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敵は紫電流
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「そうか――」
佐伯衛が喜一郎が死んだという報告を受け、最初に出した言葉がそれだった。
元教え子であるという警察官は、道場の床に正座したままに彼の次の言葉を待っていた。
ぼんやりと天井あたりへと視線を漂わせていた彼であるが、やがて警官の存在を思い出したように「ご苦労だった」と言って頭を下げた。
(兄上……)
彼女には、兄が年相応に数瞬で老け込んでしまったかのように見えた。
◆ ◆ ◆
――私がそうだが。
と佐伯衛が言わずに、若者の姿を一瞥したっきりであくびをしたのは、それだけでその若者に対する興味を失ったからだ。
「――失礼ですが、道場主の方は、おられぬのですか?」
若者は、言った。
無理もあるまい。
この佐伯衛という男は、生年こそはっきりしないが吉岡派鬼一法眼流の使い手としてこの近隣に知られた剣客である。主に幕末から明治にかけて活躍していて、幾つもの逸話が残されている。剣の他に柔術と槍、棒にも長じていた。地元では天狗の化身とも言われている。
この時期の武の世界においては、半ば伝説の領域の住人であった。
そんな男が、縁側で座って猫を膝の上に抱いているだなどと。
到底、信じられるはずもなく。
そもそも、その容姿、いでたちからしてがどうにもそれらしくない。
鳥の巣のような頭をしていた。柿色のじんべえを着込み、丸眼鏡をしている。そして、何よりも若い。
若すぎる。
見た目に三十の半ばか、四十に届くかといったようなところだ。
この男の逸話は遡れば幕末の頃から聞こえる。戊辰戦争にも参加していたとか京都で新撰組と立ち会ったとか。そしてその幕府の統治が終わってから、すでに二十年以上たつのである。
そしてそうとも知らず、得体のしれない男である衛にぞんざい極まりない応対を受けても、若者には苛立つような様子はなかった。声は抑えている風でもなく、それなのに地の底から響く風のような、見えない重みがあった。今更、多少のことでは感情が動くようなことはないのだろう。
衛は微かに首を振って、静かに息を吐いた。
こういう目をした者がどういう類なのか、よく知っていたのだ。
若者の右隣で控えている楓が、困ったような顔をしているのが見えた。ような、というのはこの場合は不正確にもほどがある表現だった。実際に彼女は困っているのである。さっさと説明してしまえば済むことであるし、いつもならそうしているのだが、今日はどうにも勝手が違うらしい。
衛は溜め息を吐いた。
若者は繰り返した。
「道場主の方は」
「兄上」
と楓は遮った。
衛は妹に言われて、そちらを見てから。
「人に話を聞く時は、まず自分の氏素性をはっきりさせてからにするもんだね」
なるべく素っ気無く聞こえるように、軽々しく言い捨てる。いかにも相手なぞしたくないという態度が見え見えだ。
「あなたは、佐伯衛様の御子息ですか?」
そう思われても無理はなかったが。
「当人だよ」
別に信じなくても構わないがね――そう続けようとする前に、若者がその場にざっと膝をつき、両手をついた。
「失礼をいたしました。わたし、南郷郡芝村の住人で、檜山喜一郎と申します。剣名高き佐伯衛様にご相談の儀があって参りました」
「檜山――」
南郷郡の芝村の檜山といえば……衛はそうぼやくように呟き。
「敵討ちか」
と言った。
「……御存知でしたか」
若者――檜山喜一郎の顔が、初めて感情で歪んだ。怒りとも哀切ともつかぬ何かであった。色んな感情が混ざり合っているような、それでいてそのどれでもないような顔であった。
衛は少し考えてから。
「話には聞いているがね。檜山さんとは一度も会ったことはない。だから、あんたにも義理はない」
なるべく冷たく聞こえるようにと言った言葉である。「それに、仇が解っているんなら、警察に届けるべきだ。御一新からこっち、敵討ちなんてのはとっくに廃れた旧弊だよ。殺されたからって殺し返したら、そいつはもういけない。お縄になっちまうのはあんたの方さ」
そう。
時代は変わったのだ。
すでに武士が刀を持つことが許されなくなって久しい。世を治めるのは明治政府で、もっといえば薩長の田舎侍どもだ。百姓が銃を持って、侍の弓矢などとっくに用を為さない時代である。
そういう時代にあっては、武士の権利とも義務とも思われていた敵討ちなどは、旧弊の蛮習の最たるものであるかのようにとっくの昔に廃止されていたのだった。
衛の言葉を聞いて、しかし喜一郎はがばっと額を地面にこすりつけた。
「お願いします。仇は討たねばなりません。官憲もあてにはならんのです」
抑揚のない声での嘆願であった。
よほどに思いつめているのは見て取れたが……衛の膝の上で猫が頭を起こした。しばらく喜一郎をみていたかと思うと、飛び立つように膝から降り立ち、やがて庭のどこかに走り去ってしまった。
衛と楓はついその猫の挙動に目を奪われていたが、戻した視界にはまだ土下座のままの喜一郎がいた。
溜め息を吐く。
「悪いがね」
「秘剣――」
抑揚のない声はそのままに、喜一郎はその言葉を紡いだ。
「花隠し」
「秘剣?」
何処か異様に響く言葉に、問い返してしまった。
「敵は紫電流、北尾重兵衛。その男の秘剣・花隠しを破る技をご教授していただきたいのです」
佐伯衛が喜一郎が死んだという報告を受け、最初に出した言葉がそれだった。
元教え子であるという警察官は、道場の床に正座したままに彼の次の言葉を待っていた。
ぼんやりと天井あたりへと視線を漂わせていた彼であるが、やがて警官の存在を思い出したように「ご苦労だった」と言って頭を下げた。
(兄上……)
彼女には、兄が年相応に数瞬で老け込んでしまったかのように見えた。
◆ ◆ ◆
――私がそうだが。
と佐伯衛が言わずに、若者の姿を一瞥したっきりであくびをしたのは、それだけでその若者に対する興味を失ったからだ。
「――失礼ですが、道場主の方は、おられぬのですか?」
若者は、言った。
無理もあるまい。
この佐伯衛という男は、生年こそはっきりしないが吉岡派鬼一法眼流の使い手としてこの近隣に知られた剣客である。主に幕末から明治にかけて活躍していて、幾つもの逸話が残されている。剣の他に柔術と槍、棒にも長じていた。地元では天狗の化身とも言われている。
この時期の武の世界においては、半ば伝説の領域の住人であった。
そんな男が、縁側で座って猫を膝の上に抱いているだなどと。
到底、信じられるはずもなく。
そもそも、その容姿、いでたちからしてがどうにもそれらしくない。
鳥の巣のような頭をしていた。柿色のじんべえを着込み、丸眼鏡をしている。そして、何よりも若い。
若すぎる。
見た目に三十の半ばか、四十に届くかといったようなところだ。
この男の逸話は遡れば幕末の頃から聞こえる。戊辰戦争にも参加していたとか京都で新撰組と立ち会ったとか。そしてその幕府の統治が終わってから、すでに二十年以上たつのである。
そしてそうとも知らず、得体のしれない男である衛にぞんざい極まりない応対を受けても、若者には苛立つような様子はなかった。声は抑えている風でもなく、それなのに地の底から響く風のような、見えない重みがあった。今更、多少のことでは感情が動くようなことはないのだろう。
衛は微かに首を振って、静かに息を吐いた。
こういう目をした者がどういう類なのか、よく知っていたのだ。
若者の右隣で控えている楓が、困ったような顔をしているのが見えた。ような、というのはこの場合は不正確にもほどがある表現だった。実際に彼女は困っているのである。さっさと説明してしまえば済むことであるし、いつもならそうしているのだが、今日はどうにも勝手が違うらしい。
衛は溜め息を吐いた。
若者は繰り返した。
「道場主の方は」
「兄上」
と楓は遮った。
衛は妹に言われて、そちらを見てから。
「人に話を聞く時は、まず自分の氏素性をはっきりさせてからにするもんだね」
なるべく素っ気無く聞こえるように、軽々しく言い捨てる。いかにも相手なぞしたくないという態度が見え見えだ。
「あなたは、佐伯衛様の御子息ですか?」
そう思われても無理はなかったが。
「当人だよ」
別に信じなくても構わないがね――そう続けようとする前に、若者がその場にざっと膝をつき、両手をついた。
「失礼をいたしました。わたし、南郷郡芝村の住人で、檜山喜一郎と申します。剣名高き佐伯衛様にご相談の儀があって参りました」
「檜山――」
南郷郡の芝村の檜山といえば……衛はそうぼやくように呟き。
「敵討ちか」
と言った。
「……御存知でしたか」
若者――檜山喜一郎の顔が、初めて感情で歪んだ。怒りとも哀切ともつかぬ何かであった。色んな感情が混ざり合っているような、それでいてそのどれでもないような顔であった。
衛は少し考えてから。
「話には聞いているがね。檜山さんとは一度も会ったことはない。だから、あんたにも義理はない」
なるべく冷たく聞こえるようにと言った言葉である。「それに、仇が解っているんなら、警察に届けるべきだ。御一新からこっち、敵討ちなんてのはとっくに廃れた旧弊だよ。殺されたからって殺し返したら、そいつはもういけない。お縄になっちまうのはあんたの方さ」
そう。
時代は変わったのだ。
すでに武士が刀を持つことが許されなくなって久しい。世を治めるのは明治政府で、もっといえば薩長の田舎侍どもだ。百姓が銃を持って、侍の弓矢などとっくに用を為さない時代である。
そういう時代にあっては、武士の権利とも義務とも思われていた敵討ちなどは、旧弊の蛮習の最たるものであるかのようにとっくの昔に廃止されていたのだった。
衛の言葉を聞いて、しかし喜一郎はがばっと額を地面にこすりつけた。
「お願いします。仇は討たねばなりません。官憲もあてにはならんのです」
抑揚のない声での嘆願であった。
よほどに思いつめているのは見て取れたが……衛の膝の上で猫が頭を起こした。しばらく喜一郎をみていたかと思うと、飛び立つように膝から降り立ち、やがて庭のどこかに走り去ってしまった。
衛と楓はついその猫の挙動に目を奪われていたが、戻した視界にはまだ土下座のままの喜一郎がいた。
溜め息を吐く。
「悪いがね」
「秘剣――」
抑揚のない声はそのままに、喜一郎はその言葉を紡いだ。
「花隠し」
「秘剣?」
何処か異様に響く言葉に、問い返してしまった。
「敵は紫電流、北尾重兵衛。その男の秘剣・花隠しを破る技をご教授していただきたいのです」
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