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夜空は同じ
しおりを挟む昼食休憩中のテーブルには、氷の解けかけた麦茶のグラスが吹いた水滴が下に流れて水たまりを作っていた。扇風機が右に左に顔を振っている。むさくるしい男の汗の臭いが鼻にこびりついたまま、俺は箸を伸ばした。山盛りになった茶そばがざるの上に大人しく座りこんでいるからだ。
「会いに行かなくていいのか」
普段から無口なオヤッさんが新聞紙に向かって言った。いや、目線はあっていないがおしゃべりの相手は俺なのだ。
緑色の麺を手持ちの汁に浸しながら言葉の意味を考える。そして、ずるずるーっと茶そばをすすりながら会話にも口を動かす。
額から汗。俺が会いに行くのは、やつしかいないから。
「なんで?」
「一年も顔を合わせてないさ」
それきりオヤッさんは黙り込んだ。タバコ臭いため息を新聞紙が吸い取っている。
「なんだい! はっきり言ってくれよ!」
両手をテーブルに叩きつけた。むっとした嫌な気分が俺をそうさせたのだった。何でこの人も何かを挟んだようなものの言い方しかできないのだろう。古傷をえぐらないようにと配慮したつもりなのだろうか。それならばいっそはっきりとクリアに物を言えってんだ!
だが、目の前の人物の反応は、眉をピクリと動かしただけの動作のみ。一人で熱くなっている自分が馬鹿らしくなって、静かにそばをすする作業に戻った。
「……わかったよ」
小さくつぶやいた言葉に気が付いたのか、オヤッさんは口元が隠れるくらいにまで新聞紙を持ち上げた。
***
「お前は俺の乙姫か何かか?」
開口一番の皮肉めいた口調に腹が立つ。
「別に、七夕の日を狙ってきているわけではない」
できるだけ感情を込めずに言葉を返したが、彼は妙なツボに入ったのか息を喘がせながら答えた。
「おまっ……ヒヒヒ、去年も七夕だったよな」
「ああそうだ。オヤッさんがくれた休みの都合で、だがな」
「あはは、これがツンデレっていうやつかいねぇ」
「誰がツンデレだ!」
男の名は笹掛という。故郷では小学生時代からの知り合いだ。小中高校では同級生としてそれなりに仲良くもしたし、それ以上に関係が発展したこともあったが、全てはこの人間として最下層の男の行為でひどく胸糞悪い過去の記憶に塗り替えられた。
――強盗殺人
彼の犯した罪は消えることがない。こうして壁中に閉じ込められた猫背の身体にはしみついた血と計り知れない残忍さが根っこまで染み込んでいる。
俺はもう、こいつのことを忘れてしまいたい。昔の想い出と一緒に。
「室戸君、彦星でぇすよ」
「誰がだよ」
それ以上会話が続かなくない。ガラス越しの面会室も静寂であふれかえってしまった。
「もう帰るわ」
俺の瞳をじっと覗き込んでいた彼から視線をそらす。負けたくはない。だから目をそらすのを極力まで我慢してきたが、この緊張した空気には耐えきれない。
軋んだパイプいすの音と共に、自称彦星が口を開いた。
「ああ」
それだけだった。
***
「ささのは、さーらさらー」
壁からの帰宅中、思わず口ずさんでしまった。熱されたアスファルトに街の喧騒が溶け込もうとしている。俺の声もどこか遠い場所に溶け込んでいくかのように、雑踏の建てるノイズに紛れ込んでいった。
「むろとー! こっち持ってー!」
幼いころの笹掛の声が脳裏によみがえってくる。
まだ幼かった頃。すべては光に満ち溢れていて、どこまでも透きとおった空気が俺たちを包み込んでいた。
俺は、室戸の指示に従って、彼のいる方に走った。倒れ掛かった笹の葉が体中をくすぐる。
俺は室戸の抑えている幹に手を伸ばした。
「もっと近づいて!」
室戸と肩がぶつかる。彼の吐息が近い。遠くてオヤッさんの声がする。それほどまで遠く離れているわけではないのに。
「おーい、ガキども! 手を離すんじゃないぞ!」
俺たちは、オヤッさんが根本を切断して倒した笹の木を校庭にまで運ぶのだ。裏庭からグラウンドまでそうそう離れていない。俺や笹掛以外にも数人の子供が集まっていた。
「よし、持ち上げるからな」
掛け声と共に巨大な笹が持ち上がる。そのまま、俺たちは夜空の中をひた歩いた。
「なあ、この笹建てたら、星にまで届きそうじゃね?」
やけにロマンチックなことを言うやつだと笹掛の声を思った。
裏山を抜けて校庭に入る。すでに数人が立ちぼうけになって笹と子供たちの到着を待っていた。
「よーし、笹を立てるぞ!」
オヤッさんの合図に、子供たちが一斉に散らばる。オヤッさんと彼の会社の力自慢たちの独壇場だ。
ゆっくりと頭を空高く持ち上げていく、笹。
「馬鹿だな、届かないじゃないか」
本当はひどく感動していたのだ。それを悟られないようにとわざと興ざめする言葉を笹掛にかけた。けれど、彼は変わらない笑顔で俺を見ていた。
***
「恭介か?」
ガラガラと表の戸が開く音。オヤッさんが待っていた。
「帰りました」
「そうか」
オヤッさんは何も言わなかった。
「あれ?」
俺は、会社の庭に笹が一本立っていることに気が付いた。
「短冊は、机の上に置いてある」
それだけ言ってオヤッさんは裏にひっこんでいった。
ふと夜空を見上げる。
こればかりはきっと同じ光景が浮かぶのだろう。壁の中から見ても、外から見ても。
***
「なあ、室戸はなんて書いた?」
「おしえねー」
笹掛に見られる前に短冊を笹に括り付ける。
「あ、読めた!」
風に翻る俺の短冊を凝視していた笹掛が嬉しそうな声をあげた。
「なんだよ、水臭いんだな」
「うるせ。笹掛はなんて書いたんだよ」
「さあね」
すでに短冊を飾り終えていた笹掛の短冊を見つけるのには骨が折れるだろう、俺は早々に諦めた。
「見て!」
笹掛が頭上を指差した。
「出てるね、月!」
――大人になっても笹掛と遊びたい
月光に照らされて心地よく夜空を泳ぐ短冊には、黒々といつまでも消えない文字が浮かんでいた。
(了)
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