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喧嘩の理由
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テーブルの上でスマホが震える。萌絵は画面をチラリと見ただけで、手に取ることもしないまま、通知画面を消した。
美術館併設の小さなカフェ。あたしはカプチーノのカップを置いて、萌絵を見つめる。スマホを操作した白く細い指はそのまま所在なさげに宙に浮かび、その目は暗くなった画面を見つめたままだ。
「どうしたの?」
思い切って言う。
「大事な連絡じゃないの?」
「あ、いや」
萌絵ははっとしたように顔を上げ、右手をテーブルの下に隠す。
「なんでもないんだ、うん」
「サカモトからじゃないの?」
萌絵の彼氏の名前を口にすると、笑顔が一瞬固まった。正直者め。
「うん、まあ、そう、なんだけど」
「何よ、返信しなよ、遠慮しないで」
「遠慮はしてない」
「じゃあ何? 喧嘩でもした?」
「……喧嘩、っていうか」
萌絵は言葉を濁す。あたしは無言のまま、視線で先を促した。
「あー、うん、まあ、喧嘩、ってことになるのかな、やっぱり」
「何それ。どっちなのよ」
「まあ、喧嘩ではあるな」
意を決したように、キッパリと、萌絵が言う。
「何よ、サカモト、何したのよ」
「何も」
「何も?」
「うん」
「じゃ、あんたがなんかしたの?」
「あー……」
「なによ、なにしたのよ」
「あのさあ、早希」
萌絵はため息のようにあたしの名を呼ぶ。一瞬、わけもなくどきりとした。
「な、何よ」
「あんた、今、好きな人っているの?」
「……なんで?」
「ううん。そういえば聞いたことないなって」
「そうだっけ?」
「うん。早希のそう言う話、全然、知らない」
「うーん。まあいいじゃない」
「言いたくなきゃ言わなくてもいいけどさ。そういうの、ない人なの?」
「いや、そういうわけでもないけどさ……やめようよ、あたしの話は」
「あ、うん、ごめん。でも一つだけ、聞きたくてさ」
「何?」
「人を、好きになるのってさ、怖くない?」
「怖い?」
「うん」
真剣に頷く萌絵を見て、あたしはちょっと考え込んでしまう。
怖い、といえば、怖い。いつだって。でもあたしの場合は。
「どういう意味? 嫌われるのが怖い、とか?」
「あー。そうか。それもあるのか……」
萌絵はちょっと首を傾げる。
「でも、違うな。そうじゃないんだ、うん」
「一人で納得しないでよ」
「あ、ごめん」
あたしたちは少し笑った。
「あたしのあ場合はさ」
アイスコーヒーを一口飲んだ後で、萌絵がおもむろに話し出す。
「関係ないんだ、相手とは」
「じゃあ、自分が怖いってこと? 何しでかすかわからないとか?」
「ちょっと違う」
萌絵はまた少し考えて、
「つまり、自分のことって言えば、自分のことなんだけど、ストーカーになるとかじゃなく、遥かそれ以前にさ、もっと単純に」
言葉を彷徨わせたあとで、最後にぽつりと、言う。
「好きになるのが、怖い」
「ちょっと萌絵、それ最初に言ってたのと何一つ変わってないよ。なんの説明にもなってないじゃん」
「えー。だって、他に言いようがないんだよ」
また少し考える萌絵。
「早希はさ、人を好きになると、その人のことばっかり考えちゃったりしない?」
「そりゃ、多少は」
「だよね。個人差とか、いろんな段階があるんだろうけど、ある程度、考えちゃうよね」
「それがどうかしたの?」
「うん……」
何度目かの沈黙の合間を縫って、あたしはアイスラテに口をつける。好みより僅かに強すぎる苦味が舌に残り、あたしは思わずかおをしかめた。
そんな様子を見ないまま、どこともしれぬ下方に視線を彷徨わせながら、萌絵はまた話し出す。
「最初はさ、よかったんだ。楽しかったし。相手のこと考えるのも、その結果喜んでもらえるのもさ。考えれば考えるほど好きになって、好きになればなるほど考えて、それを形にして、相手に届くことでまた好きになって。楽しかったんだよ、ずっと」
「いいじゃん」
あたしは口を挟んだ。
「ラブラブ、ってやつじゃん。ベッタベタの甘々じゃん。何が不満なのよ」
「うん、だよね、あたしもそう思ってたんだ。ついこないだまで」
「……何かあったの?」
意味深な言い方に思わず質問すると、萌絵はゆっくりと首を振った。
「ううん。そう言うわけじゃない。ただ急に、思っちゃったんだよ。ヨースケの寝顔を見て、ふっと笑みがこぼれた、その瞬間にさ。なんだか、ヨースケでいっぱいになっちゃってるなって」
「惚気にしか聞こえない」
「え? そう? でもさ、あたしの中がヨースケでいっぱいで、ヨースケのことしか考えてなくて……そういうのってさ、自分が薄くなっていってるような気がしない? ヨースケといない時の自分、ヨースケと無関係な自分、そういう、”ただのあたし”はどこにいるんだろう、とか、このままじゃヨースケと自分の境目がわからなくなりそうだ、とか、そんなこと考えちゃって」
「考えすぎじゃないかなあ」
「でも考えちゃったものは仕方がないじゃん? だから、朝、ヨースケに言ったんだよね」
「それを? そのまんま? 言ったの? サカモト本人に?」
「うん。そしたらなんか、心配すんなよとかなんとか言って抱きついてっくるからさ、やめてっておもわず払い除けちゃったんだよね」
「え。なんで」
「だって、無理だよ。くっつきあって、溶け合うような、昨日までは気持ちいいだけだった、そういうのが、全部一切合切、怖くなっちゃったんだもん」
「気持ちいいのも?」
「怖い。よければよいほど、怖い」
あたしはため息をつく。萌絵の気持ちがわかったとはいえない。こんな面倒な感情、あたしには経験がなかったし、第一これってすごく贅沢な悩みじゃないか。
だって、あたしは。
「で、喧嘩」
「うん。喧嘩したかったわけじゃないんだけど。やっぱり、会いたいって思っちゃうし。だけど、ちょっとホッとしてるんだよね、正直」
「別れるの?」
「わかんない。好きなのは好きなんだし、終わりになっちゃうと思うと悲しいけどね、でもこの怖さに勝てる気もしないし」
「それで、久しぶりに連絡よこしたわけ」
「うん。会ったらら安心しちゃった。友達の距離感の方が、あたしには居心地いいみたい」
「ありがと」
あたしは続けて口から出かけた言葉を飲み込む。
言えるわけがないんだ。
(でもね、あたしも、萌絵が怖いと思うくらい、好かれたかったな)
なんてね。
美術館併設の小さなカフェ。あたしはカプチーノのカップを置いて、萌絵を見つめる。スマホを操作した白く細い指はそのまま所在なさげに宙に浮かび、その目は暗くなった画面を見つめたままだ。
「どうしたの?」
思い切って言う。
「大事な連絡じゃないの?」
「あ、いや」
萌絵ははっとしたように顔を上げ、右手をテーブルの下に隠す。
「なんでもないんだ、うん」
「サカモトからじゃないの?」
萌絵の彼氏の名前を口にすると、笑顔が一瞬固まった。正直者め。
「うん、まあ、そう、なんだけど」
「何よ、返信しなよ、遠慮しないで」
「遠慮はしてない」
「じゃあ何? 喧嘩でもした?」
「……喧嘩、っていうか」
萌絵は言葉を濁す。あたしは無言のまま、視線で先を促した。
「あー、うん、まあ、喧嘩、ってことになるのかな、やっぱり」
「何それ。どっちなのよ」
「まあ、喧嘩ではあるな」
意を決したように、キッパリと、萌絵が言う。
「何よ、サカモト、何したのよ」
「何も」
「何も?」
「うん」
「じゃ、あんたがなんかしたの?」
「あー……」
「なによ、なにしたのよ」
「あのさあ、早希」
萌絵はため息のようにあたしの名を呼ぶ。一瞬、わけもなくどきりとした。
「な、何よ」
「あんた、今、好きな人っているの?」
「……なんで?」
「ううん。そういえば聞いたことないなって」
「そうだっけ?」
「うん。早希のそう言う話、全然、知らない」
「うーん。まあいいじゃない」
「言いたくなきゃ言わなくてもいいけどさ。そういうの、ない人なの?」
「いや、そういうわけでもないけどさ……やめようよ、あたしの話は」
「あ、うん、ごめん。でも一つだけ、聞きたくてさ」
「何?」
「人を、好きになるのってさ、怖くない?」
「怖い?」
「うん」
真剣に頷く萌絵を見て、あたしはちょっと考え込んでしまう。
怖い、といえば、怖い。いつだって。でもあたしの場合は。
「どういう意味? 嫌われるのが怖い、とか?」
「あー。そうか。それもあるのか……」
萌絵はちょっと首を傾げる。
「でも、違うな。そうじゃないんだ、うん」
「一人で納得しないでよ」
「あ、ごめん」
あたしたちは少し笑った。
「あたしのあ場合はさ」
アイスコーヒーを一口飲んだ後で、萌絵がおもむろに話し出す。
「関係ないんだ、相手とは」
「じゃあ、自分が怖いってこと? 何しでかすかわからないとか?」
「ちょっと違う」
萌絵はまた少し考えて、
「つまり、自分のことって言えば、自分のことなんだけど、ストーカーになるとかじゃなく、遥かそれ以前にさ、もっと単純に」
言葉を彷徨わせたあとで、最後にぽつりと、言う。
「好きになるのが、怖い」
「ちょっと萌絵、それ最初に言ってたのと何一つ変わってないよ。なんの説明にもなってないじゃん」
「えー。だって、他に言いようがないんだよ」
また少し考える萌絵。
「早希はさ、人を好きになると、その人のことばっかり考えちゃったりしない?」
「そりゃ、多少は」
「だよね。個人差とか、いろんな段階があるんだろうけど、ある程度、考えちゃうよね」
「それがどうかしたの?」
「うん……」
何度目かの沈黙の合間を縫って、あたしはアイスラテに口をつける。好みより僅かに強すぎる苦味が舌に残り、あたしは思わずかおをしかめた。
そんな様子を見ないまま、どこともしれぬ下方に視線を彷徨わせながら、萌絵はまた話し出す。
「最初はさ、よかったんだ。楽しかったし。相手のこと考えるのも、その結果喜んでもらえるのもさ。考えれば考えるほど好きになって、好きになればなるほど考えて、それを形にして、相手に届くことでまた好きになって。楽しかったんだよ、ずっと」
「いいじゃん」
あたしは口を挟んだ。
「ラブラブ、ってやつじゃん。ベッタベタの甘々じゃん。何が不満なのよ」
「うん、だよね、あたしもそう思ってたんだ。ついこないだまで」
「……何かあったの?」
意味深な言い方に思わず質問すると、萌絵はゆっくりと首を振った。
「ううん。そう言うわけじゃない。ただ急に、思っちゃったんだよ。ヨースケの寝顔を見て、ふっと笑みがこぼれた、その瞬間にさ。なんだか、ヨースケでいっぱいになっちゃってるなって」
「惚気にしか聞こえない」
「え? そう? でもさ、あたしの中がヨースケでいっぱいで、ヨースケのことしか考えてなくて……そういうのってさ、自分が薄くなっていってるような気がしない? ヨースケといない時の自分、ヨースケと無関係な自分、そういう、”ただのあたし”はどこにいるんだろう、とか、このままじゃヨースケと自分の境目がわからなくなりそうだ、とか、そんなこと考えちゃって」
「考えすぎじゃないかなあ」
「でも考えちゃったものは仕方がないじゃん? だから、朝、ヨースケに言ったんだよね」
「それを? そのまんま? 言ったの? サカモト本人に?」
「うん。そしたらなんか、心配すんなよとかなんとか言って抱きついてっくるからさ、やめてっておもわず払い除けちゃったんだよね」
「え。なんで」
「だって、無理だよ。くっつきあって、溶け合うような、昨日までは気持ちいいだけだった、そういうのが、全部一切合切、怖くなっちゃったんだもん」
「気持ちいいのも?」
「怖い。よければよいほど、怖い」
あたしはため息をつく。萌絵の気持ちがわかったとはいえない。こんな面倒な感情、あたしには経験がなかったし、第一これってすごく贅沢な悩みじゃないか。
だって、あたしは。
「で、喧嘩」
「うん。喧嘩したかったわけじゃないんだけど。やっぱり、会いたいって思っちゃうし。だけど、ちょっとホッとしてるんだよね、正直」
「別れるの?」
「わかんない。好きなのは好きなんだし、終わりになっちゃうと思うと悲しいけどね、でもこの怖さに勝てる気もしないし」
「それで、久しぶりに連絡よこしたわけ」
「うん。会ったらら安心しちゃった。友達の距離感の方が、あたしには居心地いいみたい」
「ありがと」
あたしは続けて口から出かけた言葉を飲み込む。
言えるわけがないんだ。
(でもね、あたしも、萌絵が怖いと思うくらい、好かれたかったな)
なんてね。
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