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第四部「さよならを告げる風の彼方に」編

0.英雄の死と肩に降る雨の温度

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 その日は、朝から雨が降っていた。

 過ぎ去っていた人を悼み、空は涙を流している。ある人はそんな風に呟き、目元をハンカチで覆った。大聖堂を見渡せば、同じように涙を流す大勢の人々が集っている。

 聖堂の祭壇の上には、豪奢な装飾が施された棺があった。職人が手間暇かけて作り上げたであろう、獅子の金細工。今にも動き出しそうなそれをぼんやり眺めれば、隣で妹が鼻をすすり上げた。

「おとうさん」

 幼気な呟きが耳に届いた瞬間、手を繋いでいた少年の身体が震えた。祭壇に献花された無数の白い花が、彼に寄せられた想いの数を示している。そう、彼は多くの人から信頼と敬意を寄せられていたのだ。

 今、旅立とうとしている彼は、このカーディス王国の英雄だった。数々の戦功をあげ、若くして騎士団の長にまで登りつめた彼は、騎士たちだけでなく国民の多くからも敬愛されていた。

 ギルベルト・シュタイツェン=ヴァールハイト。その名が厳粛に読み上げられた時、少年は彼が確かにこの世から去ったのだと思い知った。手にしたままだった白い花が、花びらを散らし床へと落ちていく。より一層大きくなる悲しみの声に、少年は妹の手を強く握りしめる。

「どうして」

 まだ高い声音は、響き渡る嗚咽の中に紛れて消える。けれど、少年の唇は呪詛のように言葉を繰り返す。どうして、どうして。どうして死んだんだ、と。

 別れを告げるこの時に、一人取り残されたように立ち尽くしている。いつも見つめることしかできなかった背中は、本当に届かない場所へと遠ざかってしまった。その事実が口の中に苦く広がり、少年は散った花びらを強く踏みにじる。

 彼は確かに、多くの人から慕われた。変えようのないその事実が、少年の心を逆なでする。彼は多くの人に与えていた。しかし、自分たちには何を残してくれたというのだろう。

 地位も名誉も、少年にとっては無意味なこと。にも拘らず、それを追い求めた彼は何を信じていたのだろうか。何も、理解できない。少年が欲しかったのは、そんなものではなかったから。

 去りゆく者への鎮魂歌が響く。死したその頰に最後の花を飾るようなその響きに、少年は耐えることもできず、妹の手を離して走り去る。集った人々に逆らい、駆け抜けていく少年は、ついに聖堂の外へと飛び出した。

 無言で見上げた空は暗く、濁った灰色をしていた。肩に頭に降り注ぐ雨は冷たく、涙などだというのは妄言だと皮肉げに思う。降り続ける雨の下、傘をさす人々の中で独り。少年はずっと、濡れるに任せて佇み続ける。

「どうせ終わるなら」

 全部、道連れにしてくれれば良かったのに。雨は容赦なく身体から熱を奪い、少年は聖堂の柱の下でうずくまった。こんな冷たい世界を守って、なんの意味があったというのだろう。

 欲しかったのは、たった一つ。手を伸ばしても、それは二度と届かない。風が全てをさらって、彼方へと運んでいく。あまりにも虚しい現実に、少年はきつく目を閉ざすしかない。

 悲しいなんて、思わない。寂しいなんて思ってやるものか。あなたは自分の望んだもののために生きたのだろう。なら、皆と同じようにわざわざ悼んでなんかやらない。

 強がりだとは、思いもしかなった。降り注ぐ雨が冷たいままならば、きっと、そのまま眠りについていたかもしれない。鬱々と奪われていく温度をたどる少年は、ふと、顔を上げた。

 いつしか、冷たい雨は止まっていた。いや、周囲では未だ雫は降り続けている。不思議に思って瞬きを繰り返すと、目の前に誰か立っていることに気づく。

「……だれ」

 棒切れのように細い身体、それを覆うのは古風な灰色のローブ。肩にかかった黒い外套が静かに風に揺れている。少年を見下ろす瞳の色は薄く、長い髪の色はローブよりも薄い灰色。

 そんな人物が、いつの間にか目の前に立っていた。彼は静寂をまとったまま少年を見下ろしている。少年は何も言えなかった。一言でも口にすれば、呑まれてしまう。そんな不可思議な気配を、傘も差さずに佇む人物は持っていた。

「だれ、なんだ」

 繰り返された問いを、どう受け取ったのだろう。灰色の彼は短く息を吐くと、身を屈めた。近づいた視線の分だけ少年は戸惑う。しかし彼はそれに構わず、そっと手を少年の前に差し出した。

「俺……いや、私は、お前の父の友人だ」

 唐突に吐き出された言葉に、少年は戸惑いを深くした。わずかに身を引いた幼い姿に、彼は灰色の瞳に苦笑いを浮かべる。そしてため息とともに不可思議な気配を捨て去ると、顔をしかめながら無理やり少年の手を握った。

「こんなところにいると風邪をひく。ヴィルヘルム・シュタイツェン=ヴァールハイト——私はお前を迎えに来たんだ」

 握りしめる手のひらはとても温かだった。目を見開く少年に、彼は少し不恰好に笑いかける。

 手を引かれるまま立ち上がり、見上げた空には光が差す。薄いヴェールのような光の中、微笑んだ彼の顔は優しげに見えた。永遠に降り続けるかと思えた冷たい雫。いつしか、雨は上がっていた。

 ——それが、魔法使いイクスと出会った一番最初の記憶。
 彼との出会いが何をもたらすのか、まだヴィルヘルムは知らない。

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