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「ねえ、幹人」
「はい。なんですか?」
火曜日の朝。先週までより三十分早い朝の食卓で母に声をかけられた。
できるだけ朝シフトで働きたくて、今週から出社時刻を早くしている。
「お弁当持って行くの? なら、何も自分で作らなくても言ってくれたら準備するのに」
昨夜作った煮物は朝一でタッパーに詰め込んだ。中身は煮物だけだけどサイズ的に弁当に見えなくもない。
母はきっと、それを見たのだろう。
「いえ、大丈夫です」
そもそも、弁当じゃないし自分で作るからこそ意味があるものだから。
「遠慮はいらないのよ?」
「いえ、本当に大丈夫なので」
「そう?」
お手伝いさんは通いだから、朝食は母が準備してくれている。今週から僕の頼みを快諾して準備を早めてくれただけでも十分ありがたい。
自分が何をやっているか伝えておいた方が良いのかもしれない。ただ、響子さんを手放す気は全くないけど本格的にお付き合いが始まる前に親に話す気にはなれなかった。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
「あ、そうだ。前にも言った気がしますが、来週は海外出張です。月曜日の朝のフライトで土曜日の朝帰国の予定です」
「そうだったわね。ベトナム……だったかしら?」
「ベトナムとタイです」
「そう。何か準備しておくものはある?」
「自分でするので大丈夫ですよ」
「分かったわ。もし買っておくものとかあるなら言ってね」
◇ ◇ ◇
「社長、つかぬことをお聞きしますが……」
「うん。なに?」
昼休み、わざわざ外に食べに行くのが面倒で秘書に弁当の調達を頼んでおいた。その弁当を会議机に置きながら、秘書は躊躇いがちに切り出した。
「社長に将来を誓い合った彼女ができたと聞いたのですが……」
……将来を誓い合った彼女。
将来を誓い合いたい彼女は響子さんだけど、まだ本格的なお付き合いにも至ってない。
出所は本部長かHTシステムズか?
「誰から?」
「朝一で狭山本部長から問い合わせが入りまして」
早いな。でもまあ、そうだろう。
狭山本部長は僕の腹心の部下とは言えない。狭山本部長だけじゃない。他にいる六人の本部長も僕とは少々心理的な距離がある。
祖父は跡継ぎだった伯父を亡くしたため、僕に会社を引き継ぐまで本当に長く現役で働いた。とても元気だったし、生涯現役を地で行っていたと思う。なので、会社自体は上手く回っていたし、祖父と僕の間に中継ぎの社長を入れることもなかった。
ただ、祖父は元気で八十代後半まで会長職にいたくらいだけど、そんな年まで現役でいる部下はいない。僕が社長業を引き継いだ時には、ほとんどが腹の探り合いが必要な部下ばかりだった。
と言うわけで、まあ、悪気はないのだろうがこんな感じで何かあると細やかにチェックが入る。他にも、若造扱いされるのも日常茶飯事だったりする。
「将来を誓い合った……ねぇ」
どうしたものか。
両親にも話していないけど、成り行きで真鍋さんには話してしまっている。
やっぱり、昨日はまだ我慢するべきだったか? ……いや、それでは僕の心が持たない。
うん。言っておこう。さすがに秘書に隠し続けるのはやめた方が良い。彼には知っておいてもらった方が良い。
「……そう。将来を誓い合いたくて全力でアプローチ中の彼女がいてね」
「え?」
秘書の動作が止まる。そんなに意外?
「そんなお方が……いつの間に?」
「うん。先週の金曜日」
「は? ……え? 四日前の金曜日、ですか?」
多分、彼は僕の金曜日のスケジュールを思い起こしている。
「取引先の人とかじゃないよ。偶然出会った女の人」
響子さんとの出会いを思い浮かべると自然と笑顔があふれ出す。
僕はまたしても緩みきった笑顔になっていたらしい。
「……そう言えば、人生で一番幸せ、とおっしゃってましたっけ」
ああ、そんなことを言った気もする。
「どんなお方か伺っても宜しいですか?」
「んー。まだダメ」
「まだダメ、ですか」
「アプローチ中なんだ。変に情報が漏れて、彼女にプレッシャーをかけたくないから」
「えーっと、そのお方は社長とお付き合いしたくないと?」
秘書は怪訝そうな顔をする。
「一応、OKもらったんだけど、まだ将来を誓い合うまでは行けてないから」
「……欲がない方なんですね」
「そうだね。究極に自立した人かな。僕の肩書きなんて邪魔くさいだけかも」
そう言って笑うと、秘書はそんな人がいるのかとでも言いたげに眉をしかめた。
◇ ◇ ◇
二日ぶりの響子さんの家。
呼び鈴を何度か慣らすと、ようやく響子さんが出てきてくれた。
「こんばんは。すみません。寝てましたよね?」
寝ぼけまなこの響子さん。可愛いじゃないか。ごめんね、起こしちゃって。
「こん…ばんは」
響子さんは挨拶の途中であくびを噛み殺す。
「二日ぶりですね。会いたかったです」
たまらず思わず玄関先で抱きしめてしまう。
響子さんのぬくもりにうっとりする。けど、抵抗される前に抱きしめた腕をほどく。強引にして嫌われるのは最悪だ。ただでさえ来週は会えないのだから、今は大人しくするのが吉のはず。
僕の腕から解放されても、まだぼんやりしている響子さん。
「大丈夫ですか?」
と顔を覗き込むと、
「大丈夫、です」
と、また、ふああぁっと大きなあくび。
「すみません。今起きたとこで頭が働いてなくて」
まったく問題ないです。眠そうに目をこする姿がまた超絶可愛いと思ってます。
って言ったら、引かれるかな?
「起こしちゃってすみませんでした」
「大丈夫ですよ。多分、寝過ぎなんで。……えーっと、今、何時でしょう?」
「七時前くらいです」
急いできたけど、やっぱりそんな時間になってしまった。
途中で買い出しもしてきたし、仕方ない。
「あ……どうぞ」
響子さんが構えることなく当然のように中に通してくれる。
そんな変化がたまらなく嬉しかった。
「お邪魔します」
中に入りながら、
「疲れは取れました?」
と聞くと、響子さんは「どうだろう?」とつぶやき、首をぐるりと回した。
そのまま「んーっ」と両手を挙げて全身で伸びをする。
ホント可愛い過ぎだろ。
「お茶でも飲みますか? コーヒーのが良いですか?」
家にやってきた客の台詞じゃないな、これ。と思いながらもそう言うと、響子さんは
「あ、コーヒー飲みたい! ……デス」
とって付けた丁寧語で答えてくれた。
「タメ口で大丈夫ですよ」
「そう言うわけには」
「むしろ、気安く話して欲しいのですが」
その方が可愛いし、嬉しいんだけど。
「んー、それは、またいずれ」
いずれっていつ?
敬語だけじゃなく、本当は名字じゃなく名前で呼んで欲しいし。
二週間くらいで「幹人」って呼んでもらえる距離感まで行きたいな。どうだろう。厳しいだろうか? あー、来週の出張が憎い。なんで、あれOKしちゃったんだろう。いや、仕事だ仕事。ただ、時期が悪かっただけで……。一ヶ月前ならまったく問題なかったのに。
炊飯器のスイッチを入れ、野菜を切り、肉を切りしていると、視線を感じた。響子さんがコーヒーカップ片手にベッドにもたれながらこちらを見ていた。
「お待たせしてすみません。お腹空きました?」
そう聞くと、響子さんはお腹に手を当てた。そのまま小首を傾げて返事がない。
お腹が空いているのか空いていないのか? まだ眠いのかな?
お腹が空いているのを恥ずかしくて言えないというタイプではないと思うけど、せっかく持ってきたし先に出しておくかな。
持参した小鉢に、昨夜作った煮物を盛り付ける。
「急いで作るので、これでも食べて待っててください」
まだ考え込んでいた響子さんのところに持って行くと、
「え、もう作ったんですか!?」
と急に我に返ったように目を丸くして煮物を凝視する。
「まさか。さすがに、この時間から煮物までは厳しいと思って、昨日の夜煮込んでおきました」
笑いながらお箸を渡すと、響子さんは素直に受け取り、「いただきます」と手を合わせた。
早速、煮物に箸を付けてくれる。隣でずっと見ていたかったけど、そうはいかない。横目で響子さんを見つつ、キッチンに戻る。
「あ、美味しい」
そんな声が聞こえて来て嬉しくなる。
「ありがとうございます」
そう言うと、響子さんはニコニコ笑いながら、また煮物を口に入れた。
それから約三十分。親子丼とお味噌汁も完成した。急いで作った割には美味しそうにできたと思う。
親子丼は一時期はまったことがある。食べる方じゃなくて作る方。この半熟とろとろ感を出せるようになるまで、少しかかった。久しぶりに作ったけど、身体が覚えていてホント助かった。
お盆に乗せて二人分をテーブルまで運ぶ。今日は食器も全部持参した。もちろん、オフィスにまで持って行ったのは冷蔵庫に入れておきたい煮物だけで、食器類は車の中に置いておいた。
そう言えば、冷蔵庫の煮物(の入った紙袋)が何かと秘書に突っ込まれたのを思い出す。今日は「手土産」と適当にはぐらかしてきたけど、これも言っておいた方が良いのだろうか? いや、手土産には変わりないから別にいいか。僕が手料理を貢いでると言っても、代わりに買い出しを頼める訳でもないのだから。
「手抜きですみません」
と言いながら、丼、お椀と並べていると響子さんは勢い込んで
「とんでもないです!」
と目を輝かせてくれる。
良かった。今日の料理も合格点かな。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます!」
響子さんは最初に親子丼に手を伸ばす。一口食べて、いかにも幸せと言った感じで笑顔が溢れ出る。次に味噌汁のお椀を持って、また一口。こっちでも幸せそうに目を細めた。
「美味しいです!」
「それは良かった」
満面の笑顔が本当に可愛い。作った甲斐があると言うものだ。
ああ、そうか。お料理上手の専業主婦の皆さんは、きっと家族のこの笑顔が見たくて、この笑顔に魅せられて更に料理の腕を磨くのだろうな。
僕は専業主婦でもないし、これまでは完全に自分のためだけに料理をしていたけど、こんな笑顔が見られるなら、もっと色んなものを食べさせたくなるしバリエーションも増やしたくなる。
「いただきます」
自分も手を合わせて食べ始めた。うん。美味しい。
かつて自分のために作って一人で食べていた時の何倍も美味しかった。初めてこの味、この半熟とろとろ感を出せた時の達成感でいっぱいの一皿より美味しいのは、隣に響子さんがいるからに違いない。
「ご馳走様でした。すごく美味しかったです」
結構な勢いで食べ終わると、響子さんは手を合わせた。
「お粗末様でした」
と言うと、
「……絶対にお粗末じゃないと思います」
と、響子さんが言うものだから思わず笑った。
「うーん。定型文での受け答えだし、困りましたね」
「まあ、そうなんですけど」
「僕もなかなか美味しくできたと思ってますよ?」
「ですよね?」
お互いに顔を見合わせてクスクス笑い合う。
料理を始めた頃にはニュース番組だったものが、気がつくとバラエティに変わっていた。
「牧村さんはテレビとか見るんですか?」
響子さんに聞かれて、思わず、僕に少しは興味を持ってくれたのかなと嬉しくなる。
でも、そんな顔を見せるのもどうかと思い、真顔で返事をする。
「ニュース番組とか特集くらいですかね? 新聞は読みますがテレビは見ない方です。響子さんは?」
「私もほぼ見ないです。すみません。新聞もろくに読まないです」
多分、そんな時間あったら寝てるよね、忙しそうだし。若い頃の父もそうだったなと思い、
「でも、論文や専門誌は読む?」
と言ってみると、
「それは、もちろんです」
と真顔で帰ってきた。
だよね。響子さん、すごく真面目そうだもん。
「勉強熱心ですね」
悪気はなかったのだけど、響子さんはその言葉に引っかかったらしい。
「……勉強しない医者に診て欲しいですか?」
声が固い。さっきまで和やかな雰囲気だったのに。ごめんね。気分を害しちゃったかな。
どうしようかな? うん。流させてもらおう。他意はないのだから。
「ただ、響子さんは素敵なお医者さんだなと思っただけですよ?」
と微笑みかけると、響子さんは毒気を抜かれみたいにふっと肩の力を抜いた。
そのまま何やら考え込んでいるようで動作が止まる。こうしていると整った綺麗な顔をしているせいか、少々キツく見える。仕事中はどっちの顔をしているのだろう? 患者さんには優しい笑顔を見せるのか、それとも少し近寄りがたい感じなのか?
「響子さん?」
「……あ、すみません」
あまりに長い時間考え込んでいたので、声をかけてみると、響子さんは目を何度か瞬かせた。
そのまま、眉間をぐりぐり押している。疲れが取れていないのかな?
思わず、その形の良い頭に手を伸ばす。髪の毛サラサラ……そう思いながら、なでていると、
「牧村さんは今日、仕事忙しかったですか?」
と、ようやくいつもの表情に戻った響子さんに聞かれた。
何気ない言葉だけど心がほっこり温まる。好きな人が自分に興味を持ってくれるのって、本当に嬉しい。
「今日、ですか? そうですねー、いつも通りです。会議を三本、来客が二組、後は書類を読んだり決裁したり」
……だったよな?
外出がなかった分、今日は楽だった。
「……忙しそうですね」
「そうでもないですよ?」
ただ、持ち込まれる案件が色々多方面に渡り過ぎて、気を抜くと自分が何をやっているのか分からなくなってくる。
「響子さん、今日は……」
「寝てました」
即答に思わず笑う。ホント、可愛い。
当然だけど帰宅して寝る前までは、色々やっていたのだろう。病院で夜中にしっかり眠れていたのなら、昼間にこんな寝ていないだろうし。
数日おきに昼夜逆転の生活。休みの日も何かあったら呼び出しが来る。本当に大変だろうなと思う。
「そうだ。明日のご予定は?」
「明日は普通に日勤予定です」
「また、来ても良いですか?」
明日は国内出張だ。けど、十五時には現地を出られるのでオフィスには戻らず、直帰して響子さんのところに来たい。
「はい。……と言うか、こんなに毎日、大丈夫ですか?」
「それは、もちろん」
明日の約束も取り付けられ、満面の笑みでそう答えると、響子さんは、
「なら良いんですが」
と小首を傾げた。
話が一段落したところで食器を片付けようとすると、響子さんも立ち上がり、
「お皿くらい洗います」
と言う。
「大丈夫ですよ」
反射的に答えてから、思い直す。
「……でも、もし良かったら洗ったものを拭いてもらえますか?」
気なんて遣わなくても良いと思う。だけど、せっかくの申し出だし、一緒に後片付けをするとか最高に楽しそうだ。
笑いかけると、響子さんもにこっと笑って頷いてくれた。
二人分の食器を洗い、響子さんに手渡していく。それを響子さんが布巾で拭いて積んでいく。
二人分の食器! 新婚さん? ああ、早く本当にそうなりたな。
「響子さん、これ、ここに置いていっても大丈夫ですか?」
今日の食器は普段家で使っているものではない。もらい物が積み上がっている蔵に行って取ってきた。ここに置いていっても支障はない。いや、むしろ置かせて欲しい。
「良いですよ。どっか入りそうなところあったかな?」
「引き出しを少し整理すれば入ると思いますので、じゃあ、入れておきますね」
この家には必要最低限のものしかない。キッチンも例外ではなく、小さな引き出しに入っていたのはお玉、しゃもじ、菜箸くらい。それを端に寄せれば、二人分の食器くらいは難なく入る。
「お願いします」
そう言いながら、響子さんが炊飯器の蓋を開けて中身を確認した。それから、味噌汁の入った鍋の蓋を開けて覗き込んだまま手が止まる。
その表情は決して明るいものではなく、やけに寂しそうで……。
気づいた瞬間、浮かれた気持ちが一気に引き締まる。
「響子さん?」
何が気になっている?
ごめん、響子さん、何か嫌だよね、今。
どこに問題がある?
味じゃない。さっきは本当に美味しそうに食べていた。
多分、面倒くさいから嫌とか、そんなんでもない。この表情はそんなお気楽なものではない。
「……牧村さん」
「はい」
「えっとですね」
響子さんはなにかを言おうと僕の顔を見上げる。だけど、そのまま言いよどんで視線が下がる。
ダメだ。ごめん。どう聞いて良いのか分からない。それに、何が響子さんの顔を曇らせたのか見当が付かない。見当は付かないけど、とにかく僕には何を言っても良いのだと、どうすれば伝わるのだろう?
そう思った瞬間、響子さんを抱きしめていた。
「嫌なことは嫌って言って良いんですよ?」
頭をなで、背中をゆっくりとさする。
自分がなぜこんな行動に出たのか分からない。だけど、これは正解だったらしい。
「……一人で、ご飯食べるの、嫌なんです」
しばらくの沈黙の後、響子さんはぽつりとそう言った。とても心細そうな、今にも泣き出しそうな声で。
その言葉でようやく気づいた。ご両親を亡くした後、家庭料理を食べたことがなかったと言った響子さん。美味しそうに食べてくれたから気づけなかった。一人で食べる食事の寂しさに……。
後悔で胸が締め付けられる。
「そうでしたか。ごめんなさい。じゃあ、この前も」
本当に申し訳ないことをした。いや、可哀想なことをした。
もっとしっかり考えて行動しなくてはいけなかった。
「あ、いえ、美味しかったです!」
慌てて顔を上げると響子さんはそう言ってくれるけど、そうじゃない。問題はそこじゃなくて。
「ありがとうございます。でも美味しいのと、一人で食べるのが嫌なのとは違う話ですよ?」
「……まあ、そうですが」
「病院で食べるのなら大丈夫ですか?」
「はい。朝はほとんどそうしてます」
そうだよね。
実は冷蔵庫にあった牛乳とパンも予想通り賞味期限が切れていたので、コッソリ処分させてもらった。
いや、今大切なのはそれじゃない。
考えろ、自分。響子さんに気を遣わせず、今あるものをどう片付けるか? 最悪、ご飯は冷凍、味噌汁は冷蔵庫に入れておくと言うのもあるけど、それは悪手だろう。
「そうだな……じゃあ、おにぎり作るので持って行きます?」
「え?」
「ただのおにぎりだと、さすがに味が落ちる気がするので、焼きおにぎりとか」
「え、焼きおにぎり?」
「嫌いじゃなければ」
笑顔でそう言うと、響子さんは小首を傾げて
「好きだと思います」
と言ってくれた。
はっきり好きと言わなかったのは、多分、家で食べる習慣がなかっただけだろう。上々だ。
「じゃ、すぐ作るので待っててくださいね」
「え、でも……」
そんなの申し訳ない、と続けそうなのを封じ込める。
「響子さん、大丈夫です、これは餌付けなんで。一ヶ月後に正式にお付き合いしてもらえるように、頑張ってるだけだから、やらせてください」
そっと抱きしめ耳元でささやくと、響子さんはびくりと震えた後、小さな声で
「はい」
と答えてくれた。
おにぎりを握り始める僕の側を響子さんは離れなかった。そのまま、面白そうに横で見学。
ボウルにご飯を入れて合わせ調味料を入れて混ぜる。それから、おにぎりを握る。ただ、それだけなのに、響子さんは、「へえ~」とか「なるほど」とかつぶやきながら見ている。
おにぎりを握る段になると、
「牧村さん、ホント、器用ですね」
と言われた。
多分、指先の器用さでは響子さんのが上だろうと思う。けど、多分、そう言うことじゃない。響子さんだって同じこと、絶対できると思う。けど、やらないんだろうなと思うと面白かった。
フライパンで焼くところまで来ると、響子さんの目は釘付けだった。醤油の焦げる香ばしい匂いが漂う頃になると、目がうっとり和らぐ。
「今、食べてしまいましょうか?」
思わず提案すると、
「はい!」
と即答。
「焼きたてのが美味しいですしね」
そう言って、焼きおにぎり2個をお皿に乗せる。
少し迷って、お味噌汁もお椀2つによそった。量は半分くらい。おにぎりだけより夜食っぽい感じになる。夕飯食べたばっかりだけど。
「漬物も持ってくれば良かったな」
「あー、美味しそうですね~」
手渡したお皿を運びながら、響子さんはうっとりと目を細めた。
「でも、これだけで十分美味しそうです」
僕が席に着くのを待って、同時に手を合わせる。
「いただきます」
「あ、熱いので気をつけてくださいね」
「はい」
と答えたのに、響子さんはそのままほおばり、
「あつっ」
「大丈夫ですか!?」
「だいひょうぶれす」
はふはふと口を動かしながら、口に入れた焼きおにぎりを食べる響子さん。
決して小動物めいた可愛い系の容姿ではないのに、その仕草がとてつもなく愛らしい。
ダメだ。どれだけでも好きになれる。
響子さんに見とれていると、
「食べないんですか?」
と不思議そうに聞かれた。
美味しそうに食べる姿をもっと見たくて、
「半分、食べます?」
と聞いたけど、
「食べたいけど……お腹いっぱいです」
とお腹を押さえる。その、本当はもっと食べたいのだというのが見て取れる残念そうな目が、仕草がたまらない。
「また作りますね?」
「はい!」
楽しい時間はあっという間に過ぎる。
時刻は二十一時半。寂しいけど帰らなくてはいけない。
「それじゃあ、また明日。おやすみなさい」
帰り際、そう言って玄関で抱きしめる。ハグはすると言ってあるから、いいよね? て言うか、ダメと言われても今日だけで、もう何回ハグしたか。
本当はキスしたい。唇がダメならほっぺにでもおでこにでもいいから、もっと触れたいと思う。ただ、まだ早いかなと思って自重する。
なのに、ハグをして数秒後、なんと響子さんが僕を抱きしめ返してくれた! あまりのことに、理性がぶっ飛びそうになる。
響子さん、ありがとう! ねえ、少しは僕のこと恋人として認めてくれた?
本当に嬉しい。嬉しすぎて逆にマズイ。
ここで自分を見失ったら、これまでの努力が水の泡になるかも知れない。ダメだ、頑張れ、自分。
「おやすみなさい」
落ち着いた響子さんの声を聞き、ゆっくりと理性が戻ってくる。
キスしたい欲求を、押し倒したい欲求を全力で閉じ込めて、これくらいは許してと響子さんの頭をなでさせて頂いた。
響子さん、大好きです。
心の中でつぶやいて、それから名残惜しすぎると思いながら腕の中の響子さんを解放した。
「はい。なんですか?」
火曜日の朝。先週までより三十分早い朝の食卓で母に声をかけられた。
できるだけ朝シフトで働きたくて、今週から出社時刻を早くしている。
「お弁当持って行くの? なら、何も自分で作らなくても言ってくれたら準備するのに」
昨夜作った煮物は朝一でタッパーに詰め込んだ。中身は煮物だけだけどサイズ的に弁当に見えなくもない。
母はきっと、それを見たのだろう。
「いえ、大丈夫です」
そもそも、弁当じゃないし自分で作るからこそ意味があるものだから。
「遠慮はいらないのよ?」
「いえ、本当に大丈夫なので」
「そう?」
お手伝いさんは通いだから、朝食は母が準備してくれている。今週から僕の頼みを快諾して準備を早めてくれただけでも十分ありがたい。
自分が何をやっているか伝えておいた方が良いのかもしれない。ただ、響子さんを手放す気は全くないけど本格的にお付き合いが始まる前に親に話す気にはなれなかった。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
「あ、そうだ。前にも言った気がしますが、来週は海外出張です。月曜日の朝のフライトで土曜日の朝帰国の予定です」
「そうだったわね。ベトナム……だったかしら?」
「ベトナムとタイです」
「そう。何か準備しておくものはある?」
「自分でするので大丈夫ですよ」
「分かったわ。もし買っておくものとかあるなら言ってね」
◇ ◇ ◇
「社長、つかぬことをお聞きしますが……」
「うん。なに?」
昼休み、わざわざ外に食べに行くのが面倒で秘書に弁当の調達を頼んでおいた。その弁当を会議机に置きながら、秘書は躊躇いがちに切り出した。
「社長に将来を誓い合った彼女ができたと聞いたのですが……」
……将来を誓い合った彼女。
将来を誓い合いたい彼女は響子さんだけど、まだ本格的なお付き合いにも至ってない。
出所は本部長かHTシステムズか?
「誰から?」
「朝一で狭山本部長から問い合わせが入りまして」
早いな。でもまあ、そうだろう。
狭山本部長は僕の腹心の部下とは言えない。狭山本部長だけじゃない。他にいる六人の本部長も僕とは少々心理的な距離がある。
祖父は跡継ぎだった伯父を亡くしたため、僕に会社を引き継ぐまで本当に長く現役で働いた。とても元気だったし、生涯現役を地で行っていたと思う。なので、会社自体は上手く回っていたし、祖父と僕の間に中継ぎの社長を入れることもなかった。
ただ、祖父は元気で八十代後半まで会長職にいたくらいだけど、そんな年まで現役でいる部下はいない。僕が社長業を引き継いだ時には、ほとんどが腹の探り合いが必要な部下ばかりだった。
と言うわけで、まあ、悪気はないのだろうがこんな感じで何かあると細やかにチェックが入る。他にも、若造扱いされるのも日常茶飯事だったりする。
「将来を誓い合った……ねぇ」
どうしたものか。
両親にも話していないけど、成り行きで真鍋さんには話してしまっている。
やっぱり、昨日はまだ我慢するべきだったか? ……いや、それでは僕の心が持たない。
うん。言っておこう。さすがに秘書に隠し続けるのはやめた方が良い。彼には知っておいてもらった方が良い。
「……そう。将来を誓い合いたくて全力でアプローチ中の彼女がいてね」
「え?」
秘書の動作が止まる。そんなに意外?
「そんなお方が……いつの間に?」
「うん。先週の金曜日」
「は? ……え? 四日前の金曜日、ですか?」
多分、彼は僕の金曜日のスケジュールを思い起こしている。
「取引先の人とかじゃないよ。偶然出会った女の人」
響子さんとの出会いを思い浮かべると自然と笑顔があふれ出す。
僕はまたしても緩みきった笑顔になっていたらしい。
「……そう言えば、人生で一番幸せ、とおっしゃってましたっけ」
ああ、そんなことを言った気もする。
「どんなお方か伺っても宜しいですか?」
「んー。まだダメ」
「まだダメ、ですか」
「アプローチ中なんだ。変に情報が漏れて、彼女にプレッシャーをかけたくないから」
「えーっと、そのお方は社長とお付き合いしたくないと?」
秘書は怪訝そうな顔をする。
「一応、OKもらったんだけど、まだ将来を誓い合うまでは行けてないから」
「……欲がない方なんですね」
「そうだね。究極に自立した人かな。僕の肩書きなんて邪魔くさいだけかも」
そう言って笑うと、秘書はそんな人がいるのかとでも言いたげに眉をしかめた。
◇ ◇ ◇
二日ぶりの響子さんの家。
呼び鈴を何度か慣らすと、ようやく響子さんが出てきてくれた。
「こんばんは。すみません。寝てましたよね?」
寝ぼけまなこの響子さん。可愛いじゃないか。ごめんね、起こしちゃって。
「こん…ばんは」
響子さんは挨拶の途中であくびを噛み殺す。
「二日ぶりですね。会いたかったです」
たまらず思わず玄関先で抱きしめてしまう。
響子さんのぬくもりにうっとりする。けど、抵抗される前に抱きしめた腕をほどく。強引にして嫌われるのは最悪だ。ただでさえ来週は会えないのだから、今は大人しくするのが吉のはず。
僕の腕から解放されても、まだぼんやりしている響子さん。
「大丈夫ですか?」
と顔を覗き込むと、
「大丈夫、です」
と、また、ふああぁっと大きなあくび。
「すみません。今起きたとこで頭が働いてなくて」
まったく問題ないです。眠そうに目をこする姿がまた超絶可愛いと思ってます。
って言ったら、引かれるかな?
「起こしちゃってすみませんでした」
「大丈夫ですよ。多分、寝過ぎなんで。……えーっと、今、何時でしょう?」
「七時前くらいです」
急いできたけど、やっぱりそんな時間になってしまった。
途中で買い出しもしてきたし、仕方ない。
「あ……どうぞ」
響子さんが構えることなく当然のように中に通してくれる。
そんな変化がたまらなく嬉しかった。
「お邪魔します」
中に入りながら、
「疲れは取れました?」
と聞くと、響子さんは「どうだろう?」とつぶやき、首をぐるりと回した。
そのまま「んーっ」と両手を挙げて全身で伸びをする。
ホント可愛い過ぎだろ。
「お茶でも飲みますか? コーヒーのが良いですか?」
家にやってきた客の台詞じゃないな、これ。と思いながらもそう言うと、響子さんは
「あ、コーヒー飲みたい! ……デス」
とって付けた丁寧語で答えてくれた。
「タメ口で大丈夫ですよ」
「そう言うわけには」
「むしろ、気安く話して欲しいのですが」
その方が可愛いし、嬉しいんだけど。
「んー、それは、またいずれ」
いずれっていつ?
敬語だけじゃなく、本当は名字じゃなく名前で呼んで欲しいし。
二週間くらいで「幹人」って呼んでもらえる距離感まで行きたいな。どうだろう。厳しいだろうか? あー、来週の出張が憎い。なんで、あれOKしちゃったんだろう。いや、仕事だ仕事。ただ、時期が悪かっただけで……。一ヶ月前ならまったく問題なかったのに。
炊飯器のスイッチを入れ、野菜を切り、肉を切りしていると、視線を感じた。響子さんがコーヒーカップ片手にベッドにもたれながらこちらを見ていた。
「お待たせしてすみません。お腹空きました?」
そう聞くと、響子さんはお腹に手を当てた。そのまま小首を傾げて返事がない。
お腹が空いているのか空いていないのか? まだ眠いのかな?
お腹が空いているのを恥ずかしくて言えないというタイプではないと思うけど、せっかく持ってきたし先に出しておくかな。
持参した小鉢に、昨夜作った煮物を盛り付ける。
「急いで作るので、これでも食べて待っててください」
まだ考え込んでいた響子さんのところに持って行くと、
「え、もう作ったんですか!?」
と急に我に返ったように目を丸くして煮物を凝視する。
「まさか。さすがに、この時間から煮物までは厳しいと思って、昨日の夜煮込んでおきました」
笑いながらお箸を渡すと、響子さんは素直に受け取り、「いただきます」と手を合わせた。
早速、煮物に箸を付けてくれる。隣でずっと見ていたかったけど、そうはいかない。横目で響子さんを見つつ、キッチンに戻る。
「あ、美味しい」
そんな声が聞こえて来て嬉しくなる。
「ありがとうございます」
そう言うと、響子さんはニコニコ笑いながら、また煮物を口に入れた。
それから約三十分。親子丼とお味噌汁も完成した。急いで作った割には美味しそうにできたと思う。
親子丼は一時期はまったことがある。食べる方じゃなくて作る方。この半熟とろとろ感を出せるようになるまで、少しかかった。久しぶりに作ったけど、身体が覚えていてホント助かった。
お盆に乗せて二人分をテーブルまで運ぶ。今日は食器も全部持参した。もちろん、オフィスにまで持って行ったのは冷蔵庫に入れておきたい煮物だけで、食器類は車の中に置いておいた。
そう言えば、冷蔵庫の煮物(の入った紙袋)が何かと秘書に突っ込まれたのを思い出す。今日は「手土産」と適当にはぐらかしてきたけど、これも言っておいた方が良いのだろうか? いや、手土産には変わりないから別にいいか。僕が手料理を貢いでると言っても、代わりに買い出しを頼める訳でもないのだから。
「手抜きですみません」
と言いながら、丼、お椀と並べていると響子さんは勢い込んで
「とんでもないです!」
と目を輝かせてくれる。
良かった。今日の料理も合格点かな。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます!」
響子さんは最初に親子丼に手を伸ばす。一口食べて、いかにも幸せと言った感じで笑顔が溢れ出る。次に味噌汁のお椀を持って、また一口。こっちでも幸せそうに目を細めた。
「美味しいです!」
「それは良かった」
満面の笑顔が本当に可愛い。作った甲斐があると言うものだ。
ああ、そうか。お料理上手の専業主婦の皆さんは、きっと家族のこの笑顔が見たくて、この笑顔に魅せられて更に料理の腕を磨くのだろうな。
僕は専業主婦でもないし、これまでは完全に自分のためだけに料理をしていたけど、こんな笑顔が見られるなら、もっと色んなものを食べさせたくなるしバリエーションも増やしたくなる。
「いただきます」
自分も手を合わせて食べ始めた。うん。美味しい。
かつて自分のために作って一人で食べていた時の何倍も美味しかった。初めてこの味、この半熟とろとろ感を出せた時の達成感でいっぱいの一皿より美味しいのは、隣に響子さんがいるからに違いない。
「ご馳走様でした。すごく美味しかったです」
結構な勢いで食べ終わると、響子さんは手を合わせた。
「お粗末様でした」
と言うと、
「……絶対にお粗末じゃないと思います」
と、響子さんが言うものだから思わず笑った。
「うーん。定型文での受け答えだし、困りましたね」
「まあ、そうなんですけど」
「僕もなかなか美味しくできたと思ってますよ?」
「ですよね?」
お互いに顔を見合わせてクスクス笑い合う。
料理を始めた頃にはニュース番組だったものが、気がつくとバラエティに変わっていた。
「牧村さんはテレビとか見るんですか?」
響子さんに聞かれて、思わず、僕に少しは興味を持ってくれたのかなと嬉しくなる。
でも、そんな顔を見せるのもどうかと思い、真顔で返事をする。
「ニュース番組とか特集くらいですかね? 新聞は読みますがテレビは見ない方です。響子さんは?」
「私もほぼ見ないです。すみません。新聞もろくに読まないです」
多分、そんな時間あったら寝てるよね、忙しそうだし。若い頃の父もそうだったなと思い、
「でも、論文や専門誌は読む?」
と言ってみると、
「それは、もちろんです」
と真顔で帰ってきた。
だよね。響子さん、すごく真面目そうだもん。
「勉強熱心ですね」
悪気はなかったのだけど、響子さんはその言葉に引っかかったらしい。
「……勉強しない医者に診て欲しいですか?」
声が固い。さっきまで和やかな雰囲気だったのに。ごめんね。気分を害しちゃったかな。
どうしようかな? うん。流させてもらおう。他意はないのだから。
「ただ、響子さんは素敵なお医者さんだなと思っただけですよ?」
と微笑みかけると、響子さんは毒気を抜かれみたいにふっと肩の力を抜いた。
そのまま何やら考え込んでいるようで動作が止まる。こうしていると整った綺麗な顔をしているせいか、少々キツく見える。仕事中はどっちの顔をしているのだろう? 患者さんには優しい笑顔を見せるのか、それとも少し近寄りがたい感じなのか?
「響子さん?」
「……あ、すみません」
あまりに長い時間考え込んでいたので、声をかけてみると、響子さんは目を何度か瞬かせた。
そのまま、眉間をぐりぐり押している。疲れが取れていないのかな?
思わず、その形の良い頭に手を伸ばす。髪の毛サラサラ……そう思いながら、なでていると、
「牧村さんは今日、仕事忙しかったですか?」
と、ようやくいつもの表情に戻った響子さんに聞かれた。
何気ない言葉だけど心がほっこり温まる。好きな人が自分に興味を持ってくれるのって、本当に嬉しい。
「今日、ですか? そうですねー、いつも通りです。会議を三本、来客が二組、後は書類を読んだり決裁したり」
……だったよな?
外出がなかった分、今日は楽だった。
「……忙しそうですね」
「そうでもないですよ?」
ただ、持ち込まれる案件が色々多方面に渡り過ぎて、気を抜くと自分が何をやっているのか分からなくなってくる。
「響子さん、今日は……」
「寝てました」
即答に思わず笑う。ホント、可愛い。
当然だけど帰宅して寝る前までは、色々やっていたのだろう。病院で夜中にしっかり眠れていたのなら、昼間にこんな寝ていないだろうし。
数日おきに昼夜逆転の生活。休みの日も何かあったら呼び出しが来る。本当に大変だろうなと思う。
「そうだ。明日のご予定は?」
「明日は普通に日勤予定です」
「また、来ても良いですか?」
明日は国内出張だ。けど、十五時には現地を出られるのでオフィスには戻らず、直帰して響子さんのところに来たい。
「はい。……と言うか、こんなに毎日、大丈夫ですか?」
「それは、もちろん」
明日の約束も取り付けられ、満面の笑みでそう答えると、響子さんは、
「なら良いんですが」
と小首を傾げた。
話が一段落したところで食器を片付けようとすると、響子さんも立ち上がり、
「お皿くらい洗います」
と言う。
「大丈夫ですよ」
反射的に答えてから、思い直す。
「……でも、もし良かったら洗ったものを拭いてもらえますか?」
気なんて遣わなくても良いと思う。だけど、せっかくの申し出だし、一緒に後片付けをするとか最高に楽しそうだ。
笑いかけると、響子さんもにこっと笑って頷いてくれた。
二人分の食器を洗い、響子さんに手渡していく。それを響子さんが布巾で拭いて積んでいく。
二人分の食器! 新婚さん? ああ、早く本当にそうなりたな。
「響子さん、これ、ここに置いていっても大丈夫ですか?」
今日の食器は普段家で使っているものではない。もらい物が積み上がっている蔵に行って取ってきた。ここに置いていっても支障はない。いや、むしろ置かせて欲しい。
「良いですよ。どっか入りそうなところあったかな?」
「引き出しを少し整理すれば入ると思いますので、じゃあ、入れておきますね」
この家には必要最低限のものしかない。キッチンも例外ではなく、小さな引き出しに入っていたのはお玉、しゃもじ、菜箸くらい。それを端に寄せれば、二人分の食器くらいは難なく入る。
「お願いします」
そう言いながら、響子さんが炊飯器の蓋を開けて中身を確認した。それから、味噌汁の入った鍋の蓋を開けて覗き込んだまま手が止まる。
その表情は決して明るいものではなく、やけに寂しそうで……。
気づいた瞬間、浮かれた気持ちが一気に引き締まる。
「響子さん?」
何が気になっている?
ごめん、響子さん、何か嫌だよね、今。
どこに問題がある?
味じゃない。さっきは本当に美味しそうに食べていた。
多分、面倒くさいから嫌とか、そんなんでもない。この表情はそんなお気楽なものではない。
「……牧村さん」
「はい」
「えっとですね」
響子さんはなにかを言おうと僕の顔を見上げる。だけど、そのまま言いよどんで視線が下がる。
ダメだ。ごめん。どう聞いて良いのか分からない。それに、何が響子さんの顔を曇らせたのか見当が付かない。見当は付かないけど、とにかく僕には何を言っても良いのだと、どうすれば伝わるのだろう?
そう思った瞬間、響子さんを抱きしめていた。
「嫌なことは嫌って言って良いんですよ?」
頭をなで、背中をゆっくりとさする。
自分がなぜこんな行動に出たのか分からない。だけど、これは正解だったらしい。
「……一人で、ご飯食べるの、嫌なんです」
しばらくの沈黙の後、響子さんはぽつりとそう言った。とても心細そうな、今にも泣き出しそうな声で。
その言葉でようやく気づいた。ご両親を亡くした後、家庭料理を食べたことがなかったと言った響子さん。美味しそうに食べてくれたから気づけなかった。一人で食べる食事の寂しさに……。
後悔で胸が締め付けられる。
「そうでしたか。ごめんなさい。じゃあ、この前も」
本当に申し訳ないことをした。いや、可哀想なことをした。
もっとしっかり考えて行動しなくてはいけなかった。
「あ、いえ、美味しかったです!」
慌てて顔を上げると響子さんはそう言ってくれるけど、そうじゃない。問題はそこじゃなくて。
「ありがとうございます。でも美味しいのと、一人で食べるのが嫌なのとは違う話ですよ?」
「……まあ、そうですが」
「病院で食べるのなら大丈夫ですか?」
「はい。朝はほとんどそうしてます」
そうだよね。
実は冷蔵庫にあった牛乳とパンも予想通り賞味期限が切れていたので、コッソリ処分させてもらった。
いや、今大切なのはそれじゃない。
考えろ、自分。響子さんに気を遣わせず、今あるものをどう片付けるか? 最悪、ご飯は冷凍、味噌汁は冷蔵庫に入れておくと言うのもあるけど、それは悪手だろう。
「そうだな……じゃあ、おにぎり作るので持って行きます?」
「え?」
「ただのおにぎりだと、さすがに味が落ちる気がするので、焼きおにぎりとか」
「え、焼きおにぎり?」
「嫌いじゃなければ」
笑顔でそう言うと、響子さんは小首を傾げて
「好きだと思います」
と言ってくれた。
はっきり好きと言わなかったのは、多分、家で食べる習慣がなかっただけだろう。上々だ。
「じゃ、すぐ作るので待っててくださいね」
「え、でも……」
そんなの申し訳ない、と続けそうなのを封じ込める。
「響子さん、大丈夫です、これは餌付けなんで。一ヶ月後に正式にお付き合いしてもらえるように、頑張ってるだけだから、やらせてください」
そっと抱きしめ耳元でささやくと、響子さんはびくりと震えた後、小さな声で
「はい」
と答えてくれた。
おにぎりを握り始める僕の側を響子さんは離れなかった。そのまま、面白そうに横で見学。
ボウルにご飯を入れて合わせ調味料を入れて混ぜる。それから、おにぎりを握る。ただ、それだけなのに、響子さんは、「へえ~」とか「なるほど」とかつぶやきながら見ている。
おにぎりを握る段になると、
「牧村さん、ホント、器用ですね」
と言われた。
多分、指先の器用さでは響子さんのが上だろうと思う。けど、多分、そう言うことじゃない。響子さんだって同じこと、絶対できると思う。けど、やらないんだろうなと思うと面白かった。
フライパンで焼くところまで来ると、響子さんの目は釘付けだった。醤油の焦げる香ばしい匂いが漂う頃になると、目がうっとり和らぐ。
「今、食べてしまいましょうか?」
思わず提案すると、
「はい!」
と即答。
「焼きたてのが美味しいですしね」
そう言って、焼きおにぎり2個をお皿に乗せる。
少し迷って、お味噌汁もお椀2つによそった。量は半分くらい。おにぎりだけより夜食っぽい感じになる。夕飯食べたばっかりだけど。
「漬物も持ってくれば良かったな」
「あー、美味しそうですね~」
手渡したお皿を運びながら、響子さんはうっとりと目を細めた。
「でも、これだけで十分美味しそうです」
僕が席に着くのを待って、同時に手を合わせる。
「いただきます」
「あ、熱いので気をつけてくださいね」
「はい」
と答えたのに、響子さんはそのままほおばり、
「あつっ」
「大丈夫ですか!?」
「だいひょうぶれす」
はふはふと口を動かしながら、口に入れた焼きおにぎりを食べる響子さん。
決して小動物めいた可愛い系の容姿ではないのに、その仕草がとてつもなく愛らしい。
ダメだ。どれだけでも好きになれる。
響子さんに見とれていると、
「食べないんですか?」
と不思議そうに聞かれた。
美味しそうに食べる姿をもっと見たくて、
「半分、食べます?」
と聞いたけど、
「食べたいけど……お腹いっぱいです」
とお腹を押さえる。その、本当はもっと食べたいのだというのが見て取れる残念そうな目が、仕草がたまらない。
「また作りますね?」
「はい!」
楽しい時間はあっという間に過ぎる。
時刻は二十一時半。寂しいけど帰らなくてはいけない。
「それじゃあ、また明日。おやすみなさい」
帰り際、そう言って玄関で抱きしめる。ハグはすると言ってあるから、いいよね? て言うか、ダメと言われても今日だけで、もう何回ハグしたか。
本当はキスしたい。唇がダメならほっぺにでもおでこにでもいいから、もっと触れたいと思う。ただ、まだ早いかなと思って自重する。
なのに、ハグをして数秒後、なんと響子さんが僕を抱きしめ返してくれた! あまりのことに、理性がぶっ飛びそうになる。
響子さん、ありがとう! ねえ、少しは僕のこと恋人として認めてくれた?
本当に嬉しい。嬉しすぎて逆にマズイ。
ここで自分を見失ったら、これまでの努力が水の泡になるかも知れない。ダメだ、頑張れ、自分。
「おやすみなさい」
落ち着いた響子さんの声を聞き、ゆっくりと理性が戻ってくる。
キスしたい欲求を、押し倒したい欲求を全力で閉じ込めて、これくらいは許してと響子さんの頭をなでさせて頂いた。
響子さん、大好きです。
心の中でつぶやいて、それから名残惜しすぎると思いながら腕の中の響子さんを解放した。
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