釣った魚、逃した魚

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#45 甘い空気

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神子様が帰宅したのは、少し日が傾きかけた頃だった。

宣言通りに“早めに戻って”くれた。

存分にブラッシングをした後、厩の清掃を済ませ、たっぷりと飼い葉と水を与えて裏庭に出て来た頃、裏の林に点在しているムラサキヤマスモモの花が日に烟っているのを見て思わず眼を細めた。普通のスモモよりも花期が遅い。
今日は朝から快晴で、真夏でも比較的涼しいこの辺りでも、日中少し汗ばむほどだった。
裏の林に入っていく土手には初夏の野花が揺れて、小さなミツバチが飛んでいる。

陽光が西に傾いた頃、厩と物干しの間の開けたスペースに白い光のカーテンが下から上に立ち上った。
日差しが明るいから、最初はわかりにくかったのだが、その白いカーテンの向こうにうっすらと人影が現れて、神子様の転移魔法が展開されているのだと分かった。

思わず俺は立ち止まり、直立したまま神子様の姿が完全に現れるのをその場で待つ。

「おかえりなさい」
俺が言うと、ただいま、とまるで照れてでも居るような笑みを浮かべてこちらに向かって歩み寄ってきた。

戻ってきてくれた安堵感。
今回は、相手が相手だったから、“盗聴”で状況が分かっていても気が抜けなかった。
ただの視察に行って戻って来たときに感じた虚無感とは、全く別の感情だった。
権力者で、しかも政治的に大望を抱いて居る相手なら、神子様を手に入れる為に、伝説級の魔道具などを駆使してかかってきても不思議はないと思ったからだ。

だから、無事戻って来たらその帰還自体を祝いたかった。

そんな気持ちがあって、この日の夕食は、俺なりに頑張ってご馳走を用意した。
あの時仕留めた魔獣、大角岩山羊の肉の一番良い部位のあぶり焼きに、干しイチジクや野生のベリー類、香草のソースをかけたメインディッシュ。山鳥と根菜のクリームシチュー。蒸かした根菜の柑橘系フレーバオイル掛け。甘いチーズのタルト。
そして、ついさっきヴィドが届けに来てくれたテレサのミートパイ。
タカが好物だから、頼んでおいたのだ。

…あとは、義兄の商会から分けてもらった、とっておきのワイン。

間接照明の中、ワインに少し目元を染める神子様は相変わらず艶めいている。

美味しい食事をゆっくりと味わいながら、神子様は詳細を報告してくれた。
「聴いていただろ?どうなったかは知っていると思うけど…」
その言葉を前置きしながら、視覚情報がなく、伝わっていなかった部分を補足してくれた。

「地下神殿を壊したと言っていましたよね?」
「ああ、アレを堺に、彼らの纏っている空気感が変わった。それまでは多分舐めていたんだろうと思う。約束していた部屋に設置した物とは別の魔道具なども隠し持っていたからね」
やはりな、と思った。

それにしても、中庭と地下神殿はそれなりに距離が離れている。あれだけ離れた場所から、狙った部分だけを正確に破壊するなんて、とんでもなく精度の高いコントロールだ。

「これで暫くは王都には行かなくて済む」
俺は一瞬、息が止まった。
「…暫く…?」
いずれか、又行くつもりなのか?もう今日でおしまいではないのか?

そんな俺の情動を感じ取ったのか、少しだけ申し訳なさそうな表情で神子様は言った。
「ナタリーだけは助けたい。彼女は元々、俺があの場に送り込んだようなものだから。
…王都の隅っこに居る彼女の家族も」

そう言われると、反対する事など出来ない。確かにナタリー妃は神子様の仕込みだったから。
クーデターで反乱軍に乗っ取られたら、後宮の妃達は陛下の家族として、どんな扱いを受けるか分からない。
そして。
ナタリー妃は、あの後宮で、いや王宮でたったひとりだけ、神子様が国を救ってくれた事に感謝の涙を流した人だ。

「それには、君にも協力してもらいたいんだ」
「なんなりとご命令下さい」

背をただして胸に手を当てた俺の姿に、神子様は噴き出して「騎士様モードに戻っちゃった」と笑った。

俺はいつだって、あなただけの騎士だ。

その後は、ナタリー妃の家族をここ、コンセデス領の適当な都市に引っ越しさせておき、後でナタリー妃と合流させる算段を付けようという話になった。
なぜ、はるばるコンセデス領なのかといえば、この先おそらくクーデターの余波で、粛正される貴族家が何家も出る。それに伴い各地で暴動が起きる可能性が高い。事実既におきているところもある。

まず、王都は一番危ない。
暴徒は一度破壊を始めたら止めどなくなり、一般人を巻き込む事も厭わない狂乱状態に陥る。
王都となるとどこでそれが勃発してもおかしくない。
王都から脱出させるのは大前提だ。
が、現状、今はどこの領も不安定だ。故に我がコンセデス領ということになる。長旅にはなるが。

昨日、義兄の協力の下に、グリエンテ商会を中心にしたストグミク市を覆う範囲に、結界魔法を展開したと言ったが、実は、その結界はゆっくりと時間をかけて広がり、数日後にはコンセデス領全域まで至ると神子様は言っていた。

しかもこの結界…厳密に言えば、なじみの無い者には認識しづらくなる認識阻害魔法を乗せている…というのは昨日の神子様の説明のままだ。

その時には、さすがに領全体までというと、あまりに規模の大きな結界であることと、領主に相談もなく展開したと言う事もあり、義兄になんらか迷惑がかかってはいけないと思って控えめに言っていたらしい。

あの時、義兄に領主と会わせてもらいたいという、根回しを頼んでいたのはそういうわけだったのか。

ナタリー妃の家族を引っ越しさせる段取りの手順が、一通り共有されると、神子様は徐に向かい側の席を立ち上がり、テーブルを回り込んで肩に腕を絡めながら、俺の脚の間に入り、腿の上に横座りした。

ぎょっとして固まっていると、俺にもたれかかる。そして、その繊細な鼻先で俺の頬を撫でながら囁いた。

「必要事項とは言え、せっかく帰ってきたのに堅い話ばっかりでゴメンね。こんな素敵な晩餐を用意してくれてしあわせだよ。ここからは、すこ~し甘い時間にしよう、ね」

神子様の細い指先が俺の髪を撫でて後頭部に沈み込み、妖しく細められた黒い瞳が至近距離まで近づいてきた。

俺は無抵抗に、その甘い口づけを受け入れた。
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