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夜毎の夢に潜むもの

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 目を開いたとき、私は咄嗟に、それが悪夢の続きなのだと思った。
「どうしたの? 大丈夫?」
 よく見れば、そこはランプに照らされて心配そうに私を見下ろす妻の顔があるばかり。浅黒い肌と青い目の色。薄暗い中でもそれがはっきりわかるように思えたのは、長年見つめ続けた記憶のためか。私は全身を汗で濡らしながら、ぜいぜいと荒い息をついているのだった。
「すまない。なんでもないんだ」
 そう、なんでもない。
「またうなされてたのよ。毎晩ひどくなるような気がする。本当に大丈夫なの?」
「ああ、ただの夢だよ」
「何か飲む?」
「そうだな、それじゃあ水を……ほんの少し、カラム酒をたらして」
「わかった」
 妻は起き上がり、燭台を片手に寝室を後にした。かすかに、アボア人特有の甘い体臭を後に残して。
 幾度となく興奮させられ、また行為の後の気だるさに安らぎを添えてくれたその匂いが、今はひどく疎ましい。振り払おうと、頭を振る。
 正直に言えば、水を飲みたかったわけではない。ただしばらく、妻から離れて落ち着きを取り戻したかった。
 ただの夢。そう、ただの夢だ。
 繰り返し、自分に言い聞かせる。
 妻のことは愛している。ともに過ごす日々に不満がないとは言わないが、それもギメ茶が濃すぎるとか、三つ以上頼み事をするとしばしば一つ忘れるとか、そんな些細なことだ。もっと大きな不満はとっくに解決済みで、消えない細々とした不満は今となっては逆に愛おしくさえある。
 なのに、なぜ、毎夜あんな夢を見るのか。
 正確には毎晩同じ夢を見ているわけではない。だが、状況や時間はさまざまなそれらの夢の中で、共通しているのは、いつも、妻が恐ろしい顔と力で襲ってくるということだけだ。
 妻は確かに大柄だ。そもそもアボア人は私のようなアディカム人より体格がいい。筋力もはるかに上だろう。しかし決して暴力的ではない。むしろ穏やかな性格だ。格闘や戦闘の訓練も受けてはいない。
 なのに夢の中の妻はまるで破壊の権化だ。あるときは刃物で、あるときは銃器で、またあるときは素手で、私を追い詰め容赦無く傷つけ、蹂躙していく。
 表情も、怒りに燃えた顔、無表情、歪んだ快楽にひきつる笑顔など、その都度様々だ。現実には一度も目にしたことのない、恐ろしい妻の顔。
 ぎい、と扉が開き、私は思わず身をすくませた。妻が戻るまでに夢の残滓を払拭したかったのに、今までの夢を反芻することに時間を費やしてしまった。
「おまたせ。持ってきたわよ」
 お盆に乗ったコップと水差し。
「ありがとう」
 私はサイドテーブルにそれが置かれるのを待って、自分で水さしの中身を注ぎ、一気に飲み干した。
 しばし離れる言い訳のために頼んだ水だったが、実際に喉が渇いてもいたらしい。かすかにカラムの香りのする液体が喉を通して体に染み渡っていく感覚があった。と同時に、心の底にべったりと張り付いていた恐怖と不安が、和らぐのを感じる。人間というのは単純なものだ。ほんの小さな物理的刺激が、こんなにも大きく精神に影響する。
「ありがとう。だいぶ落ち着いたよ」
 私は二杯目をコップに注ぎながら言う。例の甘い体臭が、今度はやけに蠱惑的に感じられる。本当に、私は単純な人間だ。
 二口、三口、水を飲んだ後で、私はベッドの隣に潜り込んできた妻をやんわりと抱きしめた。
「ありがとう」
「いいのよ……あ、ちょっと……」
 なにか言いかけた妻の口を唇で塞ぐ。妻はしばらく応じ、小さな声を漏らした後で、優しく私を押し離した。
「だめかい?」
「だって、こんな時間だし」
「構わないよ」
 私がそう言って、もう一度、妻にキスをしようとしたとき。
「あ、でも」
 にこやかに言われたその言葉に、私は安心し切って、耳を傾ける。
「あのね、妊娠、したみたいなの。だから、あんまり激しいのは……ね?」
 一瞬で、血の気が引く。
 引いた後で、思う。なぜだ。
 子供ができる可能性を全く考えなかったわけではない。それどころか私だってそれを望んでいたはずだ。
 なのに、この恐怖はなんだ。一瞬にして、和むばかりか欲情を高めていた心が、悪夢を見た直後と同様の、いやひょっとしたらそれ以上の、冷え切った恐れを掻き立てられるとは。
「え、本当に?」
 無理矢理驚きに弾んだ声を出そうと務める。
「うん。近々、病院で確かめるつもりだけど」
「そ、そうか。じゃあ大事にしなきゃな。今日はこのまま眠ろう」
「うん。ごめんね」
「あやまることじゃないだろ。楽しみだな」
「うん。……あのね。愛してる」
「ああ、愛してるよ」
 私はもう一度妻に口づけをし、二人で横になった。
 眠れない。
 子供ができる。自分が親になる。
 望んでいたはずの、喜ばしいはずのそれが、どうしてこんなにまで恐ろしいのか。
 やがて隣から妻の寝息が聞こえ始めても、私は煩悶を続けた。そして窓の外が白みかけ、ようやく眠りの片鱗が訪れたころ、夢とうつつの狭間で、記憶の底から、一つの情景が浮かび上がってきた。
 幼い日の一場面だ。私は母の膝に抱かれ、窓辺に座っている。外は眩しすぎてよく見えないが、時折木の葉や鳥の影がチラチラと光を瞬かせる。母はおそらく揺り椅子に座っているのだろう、その振幅に合わせ、幼い私の視界も揺れる。
 母は私の髪を撫でながら言う。
『可愛い子。青い肌も、茶色の目も、鈍色の髪も、アディカム人そのものだわ。あのアボア人とは大違い』
『ママ、アボア人って?』
『悪魔よ。茶色い肌の悪魔。戦争が終わったからって、人の行き来が自由になったっていうけどね、騙されちゃダメよ。どんなに優しそうに見えても、奴らに気を許したら、全てを奪われるんだから。血に飢えた獣、地獄の悪鬼。それがアボア人の正体。人の姿をしているからって、あたしたちアディカム人と同じ生き物だなんて、決して思わないことね』
『ふうん。ねえ、茶色い肌の人って、去年家にいたお姉さんと』
『そうよ。あいつこそ悪魔。いい?あんたの父さんはね、あの悪魔に魅入られてしまったのよ』
『……食べられちゃったの?』
『そうね。さもなきゃ父さんも悪魔になってしまったか』
『ママ、ぼく、怖い』
『大丈夫よ。アボア人なんかに気を許さなければ大丈夫。忘れちゃダメよ、あいつらは、人の皮を被った悪魔なんだからね』
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