神様の料理番

柊 ハルト

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レモンの憂愁

09 ー 戦う料理番

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 包丁を取り出したからといって、衝動的に人を刺すわけではない。
「ムシャクシャしたから殺った。後悔はしてない」などと言うには誠は大人になり過ぎているし、第一これは商売道具だ。四国の狸の爺様が特別に打ってくれた一品なので、間違っても人や獣人を刺す道具にするわけにはいかない。
 誠は包丁に月を映し出すと、刃こぼれがないことを確認してからバッグにしまった。
 大妖怪が打った包丁だ。万が一欠けることはないが、時折確認しては日本との繋がりを確かめたいのかもしれない。
 邸内に気を張り巡らせて厨房に誰もいないことを確認すると、誠は足音を忍ばせながら部屋を抜け出した。
 かすかに酒の匂いが残るダイニングを通り抜ける。用があるのは、その奥だ。
 ランプの魔道具は、魔力がなくても使えるので便利だ。パチリとスイッチを入れると、ピカピカのシンク周りや作業台と、無事に対面できた。誠はバッグから取り出したまな板と先程の包丁を作業台に置き、さらにキャベツを用意した。
 トトトト…と、厨房内に小気味良い音が連続して響く。誠の場合は「ムシャクシャしたから(野菜を)切った。後悔はしてない(どうせ千切りのキャベツやピーマンは店で出すし)」だ。
 ボウルに山盛りになった千切りキャベツは、三山目を築こうとしている。それでも誠の手は止まらない。止まる時は誠のイラつきが治った時か、キャベツが無くなる時かの二択だ。
 けれどそこにもう一つの選択肢を投じたのは、渦中の人物であるアレクセイだった。

「マコト、まだ寝ないのか?」

 誠はピタリと手を止めると、顔を上げた。

「あー…うん。寝付けないし」

 どうしても、口がむっとなってしまう。時間が経つにつれて頭は冴えてきたし、冷静さも戻ってきたはずだ。けれど口元はご愛嬌だ。

「オランジュ班長には、俺がマコトのツガイだと報告した。これであの班員が何かしてきても大々的にしょっぴけるはずだ」
「…どういうこと?」

 コツコツと靴音を響かせながら隣に来たアレクセイに聞いた。

「基本的にどの国でもツガイ持ちの獣人に言いよることはマナー違反な上に、場合によってはそのツガイの伴侶が訴えることもできる。我が国ではそれが厳しく取り締まられているし、国内のどの騎士団の規律でもルール違反だとしっかり明記されている。昼前の時は奴の上司であるオランジュ班長の顔を立てたが、今度からは俺が言える立場になっている」
「なるほど」

 あの時にオランジュを呼んだのは、王都騎士団と領の騎士団という隔たりがあったために、直接注意することを控えたということか。
 普通にそのまま注意すれば良いと思うのだが、それが騎士団のルールならば誠にとやかく言う権利は無い。無いのだが、やはりどこか胸の中がモヤモヤしてしまう。誠は何度もアレクセイの脹脛を蹴っていた。
 それなのにアレクセイの尾は愉快そうに揺れている。顔はいつも誠を見ている時と同じで、微笑を浮かべている。
 もしかしてアレクセイはマゾっ気があるのではないかと思った誠は、どういうことかとアレクセイに聞いた。

「いや…マコトが嫉妬していると思うとな。嬉しくて」
「そりゃ妖怪だって嫉妬くらいするよ。…まぁ、そんなん思ったこと無かったけどさぁ」
「俺だけ、か?」
「うん」
「俺だけ特別か?」
「そうだって」

 やけくそ気味に言うと、アレクセイは誠をきつく抱きしめてきた。

「マコト…!」
「何だよ。もし俺が包丁持ってたら危ないだろ」
「その時はきちんと包丁を取り上げてから抱きしめるから大丈夫だ」
「…そうか」

 どうやらアレクセイは、感極まっているようだ。尾の振り方が尋常ではない。毒気を抜かれてしまった誠は、しばらくアレクセイの好きにさせていた。
 気の済むまで誠を抱きしめたアレクセイは少しだけ顔を離すと、誠の顔中にキスを落とす。顳顬をかすった唇は耳を食み、時折いたずらを仕掛ける。
 くすぐったくて誠が体を捩るが、アレクセイの腕は離れなかった。
 額をコツンと合わせるのは、アレクセイがこれからキスをするという合図の一つだ。誠はゆっくりと目を閉じた。そして唇と唇が触れるか触れないかという時。厨房の入り口に、誰かの気配を感じた。

「…またかよ」

 同じパターン。同じシチュエーション。それが二度続くと、ムカっ腹が立つ。せめてあと数秒後にしてくれと思いながら、誠はアレクセイから体を離した。

「何してるんですか!」

 妙に頭に響く声に、誠は耳を押さえた。入り口に立っていたのは、今は顔も名前も見たくもないラペルだった。

「何って、ツガイ同士のコミュニケーションだけど?っつーか、五月蝿ぇな」

 先程のイライラが戻ってきて、ついつい挑発的な発言になる。
 自分の物は自分の物、他人の物は時と場合によって自分の物を地でいく妖怪のツガイにちょっかいを出そうというのだ。誠が燃えないわけがない。

「アンタに聞いてないよ!アレクセイ様…どうしてそんな奴を…」

 凄い剣幕でこちらを睨んだラペルは、すぐさまアレクセイに縋り付くような視線を向ける。どれだけ器用なんだよと思いながらも、誠はきつい目を向けるのをやめなかった。
 けれど誠よりもきつい視線を向けていたのはアレクセイだった。

「何の用だ?」

 言うと同時に一気に室温が下がったようで、室内が凍りつく。キャベツが無事なのは、まだアレクセイが冷静だという証拠だろうか。
 誠はそっとアレクセイの腕から抜け出すと、キャベツを救出した。

「え…だって、アレクセイ様が戻ってきたのが見えたから」
「どこから見ていた。俺は常に見張られないといけない存在か?」
「見張るなんて、そんな…」
「貴様がしたことは、それと同じことだ。用がないなら立ち去れ。ここは厨房だ」

 キッパリとアレクセイが言う。辺りは吹雪になっていた。

「そ、それを言うなら、その人間は何なんですか?野菜を切ってるふりなんかして。王都騎士団は、調理人を雇うお金があるんですか?だったら僕でも…」
「僕でも何だ。オランジュ班長にも言ったが、マコトはフレデリク部隊長が直々に依頼を出して雇っている、冒険者兼料理人だ。十分な戦力としてここに居るし、食に関する実験的なこともある。何も知らない貴様がとやかく言うことではない」

 前回の旅では何となく同行していた誠だが、それでもアレクセイのツガイ候補ということで特別措置があった。けれど今回は、フレデリクからの依頼としてこの場にいる。
 冒険者として依頼を出すのならギルドを通して指名依頼をしなければならないが、その手続きはいつの間にかフレデリクが済ませていた。
 だからアレクセイのツガイだが、堂々とこの場にいることができるのだ。アレクセイの言う通り、他人にとやかく言われる筋合いは無い。

「それでも、人間じゃないですか」
「それがどうした。異種族間の婚姻は可能だ。俺は誠が人間ではなく、エルフでもドワーフでも娶っただろう。それにこの国では、あからさまな人種差別は処罰の対象だ。それに他人のツガイを侮辱するとは…貴様、よっぽど死にたいらしいな」

 降り積もった雪が舞い上がる。アレクセイの喉からグルルルと威嚇音が聞こえ出した。そろそろ止めるべきだろうか。
 誠がどうしようか考えていると、ドタドタという足音が近付いて来た。

「またテメェか!」

 髪の毛先を凍らせたオランジュが厨房に入って来た。そしてすぐにラペルの腕を背中に回し、取り押さえる。

「痛い!離してください、父に言いますよ!」
「ああ、ああ。何とでも言ってくれ。このクソ忙しい時期に団の規律を乱す方が問題だろうが!それに言ったよな、アレクセイはツガイ契約を終えたって。お前の父親は、ヴォルク家に逆らえるほど偉いのかよ。ああ?」

 吠えるように言い捨てると、オランジュは乱暴にラペルの腕を離した。その場でよろけたラペルは涙目になりながらも、誠を睨むことをやめなかった。

「…どうでもいいけどさ」

 誠も睨み返す。

「アレクセイの迷惑も考えたら?どう見たってコイツ、アンタに靡きそうにないじゃん」
「人間風情が、どうやってアレクセイ様を誘惑したんだよ!魅了の魔法か魔道具でも使ったんじゃないの?」
「何それ。知らねぇし」

 妖怪の中では、物語などに出てくる魅了の魔法に近い力を持つものがいるが、生憎と誠はそんな力を持っていない。この世界にもあれば少々厄介だが、アレクセイがそんな魔法にかかるとは思えない。
 誠が溜息を吐いたタイミングで、厨房の前にはゾロゾロと他の団員達が集まって来た。

「うっわ、寒!班長、はーんちょー!中どうなってんすか」

 オスカーの声が聞こえる。冷気はダイニングに繋がるデシャップにまで漏れているようだ。

「え、この冷気って、噂のアレクセイ班長の?」
「そうだぜ。『氷の貴公子』って名前、こっからもきてんだよ。無表情がデフォだから『氷の貴公子』って思ってると、痛い目見るぞ。それもその名前の由来の一つだけど」
「もう痛い目みてるよ。指とか足とか寒いし!」

 少々失礼な発言も聞こえるが、オスカーは明日の太陽が拝めるのだろうか。もう一人の声の主は知らないが、アレクセイの耳がぴくりと動いたので、きっと知っている人物だろう。
 外野は楽しそうだが、こちらはまだ物理的にも精神的にも空気がピリついている。
 自分の怒りよりもアレクセイが静かに激怒していたので、いつの間にか誠は冷静になりつつあった。

「オランジュ班長。貴殿も立場上、大変なのは分かる。しかし他領団の一兵卒に、私のことでいろいろと言われたくない。その者は獣人としてのマナー違反をし、人種差別などの問題発言をした。どうする、班長。貴殿のところの騎士団で問題を対処できなければ、こちらの騎士団とヴォルク公爵家の問題として罰することもできるが」

 アレクセイが言葉を発する度に積もった雪が舞い、吹雪も強さを増している。オランジュは膝下まで埋まった自分の足を見てから、アレクセイに視線を戻した。

「…いや、こちらの失態はこちらで対処する。もしかしたら、力を借りることになるかもしれんが」
「ええ、大丈夫です。それで国民の安全を守れるのなら」

 アレクセイはうっすらと笑ったあと、「ただし」と付け加えた。そのアイスブルーは、さめざめとした色を宿していた。

「またマコトに言いがかりをつけてくれば…その時は、容赦はしませんよ」
「あ…ああ、分かった」

  気圧されたオランジュは、寒さのためかアレクセイの威圧感かは分からないが、かすかに震えていた。
 そして「おら、行くぞ。お前は部屋で謹慎してろ!」と言いながらラペルを乱暴に引き摺りながら連れて行ってしまった。

「お前らも早く散れよ。そんでもって、温かい風呂に入れ!凍傷になるぞ!」

 デシャップからはオランジュのそんな声が聞こえてきた。アレクセイは勇敢にも入り口からこちらを覗き見る団員達をチラリと見ると、手を軽く振って雪を消してしまった。
 誠は元に戻った厨房を見回して、安堵の溜息を漏らした。
 この場は何とか収まったのだが、誠の受難はこれだけではなかった。
 まずはアレクセイのケアをしなければならない。自分のためにあそこまで怒ってくれた男をこの手で撫でるのは、ある種の愉悦だ。

「アレクセイ、ちょっと屈んで」

 誠はアレクセイの肩に手を置くと、頭を少し下げさせた。そしてサラサラの銀髪が近くなると、わしゃわしゃと撫でてやった。アレクセイが頭を撫でられることが好きなのは、何となく分かっている。
 ピンと立っていた耳と尾は次第にだらりとなり、尾はゆらゆらと揺れだした。

「…んふふ」

 それを見て、思わず笑い声が漏れてしまう。自分よりも長身で、実践で培った筋肉を持つこの年下の男が、自分の手で甘やかされている。アレクセイを可愛いと思うところの一つが、これだ。
 これだけは誰にも分かってほしくない。多分アレクセイの両親と兄であるフレデリクは分かっていると思うが、それでもこれからは誠が独り占めをしてしまいたい。
 やっと尾の調子が戻ったので、誠は髪を整えてからアレクセイを解放してやった。少し不服そうにしているが、まだデシャップに誰かが居る気配がする。誠は隠れている連中を厨房に呼んだ。
 隠れていたのは、アレクセイ班の四人全員だ。オランジュの足音と部屋が寒くなったために、アレクセイが怒っているのだと全員駆けつけたそうだ。最後まで残っていたのは、どのタイミングで食後のデザートを聞けば良いのか分からなかったらしい。
 けれど誠は彼らが誰も厨房に入れないように見てくれていたのを知っている。デザートのことも多少はあるだろうが、アレクセイがほっと出来る二人きりの空間を守ってくれていたのだ。

「よーし。今日のデザートはクレープだぞ。もう誰も厨房に来ないだろうから、特別に綺麗に飾り付けもしてやろう」

 誠はバッグの中からあらかじめ焼いておいたクレープの生地と果物、生クリームを取り出すと、皿に盛り付けをしていった。
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