147 / 151
15年目の小さな試練
19.エピローグ2
しおりを挟む
深夜0時。
ハルが起き出す音で目が覚める。
「ハル?」
オレが急いでハルのベッドへと向かうと、
「……トイレ行ってくるね。寝てていいよ?」
ハルはゆっくりとした動作でベッドに腰掛けながら、眠そうな声でそう言った。
「待ってる」
ハルが立ち上がるのに手を添え、ハルを病室内のトイレまで送り届ける。
どんなにハルが遠慮しても、オレがハルから離れることはないと、十ヶ月ほどの結婚生活でよーく理解したはずなのに、未だにハルは毎回こんな風にオレを気遣う。
多分、それは、手を離すのに遠慮する必要はないという意思表示。
オレが病室に泊まることだって嬉しいと言いながらも、ハルは毎日必ず、帰っていいんだよと口にする。
それは少し寂しくもあり、ハルらしさを感じて切なくもなる瞬間でもある。だけど同時に、オレを労わってくれるハルの深い愛を感じる時でもある。
「お待たせ」
出てきたハルを
「お帰り」
と、抱きしめキスをし、そのまま抱き上げる。
横抱きではなく、縦抱き。
この入院生活で、また少し軽くなったハル。
ただでさえ、これからの季節は食欲が落ちる。帰ったら、沙代さんに、ハルが好きそうな口当たりが良い料理を教えてもらおう。
冷たいスープとかいいかも知れない。いや、お腹を冷やしそうな気がするから、やっぱり冷たいのはダメかな?
「歩けるよ?」
「知ってる」
だけど、離したくない。
歩くのもリハビリの一つだし、筋力を落とさないためにも動くのが大切だと言うのは重々承知。でも、こんな深夜にリハビリを考えることもないだろう?
ハルは仕方ないなと言わんばかりに、小さく笑い、抵抗はしなかった。
ベッドに下ろすと、ハルはベッドに腰掛けたまま、オレを見上げた。
常夜灯の薄明かりにハルの真剣な表情が浮かぶ。
「どうした?」
「……ごめんね」
「ん? なにが?」
トイレに起きたハルに付き合うのは家にいても、いつものこと。
ましてや、入院中にオレの過保護が一段増すのはハルも承知している。
じゃあ、この「ごめんね」は何への謝罪?
「ハル、取りあえず横になろうか?」
「……あ、うん」
オレはハルがベッドに入るのを待って、布団をかける。
ハルは小さくあくびをする。
「あのね」
眠そうなのに、ハルが言葉を続けようとするので、オレは枕元のイスに座ることにした。
「うん」
布団の上に置かれたハルの手をそっと握る。
「色々、心配かけて、ごめんね」
「いや……どうしたの、急に?」
「ん……カナ、きっと色々言いたかったんだろうなと思って。……我慢してくれてたよね」
ああ、山野先生の話か。
研究室に話に行った後、お互いにその話はしなかった。
ハルは心の中の整理が付いていないみたいで、とても疲れた顔をしていたし、オレ自身もハルに投げつけられた言葉への怒りが渦巻いていて、とても冷静には話せない気がしていたから。
そして、その夜、ひどい発作を起こして入院したハル。
入院後しばらくは長話ができる状態でもなかったし、話しそびれていた。
「あーでも、結局止めたし、……止めたのも遅すぎた気がしてるし」
「ううん。……本当に、ありがとう」
「ん?」
お礼を言われるようなこと、したっけ?
首を傾げていると、ハルは身体を横にして、全身でオレの方を向いてくれた。
「待っていてくれて、ありがとう」
「……待っていて?」
「うん。カナ、ギリギリまで待ってくれたよね。すごく我慢してたでしょう?」
ハルの言葉を聞いて、思わず苦笑。
だよな。見てれば分かるか。
「……あー、ごめん」
「なんで謝るの?」
本当に分からないといった表情でハルが不思議そうにオレを見る。
いやだって、言いたくても言わずにいるのが丸分かりなのって、言葉にしないだけで、無言でプレッシャーかけてるようなもんじゃないかな……。
「あのね、わたしがやりたいようにさせてくれて、やりたい気持ちを分かってもらえて、嬉しかった」
ハルがもう一つの手も添えて、オレの手を包み込むようにして、キュッと力を入れた。
「それからね、カナ、わたしが自分で話しに行くのも許してくれたよね。そういうの、色々合わせて、多分、わたし、納得できたんだと思う」
「納得?」
「うん。……山野先生……普通じゃなかった」
真摯に向き合おうとしたハルを怒鳴りつけた山野先生。
さすがに、あの時はついていくと強く主張しなかったのを後悔した。だけど、多分、その後悔も分かった上での、ハルの「ありがとう」。
「……ホント、おかしいよな」
「ん。……でもね、頑張るところまで頑張ったから、この水準をわたしに求めるのはおかしいって分かったんだと思うの」
「確かに。オレなんか、ハルがもらってた課題は、最初の方のだって何聞かれてるのか分からなかったけど」
そう言うと、ハルはクスリと笑った。
「カナも……みんなもそう言ってたね」
ハルはまるで解けない方が不思議だというように、そう言う。
「そうだね。あれを一年生に解かせるのは、おかしいのかも知れないね。だけど、本を読んで予習していたおかげだろうけど、わたしには、そんなに難しくなかったんだよ。ただ、楽しくて面白くて……」
「だよね。いつも、ハル、すごく楽しそうだったもんね」
そう言うと、ハルは少し切なげな笑みを浮かべた。
「だから、もし途中で、まだ体力的に頑張れるところで止められてたら、わたし、自分の身体のせいで、せっかく与えられた機会を活かせなかったんだと、思ったんだろうなって……」
「……ああ、そっか」
ようやくハルの言いたいことが理解できた。
そんな事ないと誰が言ったって、山野先生はハルがギブアップしたと見るだろうし、ハルは自分に、……自分の病気に負けたと思ったのだろう。
「ハル」
思わず、ハルの頭に手を伸ばす。
「頑張ったね」
そう言って、そっと頭をなでると、ハルは花がほころぶように嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう」
「それから、お疲れさま」
「……カナも、お疲れさま」
「ん? オレは何もしてないよ?」
「わたしに振り回されてたでしょう?」
「え? いつ?」
「いつも」
「……何のこと?」
首を傾げると、ハルはおかしそうに笑った。
「いつだって、ずっと気にかけてくれていたし、今だって、病院に泊まり込んでるし、わたしが目を覚ましたら、夜中でも一緒に起きてくれるし、ここに来た日だって、わたし、ほとんど覚えてないんだけど、けっこう大変だったよね?」
「んー、ハルが倒れたら、そりゃ心配はするけど、振り回されてはいないよ? 病室に泊まるのだって、寂しいからだし」
「わたし、大丈夫だよ」
「いや、オレが寂しいの」
勘違いを即刻訂正すると、ハルは目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「本当はさ、ここに潜り込んでハルを抱きしめて眠りたいくらいだけど、さすがにそれはダメだから我慢してるんだよ、これでも」
そう言って、布団を軽く持ち上げると、ハルはくすくす声を上げて笑う。
冗談じゃないんだけどな~。
そう思っていると、ハルは内側から布団をそっと持ち上げて空間を作った。
「入る?」
「え!?」
「少しだけ」
ハルがオレの手を引く。
なんか、どっかで見たようなシチュエーション。
あ、結婚前に、沙代さんがいない夜、具合を悪くしたハルに呼ばれた時だ。あの夜もハルに誘われて、どうしても断れなくて一緒にベッドに入って、ハルが眠ったら出るつもりが、つい眠り込んで……。
でもって、翌朝、お義父さんに見つかって……。
「いや、でも、さすがにダメでしょ」
今は夫婦だから、一緒に寝るのはある意味、いつものこと。
だけど、ここ病院だし。
いくら明日には退院予定だと言っても、さすがにダメだろう。
「小さい頃は、よく一緒に寝たよね?」
「あー。小学生の低学年……くらいまでかな?」
検査入院の時とか、退院間近な時期とか、ベッドの上でおしゃべりしたり絵を描いたり、トランプしたり……。
気が付いたら、二人一緒に丸くなって眠っていたりとか、あったよなぁ。
「懐かしいな」
「……ね?」
そうして、ハルはまたオレの腕を引く。
「ハールー、正直嬉しい! オレもハルと一緒に寝たいしね? だけど、狭すぎでしょ、ベッド」
あの頃からするとオレたちは大きく成長した。なのに、病院のベッドは同じ大きさのシングルサイズ。家のセミダブルで一緒に寝るのとは違うだろう。
「……そうかな?」
ハルはそう言うと、もぞもぞとベッドの反対の端に移動した。
「どうぞ」
そして、ニコッと笑って、開いたスペースを手のひらでトントンと叩いた。
「えーっと、ハル。明日の夜には自宅で一緒に眠れるよ?」
それでもオレは抵抗を試みる。
もう、微笑ましいで済ませられる年頃でもない。
点滴も酸素もモニターも外れ、退院前日の今。容態は落ち着いているし、夜間の見回りも多くはないだろう。だけど、朝まで誰も来ないということはないはずだ。
「……ダメ?」
どう誘っても、オレが動かないと分かったのか、ハルは寂しそうにオレを見上げた。
……だから、ハル、ダメだってば。
オレ、ハルが本当に望んでいるのなら、どんな事でも叶えたくなっちゃうんだから。
結局、オレは空いてる手でハルの頭をなでると、
「5分だけね」
と口にしていた。
「……眠るまで、いて欲しい」
「どうした? やけに甘えん坊だね」
こんなおねだりは初めてだ。
オレは驚きつつも、そっとハルのベッドに上がった。
手を伸ばすと、ハルはそのまますっぽりオレの腕に収まった。
……ああ、ハルだ。
その温もりを全身で感じ、オレは心の奥底まで、頭のてっぺんからつま先まで、満たされた気分になる。
「……なんか、夢見が…悪くって」
「夢?」
「……ん。……寝入り…ばなに…変な夢……見る」
ハルは途切れ途切れにそう語った。眠りに落ちそうになりながら、オレの胸に頭をすり寄せるハル。
「そっか。じゃあ、変な夢を見ないように、オレがずっと話しかけてようか」
珍しく甘えてくるハルの背をそっとなでる。
なでながら、
「ハル……大好きだよ」
そう言って、ハルの髪にほおを寄せた。
今日の午前中に髪を洗ってもらったハル。いつものラベンダーの香りがふわりと香った。
「あり…が、と……。わたしも、……カナ、大好き」
ハルはそう言った後、ふわぁっと小さなあくびをした。
楽しいこと、楽しいこと。
ハルの悪夢を吹き飛ばすような楽しいことって何だろうと考えて、ふと思い出した。
「もうすぐ結婚一周年だね」
ハルと結婚式を挙げたのは去年の八月。あれから、もうすぐ一年が経つ。
「……ん」
腕の中のハルが、小さく頷くのを感じた。
「夏休みになったら、また別荘に行こうね。体調がよかったら、牧場に行ったり、湖に行ったりしようか?」
今年も夏休みの最初には、多分検査入院がある。だけど、手術の予定はないから、数日、長くても一週間以内で解放されるだろう。
移動で多少疲れたとしても、向こうにいる間は程よい気候にハルの体調も安定する。
問題は大学の夏休み開始が高等部より遅いことかな? 7月いっぱい、暑さの厳しいこちらで前期の試験を受けるとか、大丈夫かと今から心配になる。
そんな事が頭を一瞬よぎるけど、今はとにかく楽しい話だ。
「明兄と兄貴も来るかな? 来年は二人とも就職だろうし、今年はきっと来るね。
そうだ、教会にも行ってみようか。日曜日に行ったら、礼拝とかあるのかな?
結婚記念日はどう過ごす? 久しぶりに二人でデートしようか?」
オレが楽しい空想にふけっている間に、ハルの身体から余分な力が抜け、呼吸が寝息に変わった。
それでも、オレはハルの眠りが本格的に深まるまで、ハルを抱きしめ続ける。
「世界で一番、愛してる」
ハルの額にキスを落とし、そのぬくもりを、後少し、と堪能する。
それからそっと腕を抜いた。
その動作でハルが目を覚まさないのを確認してから、ゆっくりとベッドから抜け出して、布団を整える。
「おやすみ、ハル」
もう一度、キスをして、少し迷った後、ソファベッドからタオルケットを取ってきて肩からかぶると、ハルの枕元のイスに腰を下ろした。
「嫌な夢を見たら起こしてね」
そう言って、ハルの手を握り、オレのためにハルが開けてくれたスペースに腕を置いてうつ伏せる。
これなら怒られることも、呆れられることもないだろう。
ハルの容態が悪くて心配なときは、ソファベッドで寝る気になんてなれなくて、このイスで、ハルの様子を見ながら仮眠を取るのだから。
今はハルの体調は落ち着いている。だけど、こんな日があったっていいだろう?
「甘えてくれて、ありがとう」
ハルはきっと、頼ってもらえて、甘えてもらえて、オレがどんなに喜んでいるかを知らない。
ねえ、ハル。
これからも、オレは色々間違えると思う。今回みたいに、見極めを失敗することもあると思う。
だけど、ハルを愛する気持ちは誰にも負けないよ? ハルが一番望む形にしてあげたいと思う気持ちにウソはないよ?
弱音を吐かないハル、誰にも甘えないハル。
だけど、オレには少しずつ甘えてくれるようになった気がする。
オレにはもっと甘えていい。もっと甘えて、頼って欲しい。男として、夫として当然の気持ち。
……ごめんね。病院のベッドでは、一緒に寝られないけど。
「これからも、よろしくね」
そう言うと返事でもするかのように、ハルの手がピクリと震えた。
オレはその指先にキスをすると、そのままハルとの明日を夢見て眠りの世界に飛び込んだ。
《 完 》
ハルが起き出す音で目が覚める。
「ハル?」
オレが急いでハルのベッドへと向かうと、
「……トイレ行ってくるね。寝てていいよ?」
ハルはゆっくりとした動作でベッドに腰掛けながら、眠そうな声でそう言った。
「待ってる」
ハルが立ち上がるのに手を添え、ハルを病室内のトイレまで送り届ける。
どんなにハルが遠慮しても、オレがハルから離れることはないと、十ヶ月ほどの結婚生活でよーく理解したはずなのに、未だにハルは毎回こんな風にオレを気遣う。
多分、それは、手を離すのに遠慮する必要はないという意思表示。
オレが病室に泊まることだって嬉しいと言いながらも、ハルは毎日必ず、帰っていいんだよと口にする。
それは少し寂しくもあり、ハルらしさを感じて切なくもなる瞬間でもある。だけど同時に、オレを労わってくれるハルの深い愛を感じる時でもある。
「お待たせ」
出てきたハルを
「お帰り」
と、抱きしめキスをし、そのまま抱き上げる。
横抱きではなく、縦抱き。
この入院生活で、また少し軽くなったハル。
ただでさえ、これからの季節は食欲が落ちる。帰ったら、沙代さんに、ハルが好きそうな口当たりが良い料理を教えてもらおう。
冷たいスープとかいいかも知れない。いや、お腹を冷やしそうな気がするから、やっぱり冷たいのはダメかな?
「歩けるよ?」
「知ってる」
だけど、離したくない。
歩くのもリハビリの一つだし、筋力を落とさないためにも動くのが大切だと言うのは重々承知。でも、こんな深夜にリハビリを考えることもないだろう?
ハルは仕方ないなと言わんばかりに、小さく笑い、抵抗はしなかった。
ベッドに下ろすと、ハルはベッドに腰掛けたまま、オレを見上げた。
常夜灯の薄明かりにハルの真剣な表情が浮かぶ。
「どうした?」
「……ごめんね」
「ん? なにが?」
トイレに起きたハルに付き合うのは家にいても、いつものこと。
ましてや、入院中にオレの過保護が一段増すのはハルも承知している。
じゃあ、この「ごめんね」は何への謝罪?
「ハル、取りあえず横になろうか?」
「……あ、うん」
オレはハルがベッドに入るのを待って、布団をかける。
ハルは小さくあくびをする。
「あのね」
眠そうなのに、ハルが言葉を続けようとするので、オレは枕元のイスに座ることにした。
「うん」
布団の上に置かれたハルの手をそっと握る。
「色々、心配かけて、ごめんね」
「いや……どうしたの、急に?」
「ん……カナ、きっと色々言いたかったんだろうなと思って。……我慢してくれてたよね」
ああ、山野先生の話か。
研究室に話に行った後、お互いにその話はしなかった。
ハルは心の中の整理が付いていないみたいで、とても疲れた顔をしていたし、オレ自身もハルに投げつけられた言葉への怒りが渦巻いていて、とても冷静には話せない気がしていたから。
そして、その夜、ひどい発作を起こして入院したハル。
入院後しばらくは長話ができる状態でもなかったし、話しそびれていた。
「あーでも、結局止めたし、……止めたのも遅すぎた気がしてるし」
「ううん。……本当に、ありがとう」
「ん?」
お礼を言われるようなこと、したっけ?
首を傾げていると、ハルは身体を横にして、全身でオレの方を向いてくれた。
「待っていてくれて、ありがとう」
「……待っていて?」
「うん。カナ、ギリギリまで待ってくれたよね。すごく我慢してたでしょう?」
ハルの言葉を聞いて、思わず苦笑。
だよな。見てれば分かるか。
「……あー、ごめん」
「なんで謝るの?」
本当に分からないといった表情でハルが不思議そうにオレを見る。
いやだって、言いたくても言わずにいるのが丸分かりなのって、言葉にしないだけで、無言でプレッシャーかけてるようなもんじゃないかな……。
「あのね、わたしがやりたいようにさせてくれて、やりたい気持ちを分かってもらえて、嬉しかった」
ハルがもう一つの手も添えて、オレの手を包み込むようにして、キュッと力を入れた。
「それからね、カナ、わたしが自分で話しに行くのも許してくれたよね。そういうの、色々合わせて、多分、わたし、納得できたんだと思う」
「納得?」
「うん。……山野先生……普通じゃなかった」
真摯に向き合おうとしたハルを怒鳴りつけた山野先生。
さすがに、あの時はついていくと強く主張しなかったのを後悔した。だけど、多分、その後悔も分かった上での、ハルの「ありがとう」。
「……ホント、おかしいよな」
「ん。……でもね、頑張るところまで頑張ったから、この水準をわたしに求めるのはおかしいって分かったんだと思うの」
「確かに。オレなんか、ハルがもらってた課題は、最初の方のだって何聞かれてるのか分からなかったけど」
そう言うと、ハルはクスリと笑った。
「カナも……みんなもそう言ってたね」
ハルはまるで解けない方が不思議だというように、そう言う。
「そうだね。あれを一年生に解かせるのは、おかしいのかも知れないね。だけど、本を読んで予習していたおかげだろうけど、わたしには、そんなに難しくなかったんだよ。ただ、楽しくて面白くて……」
「だよね。いつも、ハル、すごく楽しそうだったもんね」
そう言うと、ハルは少し切なげな笑みを浮かべた。
「だから、もし途中で、まだ体力的に頑張れるところで止められてたら、わたし、自分の身体のせいで、せっかく与えられた機会を活かせなかったんだと、思ったんだろうなって……」
「……ああ、そっか」
ようやくハルの言いたいことが理解できた。
そんな事ないと誰が言ったって、山野先生はハルがギブアップしたと見るだろうし、ハルは自分に、……自分の病気に負けたと思ったのだろう。
「ハル」
思わず、ハルの頭に手を伸ばす。
「頑張ったね」
そう言って、そっと頭をなでると、ハルは花がほころぶように嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう」
「それから、お疲れさま」
「……カナも、お疲れさま」
「ん? オレは何もしてないよ?」
「わたしに振り回されてたでしょう?」
「え? いつ?」
「いつも」
「……何のこと?」
首を傾げると、ハルはおかしそうに笑った。
「いつだって、ずっと気にかけてくれていたし、今だって、病院に泊まり込んでるし、わたしが目を覚ましたら、夜中でも一緒に起きてくれるし、ここに来た日だって、わたし、ほとんど覚えてないんだけど、けっこう大変だったよね?」
「んー、ハルが倒れたら、そりゃ心配はするけど、振り回されてはいないよ? 病室に泊まるのだって、寂しいからだし」
「わたし、大丈夫だよ」
「いや、オレが寂しいの」
勘違いを即刻訂正すると、ハルは目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「本当はさ、ここに潜り込んでハルを抱きしめて眠りたいくらいだけど、さすがにそれはダメだから我慢してるんだよ、これでも」
そう言って、布団を軽く持ち上げると、ハルはくすくす声を上げて笑う。
冗談じゃないんだけどな~。
そう思っていると、ハルは内側から布団をそっと持ち上げて空間を作った。
「入る?」
「え!?」
「少しだけ」
ハルがオレの手を引く。
なんか、どっかで見たようなシチュエーション。
あ、結婚前に、沙代さんがいない夜、具合を悪くしたハルに呼ばれた時だ。あの夜もハルに誘われて、どうしても断れなくて一緒にベッドに入って、ハルが眠ったら出るつもりが、つい眠り込んで……。
でもって、翌朝、お義父さんに見つかって……。
「いや、でも、さすがにダメでしょ」
今は夫婦だから、一緒に寝るのはある意味、いつものこと。
だけど、ここ病院だし。
いくら明日には退院予定だと言っても、さすがにダメだろう。
「小さい頃は、よく一緒に寝たよね?」
「あー。小学生の低学年……くらいまでかな?」
検査入院の時とか、退院間近な時期とか、ベッドの上でおしゃべりしたり絵を描いたり、トランプしたり……。
気が付いたら、二人一緒に丸くなって眠っていたりとか、あったよなぁ。
「懐かしいな」
「……ね?」
そうして、ハルはまたオレの腕を引く。
「ハールー、正直嬉しい! オレもハルと一緒に寝たいしね? だけど、狭すぎでしょ、ベッド」
あの頃からするとオレたちは大きく成長した。なのに、病院のベッドは同じ大きさのシングルサイズ。家のセミダブルで一緒に寝るのとは違うだろう。
「……そうかな?」
ハルはそう言うと、もぞもぞとベッドの反対の端に移動した。
「どうぞ」
そして、ニコッと笑って、開いたスペースを手のひらでトントンと叩いた。
「えーっと、ハル。明日の夜には自宅で一緒に眠れるよ?」
それでもオレは抵抗を試みる。
もう、微笑ましいで済ませられる年頃でもない。
点滴も酸素もモニターも外れ、退院前日の今。容態は落ち着いているし、夜間の見回りも多くはないだろう。だけど、朝まで誰も来ないということはないはずだ。
「……ダメ?」
どう誘っても、オレが動かないと分かったのか、ハルは寂しそうにオレを見上げた。
……だから、ハル、ダメだってば。
オレ、ハルが本当に望んでいるのなら、どんな事でも叶えたくなっちゃうんだから。
結局、オレは空いてる手でハルの頭をなでると、
「5分だけね」
と口にしていた。
「……眠るまで、いて欲しい」
「どうした? やけに甘えん坊だね」
こんなおねだりは初めてだ。
オレは驚きつつも、そっとハルのベッドに上がった。
手を伸ばすと、ハルはそのまますっぽりオレの腕に収まった。
……ああ、ハルだ。
その温もりを全身で感じ、オレは心の奥底まで、頭のてっぺんからつま先まで、満たされた気分になる。
「……なんか、夢見が…悪くって」
「夢?」
「……ん。……寝入り…ばなに…変な夢……見る」
ハルは途切れ途切れにそう語った。眠りに落ちそうになりながら、オレの胸に頭をすり寄せるハル。
「そっか。じゃあ、変な夢を見ないように、オレがずっと話しかけてようか」
珍しく甘えてくるハルの背をそっとなでる。
なでながら、
「ハル……大好きだよ」
そう言って、ハルの髪にほおを寄せた。
今日の午前中に髪を洗ってもらったハル。いつものラベンダーの香りがふわりと香った。
「あり…が、と……。わたしも、……カナ、大好き」
ハルはそう言った後、ふわぁっと小さなあくびをした。
楽しいこと、楽しいこと。
ハルの悪夢を吹き飛ばすような楽しいことって何だろうと考えて、ふと思い出した。
「もうすぐ結婚一周年だね」
ハルと結婚式を挙げたのは去年の八月。あれから、もうすぐ一年が経つ。
「……ん」
腕の中のハルが、小さく頷くのを感じた。
「夏休みになったら、また別荘に行こうね。体調がよかったら、牧場に行ったり、湖に行ったりしようか?」
今年も夏休みの最初には、多分検査入院がある。だけど、手術の予定はないから、数日、長くても一週間以内で解放されるだろう。
移動で多少疲れたとしても、向こうにいる間は程よい気候にハルの体調も安定する。
問題は大学の夏休み開始が高等部より遅いことかな? 7月いっぱい、暑さの厳しいこちらで前期の試験を受けるとか、大丈夫かと今から心配になる。
そんな事が頭を一瞬よぎるけど、今はとにかく楽しい話だ。
「明兄と兄貴も来るかな? 来年は二人とも就職だろうし、今年はきっと来るね。
そうだ、教会にも行ってみようか。日曜日に行ったら、礼拝とかあるのかな?
結婚記念日はどう過ごす? 久しぶりに二人でデートしようか?」
オレが楽しい空想にふけっている間に、ハルの身体から余分な力が抜け、呼吸が寝息に変わった。
それでも、オレはハルの眠りが本格的に深まるまで、ハルを抱きしめ続ける。
「世界で一番、愛してる」
ハルの額にキスを落とし、そのぬくもりを、後少し、と堪能する。
それからそっと腕を抜いた。
その動作でハルが目を覚まさないのを確認してから、ゆっくりとベッドから抜け出して、布団を整える。
「おやすみ、ハル」
もう一度、キスをして、少し迷った後、ソファベッドからタオルケットを取ってきて肩からかぶると、ハルの枕元のイスに腰を下ろした。
「嫌な夢を見たら起こしてね」
そう言って、ハルの手を握り、オレのためにハルが開けてくれたスペースに腕を置いてうつ伏せる。
これなら怒られることも、呆れられることもないだろう。
ハルの容態が悪くて心配なときは、ソファベッドで寝る気になんてなれなくて、このイスで、ハルの様子を見ながら仮眠を取るのだから。
今はハルの体調は落ち着いている。だけど、こんな日があったっていいだろう?
「甘えてくれて、ありがとう」
ハルはきっと、頼ってもらえて、甘えてもらえて、オレがどんなに喜んでいるかを知らない。
ねえ、ハル。
これからも、オレは色々間違えると思う。今回みたいに、見極めを失敗することもあると思う。
だけど、ハルを愛する気持ちは誰にも負けないよ? ハルが一番望む形にしてあげたいと思う気持ちにウソはないよ?
弱音を吐かないハル、誰にも甘えないハル。
だけど、オレには少しずつ甘えてくれるようになった気がする。
オレにはもっと甘えていい。もっと甘えて、頼って欲しい。男として、夫として当然の気持ち。
……ごめんね。病院のベッドでは、一緒に寝られないけど。
「これからも、よろしくね」
そう言うと返事でもするかのように、ハルの手がピクリと震えた。
オレはその指先にキスをすると、そのままハルとの明日を夢見て眠りの世界に飛び込んだ。
《 完 》
0
お気に入りに追加
25
あなたにおすすめの小説
漫画の寝取り竿役に転生して真面目に生きようとしたのに、なぜかエッチな巨乳ヒロインがぐいぐい攻めてくるんだけど?
みずがめ
恋愛
目が覚めたら読んだことのあるエロ漫画の最低寝取り野郎になっていた。
なんでよりによってこんな悪役に転生してしまったんだ。最初はそう落ち込んだが、よく考えれば若いチートボディを手に入れて学生時代をやり直せる。
身体の持ち主が悪人なら意識を乗っ取ったことに心を痛める必要はない。俺がヒロインを寝取りさえしなければ、主人公は精神崩壊することなくハッピーエンドを迎えるだろう。
一時の快楽に身を委ねて他人の人生を狂わせるだなんて、そんな責任を負いたくはない。ここが現実である以上、NTRする気にはなれなかった。メインヒロインとは適切な距離を保っていこう。俺自身がお天道様の下で青春を送るために、そう固く決意した。
……なのになぜ、俺はヒロインに誘惑されているんだ?
※他サイトでも掲載しています。
※表紙や作中イラストは、AIイラストレーターのおしつじさん(https://twitter.com/your_shitsuji)に外注契約を通して作成していただきました。おしつじさんのAIイラストはすべて商用利用が認められたものを使用しており、また「小説活動に関する利用許諾」を許可していただいています。
お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?
すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。
お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」
その母は・・迎えにくることは無かった。
代わりに迎えに来た『父』と『兄』。
私の引き取り先は『本当の家』だった。
お父さん「鈴の家だよ?」
鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」
新しい家で始まる生活。
でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。
鈴「うぁ・・・・。」
兄「鈴!?」
倒れることが多くなっていく日々・・・。
そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。
『もう・・妹にみれない・・・。』
『お兄ちゃん・・・。』
「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」
「ーーーーっ!」
※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。
※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。
※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
先輩に退部を命じられた僕を励ましてくれたアイドル級美少女の後輩マネージャーを成り行きで家に上げたら、なぜかその後も入り浸るようになった件
桜 偉村
恋愛
別にいいんじゃないんですか? 上手くならなくても——。
後輩マネージャーのその一言が、彼の人生を変えた。
全国常連の高校サッカー部の三軍に所属していた如月 巧(きさらぎ たくみ)は、自分の能力に限界を感じていた。
練習試合でも敗因となってしまった巧は、三軍キャプテンの武岡(たけおか)に退部を命じられて絶望する。
武岡にとって、巧はチームのお荷物であると同時に、アイドル級美少女マネージャーの白雪 香奈(しらゆき かな)と親しくしている目障りな存在だった。
だから、自信をなくしている巧を追い込んで退部させ、香奈と距離を置かせようとしたのだ。
そうすれば、香奈は自分のモノになると思っていたから。
武岡の思惑通り、巧はサッカー部を辞めようとしていた。
しかし、そこに香奈が現れる。
成り行きで香奈を家に上げた巧だが、なぜか彼女はその後も彼の家を訪れるようになって——。
「これは警告だよ」
「勘違いしないんでしょ?」
「僕がサッカーを続けられたのは、君のおかげだから」
「仲が良いだけの先輩に、あんなことまですると思ってたんですか?」
甘酸っぱくて、爽やかで、焦れったくて、クスッと笑えて……
オレンジジュース(のような青春)が好きな人必見の現代ラブコメ、ここに開幕!
※これより下では今後のストーリーの大まかな流れについて記載しています。
「話のなんとなくの流れや雰囲気を抑えておきたい」「ざまぁ展開がいつになるのか知りたい!」という方のみご一読ください。
【今後の大まかな流れ】
第1話、第2話でざまぁの伏線が作られます。
第1話はざまぁへの伏線というよりはラブコメ要素が強いので、「早くざまぁ展開見たい!」という方はサラッと読んでいただいて構いません!
本格的なざまぁが行われるのは第15話前後を予定しています。どうかお楽しみに!
また、特に第4話からは基本的にラブコメ展開が続きます。シリアス展開はないので、ほっこりしつつ甘さも補充できます!
※最初のざまぁが行われた後も基本はラブコメしつつ、ちょくちょくざまぁ要素も入れていこうかなと思っています。
少しでも「面白いな」「続きが気になる」と思った方は、ざっと内容を把握しつつ第20話、いえ第2話くらいまでお読みいただけると嬉しいです!
※基本は一途ですが、メインヒロイン以外との絡みも多少あります。
※本作品は小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しています。
勇者のハーレムパーティを追放された男が『実は別にヒロインが居るから気にしないで生活する』ような物語(仮)
石のやっさん
ファンタジー
主人公のリヒトは勇者パーティを追放されるが
別に気にも留めていなかった。
元から時期が来たら自分から出て行く予定だったし、彼には時期的にやりたい事があったからだ。
リヒトのやりたかった事、それは、元勇者のレイラが奴隷オークションに出されると聞き、それに参加する事だった。
この作品の主人公は転生者ですが、精神的に大人なだけでチートは知識も含んでありません。
勿論ヒロインもチートはありません。
そんな二人がどうやって生きていくか…それがテーマです。
他のライトノベルや漫画じゃ主人公になれない筈の二人が主人公、そんな物語です。
最近、感想欄から『人間臭さ』について書いて下さった方がいました。
確かに自分の原点はそこの様な気がしますので書き始めました。
タイトルが実はしっくりこないので、途中で代えるかも知れません。
継母の心得 〜 番外編 〜
トール
恋愛
継母の心得の番外編のみを投稿しています。
【本編第一部完結済、2023/10/1〜第二部スタート☆書籍化 2024/11/22ノベル5巻、コミックス1巻同時刊行予定】
もふもふで始めるVRMMO生活 ~寄り道しながらマイペースに楽しみます~
ゆるり
ファンタジー
☆第17回ファンタジー小説大賞で【癒し系ほっこり賞】を受賞しました!☆
ようやくこの日がやってきた。自由度が最高と噂されてたフルダイブ型VRMMOのサービス開始日だよ。
最初の種族選択でガチャをしたらびっくり。希少種のもふもふが当たったみたい。
この幸運に全力で乗っかって、マイペースにゲームを楽しもう!
……もぐもぐ。この世界、ご飯美味しすぎでは?
***
ゲーム生活をのんびり楽しむ話。
バトルもありますが、基本はスローライフ。
主人公は羽のあるうさぎになって、愛嬌を振りまきながら、あっちへこっちへフラフラと、異世界のようなゲーム世界を満喫します。
カクヨム様にて先行公開しております。
【R18】鬼上司は今日も私に甘くない
白波瀬 綾音
恋愛
見た目も中身も怖くて、仕事にストイックなハイスペ上司、高濱暁人(35)の右腕として働く私、鈴木梨沙(28)。接待で終電を逃した日から秘密の関係が始まる───。
逆ハーレムのチームで刺激的な日々を過ごすオフィスラブストーリー
法人営業部メンバー
鈴木梨沙:28歳
高濱暁人:35歳、法人営業部部長
相良くん:25歳、唯一の年下くん
久野さん:29歳、一個上の優しい先輩
藍沢さん:31歳、チーフ
武田さん:36歳、課長
加藤さん:30歳、法人営業部事務
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる