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幼少期編
朝を過ごすこと
しおりを挟む「おはよう、お姫様」
穏やかな声が降る。起床の時間だ。
まだ眠いと言えば寝かせておいてもらえるとは思うが、それでは声の主に出会えない。
重い瞼を叱咤し、ゆるりと目を開けると、陽だまりの笑顔が目の前にあった。
思ったよりも近くて、反射的に身を引けば彼はますます笑う。
いくらかは慣れたけど、寝起き特有のけだるさをまとった言継は目の毒だ。
片肘をついて身を起こした姿は元服もまだの子供とは思えない色気がある。
白い夜着から覗く鎖骨がまぶしい。ってこれではまるで私が変態みたいではないか。
違う。悪いのは2歳児相手に色気をふりまく言継であって、私じゃない。
そんなまぬけな事を考えつつひとり悶々としていると、まだ眠いと思われたのか「もう少し眠るかい?」と頭を撫でられた。
心地よくてうっかりそのまま目を閉じそうになり、あわてて首を振る。
眠ってしまってはお見送りが出来なくなってしまう。
「おきます!」
眠気を振り払うように勢いよく起き上がる。
勢い余ってそのまま前のめりに倒れそうになってしまったのはご愛嬌という事にしておいてほしい。2歳児の体はバランスが難しいのだ。
「そう。じゃあ女房を呼ぼうか」
危なっかしい私を抱き留めて、言継が帳の向こうに控えているであろう女房に声をかけた。
これから着替えをして、一緒に朝ごはんを食べるのだ。
私が言継の腕の中で眠りに落ちた日から、言継は私の部屋に泊まっていくようになった。
男女で褥を共にするのはあまり褒められたことではないのだが、言継がいれば私が悪夢にうなされない事や、互いに子供――特に私がまだ2歳という事で目こぼしをされた。
最初は、添い寝とか無理。違う意味で眠れないと思っていたが、そんな事はなかった。
とてもよく眠れた。
子供の順応力は偉大である。そういう事にしておこう。
手早く着替えさせてもらったら朝食だ。
私はまだ小さくて匙もうまく使えないから、一生懸命である。
ちまちまと口元に運び、もぐもぐ食べる。
けれどどうしても時間はかかるし、時にはこぼしてしまう。
そんな私を見かねて、口元を拭いてくれたり食べさせてくれたりする言継は本当に面倒見がいい。
よくよく考えるとだいぶ恥ずかしいのだが、この数日で慣れた。私は子供なのだ。
「景子は本当にかわいいねぇ」
だからまるで小動物をめでるかのような生暖かい瞳を向けられても仕方がないのである。悔しくなんてない。
……ゲームの景子はちゃんと美少女だったもん。私だって大きくなるんだ。
大きくなるために食事は大切と、差し出されたごはんをぱくりとくわえる。
言継の目がとろけたのは気のせいではないだろう。
共に過ごす時間が増えて気付いたのだが、言継は景子にことのほか甘かった。
私がよく知っている乙女ゲームの中の言継は18歳の青年で、画面の向こうの存在だった上にヒロインの相手だった。
幼少期の頃の事、特に彼が景子とどう過ごしていたかなんて知るはずがない。
生まれ変わってからの景子の記憶でも、彼が良き兄である事くらいしかわからなかった。
けれどここ最近の彼は隙あらば景子を全力で甘やかすのだ。
名前を呼べば笑顔をくれて、かけよれば頭を撫でてくれる。
手を伸ばせば当たり前のように抱き上げてくれるし、夜寝るときは腕の中だ。
仲がいいを通り越している。
これから婚約者になる事を考えれば、良い事なのだと思うけれど、実はこの二人、ゲームの時間軸ではそこまで仲がよろしくない。
犬猿の仲というほど悪くもないが、なんというか、これぞ政略結婚と言う感じなのだ。
だからこそ、ゲーム終盤になるとヒロインがどのルートに入っていても二人の婚約は破談になるのだけれど。
一体何が起こったのだろう。いや、これから起こるのか。
だとしたら、回避することも出来るかもしれない。
ご飯を食べ終えた言継の姿をぼんやりと眺めながら私は考える。
すると、目があったのでなんとなく「にいさまだいすき」と伝えておいた。
言継の顔が大変な事になった。
実にほほえましい一幕である。
ご飯を食べ終えたら言継は参内しなければならない。
殿上童として行儀見習いをするのだ。
いやだ行きたくない景子といるほうが楽しいと、ごねる困った兄をなだめすかして送り出すのは大仕事だったりする。
「にいさま、じかんです!」
「時間なんて永遠に来なければいいのに」
私にしがみつく腕をぺちぺちと叩いて訴えても、引っ付き虫は離れない。
それどころかもっと力が入ってしまって、少しだけ苦しい。
なんだか新婚さんみたいだ。この人こんな性格だったっけ。
「おかえりをおまちしておりますから」
その言葉を発した瞬間、不意に言継が行動を止めた。
不思議に思って顔を上げると、予想していたよりもずっと近くに顔がある。
細められた瞳に映ったのは、目を見開いた私の顔。
額に、ぬくもりが触れる。
「約束」
なるべく早く帰ってくるからねと、ご機嫌で去って行った言継の背中を見送る私の顔は、紅葉よりも赤く染まっていたはずだ。
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