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十九時過ぎ、僕はN大学病院の駐車場にいた。
駅に向かう通路が見える場所に車を止める。手には小さな双眼鏡。うん。怪しい人物なのは間違いない。だけど、夜間でも救急診療をしている病院はそれなりに出入りがあるのだ。響子さんを見落とさないように、人が通るたびに双眼鏡を覗く。
タイムリミットは二十二時。明日も仕事だ。その時間まで待って会えなければ諦めて帰ることに決めていた。
そして、そのリミットより遥か手前、二十時前、響子さんが病院から出てくるのが見えた。
響子さんはとても疲れた顔をしていた。唇を引き結んで、うつむき加減で足を引きずるように歩いている。
慌てて車から下りた。だけど、できる限り慌てた様子を見せないように、ガツガツした様子も見せないように細心の注意を払う。
「響子さん、お疲れ様」
驚かせないように少し手前から声をかける。
「……なんで?」
響子さんは僕の声を聞くとゆっくりと顔を上げ、虚を突かれたような顔でぽかんと僕を見た。
「すみません。会いたくて、待ち伏せしちゃいました」
邪気のない笑顔を見せる。
疲れ切った響子さんに気付かないかのように、笑顔で接する。
何があったかは分からない。ただ、職業柄、響子さんは日常的に人の死に接しているはずだ。辛い現実を目にすることも多いだろう。心が折れそうになる日だって、疲れ切ってしまう日だって、きっとあるだろう。
そして、そんな気持ちを出会ったばかりの僕に見せるのを良しとするかは分からない。
話してすっきりするのなら、幾らでも聞く。だけど、今はまだ多分違うから。ただ側にいて、できることをしよう。
「何か食べました?」
「いえ、なにも」
……だよね。
響子さん、食べること好きなのに、食べることにこだわらないよね?
もう少し自分の身体を大切にして欲しい。だけど、多分、そこに気を使えないくらい、仕事でいっぱいいっぱいなんだろうと思うから、何も言えない。
「もう遅いので、帰りに何か食べて行きませんか?」
響子さんは少し残念そうな顔をした。
しまった! やっぱり手料理の方が良かったか!
だけど、後の祭り。本当なら作ってあげたい。でも、今からだとさすがに遅い。材料買って作ってと言うと、どれだけ急いでも一時間以上はかかってしまう。
弁当を作ることも考えないでもなかったけど、ここで十九時から待ち伏せするには、家に帰って着替えて車を取ってくるだけで精一杯だった。
「はい。じゃあ」
だけど、響子さんは頷いてくれた。ほっとする。コンビニ弁当よりは店で食べた方が良い。
本当に良かった。ごめんね。次はちゃんと何か作るから。
「ありがとうございます」
謝るのも違うだろうと笑顔でお礼を言うと、響子さんは
「いえ、それは私の台詞です」
と、恐縮したような表情を浮かべた。
「それと、すみませんでした。約束ドタキャンしてしまって」
「大丈夫ですよ。お気になさらず」
響子さんを車に案内し、助手席のドアを開ける。当然のように座ってくれるのがたまらなく嬉しかった。
「一日お疲れ様でした」
そう言いながら、用意しておいた栄養ドリンクを差し出す。
「多分、またあまり食べてないですよね? 食事前ですがよかったら」
響子さんは反射的に手を出し受け取ってくれた。
「ありがとうございます」
シートベルトを締めると、響子さんは数秒栄養ドリンクの瓶をぼんやり眺めた後、蓋を開けてまずゴクリと一口。そのまま半分くらいを一気飲みする。
良かった。好きそうだ。また買っておこう。
「何か食べたいものはありますか?」
「いえ、特に」
「じゃあ、良さそうな店を適当に」
元より響子さんが何を食べたいとリクエストするとは思っていなかった。疲れた身体には優しい味の食べやすいものがいいだろう。
本当ならこんな日こそ家庭料理が一番だと思う。残念だ。一緒に住んでいるなら、幾らでも作るし作り置きだってしておくのに。
いや、作り置きなら今でもできる? 響子さん一人で食べさせるのではなく、日持ちのする惣菜を幾つか用意しておいて、遅くなる日は僕が温めて出せば良いんじゃない? ご飯は炊飯器に時短設定があれば早い。味噌汁くらいなら十五分で作れる。
うん。次はその手も考えよう。
と言うわけだけど今日は店に行くしかない。やっぱり和食だろうと第一候補に考えていた店へと向かう。
「五分くらいで着きます。明日もあるし近場にしますね」
「はい」
響子さんはぼんやりと外を見ている。
信号で止まったときに響子さんの横顔を堪能していると、ふっとこちらを見てくれた。ニコリと笑いかけると、響子さんは焦点の合わない目をゆっくりと僕に向けてくれた。
眠いんだろうなと思っていると、すーっと目が閉じられた。
道も空いていて、あっという間に目的地に着いてしまった。
本当はもう少し寝かせておいてあげたいところだけど、それよりもさっさと夕飯を食べて家まで送る方がきっと良い。
「響子さん、響子さん。着きましたよ」
トントンと肩に手を触れる。
何度か名前を呼ぶと響子さんはゆっくりと目を開けた。
「……あ」
響子さんは何度か瞬きした後、僕の方に目を向けた。
「すみません。寝かせておいてあげたかったんですが、サッと食べて帰ってから寝た方がいいと思って」
「あ、はい。すみません。大丈夫です」
寝起きはいいらしい。響子さんはサクッと目を覚ますとふわあっと欠伸をしながらシートベルトを外す。
その間に助手席に回り込んでドアを開けた。
「居酒屋ですが、ここご飯が美味しいので」
駐車場の隣のビルに案内しながら説明をすると、
「居酒屋? ……飲まなくても大丈夫ですか?」
と驚いたような声。
「大丈夫ですよ」
と笑顔を返す。
普通は飲みに行くのが居酒屋なのだろうけど、中にはアルコールが苦手な人もいれば運転手で飲めない人もいる。居酒屋だからといって飲まなくてももちろん大丈夫だ。まあ普通は一緒に行ったグループの誰かは飲むだろうけど。
ただ、この店は本当に問題ない。学生時代の友人がやっている店なのだ。しかも、オープン当初、頼まれて僕もそれなりの額を出資している。なので、色々と無理が利く。
今日も奥の個室を押さえてもらっていた。何時に行くか分からないし、行けるかも分からなかったけど、平日だし客も少ないから大丈夫と快諾してもらったのだ。
店に入ると、響子さんは驚いたように辺りを見回した。
ん? なんかおかしなところあったかな?
でも長居する気はないし、今日のところはここで我慢してもらうとして、案内されるままに奥の部屋に入る。接待に使うほどではないけど、デートとかちょっとした小グループの会合に使いやすい小ぶりな個室。
メニューを受け取り開きながら、
「響子さん、何がいいですか?」
と聞くけど、響子さんは小首を傾げて、
「お任せでもいいですか? ……あ、好き嫌いはないです」
と言った。
表情が乏しくて心ここにあらずな様子の響子さん。
心ここにあらずと言うか、疲れてるんだよね、きっと。
「了解です。じゃあ、適当に頼みますね」
野菜、ビタミン、ミネラル、タンパク質。
大根サラダ、だし巻き卵、揚げ出し豆腐、刺身盛り合わせ。ああそうだ。響子さん、牡蠣フライ好きって言ってたっけ、と牡蠣フライも頼んでおく。
遅い時間だし、響子さんも私も大食いじゃないから、これくらいで十分だろう。
そうそう、炭水化物もいるよね。とおにぎりとお味噌汁も頼んでおいた。お酒を飲むわけじゃないのだから、ご飯ものも最初にあると良い。時短になるし。
「取りあえず、これでお願いします」
「かしこまりました。お飲み物とお通しをお持ちしますので、少々お待ちください」
店員さんが一礼して部屋を出る。
「もし、他にも食べたくなったら言ってくださいね」
メニューをしまいながら、響子さんに笑いかける。
「すみません。全部お任せで」
「全然問題ないですよ」
僕はこの店に何度も来ているし、響子さんが好きそうなものを選ばせてもらうのも楽しいのだから。
何より、響子さんにこんな風に甘えてもらえるのはとても嬉しい。少しずつ心の距離が近づいて来ている気がして。
ふと思いついて響子さんに声をかけた。
「響子さん、手出してください」
と自分の手を両方ともテーブルの上に出して、上向きに広げた。
「なんですか?」
と怪訝そうな顔をしつつ、響子さんはテーブルの上に両手を乗せてくれた。右手をそっと握り込む。
「え?」
細くて綺麗な手。だけど女性にしては大きい。……この手でどれだけ多くの人を救ってきたんだろう。
そんな想いが湧き上がると同時に、響子さんの手のひんやりした感覚が伝わってくる。
先週末は熱を出して寝込んでいた響子さん。触れた手も温かいを通り越して熱いくらいだった。だけど今は明らかに冷たい。
「寒くないです?」
「はい?」
「手、とても冷たいですよ?」
ああ、と響子さんは苦笑いを浮かべた。
「末端冷え性なんです」
それから、
「牧村さんの手、あったかいですね」
そう言って、響子さんはふわっと笑った。
そのささやかな笑顔が可愛くて、心臓がドキンと音を立てて飛び上がった気がした。
「よかったら、カイロ代わりに使ってください」
そう笑いかけた後、気がついたら響子さんの手のひらのマッサージをしていた。もっとこの手を握っていたいと思ったら無意識で。そんな自分をいい年してと思いつつ、これが本当に大切な人への感情なんだなと実感する。これまで付き合った相手には一度も感じたことのないものだったから。
ハンドマッサージなんてやってもらうことはあっても人にやるのは初めてだ。それでも、見よう見まねでそれっぽく揉んでいると響子さんの表情がみるみる緩んできた。至福、といった表情がたまらなく愛しい。
これで少しでも疲れが取れると良いのだけど、焼け石に水かな?
右手が終わり、左手も……と思ったところで、店員さんが戻ってきた。
「お待たせしました」
その声を聞きながら、名残惜しいけど響子さんの手を離した。
「突き出しの若竹煮と黒豆茶でございます。こちらに急須も置いておきますので、ご賞味ください」
「ありがとう」
響子さんは目の前に置かれたのは湯気の立つ湯飲みを見て不思議そうにする。
店員さんが一礼して出て行くと、
「……黒豆、茶?」
と湯飲みに手をつける。
「はい。飲みやすいお茶ですが、もし苦手なら違うものを頼むので言ってくださいね」
ここはお茶の種類も豊富だ。お茶だけでなく、ノンアルコールドリンクが豊富に置かれている。
お酒を飲まなくても選択肢はたくさんあるけど、響子さんのあの手の冷たさからして、温かいお茶を頼んでおいて良かったと思う。
「あ、はい。いただきます」
響子さんは両手で包み込むように湯飲みを持つと静かに口をつけた。
「……美味しい」
「それはよかった」
口に合ったようでホッとする。
「これ、ノンカフェインなんですよ」
「へえ」
「さっき、うっかり栄養ドリンクなんて渡しちゃったので、せめてお茶はカフェインレスでと思いまして」
絶対に外れがないようにするなら緑茶辺りを選べば良かったのだけど、だからわざわざこれを選んだ。
「ありがとうございます。でも、そんな繊細な質じゃないんで大丈夫ですよ」
響子さんはそう言いながら、微笑を浮かべた。
「そうですか?」
「はい。でも、これ好きなので」
響子さんは、ごくりとまた黒豆茶を飲む。
「選んでもらって嬉しいです」
にこっと僕に向けられた笑顔に思わず息をのむ。
響子さん、ダメだよ、いやダメじゃないけど、そんな笑顔見せられたら、好き過ぎて暴走しそうになる。
今は時じゃない。絶対にこんな日に僕の欲望は見せちゃダメだ。
「いただきます」
響子さんは湯呑みを置くと若竹煮にも手をつけた。
「あ、美味しい」
そう言う響子さんの目には、少しずつ光が戻ってきた。
肉体的に疲れていることには変わりないだろう。だけど、少しでも心の疲れが取れると良いな。
そう思いながら、僕は心を落ち着ける。
「いただきます」
僕も目の前の小鉢に手に取った。
その後も少しずつ運ばれてくる料理を響子さんと二人で楽しんだ。
響子さんはどの料理も「美味しい」と笑顔で食べてくれた。店屋だけあって盛り付けも美しく、味も洗練されていた。料理を楽しんでくれてお腹いっぱい食べてくれて本当に良かった。
そう本気で思っているのに、この笑顔を引き出したのが自分じゃないのが少しだけ悔しかった。今度、レシピ教えてもらおう。そんなことを心に誓う。
途中で一度、トイレに中座すると、店のオーナー(友人)が声をかけてきた。
「幹人」
「萩野? 久しぶり。元気そうだな。今日来てたの?」
「いや、幹人が珍しく個室使うって言うのを聞いたから、オーナーとしては出資者様にご挨拶の一つもしなきゃと思ってさ」
なんて言いながら、萩野は僕の肩を抱く。
こいつはオーナーで店長とかではない。この店含めて数件飲み屋を経営していて、普段から店の様子を見には来るけどよほどの人手不足でもない限り店には出ない。
「わざわざ?」
「いやー、女連れとか聞いたら気になるだろ? どうせ、すぐそこに住んでるんだから」
本心はそっちか。調子の良い言葉に笑いながら、「じゃ」と個室に戻ろうとすると、
「え、もう? それじゃ、俺も挨拶させてもらお」
と、ちゃっかりついてこようとする。
「悪いけど」
手を上げて友人を制する。
「彼女、疲れてるから」
「ええ~」
不満そうな声を出してもダメなものはダメだ。
「あ、そうだ。ちょうど良かった。支払いお願い。それと、ここって柿の葉寿司扱ってるよな? 残ってたら二人前包んどいて」
カード入れからクレジットカードを一枚抜き取り、萩野に渡す。
「人使い粗いな~」
そう言いながらも、「お預かりします」と瞬時に表情を引き締めて両手をそろえてカードを受け取る萩野。
そのギャップが笑える。
ちゃんとスーツ着てるし名札もつけてるし。僕の顔をコッソリ見に来たと言いつつ、店に足を踏み入れるからには店の一員として振る舞う。こういうヤツだから、出資しても良いと思った。会社じゃなくって個人的に。さすがにこの規模では、会社の審査は通らない。
「柿の葉寿司は二袋に分けてご用意すればよろしいでしょうか?」
とはいえ、ここまで営業に徹しなくても良いのにと思っていると、後方からやってきた客が僕の横を通り過ぎ、そちらに向けて萩野が小さく会釈をした。
なるほど、客がいたのか。
「一つで良いよ。じゃ、よろしく」
軽く手を上げ、そのまま響子さんの待つ個室へと戻った。
ドアを開けると、響子さんは頬杖をついて窓の向こうの小さな坪庭に目を向けていた。
「響子さん、お待たせしました」
声をかけると、響子さんは
「あ、じゃあ出ましょうか」
と隣の椅子に置いた鞄に手を伸ばした。
「そうぞ」
響子さんの後ろに回って椅子を引くと驚いたように見上げられた。それでも何も言わずに響子さんはスッと立ち上がる。
更に入り口で用意された伝票にサインをすると、自分が出そうと思っていたらしい響子さんは、
「払うのに」
と困っていた。
「前にも言いましたが、響子さんの心を射止めるためにやってるんで、安心して餌付けされてください」
耳元でささやくと、響子さんは数秒の間の後、
「ご馳走様でした。美味しかったです」
と言った。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
萩野が頭を下げ、「ご依頼の品です」と柿の葉寿司の入った紙袋を渡してくれた。
渡しながら小声で、
「今度紹介しろよ」
と言われたけど、聞こえないふりをした。
そう言う話は響子さんがいないところで。そして、響子さんとのお付き合いが確定してからだ。
帰りの車でも響子さんは乗って数分で眠ってしまった。
店から響子さんのアパートまでは近道をすれば二十分足らず。この時間なら大通りで行けば三十分弱。少しでも長く一緒にいたくて遠回りをしたい誘惑に駆られるが、響子さんを早く家に帰すのを優先する。車で寝たって大して疲れは取れない。
「響子さん、響子さん。着きましたよ」
アパート前の道路に車を止めて、響子さんを起こす。街灯に照らされた響子さんは気持ちよさそうにスヤスヤ眠っていた。
僕の声に響子さんはとろんとした眠そうな目を開けて、僕を見つけると、
「……おはようございます」
と寝ぼけた声でそう言った。
あまりの可愛さに心臓を鷲掴みにされた。そのままキスしたい気持ちを無理矢理押し込めて、
「おはようございます」
と、笑顔を見せる。キスする代わりに頭をなでさせてもらう。そのまま顔を寄せたくなるのを必死で抑える。
「すみません。寝ちゃいました」
響子さんは目を数度瞬かせてた。
ああダメだ、可愛すぎてダメだ。なんで僕たちは一緒に住んでいないんだろう?
そうだ。響子さんの心を射止めるんだ。すべては響子さんに気に入ってもらって、正式にお付き合いをしてからだ。そのためには無理強い厳禁。強引なのも絶対に禁止。
渾身の力で無害な笑顔を浮かべる。
「大丈夫ですよ。お疲れなのは分かってますし。帰ったら早く寝てくださいね」
響子さんがふわあっとあくびをする。思わずフラッと抱きしめそうになり、慌ててシートベルトを外すことで誤魔化した。
ダメだ。早く車を出よう。
運転席から出て助手席に回った。ふうーっと深く深呼吸をしてから助手席のドアを開ける。
未だ眠そうな響子さんの鞄を持たせてもらい、柔らかな手を取り、家の前まで送らせてもらう。
「おやすみなさい」
中に入りたい、もっと一緒にいたい気持ちを閉じ込めて、響子さんをそっと抱きしめた。
それだけでは我慢できず、形の良い頭も撫でさせていただく。響子さんの髪の毛は今日もサラサラと僕の指の間からこぼれ落ちる。
「……おやすみなさい」
腕の中の響子さんが小さな声でそう言った。
もうお別れの時間。寂しさのあまり、抱きしめる腕に力が入る。
いつまでも抱き締めておきたい、この腕に閉じ込めたいと言う想いを断ち切るように身体を離した。
僕を見上げた響子さんの表情が寂しそうだと感じたのが、僕の勘違いじゃないといいのに。
「どうぞ」
と鞄を渡す。
それから、店で頼んだ柿の葉寿司の入った紙袋も差し出す。
「これ、明日食べてください」
「え?」
「三日くらいは大丈夫なので、病院で。柿の葉寿司なんですが」
今日の午後の作り立てなのを確認済みだ。
さすがに三日経ったら味も落ちるだろうから、明日の朝と昼とか、そんな感じで食べてもらえるといいなと思う。
「柿の葉寿司?」
「はい。今日行ったお店で取り扱ってるので。……苦手じゃないですよね?」
本当に好き嫌いはなさそうだし確認せずに頼んでしまったけど、もしかして好きじゃなかったかな? と心配になる間もなく響子さんは、
「大丈夫。好きです」
と答えてくれた。だけど少し自信がなさそう。そんなに食べたことがないのだろう。
でも、嫌いとか苦手とかいう気持ちがないなら大丈夫。ここの柿の葉寿司は本当に美味しいから、きっと気に入ってくれる。
そう思っていると、響子さんの頬がふっと緩んだ。
「いつも、色々とありがとうございます」
ふわっと優しい笑顔を浮かべた響子さんがあまりに愛しくて、思わずまたギュッと抱きしめてしまった。
「すみません。……つい」
抱きしめたまま、響子さんの耳元で囁くように言った。
「響子さん、大好きです」
気がつくと、響子さんの腕が僕の背中に回っていた。
少しずつ近くなっていく距離。響子さんのぬくもりと幸福感で身体が満たされていく。
ああ幸せだ。ずっとこうしていたい。このままずっと響子さんのぬくもりを感じていたい。
もう今日は響子さんちに泊めてもらうとか、……いやダメだ、多分まだダメだ、多分て言うか絶対ダメだ。落ち着け自分。警戒されたら台無しだ。急がば回れだろ!?
冷静になろう冷静になろうとしているのに、まったく心が落ち着かず響子さんを離せずにいたら、響子さんの腕が僕の背中から離され、そうして僕の身体をそっと押した。
その仕草にようやく理性が戻ってくる。
「おやすみなさい」
響子さんに言われて、離れがたい気持ちに蓋をして渾身の笑みを浮かべた。
……今日の響子さんの眠りが健やかなものでありますように。
「おやすみなさい。いい夢を」
駅に向かう通路が見える場所に車を止める。手には小さな双眼鏡。うん。怪しい人物なのは間違いない。だけど、夜間でも救急診療をしている病院はそれなりに出入りがあるのだ。響子さんを見落とさないように、人が通るたびに双眼鏡を覗く。
タイムリミットは二十二時。明日も仕事だ。その時間まで待って会えなければ諦めて帰ることに決めていた。
そして、そのリミットより遥か手前、二十時前、響子さんが病院から出てくるのが見えた。
響子さんはとても疲れた顔をしていた。唇を引き結んで、うつむき加減で足を引きずるように歩いている。
慌てて車から下りた。だけど、できる限り慌てた様子を見せないように、ガツガツした様子も見せないように細心の注意を払う。
「響子さん、お疲れ様」
驚かせないように少し手前から声をかける。
「……なんで?」
響子さんは僕の声を聞くとゆっくりと顔を上げ、虚を突かれたような顔でぽかんと僕を見た。
「すみません。会いたくて、待ち伏せしちゃいました」
邪気のない笑顔を見せる。
疲れ切った響子さんに気付かないかのように、笑顔で接する。
何があったかは分からない。ただ、職業柄、響子さんは日常的に人の死に接しているはずだ。辛い現実を目にすることも多いだろう。心が折れそうになる日だって、疲れ切ってしまう日だって、きっとあるだろう。
そして、そんな気持ちを出会ったばかりの僕に見せるのを良しとするかは分からない。
話してすっきりするのなら、幾らでも聞く。だけど、今はまだ多分違うから。ただ側にいて、できることをしよう。
「何か食べました?」
「いえ、なにも」
……だよね。
響子さん、食べること好きなのに、食べることにこだわらないよね?
もう少し自分の身体を大切にして欲しい。だけど、多分、そこに気を使えないくらい、仕事でいっぱいいっぱいなんだろうと思うから、何も言えない。
「もう遅いので、帰りに何か食べて行きませんか?」
響子さんは少し残念そうな顔をした。
しまった! やっぱり手料理の方が良かったか!
だけど、後の祭り。本当なら作ってあげたい。でも、今からだとさすがに遅い。材料買って作ってと言うと、どれだけ急いでも一時間以上はかかってしまう。
弁当を作ることも考えないでもなかったけど、ここで十九時から待ち伏せするには、家に帰って着替えて車を取ってくるだけで精一杯だった。
「はい。じゃあ」
だけど、響子さんは頷いてくれた。ほっとする。コンビニ弁当よりは店で食べた方が良い。
本当に良かった。ごめんね。次はちゃんと何か作るから。
「ありがとうございます」
謝るのも違うだろうと笑顔でお礼を言うと、響子さんは
「いえ、それは私の台詞です」
と、恐縮したような表情を浮かべた。
「それと、すみませんでした。約束ドタキャンしてしまって」
「大丈夫ですよ。お気になさらず」
響子さんを車に案内し、助手席のドアを開ける。当然のように座ってくれるのがたまらなく嬉しかった。
「一日お疲れ様でした」
そう言いながら、用意しておいた栄養ドリンクを差し出す。
「多分、またあまり食べてないですよね? 食事前ですがよかったら」
響子さんは反射的に手を出し受け取ってくれた。
「ありがとうございます」
シートベルトを締めると、響子さんは数秒栄養ドリンクの瓶をぼんやり眺めた後、蓋を開けてまずゴクリと一口。そのまま半分くらいを一気飲みする。
良かった。好きそうだ。また買っておこう。
「何か食べたいものはありますか?」
「いえ、特に」
「じゃあ、良さそうな店を適当に」
元より響子さんが何を食べたいとリクエストするとは思っていなかった。疲れた身体には優しい味の食べやすいものがいいだろう。
本当ならこんな日こそ家庭料理が一番だと思う。残念だ。一緒に住んでいるなら、幾らでも作るし作り置きだってしておくのに。
いや、作り置きなら今でもできる? 響子さん一人で食べさせるのではなく、日持ちのする惣菜を幾つか用意しておいて、遅くなる日は僕が温めて出せば良いんじゃない? ご飯は炊飯器に時短設定があれば早い。味噌汁くらいなら十五分で作れる。
うん。次はその手も考えよう。
と言うわけだけど今日は店に行くしかない。やっぱり和食だろうと第一候補に考えていた店へと向かう。
「五分くらいで着きます。明日もあるし近場にしますね」
「はい」
響子さんはぼんやりと外を見ている。
信号で止まったときに響子さんの横顔を堪能していると、ふっとこちらを見てくれた。ニコリと笑いかけると、響子さんは焦点の合わない目をゆっくりと僕に向けてくれた。
眠いんだろうなと思っていると、すーっと目が閉じられた。
道も空いていて、あっという間に目的地に着いてしまった。
本当はもう少し寝かせておいてあげたいところだけど、それよりもさっさと夕飯を食べて家まで送る方がきっと良い。
「響子さん、響子さん。着きましたよ」
トントンと肩に手を触れる。
何度か名前を呼ぶと響子さんはゆっくりと目を開けた。
「……あ」
響子さんは何度か瞬きした後、僕の方に目を向けた。
「すみません。寝かせておいてあげたかったんですが、サッと食べて帰ってから寝た方がいいと思って」
「あ、はい。すみません。大丈夫です」
寝起きはいいらしい。響子さんはサクッと目を覚ますとふわあっと欠伸をしながらシートベルトを外す。
その間に助手席に回り込んでドアを開けた。
「居酒屋ですが、ここご飯が美味しいので」
駐車場の隣のビルに案内しながら説明をすると、
「居酒屋? ……飲まなくても大丈夫ですか?」
と驚いたような声。
「大丈夫ですよ」
と笑顔を返す。
普通は飲みに行くのが居酒屋なのだろうけど、中にはアルコールが苦手な人もいれば運転手で飲めない人もいる。居酒屋だからといって飲まなくてももちろん大丈夫だ。まあ普通は一緒に行ったグループの誰かは飲むだろうけど。
ただ、この店は本当に問題ない。学生時代の友人がやっている店なのだ。しかも、オープン当初、頼まれて僕もそれなりの額を出資している。なので、色々と無理が利く。
今日も奥の個室を押さえてもらっていた。何時に行くか分からないし、行けるかも分からなかったけど、平日だし客も少ないから大丈夫と快諾してもらったのだ。
店に入ると、響子さんは驚いたように辺りを見回した。
ん? なんかおかしなところあったかな?
でも長居する気はないし、今日のところはここで我慢してもらうとして、案内されるままに奥の部屋に入る。接待に使うほどではないけど、デートとかちょっとした小グループの会合に使いやすい小ぶりな個室。
メニューを受け取り開きながら、
「響子さん、何がいいですか?」
と聞くけど、響子さんは小首を傾げて、
「お任せでもいいですか? ……あ、好き嫌いはないです」
と言った。
表情が乏しくて心ここにあらずな様子の響子さん。
心ここにあらずと言うか、疲れてるんだよね、きっと。
「了解です。じゃあ、適当に頼みますね」
野菜、ビタミン、ミネラル、タンパク質。
大根サラダ、だし巻き卵、揚げ出し豆腐、刺身盛り合わせ。ああそうだ。響子さん、牡蠣フライ好きって言ってたっけ、と牡蠣フライも頼んでおく。
遅い時間だし、響子さんも私も大食いじゃないから、これくらいで十分だろう。
そうそう、炭水化物もいるよね。とおにぎりとお味噌汁も頼んでおいた。お酒を飲むわけじゃないのだから、ご飯ものも最初にあると良い。時短になるし。
「取りあえず、これでお願いします」
「かしこまりました。お飲み物とお通しをお持ちしますので、少々お待ちください」
店員さんが一礼して部屋を出る。
「もし、他にも食べたくなったら言ってくださいね」
メニューをしまいながら、響子さんに笑いかける。
「すみません。全部お任せで」
「全然問題ないですよ」
僕はこの店に何度も来ているし、響子さんが好きそうなものを選ばせてもらうのも楽しいのだから。
何より、響子さんにこんな風に甘えてもらえるのはとても嬉しい。少しずつ心の距離が近づいて来ている気がして。
ふと思いついて響子さんに声をかけた。
「響子さん、手出してください」
と自分の手を両方ともテーブルの上に出して、上向きに広げた。
「なんですか?」
と怪訝そうな顔をしつつ、響子さんはテーブルの上に両手を乗せてくれた。右手をそっと握り込む。
「え?」
細くて綺麗な手。だけど女性にしては大きい。……この手でどれだけ多くの人を救ってきたんだろう。
そんな想いが湧き上がると同時に、響子さんの手のひんやりした感覚が伝わってくる。
先週末は熱を出して寝込んでいた響子さん。触れた手も温かいを通り越して熱いくらいだった。だけど今は明らかに冷たい。
「寒くないです?」
「はい?」
「手、とても冷たいですよ?」
ああ、と響子さんは苦笑いを浮かべた。
「末端冷え性なんです」
それから、
「牧村さんの手、あったかいですね」
そう言って、響子さんはふわっと笑った。
そのささやかな笑顔が可愛くて、心臓がドキンと音を立てて飛び上がった気がした。
「よかったら、カイロ代わりに使ってください」
そう笑いかけた後、気がついたら響子さんの手のひらのマッサージをしていた。もっとこの手を握っていたいと思ったら無意識で。そんな自分をいい年してと思いつつ、これが本当に大切な人への感情なんだなと実感する。これまで付き合った相手には一度も感じたことのないものだったから。
ハンドマッサージなんてやってもらうことはあっても人にやるのは初めてだ。それでも、見よう見まねでそれっぽく揉んでいると響子さんの表情がみるみる緩んできた。至福、といった表情がたまらなく愛しい。
これで少しでも疲れが取れると良いのだけど、焼け石に水かな?
右手が終わり、左手も……と思ったところで、店員さんが戻ってきた。
「お待たせしました」
その声を聞きながら、名残惜しいけど響子さんの手を離した。
「突き出しの若竹煮と黒豆茶でございます。こちらに急須も置いておきますので、ご賞味ください」
「ありがとう」
響子さんは目の前に置かれたのは湯気の立つ湯飲みを見て不思議そうにする。
店員さんが一礼して出て行くと、
「……黒豆、茶?」
と湯飲みに手をつける。
「はい。飲みやすいお茶ですが、もし苦手なら違うものを頼むので言ってくださいね」
ここはお茶の種類も豊富だ。お茶だけでなく、ノンアルコールドリンクが豊富に置かれている。
お酒を飲まなくても選択肢はたくさんあるけど、響子さんのあの手の冷たさからして、温かいお茶を頼んでおいて良かったと思う。
「あ、はい。いただきます」
響子さんは両手で包み込むように湯飲みを持つと静かに口をつけた。
「……美味しい」
「それはよかった」
口に合ったようでホッとする。
「これ、ノンカフェインなんですよ」
「へえ」
「さっき、うっかり栄養ドリンクなんて渡しちゃったので、せめてお茶はカフェインレスでと思いまして」
絶対に外れがないようにするなら緑茶辺りを選べば良かったのだけど、だからわざわざこれを選んだ。
「ありがとうございます。でも、そんな繊細な質じゃないんで大丈夫ですよ」
響子さんはそう言いながら、微笑を浮かべた。
「そうですか?」
「はい。でも、これ好きなので」
響子さんは、ごくりとまた黒豆茶を飲む。
「選んでもらって嬉しいです」
にこっと僕に向けられた笑顔に思わず息をのむ。
響子さん、ダメだよ、いやダメじゃないけど、そんな笑顔見せられたら、好き過ぎて暴走しそうになる。
今は時じゃない。絶対にこんな日に僕の欲望は見せちゃダメだ。
「いただきます」
響子さんは湯呑みを置くと若竹煮にも手をつけた。
「あ、美味しい」
そう言う響子さんの目には、少しずつ光が戻ってきた。
肉体的に疲れていることには変わりないだろう。だけど、少しでも心の疲れが取れると良いな。
そう思いながら、僕は心を落ち着ける。
「いただきます」
僕も目の前の小鉢に手に取った。
その後も少しずつ運ばれてくる料理を響子さんと二人で楽しんだ。
響子さんはどの料理も「美味しい」と笑顔で食べてくれた。店屋だけあって盛り付けも美しく、味も洗練されていた。料理を楽しんでくれてお腹いっぱい食べてくれて本当に良かった。
そう本気で思っているのに、この笑顔を引き出したのが自分じゃないのが少しだけ悔しかった。今度、レシピ教えてもらおう。そんなことを心に誓う。
途中で一度、トイレに中座すると、店のオーナー(友人)が声をかけてきた。
「幹人」
「萩野? 久しぶり。元気そうだな。今日来てたの?」
「いや、幹人が珍しく個室使うって言うのを聞いたから、オーナーとしては出資者様にご挨拶の一つもしなきゃと思ってさ」
なんて言いながら、萩野は僕の肩を抱く。
こいつはオーナーで店長とかではない。この店含めて数件飲み屋を経営していて、普段から店の様子を見には来るけどよほどの人手不足でもない限り店には出ない。
「わざわざ?」
「いやー、女連れとか聞いたら気になるだろ? どうせ、すぐそこに住んでるんだから」
本心はそっちか。調子の良い言葉に笑いながら、「じゃ」と個室に戻ろうとすると、
「え、もう? それじゃ、俺も挨拶させてもらお」
と、ちゃっかりついてこようとする。
「悪いけど」
手を上げて友人を制する。
「彼女、疲れてるから」
「ええ~」
不満そうな声を出してもダメなものはダメだ。
「あ、そうだ。ちょうど良かった。支払いお願い。それと、ここって柿の葉寿司扱ってるよな? 残ってたら二人前包んどいて」
カード入れからクレジットカードを一枚抜き取り、萩野に渡す。
「人使い粗いな~」
そう言いながらも、「お預かりします」と瞬時に表情を引き締めて両手をそろえてカードを受け取る萩野。
そのギャップが笑える。
ちゃんとスーツ着てるし名札もつけてるし。僕の顔をコッソリ見に来たと言いつつ、店に足を踏み入れるからには店の一員として振る舞う。こういうヤツだから、出資しても良いと思った。会社じゃなくって個人的に。さすがにこの規模では、会社の審査は通らない。
「柿の葉寿司は二袋に分けてご用意すればよろしいでしょうか?」
とはいえ、ここまで営業に徹しなくても良いのにと思っていると、後方からやってきた客が僕の横を通り過ぎ、そちらに向けて萩野が小さく会釈をした。
なるほど、客がいたのか。
「一つで良いよ。じゃ、よろしく」
軽く手を上げ、そのまま響子さんの待つ個室へと戻った。
ドアを開けると、響子さんは頬杖をついて窓の向こうの小さな坪庭に目を向けていた。
「響子さん、お待たせしました」
声をかけると、響子さんは
「あ、じゃあ出ましょうか」
と隣の椅子に置いた鞄に手を伸ばした。
「そうぞ」
響子さんの後ろに回って椅子を引くと驚いたように見上げられた。それでも何も言わずに響子さんはスッと立ち上がる。
更に入り口で用意された伝票にサインをすると、自分が出そうと思っていたらしい響子さんは、
「払うのに」
と困っていた。
「前にも言いましたが、響子さんの心を射止めるためにやってるんで、安心して餌付けされてください」
耳元でささやくと、響子さんは数秒の間の後、
「ご馳走様でした。美味しかったです」
と言った。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
萩野が頭を下げ、「ご依頼の品です」と柿の葉寿司の入った紙袋を渡してくれた。
渡しながら小声で、
「今度紹介しろよ」
と言われたけど、聞こえないふりをした。
そう言う話は響子さんがいないところで。そして、響子さんとのお付き合いが確定してからだ。
帰りの車でも響子さんは乗って数分で眠ってしまった。
店から響子さんのアパートまでは近道をすれば二十分足らず。この時間なら大通りで行けば三十分弱。少しでも長く一緒にいたくて遠回りをしたい誘惑に駆られるが、響子さんを早く家に帰すのを優先する。車で寝たって大して疲れは取れない。
「響子さん、響子さん。着きましたよ」
アパート前の道路に車を止めて、響子さんを起こす。街灯に照らされた響子さんは気持ちよさそうにスヤスヤ眠っていた。
僕の声に響子さんはとろんとした眠そうな目を開けて、僕を見つけると、
「……おはようございます」
と寝ぼけた声でそう言った。
あまりの可愛さに心臓を鷲掴みにされた。そのままキスしたい気持ちを無理矢理押し込めて、
「おはようございます」
と、笑顔を見せる。キスする代わりに頭をなでさせてもらう。そのまま顔を寄せたくなるのを必死で抑える。
「すみません。寝ちゃいました」
響子さんは目を数度瞬かせてた。
ああダメだ、可愛すぎてダメだ。なんで僕たちは一緒に住んでいないんだろう?
そうだ。響子さんの心を射止めるんだ。すべては響子さんに気に入ってもらって、正式にお付き合いをしてからだ。そのためには無理強い厳禁。強引なのも絶対に禁止。
渾身の力で無害な笑顔を浮かべる。
「大丈夫ですよ。お疲れなのは分かってますし。帰ったら早く寝てくださいね」
響子さんがふわあっとあくびをする。思わずフラッと抱きしめそうになり、慌ててシートベルトを外すことで誤魔化した。
ダメだ。早く車を出よう。
運転席から出て助手席に回った。ふうーっと深く深呼吸をしてから助手席のドアを開ける。
未だ眠そうな響子さんの鞄を持たせてもらい、柔らかな手を取り、家の前まで送らせてもらう。
「おやすみなさい」
中に入りたい、もっと一緒にいたい気持ちを閉じ込めて、響子さんをそっと抱きしめた。
それだけでは我慢できず、形の良い頭も撫でさせていただく。響子さんの髪の毛は今日もサラサラと僕の指の間からこぼれ落ちる。
「……おやすみなさい」
腕の中の響子さんが小さな声でそう言った。
もうお別れの時間。寂しさのあまり、抱きしめる腕に力が入る。
いつまでも抱き締めておきたい、この腕に閉じ込めたいと言う想いを断ち切るように身体を離した。
僕を見上げた響子さんの表情が寂しそうだと感じたのが、僕の勘違いじゃないといいのに。
「どうぞ」
と鞄を渡す。
それから、店で頼んだ柿の葉寿司の入った紙袋も差し出す。
「これ、明日食べてください」
「え?」
「三日くらいは大丈夫なので、病院で。柿の葉寿司なんですが」
今日の午後の作り立てなのを確認済みだ。
さすがに三日経ったら味も落ちるだろうから、明日の朝と昼とか、そんな感じで食べてもらえるといいなと思う。
「柿の葉寿司?」
「はい。今日行ったお店で取り扱ってるので。……苦手じゃないですよね?」
本当に好き嫌いはなさそうだし確認せずに頼んでしまったけど、もしかして好きじゃなかったかな? と心配になる間もなく響子さんは、
「大丈夫。好きです」
と答えてくれた。だけど少し自信がなさそう。そんなに食べたことがないのだろう。
でも、嫌いとか苦手とかいう気持ちがないなら大丈夫。ここの柿の葉寿司は本当に美味しいから、きっと気に入ってくれる。
そう思っていると、響子さんの頬がふっと緩んだ。
「いつも、色々とありがとうございます」
ふわっと優しい笑顔を浮かべた響子さんがあまりに愛しくて、思わずまたギュッと抱きしめてしまった。
「すみません。……つい」
抱きしめたまま、響子さんの耳元で囁くように言った。
「響子さん、大好きです」
気がつくと、響子さんの腕が僕の背中に回っていた。
少しずつ近くなっていく距離。響子さんのぬくもりと幸福感で身体が満たされていく。
ああ幸せだ。ずっとこうしていたい。このままずっと響子さんのぬくもりを感じていたい。
もう今日は響子さんちに泊めてもらうとか、……いやダメだ、多分まだダメだ、多分て言うか絶対ダメだ。落ち着け自分。警戒されたら台無しだ。急がば回れだろ!?
冷静になろう冷静になろうとしているのに、まったく心が落ち着かず響子さんを離せずにいたら、響子さんの腕が僕の背中から離され、そうして僕の身体をそっと押した。
その仕草にようやく理性が戻ってくる。
「おやすみなさい」
響子さんに言われて、離れがたい気持ちに蓋をして渾身の笑みを浮かべた。
……今日の響子さんの眠りが健やかなものでありますように。
「おやすみなさい。いい夢を」
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