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第二章
#22 偶像崩壊 (Side エレオノール)
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私は一体何をしているのだろう。
あろうことか命を落としかけていた大切な部下の救命をした者をあんな風に感情的に責め立てるだなんて。
理由は分かっている。くだらない嫉妬なのだ。
なんて見苦しい。なんて浅ましい。私はなんていやらしい人間なのか。
だけれど今でもあのシーンが脳裏に焼き付いて離れない。
あれからずっと私を苛んでいる。
私はきっと自惚れていたのだ。確かに私に向けられる彼の目は常に好意に満ちていた。
けれども彼の好意は正しく私を見てのものでは無い。私自身では無く、彼の思い描いている私の姿をした偶像に向けられている。それは分かっていた。
それでも、そんな彼の好意をほんの少しだけ負担に思いつつも嬉しかったのは事実だ。
くすぐったいような、癒やされるような、そんな気持ちだった。
雑務をこなして疲れたときに彼を思い出すようになったのはいつからだっただろうか。
そんなことを考える度に、ああ、最初からじゃ無いか、だって彼とはまだ知り合ってひと月も経っていない、そんな結論に至る。
一番最初に地下神殿でうずくまる彼に手を添えて目が合ったときドキリとした。
今でもあのときのことを思い出すと同じようにドキリとする。
彼の部屋を訪れて着替えた彼を見たときも。オルタンスとの打ち合いの姿を見たときも。
初めての訓練を見に行ったときも。その後の晩餐に正装で出てきたときも。
そのたびに胸の高鳴りと共に小さく痛むような感覚があった。
けれど、私のその反応を払拭するほどに、彼から送られる好意が膨大でそれが心地よくて、自分自身の中のそういった謎の胸の痛みと向き合うことなど二の次だった。
まるで、手放しに懐いて慕ってくる子犬を愛しく思うように彼のことも愛しく思っているのだと私自身が思い込んでいたのだ。
知り合いもいない勝手も分からないこの世界で最初のよりどころである私を彼が慕うのは当たり前のことなのに。
最初にその構図が揺らぎ始めたのはソニスの事があってからだった。
あのウロコオオコウモリの一件以降急激に親しくなった彼らは他の騎士達の間でも噂になるほどには極端に親密だった。
この世界に親しい人間もいない彼がそうやって次々と人脈を築いていくことをむしろ応援しなくてはいけない立場である私は、アタマではそう思いながらも、心にはもやもやするわだかまりのようなものを覚えていた。
私と話しているときには、彼の方からあんな風に顔を近づけてきたことは無いのに、とか。私と話すときに、あんな風に笑ったり触れたりはしないのに、とか。
見つけると嬉しそうに駆け寄って肩に腕を回したり、食事中に互いの皿の上の物を交換したり、そんなことの一つ一つがいちいち辛く感じるようになって。それなのに目で追わずには居られなくて。
そのうちにさすがにこれは嫉妬なのだと気づき始めたのだけれど。
でもそんな感情見せられない。彼が思い描いている偶像の私はきっとそんな汚い感情は持たないはずだから。
いつしか私は彼の思い描く私になろうと思うようになっていた。
それは元々、公の場で見せる私の姿だったはずだ。そういう意味で私はいつも通りにしていれば良かったはずなのだ。辛くは無かった。それまでは。
先頭集団の、私の傍に居るようにと伝えるとき、私はきっととてつもなく期待していたのだ。
きっと彼は目をキラキラさせながら喜んでくれると。でも逆だった。
奈落に落ちていくような気持ちだった。
あのとき、あの宣誓で私を名指しで主君としてくれると誓ったのに。その私よりも優先させるほど彼を愛しているのかと胸が張り裂けそうだった。
嘘つき。何故?と。
あのあと、ナーノが気を利かせてソニスを連れてきて、ソニス自身によってそれは否定され、彼が何故あんな反応だったのかも聞かされて。
そしてその際には彼の元の世界の話も色々と聞いた。
彼の生い立ちは痛々しくて、愛おしさも相まって彼の親族に対する憤りを禁じ得なかった。
彼を元の世界に戻せないことに酷く罪悪感を抱いて居た日々もあったけれど、ソニスの話を聞いた後は、仮に還せる術式が見つかっても決して還さない!と思った。
彼に襲いかかった女性達の件を聞いているときには何とも微妙な気分だった。
そうまでされるというのはこの世界だったらもはや魅了スキルレベルでは無いのか?
私が彼をこうも愛しく思うのもそのせいなのでは?思わずソニスに訊いてしまったのだが「彼のステータスに魅了のスキルはありませんし、彼の居た前の世界にはそもそも魔法という物がなかったので、それは無いと思います」と言われてしまった。
・・・しかし。
私だったら、その状況で彼に嘔吐されたら、もう立ち直れない。
それはともかく。ソニスのその色々な話を聞いて。
あのときのお互いの誤解はとりあえず解けたけれど。
でも知らなかった彼を知れば知るほど、彼が知らない一面を見せれば見せるほど、心がかき乱され、以前のように彼を癒やしとは思えなくなってしまった。
だって、彼は本当の私を知らない。もし私の本性を知ったらきっと失望するだろう。
最悪、軽蔑されるかも知れない。
思えばあの時は、浄化に向かうプレッシャーも知らないうちに堪えていたのかもしれない。
私自身かなりナーバスだった。
浄化が終わった後はそれまでの、そんなもやもやも一緒に消えたような気がしていた。
けれど。
そんな矢先にあの河原の出来事。あんな風に取り乱した姿を晒してしまうなんて。
私はずっとずっと頭の中でグルグルするあの映像を振り払いたくて気持ちを切り替えようとするのだけどどうにもできない。
だってソニスの話を聞く限り、彼はそういうことができない人だと思っていたから。
あれは救命の方法だからなのだろうけど。でも本当にそうなのだろうか。
黙ってナーノがミルクの入ったハーブティーを差し出してくれた。
暖かい。暖かくて体の芯に染みてくる。きっとナーノは私のこんな葛藤などお見通しだろう。それでも長年の付き合いの侍従は欲しいものを欲しいときに差し出してくれるのだ。
不意にテントの外から心を波立たせる声がした。
「第一騎士団所属、ダイ、殿下に拝謁賜りたく。お取り次ぎ願います」
ああ、もう自分の思いはごまかせない。彼の訪れは単純に嬉しい。
会いたい。でも、会いたくない。今の自分が会ったら取り繕える自信が無い。
「どうなさいますか」というナーノの言葉に、しばし飲み干したハーブティーのカップを眺め自問する。
「通してあげて」と答えたのは、このまま会わずに追い返したらその方が後で辛くなると思ったから。
入り口で一礼してからテーブルの一番奥の椅子に座る私の元に近づき、両膝をついた。思わず私は顔を上げる。いつもの騎士礼では無くこれは謝罪の礼だ。
おそらくシシャンブノスが謝罪の時にこの礼の型を取っていたのに倣ったのだろう。
ずぶ濡れになった服は着替え、軽く体も清めてきたのだろうか、石けんの匂いがする。
そして髪は・・・。まだ少し濡れていた。
「お加減はいかがでしょうか。私が至らぬばかりに殿下のお心を乱し、せっかく回復したお体に障りがあるのではと居ても立ってもおられずご迷惑を顧みずお見舞いに参りました。」
「体は・・・。問題ありません。・・・あなたがしたことは間違っては居ません。むしろ適切に対応してくれたことを感謝しなくてはいけないのに・・・。取り乱して、私の方こそ謝らなくてはなりません。」
彼の顔を見ることはできなかった。目をそらしたまま。緩やかにかぶりを振った。
「・・・・・・」
沈黙が流れた。
私は落ち着かなくなってちらっとだけ横目で彼を見た。彼は何かを決心したように両膝をついたまま背を伸ばして言った。
「殿下。どうか、殿下に触れることをお許しください。」
え?と思って思わず彼を見た。「どうかご許可を」と念を押されて思わず「許します」と答えるしか無かった。
するとその言葉に軽く頷くと私の左手を彼の両手が包み込んだ。
激しく心臓が波打つ。
私の左手を一度押し頂いて頭を垂れ、それを見つめながら呟くように言った。
「お願いです、殿下。私は気の利かない男です。ましてや異世界人でこの世界の常識も知りません。もし、私の無知や無神経が原因で僅かでも殿下のお心を乱すことがあるなら、どうか隠さず教えてください。」
そう言って私を見上げた。切実なまなざし。無言の私に対し彼は言葉を重ねる。
先ほどよりもやや前のめりで。そして私の左手は祈るように胸元に重ねられた彼の両の掌によって彼の胸に押し当てられている。彼の鼓動が掌から伝わってくる。
思わず声を上げそうだった。
「殿下のお慈悲で私の不調法も許されてきたのだと承知しております。でもどうか私の為と思っていただけるなら許さず叱っていただきたいのです。私が最も辛いのは私が殿下の平穏を乱す原因となることなのですから。」
別に強く拘束されているわけでも無いのに、私は固まったように手を引き抜くことができない。
包み込んでいる彼の掌が熱い。自分の掌から伝わる脈動がたまらなく愛しい。
私の心は今まさに乱れているのだが。あなたのせいで。それはもう過去無かったくらいに。
そして、それ以前に彼の声がいつもよりもずっと近いところから聞こえてくることにも耐えられなくなっていた。
熱を帯びてくる自分の顔を見られたくなくて空いている右手でガードするように顔を覆った。掌を彼に向けて。そうやって視線を避けつつもう私は押さえられなくて叫ぶように拒んだ。
「もうやめてください!」
「・・・殿下?」
「あなたに不満なんて有りません。あなたは何も悪いことはしていないと言っているじゃありませんか。誤解です。誤解されるようなことをしたなら謝ります!」
「・・・え?・・・あの・・・」
「手・・・、手を離して!」
その叫びに彼は絵に描いたようにぱっと広げて私の手を解放した。
もう何もごまかせない。体裁を取り繕ってなどいられない。私は限界だった。
両手で顔を覆い、カラダごと彼と向き合うのを避け行儀が悪いのもかまわず椅子に横向きに座っていた。
「もう、もう、本当に、ダメです。悪いのは私です。私がダメなんです。」
はーはーと何故か呼吸すら乱れてきた。もう本当に恥ずかしい。恥ずかしくて死にたい。
きっともう嫌われた。こんなみっともない姿を見て完全に彼の偶像は木っ端みじんになったに違いない。泣きたい。
「・・・あの、・・・殿下・・・?」
様子をうかがうようにおそらく私の顔をのぞき込んでいるんだろうなと言う距離感で彼の声がした。それを更に避けるように顔を背けた。両手で覆ったまま。
「・・・どうしたらいいのでしょうか」
それは多分私では無くナーノに向けた言葉。ナーノは無言。何かアイコンタクトを送ったのかも知れない。
「・・・今後はあの救命の方法は使わないことにします。それだけでなく、殿下が少しでもお気に召さないことはいたしません。どうか、許してはいただけないで・・・」
「だから、そうじゃなくて!」
あまりにしょんぼりした声音だったから思わず食い気味に言って彼の言葉を止めた。
「あなたに何かを改めて欲しいわけではないのです。そんなことは望んでいません。私があなたに望むのはひとつだけです」
「・・・何ですか?」
少し嬉しそうにも聞こえる声音。
「こ・・・この先、何があっても・・・」
「はい。」
「私を嫌いにならないで欲しいんです」
「は?」
「・・・・・・」
「あの・・・」
「だってあなたは本当の私を知らないじゃ無いですか!この先いつか私の本性を知ったらきっと失望するのです。ええ、絶対に!」
「殿下ッ?」
取り乱した自分をあれほど恥じて、あんなに反省していたのにこの体たらく。みっともなさを積み増してどうする。もう何が何だか。そもそもこんなときに何故ナーノは助けてくれないのだろう?誰か助けて。
「殿下。どうか落ち着いてください。あり得ませんから。失望なんて」
「いいえ、いいえ、・・・だって私はこんな人間で・・・見苦しくて・・・浅ましくて・・・い・・・いやらしくて・・・」
「あまり・・・そのように私の心の主君を悪く言わないでください」
優しくも拗ねたような声音が至近距離で聞こえた。ああ、彼のこの声!
あんなに羨ましかったのに、いざこうやって間近に聴かされると、常にコレをお見舞いされながら平常心で居られるソニスはスゴいと思ってしまう。
「私が殿下に見限られることはあるかも知れませんが、逆は絶対にあり得ません。あの時の宣誓では言葉が足りなかったのでしょうか。」
考え込むような調子に少し指の隙間を作って覗いた。かなり真剣に考え込んでいる。あの時の宣誓の内容を思い出しているのか。直後顔を上げた彼と目が合う。とっさにそらす。
「私、ダイは未来永劫殿下の御為にこの身も心も魂も全てを捧げます。頭のてっぺんからつま先まで全て殿下の物です。なんなりとご命令ください。」
なんてとんでもないことを言うのだろうか!意味が分かって言っているのだろうか。酷い!そんなことを言われたら私はもっと調子に乗ってしまう。自惚れてしまう。
もう限界。
気がついたら私は両手で顔を覆ったまま嗚咽を漏らしていた。
「・・・殿下ッ?」
酷く動揺している彼の声。申し訳ないとは思ったけれど、完全に私のキャパシティーは越えてしまった。対応できないのです。
「殿下は、まだ本調子ではありません。久々の外出で、お疲れもあり情緒が不安定なのです。今日はコレにてお引き取りください」
やっとナーノの助け船が出た。できればもっと早くに出して欲しかった。
「・・・分かりました・・・」
酷くしょんぼりした彼の声。ああ、何てかわいそうな私の子犬。でも一刻も早く出て行って。去り際にナーノに夕食はお届けに参ります、と告げて、挨拶をして退出した。
彼を見送った後、近づいてきたナーノが何故か清々しいため息をついていた。
「良いお仕事をなさいました、殿下。お芝居では無いところがさすがです。」
傍らに跪き、涙で濡れる私の頬を拭いてくれながら満足げにナーノは囁いた。
「言質が取れましたね。」
・・・え・・・
・・・・・・ナ、・・・・・・ナーノ?
あろうことか命を落としかけていた大切な部下の救命をした者をあんな風に感情的に責め立てるだなんて。
理由は分かっている。くだらない嫉妬なのだ。
なんて見苦しい。なんて浅ましい。私はなんていやらしい人間なのか。
だけれど今でもあのシーンが脳裏に焼き付いて離れない。
あれからずっと私を苛んでいる。
私はきっと自惚れていたのだ。確かに私に向けられる彼の目は常に好意に満ちていた。
けれども彼の好意は正しく私を見てのものでは無い。私自身では無く、彼の思い描いている私の姿をした偶像に向けられている。それは分かっていた。
それでも、そんな彼の好意をほんの少しだけ負担に思いつつも嬉しかったのは事実だ。
くすぐったいような、癒やされるような、そんな気持ちだった。
雑務をこなして疲れたときに彼を思い出すようになったのはいつからだっただろうか。
そんなことを考える度に、ああ、最初からじゃ無いか、だって彼とはまだ知り合ってひと月も経っていない、そんな結論に至る。
一番最初に地下神殿でうずくまる彼に手を添えて目が合ったときドキリとした。
今でもあのときのことを思い出すと同じようにドキリとする。
彼の部屋を訪れて着替えた彼を見たときも。オルタンスとの打ち合いの姿を見たときも。
初めての訓練を見に行ったときも。その後の晩餐に正装で出てきたときも。
そのたびに胸の高鳴りと共に小さく痛むような感覚があった。
けれど、私のその反応を払拭するほどに、彼から送られる好意が膨大でそれが心地よくて、自分自身の中のそういった謎の胸の痛みと向き合うことなど二の次だった。
まるで、手放しに懐いて慕ってくる子犬を愛しく思うように彼のことも愛しく思っているのだと私自身が思い込んでいたのだ。
知り合いもいない勝手も分からないこの世界で最初のよりどころである私を彼が慕うのは当たり前のことなのに。
最初にその構図が揺らぎ始めたのはソニスの事があってからだった。
あのウロコオオコウモリの一件以降急激に親しくなった彼らは他の騎士達の間でも噂になるほどには極端に親密だった。
この世界に親しい人間もいない彼がそうやって次々と人脈を築いていくことをむしろ応援しなくてはいけない立場である私は、アタマではそう思いながらも、心にはもやもやするわだかまりのようなものを覚えていた。
私と話しているときには、彼の方からあんな風に顔を近づけてきたことは無いのに、とか。私と話すときに、あんな風に笑ったり触れたりはしないのに、とか。
見つけると嬉しそうに駆け寄って肩に腕を回したり、食事中に互いの皿の上の物を交換したり、そんなことの一つ一つがいちいち辛く感じるようになって。それなのに目で追わずには居られなくて。
そのうちにさすがにこれは嫉妬なのだと気づき始めたのだけれど。
でもそんな感情見せられない。彼が思い描いている偶像の私はきっとそんな汚い感情は持たないはずだから。
いつしか私は彼の思い描く私になろうと思うようになっていた。
それは元々、公の場で見せる私の姿だったはずだ。そういう意味で私はいつも通りにしていれば良かったはずなのだ。辛くは無かった。それまでは。
先頭集団の、私の傍に居るようにと伝えるとき、私はきっととてつもなく期待していたのだ。
きっと彼は目をキラキラさせながら喜んでくれると。でも逆だった。
奈落に落ちていくような気持ちだった。
あのとき、あの宣誓で私を名指しで主君としてくれると誓ったのに。その私よりも優先させるほど彼を愛しているのかと胸が張り裂けそうだった。
嘘つき。何故?と。
あのあと、ナーノが気を利かせてソニスを連れてきて、ソニス自身によってそれは否定され、彼が何故あんな反応だったのかも聞かされて。
そしてその際には彼の元の世界の話も色々と聞いた。
彼の生い立ちは痛々しくて、愛おしさも相まって彼の親族に対する憤りを禁じ得なかった。
彼を元の世界に戻せないことに酷く罪悪感を抱いて居た日々もあったけれど、ソニスの話を聞いた後は、仮に還せる術式が見つかっても決して還さない!と思った。
彼に襲いかかった女性達の件を聞いているときには何とも微妙な気分だった。
そうまでされるというのはこの世界だったらもはや魅了スキルレベルでは無いのか?
私が彼をこうも愛しく思うのもそのせいなのでは?思わずソニスに訊いてしまったのだが「彼のステータスに魅了のスキルはありませんし、彼の居た前の世界にはそもそも魔法という物がなかったので、それは無いと思います」と言われてしまった。
・・・しかし。
私だったら、その状況で彼に嘔吐されたら、もう立ち直れない。
それはともかく。ソニスのその色々な話を聞いて。
あのときのお互いの誤解はとりあえず解けたけれど。
でも知らなかった彼を知れば知るほど、彼が知らない一面を見せれば見せるほど、心がかき乱され、以前のように彼を癒やしとは思えなくなってしまった。
だって、彼は本当の私を知らない。もし私の本性を知ったらきっと失望するだろう。
最悪、軽蔑されるかも知れない。
思えばあの時は、浄化に向かうプレッシャーも知らないうちに堪えていたのかもしれない。
私自身かなりナーバスだった。
浄化が終わった後はそれまでの、そんなもやもやも一緒に消えたような気がしていた。
けれど。
そんな矢先にあの河原の出来事。あんな風に取り乱した姿を晒してしまうなんて。
私はずっとずっと頭の中でグルグルするあの映像を振り払いたくて気持ちを切り替えようとするのだけどどうにもできない。
だってソニスの話を聞く限り、彼はそういうことができない人だと思っていたから。
あれは救命の方法だからなのだろうけど。でも本当にそうなのだろうか。
黙ってナーノがミルクの入ったハーブティーを差し出してくれた。
暖かい。暖かくて体の芯に染みてくる。きっとナーノは私のこんな葛藤などお見通しだろう。それでも長年の付き合いの侍従は欲しいものを欲しいときに差し出してくれるのだ。
不意にテントの外から心を波立たせる声がした。
「第一騎士団所属、ダイ、殿下に拝謁賜りたく。お取り次ぎ願います」
ああ、もう自分の思いはごまかせない。彼の訪れは単純に嬉しい。
会いたい。でも、会いたくない。今の自分が会ったら取り繕える自信が無い。
「どうなさいますか」というナーノの言葉に、しばし飲み干したハーブティーのカップを眺め自問する。
「通してあげて」と答えたのは、このまま会わずに追い返したらその方が後で辛くなると思ったから。
入り口で一礼してからテーブルの一番奥の椅子に座る私の元に近づき、両膝をついた。思わず私は顔を上げる。いつもの騎士礼では無くこれは謝罪の礼だ。
おそらくシシャンブノスが謝罪の時にこの礼の型を取っていたのに倣ったのだろう。
ずぶ濡れになった服は着替え、軽く体も清めてきたのだろうか、石けんの匂いがする。
そして髪は・・・。まだ少し濡れていた。
「お加減はいかがでしょうか。私が至らぬばかりに殿下のお心を乱し、せっかく回復したお体に障りがあるのではと居ても立ってもおられずご迷惑を顧みずお見舞いに参りました。」
「体は・・・。問題ありません。・・・あなたがしたことは間違っては居ません。むしろ適切に対応してくれたことを感謝しなくてはいけないのに・・・。取り乱して、私の方こそ謝らなくてはなりません。」
彼の顔を見ることはできなかった。目をそらしたまま。緩やかにかぶりを振った。
「・・・・・・」
沈黙が流れた。
私は落ち着かなくなってちらっとだけ横目で彼を見た。彼は何かを決心したように両膝をついたまま背を伸ばして言った。
「殿下。どうか、殿下に触れることをお許しください。」
え?と思って思わず彼を見た。「どうかご許可を」と念を押されて思わず「許します」と答えるしか無かった。
するとその言葉に軽く頷くと私の左手を彼の両手が包み込んだ。
激しく心臓が波打つ。
私の左手を一度押し頂いて頭を垂れ、それを見つめながら呟くように言った。
「お願いです、殿下。私は気の利かない男です。ましてや異世界人でこの世界の常識も知りません。もし、私の無知や無神経が原因で僅かでも殿下のお心を乱すことがあるなら、どうか隠さず教えてください。」
そう言って私を見上げた。切実なまなざし。無言の私に対し彼は言葉を重ねる。
先ほどよりもやや前のめりで。そして私の左手は祈るように胸元に重ねられた彼の両の掌によって彼の胸に押し当てられている。彼の鼓動が掌から伝わってくる。
思わず声を上げそうだった。
「殿下のお慈悲で私の不調法も許されてきたのだと承知しております。でもどうか私の為と思っていただけるなら許さず叱っていただきたいのです。私が最も辛いのは私が殿下の平穏を乱す原因となることなのですから。」
別に強く拘束されているわけでも無いのに、私は固まったように手を引き抜くことができない。
包み込んでいる彼の掌が熱い。自分の掌から伝わる脈動がたまらなく愛しい。
私の心は今まさに乱れているのだが。あなたのせいで。それはもう過去無かったくらいに。
そして、それ以前に彼の声がいつもよりもずっと近いところから聞こえてくることにも耐えられなくなっていた。
熱を帯びてくる自分の顔を見られたくなくて空いている右手でガードするように顔を覆った。掌を彼に向けて。そうやって視線を避けつつもう私は押さえられなくて叫ぶように拒んだ。
「もうやめてください!」
「・・・殿下?」
「あなたに不満なんて有りません。あなたは何も悪いことはしていないと言っているじゃありませんか。誤解です。誤解されるようなことをしたなら謝ります!」
「・・・え?・・・あの・・・」
「手・・・、手を離して!」
その叫びに彼は絵に描いたようにぱっと広げて私の手を解放した。
もう何もごまかせない。体裁を取り繕ってなどいられない。私は限界だった。
両手で顔を覆い、カラダごと彼と向き合うのを避け行儀が悪いのもかまわず椅子に横向きに座っていた。
「もう、もう、本当に、ダメです。悪いのは私です。私がダメなんです。」
はーはーと何故か呼吸すら乱れてきた。もう本当に恥ずかしい。恥ずかしくて死にたい。
きっともう嫌われた。こんなみっともない姿を見て完全に彼の偶像は木っ端みじんになったに違いない。泣きたい。
「・・・あの、・・・殿下・・・?」
様子をうかがうようにおそらく私の顔をのぞき込んでいるんだろうなと言う距離感で彼の声がした。それを更に避けるように顔を背けた。両手で覆ったまま。
「・・・どうしたらいいのでしょうか」
それは多分私では無くナーノに向けた言葉。ナーノは無言。何かアイコンタクトを送ったのかも知れない。
「・・・今後はあの救命の方法は使わないことにします。それだけでなく、殿下が少しでもお気に召さないことはいたしません。どうか、許してはいただけないで・・・」
「だから、そうじゃなくて!」
あまりにしょんぼりした声音だったから思わず食い気味に言って彼の言葉を止めた。
「あなたに何かを改めて欲しいわけではないのです。そんなことは望んでいません。私があなたに望むのはひとつだけです」
「・・・何ですか?」
少し嬉しそうにも聞こえる声音。
「こ・・・この先、何があっても・・・」
「はい。」
「私を嫌いにならないで欲しいんです」
「は?」
「・・・・・・」
「あの・・・」
「だってあなたは本当の私を知らないじゃ無いですか!この先いつか私の本性を知ったらきっと失望するのです。ええ、絶対に!」
「殿下ッ?」
取り乱した自分をあれほど恥じて、あんなに反省していたのにこの体たらく。みっともなさを積み増してどうする。もう何が何だか。そもそもこんなときに何故ナーノは助けてくれないのだろう?誰か助けて。
「殿下。どうか落ち着いてください。あり得ませんから。失望なんて」
「いいえ、いいえ、・・・だって私はこんな人間で・・・見苦しくて・・・浅ましくて・・・い・・・いやらしくて・・・」
「あまり・・・そのように私の心の主君を悪く言わないでください」
優しくも拗ねたような声音が至近距離で聞こえた。ああ、彼のこの声!
あんなに羨ましかったのに、いざこうやって間近に聴かされると、常にコレをお見舞いされながら平常心で居られるソニスはスゴいと思ってしまう。
「私が殿下に見限られることはあるかも知れませんが、逆は絶対にあり得ません。あの時の宣誓では言葉が足りなかったのでしょうか。」
考え込むような調子に少し指の隙間を作って覗いた。かなり真剣に考え込んでいる。あの時の宣誓の内容を思い出しているのか。直後顔を上げた彼と目が合う。とっさにそらす。
「私、ダイは未来永劫殿下の御為にこの身も心も魂も全てを捧げます。頭のてっぺんからつま先まで全て殿下の物です。なんなりとご命令ください。」
なんてとんでもないことを言うのだろうか!意味が分かって言っているのだろうか。酷い!そんなことを言われたら私はもっと調子に乗ってしまう。自惚れてしまう。
もう限界。
気がついたら私は両手で顔を覆ったまま嗚咽を漏らしていた。
「・・・殿下ッ?」
酷く動揺している彼の声。申し訳ないとは思ったけれど、完全に私のキャパシティーは越えてしまった。対応できないのです。
「殿下は、まだ本調子ではありません。久々の外出で、お疲れもあり情緒が不安定なのです。今日はコレにてお引き取りください」
やっとナーノの助け船が出た。できればもっと早くに出して欲しかった。
「・・・分かりました・・・」
酷くしょんぼりした彼の声。ああ、何てかわいそうな私の子犬。でも一刻も早く出て行って。去り際にナーノに夕食はお届けに参ります、と告げて、挨拶をして退出した。
彼を見送った後、近づいてきたナーノが何故か清々しいため息をついていた。
「良いお仕事をなさいました、殿下。お芝居では無いところがさすがです。」
傍らに跪き、涙で濡れる私の頬を拭いてくれながら満足げにナーノは囁いた。
「言質が取れましたね。」
・・・え・・・
・・・・・・ナ、・・・・・・ナーノ?
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真は商売をしながら少しずつ世界を見聞していく。
彼の他に召喚された二人の勇者、竜や亜人、そしてヒューマンと魔族の戦争、次々に真は事件に関わっていく。
これはそんな真と、彼を慕う(基本人外の)者達の異世界道中物語。
漫遊編始めました。
外伝的何かとして「月が導く異世界道中extra」も投稿しています。
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SEKISUI
BL
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