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あなたを呪う
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「お邪魔します。はい、お土産」
「ありがとうございます」
「ごめんね突然。近くに用があったものだから、ついでにヒバナちゃんの様子でも見ておこうかと」
用意していた紅茶をカップに注いで差し出すと、彼女は数回息を吹きかけてからほんの少しカップを傾けた。しなやかな白い指がほんのり赤らんでいるのを見ると、外はかなり冷え込んできたらしい。
家に立ち寄ってもいいかと連絡が来たときはどうするべきか悩んだものの、以前のキキョウを知る人間どころか同業者だ。いっそ今の彼に会わせて、彼が話せる相手を増やすことも悪くないのかもしれないと思い当たって承諾したのだが、当の本人が部屋から出てくる気配はない。是非会ってみてほしいとメッセージで伝えたときには一応、わかったと四文字返ってきたのに。
「すみません、キキョウはまだ出てこないみたいで……」
「いいよいいよ、私はきみと話しに来たんだから。大学の授業は順調?」
彼女――文月真澄さん――は小説家という職業柄か、ごく普通の面白みもない日常話を心底興味深そうに聴く。授業の内容、友人との出来事、こんな人もいるのかと驚いたクレーマーの話、果てにはオチもない夢の話にまで声を上げて笑ってくれるし、お返しとばかりに一風変わった作家業界の話を聞かせてくれた。
キキョウに関して話すのは抵抗があったが、相手が彼女となると不思議なことにすらすらと言葉が出てくる。聞き上手なのもあるが、私が出会って数年の彼女を姉のように信頼しているからだろう。作家らしい好奇心を無理に隠していないのも逆にありがたかった。あまり深刻に受け止められると、私も引っ張られてしまうから。
「そういえば鷹見さんは? 報告はしたんだろう?」
「はい。いろいろと助けてくださって、こっちのことは心配しなくていいと言ってくれました」
キキョウの担当編集者である鷹見さんは事故の直後からサポートに徹してくれていた。混乱とショックで動けず泣いてばかりだった私の代わりに様々な手続きや書類を片付けてくれたり、わざわざ家まで来て生活を整えてくれたのは彼だ。シリーズ物を執筆中だった作家が記憶喪失になったというのだから編集者としても大変だっただろうに、背骨が崩れてしまったかのように体に力が入らなかった私を優しく車まで促しては病院に運び、眠ってはいるものの確かに生きているキキョウを見せてくれた。
抜け殻を連れ帰ってからも時折訪ねてきては様子を見たり相談に乗ってくれたりしていて本当に頭が上がらない。彼がいなければ私は大学に通うことすらできなかっただろう。
「そうか。彼が神無先生の担当で良かったよ」
どこか安心したように微笑むと、真澄さんはカップに残っていた紅茶をゆっくりと飲み干した。
しまった。気がつけば彼女が来てから既に一時間が経ち、十八時半を過ぎようとしている。そろそろお暇しようかと今にも言い出しそうな様子に急かされ、なんとか彼が出てくるまで引き留める口実を探していた瞬間。
がちゃり、と戸の開く音がした。
「……すみません、居眠りしていたようで」
廊下からスリッパを引きずりながら現れたのは、まさに待ち望んでいた彼の姿だった。
人に会うときは必ずセットしていたはずの前髪は無造作に下ろされたままで、相変わらず人形のような無表情だ。低く沈んだ声は地を這っている。辛うじて部屋着ではないシンプルなシャツを身につけているのが救いだった。
「これは……なかなか…………うん、新鮮だね」
言葉に困っているのか、ただ単に面食らっているのか、彼女の言葉は独り言のようだった。それもそのはずだろう。以前の彼といえば、人前ではきっちりと整えた身なりで笑みを絶やさない、好青年のイメージを体現したような人だったから。セットしていない髪も静かな顔も、少し掠れた声も私しか知らないはずだったのに。
隣に置いていたクッションを退け、座るように手で示すと数秒の間を置いて腰を下ろした。さすがに来客の隣に座らせるわけにもいかなかったが、こうしてみると何度も並んで座っていたはずのソファが居心地悪く感じてしまう。まるで殺人鬼と肩を並べているかのように体が強ばっていた。
「改めて、私は文月真澄です。以前の神無先生は戦友というか……まぁ、同業者ですね」
「……その、あなたとの通話履歴が随分あって、かなり良くしていただいたとは思うのですが、」
「忘れたことに関して謝る必要はありません」
彼の言葉を遮って放たれた声は強くも優しく、私なんかよりもずっと彼に寄り添う響きを持っていた。テーブルの木目を見ながら、隣で細く息を吐いた音を聞く。どんな表情をしているのだろう。ひょっとして、涙ぐんだりなんかもするのだろうか。一度も見たことのない泣き顔なんて見てしまったら、いよいよどうにかなってしまいそうだ。
「今のあなたとも私は仲良くしたい。それは同情や義理なんかではなく、ただの好奇心です。だから、あなたが負い目を感じる必要はない」
相変わらず口が上手い。全てが全て好奇心というわけでもないだろうに。
「……では、お言葉に甘えて」
彼の声が和らいだのを初めて聞いた。少し軽くなったそれはキキョウに近づいていて、私では彼の破片をひとつも探し当てることができなかったのだと気づいてしまう。
「そして友人として口を出させていただきますが、あなたたちの関係は一度精算した方がいい」
「ありがとうございます」
「ごめんね突然。近くに用があったものだから、ついでにヒバナちゃんの様子でも見ておこうかと」
用意していた紅茶をカップに注いで差し出すと、彼女は数回息を吹きかけてからほんの少しカップを傾けた。しなやかな白い指がほんのり赤らんでいるのを見ると、外はかなり冷え込んできたらしい。
家に立ち寄ってもいいかと連絡が来たときはどうするべきか悩んだものの、以前のキキョウを知る人間どころか同業者だ。いっそ今の彼に会わせて、彼が話せる相手を増やすことも悪くないのかもしれないと思い当たって承諾したのだが、当の本人が部屋から出てくる気配はない。是非会ってみてほしいとメッセージで伝えたときには一応、わかったと四文字返ってきたのに。
「すみません、キキョウはまだ出てこないみたいで……」
「いいよいいよ、私はきみと話しに来たんだから。大学の授業は順調?」
彼女――文月真澄さん――は小説家という職業柄か、ごく普通の面白みもない日常話を心底興味深そうに聴く。授業の内容、友人との出来事、こんな人もいるのかと驚いたクレーマーの話、果てにはオチもない夢の話にまで声を上げて笑ってくれるし、お返しとばかりに一風変わった作家業界の話を聞かせてくれた。
キキョウに関して話すのは抵抗があったが、相手が彼女となると不思議なことにすらすらと言葉が出てくる。聞き上手なのもあるが、私が出会って数年の彼女を姉のように信頼しているからだろう。作家らしい好奇心を無理に隠していないのも逆にありがたかった。あまり深刻に受け止められると、私も引っ張られてしまうから。
「そういえば鷹見さんは? 報告はしたんだろう?」
「はい。いろいろと助けてくださって、こっちのことは心配しなくていいと言ってくれました」
キキョウの担当編集者である鷹見さんは事故の直後からサポートに徹してくれていた。混乱とショックで動けず泣いてばかりだった私の代わりに様々な手続きや書類を片付けてくれたり、わざわざ家まで来て生活を整えてくれたのは彼だ。シリーズ物を執筆中だった作家が記憶喪失になったというのだから編集者としても大変だっただろうに、背骨が崩れてしまったかのように体に力が入らなかった私を優しく車まで促しては病院に運び、眠ってはいるものの確かに生きているキキョウを見せてくれた。
抜け殻を連れ帰ってからも時折訪ねてきては様子を見たり相談に乗ってくれたりしていて本当に頭が上がらない。彼がいなければ私は大学に通うことすらできなかっただろう。
「そうか。彼が神無先生の担当で良かったよ」
どこか安心したように微笑むと、真澄さんはカップに残っていた紅茶をゆっくりと飲み干した。
しまった。気がつけば彼女が来てから既に一時間が経ち、十八時半を過ぎようとしている。そろそろお暇しようかと今にも言い出しそうな様子に急かされ、なんとか彼が出てくるまで引き留める口実を探していた瞬間。
がちゃり、と戸の開く音がした。
「……すみません、居眠りしていたようで」
廊下からスリッパを引きずりながら現れたのは、まさに待ち望んでいた彼の姿だった。
人に会うときは必ずセットしていたはずの前髪は無造作に下ろされたままで、相変わらず人形のような無表情だ。低く沈んだ声は地を這っている。辛うじて部屋着ではないシンプルなシャツを身につけているのが救いだった。
「これは……なかなか…………うん、新鮮だね」
言葉に困っているのか、ただ単に面食らっているのか、彼女の言葉は独り言のようだった。それもそのはずだろう。以前の彼といえば、人前ではきっちりと整えた身なりで笑みを絶やさない、好青年のイメージを体現したような人だったから。セットしていない髪も静かな顔も、少し掠れた声も私しか知らないはずだったのに。
隣に置いていたクッションを退け、座るように手で示すと数秒の間を置いて腰を下ろした。さすがに来客の隣に座らせるわけにもいかなかったが、こうしてみると何度も並んで座っていたはずのソファが居心地悪く感じてしまう。まるで殺人鬼と肩を並べているかのように体が強ばっていた。
「改めて、私は文月真澄です。以前の神無先生は戦友というか……まぁ、同業者ですね」
「……その、あなたとの通話履歴が随分あって、かなり良くしていただいたとは思うのですが、」
「忘れたことに関して謝る必要はありません」
彼の言葉を遮って放たれた声は強くも優しく、私なんかよりもずっと彼に寄り添う響きを持っていた。テーブルの木目を見ながら、隣で細く息を吐いた音を聞く。どんな表情をしているのだろう。ひょっとして、涙ぐんだりなんかもするのだろうか。一度も見たことのない泣き顔なんて見てしまったら、いよいよどうにかなってしまいそうだ。
「今のあなたとも私は仲良くしたい。それは同情や義理なんかではなく、ただの好奇心です。だから、あなたが負い目を感じる必要はない」
相変わらず口が上手い。全てが全て好奇心というわけでもないだろうに。
「……では、お言葉に甘えて」
彼の声が和らいだのを初めて聞いた。少し軽くなったそれはキキョウに近づいていて、私では彼の破片をひとつも探し当てることができなかったのだと気づいてしまう。
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