を開いた。

「昨日さ、私がお店で話しかけちゃったの、大丈夫だった?」
「大丈夫だよ。何も問題ない」
「……そう? 最初にコウ君しか目に入ってなくて、普通に声を出しちゃったの。あとで一緒にいる人に気づいたけど、後の祭りだったっていうか」
「知り合いに会ったら、話しかけてるのは普通でしょ」
「そうだけど……女の子もいたでしょ。私が邪魔したんじゃないかと思って。コウ君、気まずい雰囲気にならなかった?」
「なってないよ。気にし過ぎ」

 多少怒らせた気はするが、それは僕が怒らせただけで彼女は何もしていないのだから、気にしなくていいのに。

「ならいいんだけど……。東京にいるとき、友達とか付き合ってなくても恋の駆け引きみたいなのでピリピリしたり大変だったんだ~。こっちはそういうのないんだね」
「……たぶんね」

 恋の駆け引きなんてものはないはず。
 僕に分からないものは理解しがたいので、そういったものは思考の隅に追いやる。

 彼女の丸の練習が終わり、次の段階の人間の顔と頭を丸の中に描き込むよう指導していく。また模写もいいよ、と教えて、彼女はスマホを見ながらネットで見つけた好きなイラストを模写している。

 彼女は一生懸命描いている。けれど、初心者というのもあるが上手ではない。彼女は時々左指でスマホを操作しつつ右手で絵を描き、おかしいところはないはずだけど何か違和感を感じる。

 何が違和感なのだろう。上手ではない彼女の独特な字と絵。昔、僕が絵を描く横で、兄も時々絵を描くのを真似していた。それと似たような何か。

「――あ」
「……うん? 何?」
「サヤって実は左利き?」

 彼女はピタリと右手のペンを止めて、驚いた様子で僕を見た。

「なんか違和感あったんだよね。兄ちゃんと絵のヘタ度が似てるというか」
「おい」
「兄ちゃんは左利きだけど両利きになってるから右手でも字は上手に書いてた。でも絵は酷くて、左手の方が上手だったんだ。サヤってそれに似てる」
「……」
「そういえば、昨日の買い物の時、左手でスマホ操作してたよね。スマホ操作は利き手ってあんまり関係ないかもだけど、でもサヤはやっぱり左利きじゃないの?」
「……コウ君って探偵も向いてるかも」

 彼女は困ったように笑みを向けた。

「やっぱり左利きなんだ」
「うん。……もう三年くらいは右手で字は書いてるんだけどね。なーんで上手にならないんだろー」
「家ではどうしてるの? 誰も見てない時は?」
「……左で書いてる。箸も左」
「だからじゃないかな」
「……そうだよね」

 彼女はがっかりしたような顔で溜息をついた。

 誰も見ていない時は慣れ親しんだ左手で書いていたということは、右手は誰かに強要されたということなのだろうか。

「……もしかして、親に強要させられた?」
「え……?」
「昔は左利きの人は強要されることも多かったと聞いたことがあるから」

 僕と兄は遊び感覚で両利きになったけれど、誰かに強要された人もいるだろう。彼女が前に母親のことを話している時、母親から色々と強要させられたこともあるのでは、という印象を受けた。

「……うん、似たような感じかな」
「だったら、もういいんじゃない? 右手じゃなくて左手を利き手に戻しても。もう強要する人はいないでしょ」

 彼女の両親はもうこの世にいないのだから。

「サヤがどうしても右手じゃないと嫌なら無理にとは言わないけど、強要させられてただけなら、左手に戻したら?」

 彼女は口を開いて、また閉じた。
 泣きそうなのを我慢しているような顔で口を結んでいたけれど、やっと口を開いた時の声は震えていた。

「……いいのかな」
「……サヤの『本当の自分』は左利きなんじゃない?」

 彼女が時々口にする言葉『本当の自分』の一部が左利きなのではないだろうか。

「……っ、そ、うだね。本当の私は左利き。……うん、戻すね左に。もう隠さなくてもいいよね」

 自分に言い聞かせるように呟いて、彼女は大きく息を吸って右手のペンを左手に持ち替え、絵を描くのに戻る。

 ただ利き手に戻すだけ。それだけのことが彼女にとっては大きい事だったように感じた。
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