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第三幕「満ち足りた日常の崩壊と落日の炎」

2.消えた古書店と残された謎

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 久しぶりに訪れた古書街には、以前と変わらぬ穏やかな時間が流れていた。

 見慣れたレンガ造りの壁を辿れば、いくつもの店舗が立ち並んでいる。店先のワゴンに置かれたペーパバック(紙でできた表紙の本)を眺めながら、リゼットはゆっくりと石畳を歩む。

「で? その古書店はどこにあるんだ?」

 同じようにワゴンを眺めていても、クライドの視線はナイフのように鋭い。黒を基調とした服装のせいもあってか、どこか不穏な雰囲気を漂わせている。

「ええと……その角を曲がった奥のはずです」
「はずって。いつも通ってたんだろ。どうしてそんなに心もとない言い方なんだよ」

 ワゴンから視線を上げたクライドは、リゼットの示した方向を見つめる。現在地から三軒ほど先に行った場所にある、くすんだ色をしたレンガの細道。靴音を響かせながら細道へと向かうクライドの背中を、リゼットはわずかに混乱しながら追いかける。

「おい、本当にここか?」

 薄暗い細道を覗き込んだクライドは、ひどく嫌なものを見たような顔で奥をにらむ。クライドの背に追いついたリゼットは、ためらいながらも道を覗き込み――大きく目を見開いた。

「うそ」

 そこには『何もなかった』。古書店はおろか、人の住めるような家屋も存在しない。ただ、ぼろぼろになった石壁と入口らしき場所をうつけた板。あとは細道をふさぐように置かれた古い書物の成れの果ての山があるだけだった。

「ど、どうして……。確かにここのはずなのに」
「……もしかしたら場所を勘違いしているだけかもしれない。おい、その古書店の名前は何というんだ」
「何って」

 古書店の名前を口に出そうとして、リゼットは岩のように固まった。名前、名前? 何とか古書店? いや、そもそも店主がオーレンという以外、その店についての情報がない。

「……小公女? 話を聞いてるのか」
「わ、わからないんです。古書店の名前。ただ忘れているだけ? あんなにも毎回通っていたのに……あれ? 毎回? 毎回って……一体いつから?」

 心の中に生まれてしまった違和感を無視することはできなかった。現実がひどく曖昧に感じられて、リゼットは強い吐き気と共に膝をつく。どうして思い出せないのか。なぜそうだと思い込んでいたのか。目の前に存在する現実が、ぼろぼろと端から崩壊していく。

「……そ、そうだ、オーレンさん! お店はわからないけど、オーレンさんのことなら! 誰か知っているはず」

 リゼットが顔を上げると、クライドは道の脇にある店舗で誰かと話しているのが見えた。こちらを見る二人の表情があまりにも不可解そうで、リゼットの背筋に嫌な汗が流れ始める。

「小公女、こちらの店主に話を聞いてみたが……この辺にはオーレンという店主も、そいつが経営する古書店もないそうだ」
「そんな! じゃ、じゃあ、私が嘘ついているって言いたいんですか!?」
「そうは言ってない。だが、状況はよくわからん。オーレンというやつが存在していないなら、どうして猫は本を盗んだ? なぜ図書館にあのしおりが現れた? そして」

 クライドはちらりと視線とリゼットに向け、すぐにそらす。そんなわずかな間がとても嫌で、リゼットは肩を震わせながら言葉の続きを促した。

「そして、なんです?」
「そして、お前はどうして魔法装丁の封印を解いたのか? あの時は深く尋ねなかったが、一体どうして封印を解こうと思ったんだ? たまたまにしては手際が良すぎる」
「どうしてって、それは……!」

 軽々しく動機を口にしようとして、すぐにやめる。そもそもあの時、リゼット自身は何を考えて行動していた? 魔法装丁の封印を解こうと思って? そんなはずはない。なぜってそれは、リゼットは魔法装丁の存在など初めから知らなかったのだから。

 そこまで考えて、自分を取り巻いている状況の異常さに気づく。クライドたちに出会う一連の話の始まりは、オーレンの古書店からだった。しかしその店はなく、オーレンも存在せず、リゼットの記憶を裏付けるものも存在しない。だが、貰ったしおりは存在している。だとしたら、間違っているのは記憶の方か世界の方か。

 どのみち、異様な状況下にあるリゼットの言葉に信ぴょう性などかけらもない。魔法装丁の封印をどうして解いたのか、なんて。そんなの、『わかるわけがない』。

「わかりません。どうしてわたしは魔法装丁の封印を解いたのか。わからないんです。わたしは、魔法装丁が封印されていることさえ知らなかった」
「ならば、答えは一つだな。……お前は糸に吊られた人形だよ、小公女。オーレンとかいうやつが何だったにしろ、お前が魔法図書館に足を踏み入れたのが今回の事件の始まりだった。お前に魔法装丁の封印を解く意図がなかったとしても、そのお膳立てをしたやつが必ずいる」
「わたしが操られているっていうんです?」
「可能性は高い。単純な暗示によるものか、魔法によるものかは判別できないが……お前の頭の中には、何者かに刻まれた指令が存在している」

 ぞっとするような話だった。リゼットは両腕を抱え、唇をかむ、自分の意志とは無関係に行動をとってしまう。そんな状況、考えただけでも寒気がする。古書店が存在しないこととは別種の恐ろしさに、リゼットは全身の血が引いていくのを感じた。

「わたし、どうなっちゃうんですか」
「現状では何とも言えん。その指令が一時的なものなのか、永続的なものかもわからないしな。本来なら術者に解かせる方がいいんだが。だがま、そう不安そうな顔をするな。魔法装丁がすべて戻ってきたら、魔法図書館の力場も安定する。そうしたらこの程度の指令や暗示、さっさと壊してやるからさ」

 クライドらしくもない力強い言葉に、リゼットは何度も瞬きする。優しい言葉を駆けてくれるほど、弱って見えていたのだろうか。少し恥ずかしく思いながらも、向けてくれた言葉に心がじんわりと温かくなる。

「ほんとですか? 嘘ついたら怒りますからね」
「だれが嘘つくか、このやろう。と、とにかくだ。最後の魔法装丁がありそうな場所は、南西――鍛冶屋街だったか? 面倒ごとが起こらないうちに、さっさと探してさっさと終わらせるぞ!」

 拳を振り上げ、クライドは強い笑みを浮かべる。珍しすぎる笑顔にリゼットがぼんやりしていると、不意にクライドは顔をしかめ、こちらをにらみつけてきた。

「あのな、お前がそんなだとこっちまで調子が狂う。いい加減しゃきっとしてくれ」
「しゃ、しゃきっと……あれ? もしかして心配してくれているんです?」
「な、なんのことだよ。ほら、いい加減立て。無駄に前向きなのがお前の取り柄だろ?」

 手を差し伸べてくれるクライドは、いつもよりも少しだけ優しげに見えた。いつも厳しいことや辛辣なことばかり言っているから、そんな風に穏やかな顔をされると困ってしまう。リゼットは眉を下げると、そっとクライドの手を取る。

「無駄に前向きなのが取り柄って、わたしそんなこと言ったことないですよ」
「俺がそう思ってるだけだよ。さ、行くぞ。物語の終局にはまだ早い」

 クライドの手は、思ったよりもずっとごつごつしていた。硬い手のひらを握り返すと、その分だけ温かさが伝わる。とっつきにくいが、決して冷徹ではない。クライドの内面を表すような手に、自然と笑顔がこぼれる。

「そうですね、行きましょう! 目指せ、魔法装丁捕獲! です!」
「捕獲じゃなくて封印な。ま、元気が出たならいいが」

 どちらともなく笑みを浮かべながら、二人は鍛冶屋街を目指して歩き始める。
 たとえ、この先で何が待ち受けていたとしても、クライドが一緒ならば大丈夫。そう信じることで、リゼットは抱え込んでいた不安を忘れることができた。

「そう、きっと。大丈夫なんです」

 そっと髪に触れる。するとダリアの花飾りが、指先を静かにかすめていった。
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