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第二部「あなたに贈るシフソフィラ」編
16:無為に咲く花
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「どうして、来たんですか」
暗い場所だった。光源は無いに等しく、わずかばかりの灯りもおぼろげにしか照らさない。そんな場所に佇んだ彼は、唐突に現れた魔法使いに笑いかけた。
あまりにも普段と変わりない笑顔だった。だからイクスは錯覚しそうになる。これは、何かの間違いではないのか——と。
「それはこちらの台詞だ。いくら何でも、王城の宝物庫に入り込むのは……悪ふざけが過ぎるな。ここは子供の遊び場ではないのだぞ——キール」
名前を呼ばれ、彼——キールは困ったように目を細めた。その仕草におかしなものは一つもなく、ここが王城の宝物庫で、しかもキールの手に煌びやかな装飾の杖が握られていなければ、いつもと何ら変わりない。
だからこその、異常。イクスは厳しい表情を浮かべ、キールを睨みつけた。少年の背後では、杖が納められていたであろうガラスケースが砕け散っている。床に落ちた金のプレートに刻まれた銘は、『時の宝杖』。
イクスの視線に気づいているのかいないのか。変わらない笑顔を魔法使いに向けた少年は、何気ない様子で一歩踏み出した。そして、手にした杖の先——蒼く輝く魔法石をイクスの方へ突きつける。
「相変わらず面白いですね、先生は。ここに来たということは、気づいたんでしょう? 事件の真の犯人が誰か。何故——僕がここにいるのかも」
「ああ。だが、わからないこともある。だから答え合わせをしに来たのだ。もしよければ付き合ってくれ」
「いいですよ。どうせ、ここには誰もやって来ない。時間稼ぎの意味もないですし、あなたの気が済むまでお付き合いしましょう」
杖を構えたまま、キールは不敵に笑う。イクスは暗い表情で息を吐いた。少年の言う通り——今の状態では、誰一人としてこの宝物庫に踏み込むことも出来ない。周囲を覆う魔力の波動は、命あるものを阻む。
その事実だけで、イクスは相対している者が何なのか理解した。紛い物の『魔道士』とは比較にならない膨大な魔力。そんなものを持つのだから、少年はただの人間ではあり得ない。
「キール。お前は——魔法使いだな」
放たれた言葉は、虚しく周囲に響く。静かに告げながらも、イクスの顔は苦渋に満ちていた。何故今更気づいたのか。魔法使いは、己の浅はかさに唇を噛むしかない。
「ええ、僕は確かに魔法使いです。あなたの師匠でもある『フラメウ』の弟子で……まあ、単純な話をすれば、僕たちは兄弟弟子の関係なんですよ。だからイクス、あなたのことはフラメウから良く聞いていました」
だから、以前から会ってみたかったんですよ——悪びれもせずに、少年はイクスの言葉を肯定した。
キールがフラメウの紹介状を持っていた時点で、疑うべきだったのだろう。けれどイクスの目には、少年が普通の人間にしか見えなかった。今の今まで、魔力をかけらも感じなかったのは何故なのか。
「まあ、それは今更な話ですけども。もし疑問があるなら、何でも答えますよ。今日は満月ですし、時間はたっぷりあります」
その事実を掘り下げてみれば——事件の真相にもたどり着けるかもしれない。
「……貴族街で起こった盗難事件。それはキール、お前が私の前に現れたのと時を同じくして始まっている」「ええ。だけどそれは偶然だ——と、僕が言ってしまったら終わりじゃないですか?」
「ああ、そうだな。だが、少し視点を変えれば違う見方もできるだろう。……キール。お前が私の前に現れたのは、魔法石を手に入れるためだと」
イクスの告げた内容が何をもたらしたのか。少年の顔に浮かんだ笑みが、わずかに寂しげな色を帯びた。
「いいですね、その調子です。続けてください」
「……魔力というのは、微量でも魔法使いには感知できてしまうものだ。魔法使い同士なら尚更……だが、お前に初めて会った時、魔力を全く感じなかった。それは今のお前を見ていれば、異常なことだとわかる。ここまでの魔力を——隠されていたとしても、私が感知できないはずがない」
「……だから?」
「だから、その時のお前は魔法使いではなかったか、あるいは——感知できないほどの魔力しか持たない、不完全な魔法使いだったのだろう」
不完全な魔法使い。イクスがそう口にした瞬間、キールは短く笑い声をあげた。何も知らなければ明るい響きだと思っただろう。しかし、今この場において素直にそう捉えることは難しい。
この先を続けることは、本当の意味でキールとの決別を意味する。イクスの中にあるためらいに気づいたのだろう。キールはガラスのかけらを踏みつけると、何の感情も交えず自らその先を語り始めた。
「なるほど、言いたいことはわかりましたよ。つまり、僕はもともと出来損ないの魔法使いで、自分の魔力を補うために——魔法石を盗み出した。先生に近づいたのは、その足がかりにするため。だけど……これは質問なんですけど。そんな出来損ないがどうやって、貴族の屋敷から魔法石を盗み出したっていうんですか?」
「それが、お前の魔法なのだろう。いや……ある種の異能と言うべきか。キール、お前は一度でも言葉を交わした相手を操ることができるのだろう? しかも、相手自身にも気付かれることなく」
今までのことを思い返せば、常にキールの言葉が大きな契機となっていたことに気づく。それ自体を魔法と言っていいのかはわからないが、それが少年の力なのは間違いない。
その力は、魔法石を手に入れるごとに強化され——あの執事を自らの制御下に置くことを可能にしたのだ。
「最初、お前は魔法石のある屋敷の目ぼしい人間に声をかけた。それは何でもいい。世間話でも道を尋ねるだけでも……それだけで、相手は気づかないうちに行動を操られていく。お前は操った相手が魔法石を手に入れるのを待つだけでいい。その手口を繰り返し、五つの魔法石を手に入れたのだろう?」
それぞれの事件の犯人は、どこかで繋がっている。マリアベルが語ったことは、全くの間違いではなかった。それぞれの事件の裏で、犯人をキールが操っていた——そう考えれば、事件の矛盾も解決できる。
全ての事件の黒幕は、キールだ。それが、動かしがたい真実だった。
「……いやはや、中々ですよ。しかし先生、どの時点で僕が怪しいと思ったんです?」
「お前の力の特性上、その場では気づけないことがほとんどだった。しかし、違和感を感じたのは、お前が出会ったという異様な人物の話だ。ルーヴァン家執事が犯人だとしたら、わざわざお前にそんな姿を見せる理由がない。もし全く別の人間の仕業だとしても……どちらにせよ、そこだけ妙に浮いているのだ」
そう。あの庭での会話が、あらゆる違和感の元と言えた。あの時、キールが語った白昼夢のような話。それだけが、明瞭だった言葉の中でつかみどころがなかったのだ。
それに、それまで誰も魔法に関して触れていなかったにもかかわらず、魔法と事件の関係を示唆したことも。少年の言葉はその時に限り、奇妙なほど特定のものを示し出していた。
「ちょっとあざと過ぎましたかね。けれど、どうしても先生には気づいて欲しくて……余計なことまでしてしまいました」
「気づいて欲しい? 何故だ。お前の力があれば、わざわざ自分に疑いの目が向くようなことをする必要もないだろう」
「うーん、そうですね。なんて言ったらいいか……ねえ、先生。ソフィラの花の花言葉って知ってますか?」
軽く杖を揺らし、キールはイクスに微笑みかけた。唐突なと言いかけの真意は一体何なのか。理解に苦しむ少年の問いに、イクスは眉間に深いしわを刻んだ。
「ソフィラ……事件現場に落ちていた花か」
「知っているんですね。そう、ソフィラは白い色をした花です。先生に渡したシフソフィラよりもずっと華やかで大きな花を咲かせ、香りも良いので多くの人に好まれていますね。けれど、僕はあまり好きじゃありません。まあ、全ては花言葉のせいなんですけど」
「……花言葉……?」
「言ったでしょう。シフソフィラの花言葉は『叶えられた願い』。それに対して、ソフィラの花言葉は『永遠の憧憬』——」
少年の声には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。杖の先をイクスに突きつけたまま、少年は優しく笑う。
悲しみなら、慰めがあればぬぐい去ることもできたかもしれない。しかし寂しさは、寄り添うこともできない距離では埋めてやることもできないのだ。
永遠に続くような一瞬を、イクスは手を伸ばすこともできずに通り過ぎた。触れることもできなかったその手を握りしめ、苦しい息を吐き出す。そんな魔法使いに、無慈悲なほど純粋な言葉が投げかけられる。
「あのね、先生。僕は本当に、ずっと先生に会いたかったんですよ」
優しい声だった。イクスに向けられていた瞳は穏やかで、日向のように温かい。にもかかわらず、少年が手にした杖は、強い光を帯び始めていた。渦巻く魔力の向こうで、少年は夢見るように語る。
「魔法使いにもなれなかった出来損ないの僕は、フラメウから疎まれていました。僕が初歩の魔法に失敗するたび、師はあなたの話をするんです。同じように親の元から離れ、それでも魔法使いとして大成したイクスのことを……。フラメウは、あなたのことをとても気に入っていたみたいですね」
イクスは踏み出すこともできず、その場で手を構えた。杖から広がる魔力は、あまりにも強大で——イクスをも凌駕する。極光のごとき光は空間を歪ませ、周囲の品物を激しく揺さぶっていく。
「実際に会ってみて、何故あなたがフラメウから気に入られていたかわかりました。先生、あなたは……魔法使いの目から見ても、とても優しい人でしたから。孤独に生きることを強制される魔法使いにとって、そういうものは忌むべきものではあるけれど。それでも、捨て去れるようなものではなかった」
緩やかに、魔力の波動が一点に集中していく。生み出された魔力の塊は、青白い光を帯びている。肌が泡立つほどの圧力を発するそれを従え、少年は大切なものを慈しむように笑う。
「あなたに会って、色んな人やものに触れて……この半年は、僕にとって本当に大切なものでした。今まで何も感じず通り過ぎていた光景を、初めて美しいと感じられたんですよ。僕には不相応だったけど……とても、幸せなやさしい時間でした」
振り下ろされるだけの杖を手に、少年は静かに目を閉じる。穏やかな表情は、巻き起こる光に覆い隠されていく。今まさに解放されようとする力の向こうで、幸せそうな声だけが響き続ける。
「だからあなたの心を縛るフラメウは、僕が消してあげました。これからは、あなたはあなたのために生きていいんです。誰も——あなたの想いを阻むことは出来ない」
キール。名前を呼んでも、二度と想いが返ることはない。差し出した手が、遠ざかる手に触れることは永遠にない。光に消えていく小さな姿は、そんなイクスに最後の笑顔を向けた。
「大好きですよ、イクス。他の誰よりもずっと。本当に、心の底から——だからね」
視界に全て覆い尽くす光。魔力の奔流に飲まれ、イクスの体は現実感を失っていく。舞い上がるのか落ちていくのかもわからない世界の中で——まだ幼さを残した手が頰に触れた。
「あなたの願いを叶えさせてあげる。これが、僕があなたに贈る——」
手が離れ、光は急速に闇へと堕ちていく。閉ざされていく世界に残されたイクスは、ずっとその名を呼び続けていた——
暗い場所だった。光源は無いに等しく、わずかばかりの灯りもおぼろげにしか照らさない。そんな場所に佇んだ彼は、唐突に現れた魔法使いに笑いかけた。
あまりにも普段と変わりない笑顔だった。だからイクスは錯覚しそうになる。これは、何かの間違いではないのか——と。
「それはこちらの台詞だ。いくら何でも、王城の宝物庫に入り込むのは……悪ふざけが過ぎるな。ここは子供の遊び場ではないのだぞ——キール」
名前を呼ばれ、彼——キールは困ったように目を細めた。その仕草におかしなものは一つもなく、ここが王城の宝物庫で、しかもキールの手に煌びやかな装飾の杖が握られていなければ、いつもと何ら変わりない。
だからこその、異常。イクスは厳しい表情を浮かべ、キールを睨みつけた。少年の背後では、杖が納められていたであろうガラスケースが砕け散っている。床に落ちた金のプレートに刻まれた銘は、『時の宝杖』。
イクスの視線に気づいているのかいないのか。変わらない笑顔を魔法使いに向けた少年は、何気ない様子で一歩踏み出した。そして、手にした杖の先——蒼く輝く魔法石をイクスの方へ突きつける。
「相変わらず面白いですね、先生は。ここに来たということは、気づいたんでしょう? 事件の真の犯人が誰か。何故——僕がここにいるのかも」
「ああ。だが、わからないこともある。だから答え合わせをしに来たのだ。もしよければ付き合ってくれ」
「いいですよ。どうせ、ここには誰もやって来ない。時間稼ぎの意味もないですし、あなたの気が済むまでお付き合いしましょう」
杖を構えたまま、キールは不敵に笑う。イクスは暗い表情で息を吐いた。少年の言う通り——今の状態では、誰一人としてこの宝物庫に踏み込むことも出来ない。周囲を覆う魔力の波動は、命あるものを阻む。
その事実だけで、イクスは相対している者が何なのか理解した。紛い物の『魔道士』とは比較にならない膨大な魔力。そんなものを持つのだから、少年はただの人間ではあり得ない。
「キール。お前は——魔法使いだな」
放たれた言葉は、虚しく周囲に響く。静かに告げながらも、イクスの顔は苦渋に満ちていた。何故今更気づいたのか。魔法使いは、己の浅はかさに唇を噛むしかない。
「ええ、僕は確かに魔法使いです。あなたの師匠でもある『フラメウ』の弟子で……まあ、単純な話をすれば、僕たちは兄弟弟子の関係なんですよ。だからイクス、あなたのことはフラメウから良く聞いていました」
だから、以前から会ってみたかったんですよ——悪びれもせずに、少年はイクスの言葉を肯定した。
キールがフラメウの紹介状を持っていた時点で、疑うべきだったのだろう。けれどイクスの目には、少年が普通の人間にしか見えなかった。今の今まで、魔力をかけらも感じなかったのは何故なのか。
「まあ、それは今更な話ですけども。もし疑問があるなら、何でも答えますよ。今日は満月ですし、時間はたっぷりあります」
その事実を掘り下げてみれば——事件の真相にもたどり着けるかもしれない。
「……貴族街で起こった盗難事件。それはキール、お前が私の前に現れたのと時を同じくして始まっている」「ええ。だけどそれは偶然だ——と、僕が言ってしまったら終わりじゃないですか?」
「ああ、そうだな。だが、少し視点を変えれば違う見方もできるだろう。……キール。お前が私の前に現れたのは、魔法石を手に入れるためだと」
イクスの告げた内容が何をもたらしたのか。少年の顔に浮かんだ笑みが、わずかに寂しげな色を帯びた。
「いいですね、その調子です。続けてください」
「……魔力というのは、微量でも魔法使いには感知できてしまうものだ。魔法使い同士なら尚更……だが、お前に初めて会った時、魔力を全く感じなかった。それは今のお前を見ていれば、異常なことだとわかる。ここまでの魔力を——隠されていたとしても、私が感知できないはずがない」
「……だから?」
「だから、その時のお前は魔法使いではなかったか、あるいは——感知できないほどの魔力しか持たない、不完全な魔法使いだったのだろう」
不完全な魔法使い。イクスがそう口にした瞬間、キールは短く笑い声をあげた。何も知らなければ明るい響きだと思っただろう。しかし、今この場において素直にそう捉えることは難しい。
この先を続けることは、本当の意味でキールとの決別を意味する。イクスの中にあるためらいに気づいたのだろう。キールはガラスのかけらを踏みつけると、何の感情も交えず自らその先を語り始めた。
「なるほど、言いたいことはわかりましたよ。つまり、僕はもともと出来損ないの魔法使いで、自分の魔力を補うために——魔法石を盗み出した。先生に近づいたのは、その足がかりにするため。だけど……これは質問なんですけど。そんな出来損ないがどうやって、貴族の屋敷から魔法石を盗み出したっていうんですか?」
「それが、お前の魔法なのだろう。いや……ある種の異能と言うべきか。キール、お前は一度でも言葉を交わした相手を操ることができるのだろう? しかも、相手自身にも気付かれることなく」
今までのことを思い返せば、常にキールの言葉が大きな契機となっていたことに気づく。それ自体を魔法と言っていいのかはわからないが、それが少年の力なのは間違いない。
その力は、魔法石を手に入れるごとに強化され——あの執事を自らの制御下に置くことを可能にしたのだ。
「最初、お前は魔法石のある屋敷の目ぼしい人間に声をかけた。それは何でもいい。世間話でも道を尋ねるだけでも……それだけで、相手は気づかないうちに行動を操られていく。お前は操った相手が魔法石を手に入れるのを待つだけでいい。その手口を繰り返し、五つの魔法石を手に入れたのだろう?」
それぞれの事件の犯人は、どこかで繋がっている。マリアベルが語ったことは、全くの間違いではなかった。それぞれの事件の裏で、犯人をキールが操っていた——そう考えれば、事件の矛盾も解決できる。
全ての事件の黒幕は、キールだ。それが、動かしがたい真実だった。
「……いやはや、中々ですよ。しかし先生、どの時点で僕が怪しいと思ったんです?」
「お前の力の特性上、その場では気づけないことがほとんどだった。しかし、違和感を感じたのは、お前が出会ったという異様な人物の話だ。ルーヴァン家執事が犯人だとしたら、わざわざお前にそんな姿を見せる理由がない。もし全く別の人間の仕業だとしても……どちらにせよ、そこだけ妙に浮いているのだ」
そう。あの庭での会話が、あらゆる違和感の元と言えた。あの時、キールが語った白昼夢のような話。それだけが、明瞭だった言葉の中でつかみどころがなかったのだ。
それに、それまで誰も魔法に関して触れていなかったにもかかわらず、魔法と事件の関係を示唆したことも。少年の言葉はその時に限り、奇妙なほど特定のものを示し出していた。
「ちょっとあざと過ぎましたかね。けれど、どうしても先生には気づいて欲しくて……余計なことまでしてしまいました」
「気づいて欲しい? 何故だ。お前の力があれば、わざわざ自分に疑いの目が向くようなことをする必要もないだろう」
「うーん、そうですね。なんて言ったらいいか……ねえ、先生。ソフィラの花の花言葉って知ってますか?」
軽く杖を揺らし、キールはイクスに微笑みかけた。唐突なと言いかけの真意は一体何なのか。理解に苦しむ少年の問いに、イクスは眉間に深いしわを刻んだ。
「ソフィラ……事件現場に落ちていた花か」
「知っているんですね。そう、ソフィラは白い色をした花です。先生に渡したシフソフィラよりもずっと華やかで大きな花を咲かせ、香りも良いので多くの人に好まれていますね。けれど、僕はあまり好きじゃありません。まあ、全ては花言葉のせいなんですけど」
「……花言葉……?」
「言ったでしょう。シフソフィラの花言葉は『叶えられた願い』。それに対して、ソフィラの花言葉は『永遠の憧憬』——」
少年の声には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。杖の先をイクスに突きつけたまま、少年は優しく笑う。
悲しみなら、慰めがあればぬぐい去ることもできたかもしれない。しかし寂しさは、寄り添うこともできない距離では埋めてやることもできないのだ。
永遠に続くような一瞬を、イクスは手を伸ばすこともできずに通り過ぎた。触れることもできなかったその手を握りしめ、苦しい息を吐き出す。そんな魔法使いに、無慈悲なほど純粋な言葉が投げかけられる。
「あのね、先生。僕は本当に、ずっと先生に会いたかったんですよ」
優しい声だった。イクスに向けられていた瞳は穏やかで、日向のように温かい。にもかかわらず、少年が手にした杖は、強い光を帯び始めていた。渦巻く魔力の向こうで、少年は夢見るように語る。
「魔法使いにもなれなかった出来損ないの僕は、フラメウから疎まれていました。僕が初歩の魔法に失敗するたび、師はあなたの話をするんです。同じように親の元から離れ、それでも魔法使いとして大成したイクスのことを……。フラメウは、あなたのことをとても気に入っていたみたいですね」
イクスは踏み出すこともできず、その場で手を構えた。杖から広がる魔力は、あまりにも強大で——イクスをも凌駕する。極光のごとき光は空間を歪ませ、周囲の品物を激しく揺さぶっていく。
「実際に会ってみて、何故あなたがフラメウから気に入られていたかわかりました。先生、あなたは……魔法使いの目から見ても、とても優しい人でしたから。孤独に生きることを強制される魔法使いにとって、そういうものは忌むべきものではあるけれど。それでも、捨て去れるようなものではなかった」
緩やかに、魔力の波動が一点に集中していく。生み出された魔力の塊は、青白い光を帯びている。肌が泡立つほどの圧力を発するそれを従え、少年は大切なものを慈しむように笑う。
「あなたに会って、色んな人やものに触れて……この半年は、僕にとって本当に大切なものでした。今まで何も感じず通り過ぎていた光景を、初めて美しいと感じられたんですよ。僕には不相応だったけど……とても、幸せなやさしい時間でした」
振り下ろされるだけの杖を手に、少年は静かに目を閉じる。穏やかな表情は、巻き起こる光に覆い隠されていく。今まさに解放されようとする力の向こうで、幸せそうな声だけが響き続ける。
「だからあなたの心を縛るフラメウは、僕が消してあげました。これからは、あなたはあなたのために生きていいんです。誰も——あなたの想いを阻むことは出来ない」
キール。名前を呼んでも、二度と想いが返ることはない。差し出した手が、遠ざかる手に触れることは永遠にない。光に消えていく小さな姿は、そんなイクスに最後の笑顔を向けた。
「大好きですよ、イクス。他の誰よりもずっと。本当に、心の底から——だからね」
視界に全て覆い尽くす光。魔力の奔流に飲まれ、イクスの体は現実感を失っていく。舞い上がるのか落ちていくのかもわからない世界の中で——まだ幼さを残した手が頰に触れた。
「あなたの願いを叶えさせてあげる。これが、僕があなたに贈る——」
手が離れ、光は急速に闇へと堕ちていく。閉ざされていく世界に残されたイクスは、ずっとその名を呼び続けていた——
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