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蜂蜜の吐息
08 ー ミョート村
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窓を開けて空気の入れ替えをしながら、大きく伸びをする。
この村の朝は早く、まだ太陽が上りきっていないのに、今朝もそこここで人の動く気配がしていた。
今日はパン屋と、もう少し村周辺を見てみたい。誠は朝食を食べずに宿を出た。
焼きたてのパンを狙っている客でパン屋は賑っている。村にパン屋は数軒あるようで、誠はとりあえず一番近いパン屋に並んだ。
行列に並ぶのは誠にとって苦痛しかないが、これも市場調査のためだ。音楽を聴きながら気を紛らわせ、ついでに皆がどんなパンを買っているのもチェックする。
作っている種類が少ないのか、紙袋の上からは丸い黒パンかバゲットのようなパンばかりが覘いていた。
店内に入ると、小麦の焼けた良い香りが迎えてくれた。しかし、日本で見慣れた菓子パンも惣菜パンも無い。惣菜パンは日本で独自進化したものだし、日本でいう菓子パンはイーストで発酵させたものなので、ヨーロッパでは菓子に分類される。
とは言え、だ。日本のパン屋に慣れた身では、無いと言われると余計に惣菜パンを食べたくなってしまった。
かろうじて小さなパイを見つけたので、誠はそれを二つ買ってみた。
「一応、パイは昔からあるもんな…」
パイの原型は古代ギリシャ・ローマ時代に始まる。
中に果物や肉、某魔女が配達していたニシンなどを包んで焼くようになったのは十四世紀のフランス。イギリスはパイの歴史が古いが、当時のパイはオーブン用の型や皿の代わりだったため、皮は厚く、捨てられていたという。
ルネサンス期のイタリアでは、アラブから伝わった菓子パンの影響によって小さく甘いパイが発展し、ヨーロッパに広まった。
それまでの素材を守ためのパイから、パイ生地自体をメインとして食べるためのレシピが広まったのは、オーブンが進歩した十六世紀頃だ。
「うーん…やっぱ適当な世界だな」
この世界の文明がどのように進歩して、どれほどルシリューリクが手を加えたのかは知らないが、共有キッチンに設置されている魔道具だというオーブンは、まあまあ使える物だった。きっとお菓子もそのうちに進化するのだろと、誠は今後に少しだけ期待した。
他のパン屋でも小さめのパンを買い、広場へ向かう。まだ朝も早いというのに、屋台は何軒か出ていた。
その中からスープの屋台を選び、一杯購入した。
「食い終わったら、器とかは返してくれよ」
「分かった。ありがと」
屋台の兄ちゃんは、誠がパン屋の紙袋を持っていることからトレーも貸してくれた。
トレーを片手に空いているベンチを探していると、ここ数日ですっかり耳に馴染んでしまった声が後ろから聞こえた。
「やはりマコトだったか」
朝日に反射して輝く銀色が眩しい。誠は少し目を細める。
私服なのか、ゆったりした服装もアレクセイには似合っていた。
昨日のことがあったのでどんな顔をすれば良いのか分からなかったが、誠の心中は意外にも穏やかだ。
「おはよ。何、俺のストーカー?」
ニヤリと笑いながらそう言ってやると、アレクセイは長い足で自分との距離を縮めた。
「君にはストーカーが居るのか?」
どうやらこの世界にもストーカーが居るようだ。少し焦っているアレクセイに冗談だと言いながら、誠はアレクセイが持っているトレーを見た。
「アンタも朝飯か?」
「ああ。生憎と、料理人は同行していないものでな。それに、この広場ではいろんな話が集まるから、都合が良いんだ」
「へー。飯食ってる時も仕事してんだな」
「我々の使命だからな」
誠と話している時でも、時折ピコピコと他所へ向く耳で、周りの冒険者の話を集めているのだろう。綺麗な顔なのにその耳の仕草が可愛くて、そのギャップに笑いそうになった。
アレクセイは優雅に一つ尾を揺らし、誠に聞いてきた。
「それでだな。朝食を一緒にどうだろうか?」
妙に真剣な目に、断る理由も無い。それに、誠も同じことを考えていた。
「もちろん。俺もそれ、聞こうと思ってた」
丁度近くのテーブルが空いたので、そこに座ることにした。
「ハンカチ、敷いてやろうか?」
座る前にニヤニヤと笑いながらアレクセイに聞くと、キョトンとした顔を返された。
そして、一拍置いた後で互いに笑い合った。
「ハハハ!そんなこと言われたのは、初めてだ。気持ちは嬉しいが、要らないよ」
澄んだ朝も似合う男アレクセイはベンチにさっと手をかざしてから、座ろうと誠を誘う。
「さっきの、何?」
「ん?ああ、洗浄魔法だが…もしかして、マコトは使えないのか?」
そう言えば相模が最後まで悩んでいたのが、鑑定スキルと生活魔法の付与だったなと思い出す。魔法が使える世界は総じて「生活魔法」という魔法を、一般庶民でも使える世界が多いという。
相模にしては歯切れが悪く、「君は存在自体がチートだから…うーん…大丈夫…でしょう…」と言っていたが、恐らくこういう場面を想像したのだろう。
「あー…俺は攻撃特化型だから」
それは嘘ではない。
妖狐が使える術は半分程度しか使えないし、諏訪の力にいたっては基本程度だ。それも攻撃用の力しか使えない。
だが、威力を抑えて便利に使うことはできた。
雷の光の波長を細工しすれば光除菌として使えるし、掃除なら水と風で何とかなる。
生活魔法は無くてもこのように工夫次第で代用ができるのだから、誠にとっては問題は無いが、それを知らないアレクセイはさぞかし不便だろうと思ったようだ。形の良い耳が少し後ろに寝ていた。
「そうなのか…君は、七歳の時に教会に行かなかったのか?」
「教会?行ってないな。俺の故郷は、いろんな神様が居たから」
「珍しいな。この国も周辺諸国も一神教で、皆七歳になると教会で生活魔法を授けてもらうのだが…マコトは本当に遠い国から来たのだな。しかし、不便ではないのか?」
「別に。何とかなってるから、大丈夫」
もうこの話は終わりだと、誠は紙袋からパンを取り出した。
いつものように、そのまま齧りそうになるが、パンの硬さから違う世界に来ているのだと気付かされる。
何事も無かったかのようにパンを千切り、スープに浸した。
アレクセイは何か良いたげだったが、視線をトレーに向け続けている誠を見ると、諦めたのか同じように朝食を食べはじめた。
お互い、無言の時間が続く。
誠は無口な方ではない。しかし、この世界にもこの国にも詳しくないし、自分の出自を明かせないので、話すネタが無いのだ。
隣からの、申し訳なさそうな視線は分かっている。
怒っているのではなく、話すネタが無いのだと声を大にして言いたくなった。
「あの…さ」
「何だ!?」
被せ気味に返事が返ってきたので、思わず仰け反りそうになる。
アレクセイの尾はしきりに揺れており、誠の言葉を待っているようだ。
「あんま見られると、食べにくいんだけど」
誠の言葉はアレクセイが期待した物ではなかったらしく、銀色の尾は一気にしょぼんと垂れてしまった。
その様子に絆された訳ではないが、誠はアレクセイの額を指で弾く。
「昨日、連絡鳥にクッキー渡したじゃん。食った?」
「あ、ああ。あれはクッキーと言うのか。ジャンブルかショートブレッドかと思ったが、全く違う味と食感だった。非常に美味かった」
クッキーの味を思い出したのか、アレクセイの尾と表情は復活した。キラキラ具合が増している。
誠は口に合って良かったと、安堵した。
ジャンブルとは初期のクッキーの一つだ。
クッキーの前身であるので、バターと砂糖でクリーム状にもしていないだろうし、比較的硬いクッキーと文献にあったので、食感は全くの別物だろう。
ホロっとした食感のショートブレッドは、早ければ十二世紀初頭からスコットランドで作られたそうだから、この世界にあってもおかしくは無い。
誠が昨日クッキーを作ったのは、あまりこの世界の食文化に刺激を与えないためだ。
クッキーなら作業中やでき上がりを見ても、ジャンブルやショートブレッドの亜種だと騙せると考えた結果だ。
この世界の食文化は、この地に住む人達が発展させていけば良い。そうは言っても美味い物は皆で共有したいの方なので、誠はその世界に、少し色付けをするだけだ。
「材料はショートブレッドとそんなに変わんないけど、作り方が違うからな。口に合って良かったよ」
「そうなのか…だったら、この国の菓子は口に合わないか?」
「んー…どうだろう。まだ種類を食べた訳じゃないから、分かんないな」
一概に合わないとは言えないが、期待はできないと誠は思っている。
菓子文化が一気に華開いたのは、オーブンの進化もあるが、ドライイーストができてからが本番だ。
硬い物から柔らかな食感へ。そしてバターやリキュールの風味が活かされる菓子が登場する。生クリームの登場も忘れてはならない。温度管理は菓子を作るにおいて、重要な鍵だ。
誠は言葉を濁したがアレクセイにはそれが伝わったようで、少しだけ尾の勢いが弱くなっていた。
「世界は広いんだな。マコト…食文化の違いは辛くないか?」
「いや、まあ…慣れたら大丈夫なんだろうけど。俺の故郷は、主食は別の穀物なんだよ。パンも食べるけどな」
「別の穀物…思い付かんな。ぜひとも協定を結んで貿易だけでも行いたいのだが…」
「あー…鎖国してるから、無理だと思う」
鎖国をしていたのは数百年前だ。今ではかなりの貿易大国になっているが、日本と貿易をするには海どころか世界を越えなければならない。無理に決まっていた。
「無理か…。君はこの国の言葉が流暢だから、何とかなる距離だと思ったんだがな」
「一部では海外客も来るからな。頑張って勉強したんだ」
勉強はしていないが、海外の神々や妖精、精霊なんかは実家のカフェに来客していた。
嘘をつくには本当のことを混ぜておくと、より真実味が増す。使いたくない手だが、苦肉の策だ。
「それほど遠いとは…。マコト、何か困ったことがあったら、俺に相談してくれ。家の力を使ってでも、何とかしよう」
「家の力って…」
「ああ、言ってなかったか?我がヴォルク家は公爵だ」
「は…はぁぁぁ!?」
いきなり落とされた爆弾に、誠は思わず声を上げた。
この世界にも貴族制度があるとは聞いていたが、まさかいきなりこんな大物に当たるとは思ってもみなかったからだ。
どの程度の身分制度が敷かれているか知らないが、下手をすると武士で言うところの「切り捨て御免」が通用するかもしれない。誠は一気に身構えたが、アレクセイは誠の手を握り、それを制した。
「俺は貴族だが、一介の騎士だ。誠には、ただの騎士のアレクセイとして見てもらいたい」
「あー…んー…アレクセイがそう言うなら、そうするけど…」
とは言え、相手は貴族の、それも公爵のお坊ちゃんだ。こっちは神々に会う機会は多いとはいえ、ただの庶民だ。
そのことを考えると、誠は天を仰ぎたくなった。
「うわー…すっげぇ格差」
ボソリと呟いた後で、そっとアレクセイの手から逃れる。
自分は「ただの庶民だ」と言っても、アレクセイの様子からして、強引にどうにか抜け道を用意しそうな気がする。
そうまでして自分が欲しいのかと嬉しくなる一方で、自分にはそんな資格は無いと思い知らされる。
身分差は諏訪を紹介すれば何とかなるだろうが、問題は誠の所在だ。
「俺さぁ、数年したら故郷に戻るんだよね」
諦め気味に、内心を吐露する。
朝からする話でもないが、アレクセイの想いに応えるためにも、今言っておきたかった。
「実家はカフェって言ったじゃん。そこは多分兄貴が継ぐけど、そこで今のまま働くか、本家に仕えるか、他所でカフェを開くのかは決まってないけど、絶対に戻らないといけないわけよ」
そう言うと、アレクセイは暫く考えた後で口を開いた。
「マコト…君がこの国に永住するというのは、無理だろうか?」
「それは…」
無理だ。
進退の決定権は自分にあるとは言え、一族の始祖達には必ず許可を貰わなければならない。
それだけではなく、誠は家業である「café 紺」が好きだ。「神様の料理番」としての誇りもある。
こちらの世界に移住すると言うことは、それら全てを捨て去らなければならないのとイコールだ。
全ての熱量を持って恋をする歳なんて、とっくに過ぎているし、誠は元からそこまでの熱量を持っている方ではない。しかし、それを考えただけでも胸が張り裂けそうになった。
「…ゴメン」
やっと絞り出した声は、掠れていた。
思わず俯いてしまうが、アレクセイは誠の肩を優しく抱き寄せてくれた。
「俺の方こそ、すまない。焦り過ぎた。俺は昨日、もっと互いを知り合おうと伝えたはずなのに…」
「違うよ。俺が…俺が、何も手放したくないし、手放せないからだ」
「マコト…」
アレクセイは誠の頭に頬を寄せ、髪を梳くように数度、キスを落とす。
跳ね除けなければならない、でも、もっと触れ合いたい。
誠の胸中は、アレクセイのせいでグチャグチャだ。
「考えよう。お互いの未来を」
「でも、俺は…」
「それでもだ」
キッパリと言い切ったアレクセイは、誠の両肩を持って目線を合わせた。
「何か解決策があるはずだ。無理だと決めつけないでくれ…頼む、マコト…」
その真摯な眼差しに抗う術を、誠は持っていない。
アイスブルーが、誠の胸の奥に突き刺さる。
「…もう少し、考えさせて」
誠はそう言うだけで、やっとだった。
アレクセイは納得したのか、口元に微かな笑みを作った。
「分かった。待っている」
コツンと額同士を合わせ、アレクセイは誠の額に小さなキスをした。
それから食事を再開させたが、またもや静かな空気になってしまった。
期限付きの恋か、アレクセイが言うように何か道はあるのか。
すぐに決め切れるものではない。でも、自分に興味を持っているアレクセイを引き離すには、今が一番良いタイミングのはずだ。
それなのに、離れたくないという想いばかりが肥大していっている。明らかにマズい状況だった。
アレクセイはこれから会議と森の探索だということで、一緒に騎士団が逗留している館まで歩く。その手はどちらからともなく、絡み合っていた。
このままアレクセイの掌に爪を立てて、術を流してしまおうか。物理的に離れられなくなったら、自分の考えは少しは纏まるのではないか。
そんな不謹慎なことを思ってしまう。
広場と館までの距離は、短い。
「着いたな」
「ああ。着いてしまったな」
お互いに離れ難いと思っているのか、門の前で立ち止まった。
アレクセイは誠の頬に顔を寄せ、耳元で囁いた。
「それでは、今夜…」
「うん。待ってる」
指先まで痺れてしまいそうなアレクセイの声にぼーっとなっている間に、アレクセイは誠の頬にキスを落とした。
頬を撫でる風が、誠の背も押し上げる。
誠はそのままそっとアレクセイから離れ、大通りへと足を向けた。
この村の朝は早く、まだ太陽が上りきっていないのに、今朝もそこここで人の動く気配がしていた。
今日はパン屋と、もう少し村周辺を見てみたい。誠は朝食を食べずに宿を出た。
焼きたてのパンを狙っている客でパン屋は賑っている。村にパン屋は数軒あるようで、誠はとりあえず一番近いパン屋に並んだ。
行列に並ぶのは誠にとって苦痛しかないが、これも市場調査のためだ。音楽を聴きながら気を紛らわせ、ついでに皆がどんなパンを買っているのもチェックする。
作っている種類が少ないのか、紙袋の上からは丸い黒パンかバゲットのようなパンばかりが覘いていた。
店内に入ると、小麦の焼けた良い香りが迎えてくれた。しかし、日本で見慣れた菓子パンも惣菜パンも無い。惣菜パンは日本で独自進化したものだし、日本でいう菓子パンはイーストで発酵させたものなので、ヨーロッパでは菓子に分類される。
とは言え、だ。日本のパン屋に慣れた身では、無いと言われると余計に惣菜パンを食べたくなってしまった。
かろうじて小さなパイを見つけたので、誠はそれを二つ買ってみた。
「一応、パイは昔からあるもんな…」
パイの原型は古代ギリシャ・ローマ時代に始まる。
中に果物や肉、某魔女が配達していたニシンなどを包んで焼くようになったのは十四世紀のフランス。イギリスはパイの歴史が古いが、当時のパイはオーブン用の型や皿の代わりだったため、皮は厚く、捨てられていたという。
ルネサンス期のイタリアでは、アラブから伝わった菓子パンの影響によって小さく甘いパイが発展し、ヨーロッパに広まった。
それまでの素材を守ためのパイから、パイ生地自体をメインとして食べるためのレシピが広まったのは、オーブンが進歩した十六世紀頃だ。
「うーん…やっぱ適当な世界だな」
この世界の文明がどのように進歩して、どれほどルシリューリクが手を加えたのかは知らないが、共有キッチンに設置されている魔道具だというオーブンは、まあまあ使える物だった。きっとお菓子もそのうちに進化するのだろと、誠は今後に少しだけ期待した。
他のパン屋でも小さめのパンを買い、広場へ向かう。まだ朝も早いというのに、屋台は何軒か出ていた。
その中からスープの屋台を選び、一杯購入した。
「食い終わったら、器とかは返してくれよ」
「分かった。ありがと」
屋台の兄ちゃんは、誠がパン屋の紙袋を持っていることからトレーも貸してくれた。
トレーを片手に空いているベンチを探していると、ここ数日ですっかり耳に馴染んでしまった声が後ろから聞こえた。
「やはりマコトだったか」
朝日に反射して輝く銀色が眩しい。誠は少し目を細める。
私服なのか、ゆったりした服装もアレクセイには似合っていた。
昨日のことがあったのでどんな顔をすれば良いのか分からなかったが、誠の心中は意外にも穏やかだ。
「おはよ。何、俺のストーカー?」
ニヤリと笑いながらそう言ってやると、アレクセイは長い足で自分との距離を縮めた。
「君にはストーカーが居るのか?」
どうやらこの世界にもストーカーが居るようだ。少し焦っているアレクセイに冗談だと言いながら、誠はアレクセイが持っているトレーを見た。
「アンタも朝飯か?」
「ああ。生憎と、料理人は同行していないものでな。それに、この広場ではいろんな話が集まるから、都合が良いんだ」
「へー。飯食ってる時も仕事してんだな」
「我々の使命だからな」
誠と話している時でも、時折ピコピコと他所へ向く耳で、周りの冒険者の話を集めているのだろう。綺麗な顔なのにその耳の仕草が可愛くて、そのギャップに笑いそうになった。
アレクセイは優雅に一つ尾を揺らし、誠に聞いてきた。
「それでだな。朝食を一緒にどうだろうか?」
妙に真剣な目に、断る理由も無い。それに、誠も同じことを考えていた。
「もちろん。俺もそれ、聞こうと思ってた」
丁度近くのテーブルが空いたので、そこに座ることにした。
「ハンカチ、敷いてやろうか?」
座る前にニヤニヤと笑いながらアレクセイに聞くと、キョトンとした顔を返された。
そして、一拍置いた後で互いに笑い合った。
「ハハハ!そんなこと言われたのは、初めてだ。気持ちは嬉しいが、要らないよ」
澄んだ朝も似合う男アレクセイはベンチにさっと手をかざしてから、座ろうと誠を誘う。
「さっきの、何?」
「ん?ああ、洗浄魔法だが…もしかして、マコトは使えないのか?」
そう言えば相模が最後まで悩んでいたのが、鑑定スキルと生活魔法の付与だったなと思い出す。魔法が使える世界は総じて「生活魔法」という魔法を、一般庶民でも使える世界が多いという。
相模にしては歯切れが悪く、「君は存在自体がチートだから…うーん…大丈夫…でしょう…」と言っていたが、恐らくこういう場面を想像したのだろう。
「あー…俺は攻撃特化型だから」
それは嘘ではない。
妖狐が使える術は半分程度しか使えないし、諏訪の力にいたっては基本程度だ。それも攻撃用の力しか使えない。
だが、威力を抑えて便利に使うことはできた。
雷の光の波長を細工しすれば光除菌として使えるし、掃除なら水と風で何とかなる。
生活魔法は無くてもこのように工夫次第で代用ができるのだから、誠にとっては問題は無いが、それを知らないアレクセイはさぞかし不便だろうと思ったようだ。形の良い耳が少し後ろに寝ていた。
「そうなのか…君は、七歳の時に教会に行かなかったのか?」
「教会?行ってないな。俺の故郷は、いろんな神様が居たから」
「珍しいな。この国も周辺諸国も一神教で、皆七歳になると教会で生活魔法を授けてもらうのだが…マコトは本当に遠い国から来たのだな。しかし、不便ではないのか?」
「別に。何とかなってるから、大丈夫」
もうこの話は終わりだと、誠は紙袋からパンを取り出した。
いつものように、そのまま齧りそうになるが、パンの硬さから違う世界に来ているのだと気付かされる。
何事も無かったかのようにパンを千切り、スープに浸した。
アレクセイは何か良いたげだったが、視線をトレーに向け続けている誠を見ると、諦めたのか同じように朝食を食べはじめた。
お互い、無言の時間が続く。
誠は無口な方ではない。しかし、この世界にもこの国にも詳しくないし、自分の出自を明かせないので、話すネタが無いのだ。
隣からの、申し訳なさそうな視線は分かっている。
怒っているのではなく、話すネタが無いのだと声を大にして言いたくなった。
「あの…さ」
「何だ!?」
被せ気味に返事が返ってきたので、思わず仰け反りそうになる。
アレクセイの尾はしきりに揺れており、誠の言葉を待っているようだ。
「あんま見られると、食べにくいんだけど」
誠の言葉はアレクセイが期待した物ではなかったらしく、銀色の尾は一気にしょぼんと垂れてしまった。
その様子に絆された訳ではないが、誠はアレクセイの額を指で弾く。
「昨日、連絡鳥にクッキー渡したじゃん。食った?」
「あ、ああ。あれはクッキーと言うのか。ジャンブルかショートブレッドかと思ったが、全く違う味と食感だった。非常に美味かった」
クッキーの味を思い出したのか、アレクセイの尾と表情は復活した。キラキラ具合が増している。
誠は口に合って良かったと、安堵した。
ジャンブルとは初期のクッキーの一つだ。
クッキーの前身であるので、バターと砂糖でクリーム状にもしていないだろうし、比較的硬いクッキーと文献にあったので、食感は全くの別物だろう。
ホロっとした食感のショートブレッドは、早ければ十二世紀初頭からスコットランドで作られたそうだから、この世界にあってもおかしくは無い。
誠が昨日クッキーを作ったのは、あまりこの世界の食文化に刺激を与えないためだ。
クッキーなら作業中やでき上がりを見ても、ジャンブルやショートブレッドの亜種だと騙せると考えた結果だ。
この世界の食文化は、この地に住む人達が発展させていけば良い。そうは言っても美味い物は皆で共有したいの方なので、誠はその世界に、少し色付けをするだけだ。
「材料はショートブレッドとそんなに変わんないけど、作り方が違うからな。口に合って良かったよ」
「そうなのか…だったら、この国の菓子は口に合わないか?」
「んー…どうだろう。まだ種類を食べた訳じゃないから、分かんないな」
一概に合わないとは言えないが、期待はできないと誠は思っている。
菓子文化が一気に華開いたのは、オーブンの進化もあるが、ドライイーストができてからが本番だ。
硬い物から柔らかな食感へ。そしてバターやリキュールの風味が活かされる菓子が登場する。生クリームの登場も忘れてはならない。温度管理は菓子を作るにおいて、重要な鍵だ。
誠は言葉を濁したがアレクセイにはそれが伝わったようで、少しだけ尾の勢いが弱くなっていた。
「世界は広いんだな。マコト…食文化の違いは辛くないか?」
「いや、まあ…慣れたら大丈夫なんだろうけど。俺の故郷は、主食は別の穀物なんだよ。パンも食べるけどな」
「別の穀物…思い付かんな。ぜひとも協定を結んで貿易だけでも行いたいのだが…」
「あー…鎖国してるから、無理だと思う」
鎖国をしていたのは数百年前だ。今ではかなりの貿易大国になっているが、日本と貿易をするには海どころか世界を越えなければならない。無理に決まっていた。
「無理か…。君はこの国の言葉が流暢だから、何とかなる距離だと思ったんだがな」
「一部では海外客も来るからな。頑張って勉強したんだ」
勉強はしていないが、海外の神々や妖精、精霊なんかは実家のカフェに来客していた。
嘘をつくには本当のことを混ぜておくと、より真実味が増す。使いたくない手だが、苦肉の策だ。
「それほど遠いとは…。マコト、何か困ったことがあったら、俺に相談してくれ。家の力を使ってでも、何とかしよう」
「家の力って…」
「ああ、言ってなかったか?我がヴォルク家は公爵だ」
「は…はぁぁぁ!?」
いきなり落とされた爆弾に、誠は思わず声を上げた。
この世界にも貴族制度があるとは聞いていたが、まさかいきなりこんな大物に当たるとは思ってもみなかったからだ。
どの程度の身分制度が敷かれているか知らないが、下手をすると武士で言うところの「切り捨て御免」が通用するかもしれない。誠は一気に身構えたが、アレクセイは誠の手を握り、それを制した。
「俺は貴族だが、一介の騎士だ。誠には、ただの騎士のアレクセイとして見てもらいたい」
「あー…んー…アレクセイがそう言うなら、そうするけど…」
とは言え、相手は貴族の、それも公爵のお坊ちゃんだ。こっちは神々に会う機会は多いとはいえ、ただの庶民だ。
そのことを考えると、誠は天を仰ぎたくなった。
「うわー…すっげぇ格差」
ボソリと呟いた後で、そっとアレクセイの手から逃れる。
自分は「ただの庶民だ」と言っても、アレクセイの様子からして、強引にどうにか抜け道を用意しそうな気がする。
そうまでして自分が欲しいのかと嬉しくなる一方で、自分にはそんな資格は無いと思い知らされる。
身分差は諏訪を紹介すれば何とかなるだろうが、問題は誠の所在だ。
「俺さぁ、数年したら故郷に戻るんだよね」
諦め気味に、内心を吐露する。
朝からする話でもないが、アレクセイの想いに応えるためにも、今言っておきたかった。
「実家はカフェって言ったじゃん。そこは多分兄貴が継ぐけど、そこで今のまま働くか、本家に仕えるか、他所でカフェを開くのかは決まってないけど、絶対に戻らないといけないわけよ」
そう言うと、アレクセイは暫く考えた後で口を開いた。
「マコト…君がこの国に永住するというのは、無理だろうか?」
「それは…」
無理だ。
進退の決定権は自分にあるとは言え、一族の始祖達には必ず許可を貰わなければならない。
それだけではなく、誠は家業である「café 紺」が好きだ。「神様の料理番」としての誇りもある。
こちらの世界に移住すると言うことは、それら全てを捨て去らなければならないのとイコールだ。
全ての熱量を持って恋をする歳なんて、とっくに過ぎているし、誠は元からそこまでの熱量を持っている方ではない。しかし、それを考えただけでも胸が張り裂けそうになった。
「…ゴメン」
やっと絞り出した声は、掠れていた。
思わず俯いてしまうが、アレクセイは誠の肩を優しく抱き寄せてくれた。
「俺の方こそ、すまない。焦り過ぎた。俺は昨日、もっと互いを知り合おうと伝えたはずなのに…」
「違うよ。俺が…俺が、何も手放したくないし、手放せないからだ」
「マコト…」
アレクセイは誠の頭に頬を寄せ、髪を梳くように数度、キスを落とす。
跳ね除けなければならない、でも、もっと触れ合いたい。
誠の胸中は、アレクセイのせいでグチャグチャだ。
「考えよう。お互いの未来を」
「でも、俺は…」
「それでもだ」
キッパリと言い切ったアレクセイは、誠の両肩を持って目線を合わせた。
「何か解決策があるはずだ。無理だと決めつけないでくれ…頼む、マコト…」
その真摯な眼差しに抗う術を、誠は持っていない。
アイスブルーが、誠の胸の奥に突き刺さる。
「…もう少し、考えさせて」
誠はそう言うだけで、やっとだった。
アレクセイは納得したのか、口元に微かな笑みを作った。
「分かった。待っている」
コツンと額同士を合わせ、アレクセイは誠の額に小さなキスをした。
それから食事を再開させたが、またもや静かな空気になってしまった。
期限付きの恋か、アレクセイが言うように何か道はあるのか。
すぐに決め切れるものではない。でも、自分に興味を持っているアレクセイを引き離すには、今が一番良いタイミングのはずだ。
それなのに、離れたくないという想いばかりが肥大していっている。明らかにマズい状況だった。
アレクセイはこれから会議と森の探索だということで、一緒に騎士団が逗留している館まで歩く。その手はどちらからともなく、絡み合っていた。
このままアレクセイの掌に爪を立てて、術を流してしまおうか。物理的に離れられなくなったら、自分の考えは少しは纏まるのではないか。
そんな不謹慎なことを思ってしまう。
広場と館までの距離は、短い。
「着いたな」
「ああ。着いてしまったな」
お互いに離れ難いと思っているのか、門の前で立ち止まった。
アレクセイは誠の頬に顔を寄せ、耳元で囁いた。
「それでは、今夜…」
「うん。待ってる」
指先まで痺れてしまいそうなアレクセイの声にぼーっとなっている間に、アレクセイは誠の頬にキスを落とした。
頬を撫でる風が、誠の背も押し上げる。
誠はそのままそっとアレクセイから離れ、大通りへと足を向けた。
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