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第一部「君と過ごしたなもなき季節に」編

8:やさしい時間の残し方

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 雪が解けるように、木漏れ日が揺れるように。たった一度の季節は緩やかに過ぎていく。
 たとえ同じ季節が訪れようとも、同じ風が吹くことはない。出会いはただ一度のもので、二度と同じものは訪れない。だからこそ出会うことは奇跡に似ている。ほんの些細な、出会うことの意味。

 魔法より、運命より必然よりも大切なもの。それに気付けたならきっと。

 この世界はずっと、やさしくなる。やさしい時間を、残してやれる。


 ※ ※  ※

 時は巡る。ゆっくりと、確実に時間は流れていく。

 冬を過ぎた森の木立には、白い雪が降り積もっていた。重たげに枝を下げ、疎ましそうに雪のかけらを降らせた梢の下で、子供が熱心に雪玉を転がしている。
 それを少し離れた場所で眺めていた魔法使いは、白い息を吐き出し身を震わせた。
 季節は冬の真ん中を越え、一番寒い時期は通り過ぎていた。あとは春に向かって暖かくなっていくだけ——とは言え、雪が溶けるにはまだ早い。
 見事に晴れ渡っていても、雪が残る森に吹く風は冷え冷えとしている。それでも子供は活発に動き回っていた。寒さを感じないのだろうか——疑問に感じたものの、魔法使いが疑問を口にすることはない。
 考えるまでもなく、寒いものは寒い。ただ感じ方が違う。単にそれだけなのだろうと、魔法使いは襟元をかき合わせた。

「元気だなあ。若いというのは羨ましい限りだ」

 背後でそんなぼやきをもらした騎士に、魔法使いは苦笑いを浮かべる。若いなどと羨む台詞を口にしているが、騎士は青年と言っていい年齢のはずだ。

 わざわざ子供を羨むあたり、自分の年齢を気にし始めているのか。密かに笑いを噛み殺しながら、魔法使いは意趣返しとばかりに言葉を放つ。

「若さを羨むなんて騎士にあるまじき行為だな。中年になると子供がそんな風に映るものなのか?」
「……ある程度年齢行くと、子供の頃が懐かしくなるもんだよ。俺よりずっと歳食ってる癖に白々しいぞ。それに騎士関係ないし。そして俺は中年でもない」
「なるほどな。みな無い物ねだりという事か。そして首を絞めるななヴィルヘルム」

 首を絞め上げ始めた騎士に、魔法使いは腕を叩いて抗議する。しかし当然というべきか、ヴィルは華麗にそれを無視した。

 当人たちが真剣であることを差し引いても、傍目からはじゃれ合いにしか見えない。
 そんな地味な命のやり取りに気づいた子供は、大人たちに呆れの混じった苦笑いを向けた。

「なにやってるの? そんなことしてるとイクスの首が折れちゃうよ」
「大丈夫だ。折れない絶妙な力加減を実現している」
「折れなければいいというものではないぞ。私は今、冗談ではなく死に向かっている」
「大丈夫だ。お前はそれくらいじゃ死なないと信じている」
「それって大丈夫なの?」
「結論から言おう。大丈夫なわけは——ない!」

 言うなり魔法使いは顎を引き、勢いをつけてヴィルの顎に頭を打ち付けた。
 ごん、と音がして、さすがの騎士も仰け反り一歩後退る。その瞬間、無防備な顔面に向かって雪玉の一撃が炸裂した。無論投げたのは魔法使いだ。騎士は雪を貼り付けたまま、無言で立ち尽くす。

「侮るな、『黒獅子』。お前はいつも詰めが甘い」
「……ふ、ふ」

 騎士の顔から雪がはがれ落ち、下から満面の笑顔が現れた。一片の曇りもない笑顔なのに、薄青い目は全く笑っていない。笑いながら雪を集め始めたヴィルの姿に、子供の顔が引きつる。

「ねえ、あれって大丈夫なの?」
「いやあれは終わった」
「勝手に終わらすな馬鹿野郎っ! これでも喰らえ——‼︎」

 大人気ない叫びと共に、無数の雪玉が乱れ飛ぶ。笑顔で雪玉を投げつけてくる黒い騎士から、魔法使いと子供は逃走する。

 雪玉を投げつけられて、そのうち投げ返して当て返して。
 寒いばかりだった森の中に、楽しげな笑い声が響く。

 ※ ※  ※

「いやあ、さすがに冷えた、冷えた」

 椅子に腰掛けるなりそういって、ヴィルは両手をさすった。
 その目の前に熱い茶を置いてやりながら、『はしゃぎすぎなんだよ』と魔法使いは呟く。

 窓の外を見れば、子供の雪だるま製作も佳境に入っている。
 大きな雪玉を重ねてしまえば、雪だるまは子供の背よりも高くなっていた。さすがにそんな大きな雪玉を子供が重ねられるわけもない。だから重ねたのはヴィルだが、それ以外は子供作だ。
 残るは雪だるまの飾り付けだけ。熱心に目の位置を調整している子供を眺めながら、ヴィルは笑う。

「今更だけど、ずいぶん変わったな」

 同じように窓の外を見つめ、魔法使いは静かに頷いた。

「まあ、な。前より口数も増えたし……そのぶん、文句や反論も増えたが」
「それはそうなんだがなぁ。ま、言わぬが華か」
「含みのある言い方だな。何か文句でもあるのか」
「だからさ。悪くない、って言ってるんだよ」

 悪びれもせず騎士は笑う。なんとなく納得できず、魔法使いは口元をへの字に曲げる。
 変わった、と言われれば、確かに変わったのだろう。単純に存在が馴染んだというだけではなく、心とそのものが通った。たぶん、そういうことなのだ。

 けれどそれを指摘されてしまうと、どうにもむず痒さが先立つ。魔法使いが中途半端な笑みを浮かべると、ヴィルは軽く瞬いて片眉を吊り上げた。

「なんだよ、変な顔してさ」
「いや。ただ、なんと言うか……おかしなものだと思ってな」
「何がだ?」

 取り留めのない感情を見定めるように、魔法使いは目を閉じた。
 こんな自分では、何かを得ることなどできないと思っていた。しかし強く手を伸ばせば、カケラくらいは掴み取れたのだろう。結局、得られたはずの何かを振り捨てていたのは、魔法使い自身だったと思い知る。

 いつだったか、忘れてしまうほど遠い昔。繋いでいた大きな手が離れてしまう前に、もし、もう一度自分からその手を掴むことができたなら。
 魔法使いは『魔法使い』にならず、ただの『イクス』とし生きていけただろうか。たった一つでも、人として当たり前の温かさを、その手に握りしめることができただろうか。

 今更だと、魔法使いは心の中で笑った。それはあり得ない夢だった。一度踏み出してしまった後に振り返る記憶など、所詮《しょせん》は永遠に届かない蜃気楼《しんきろう》でしかない。

 それに、今は——まぶたを開けば、夢などより確かな現実が残っている。

「こんな風に誰かがいて、当たり前に過ごしていること。それはなんというか……私には、過ぎたことだと思って」
「なんだよ、今更後悔しているなんて言わないだろうな?」
「こんなもの、今までに比べれば後悔のうちに入るわけもない。ただ、私にとって『過ぎたこと』だったとしても……少しでも、この場所がマシなものであったなら——とな」

 窓の外には穏やかな光景が広がっている。いつしかその景色に心を寄せていたのは、どちらだったのだろう。この光景が幸せだけをもたらすわけではない。いつか振り返る瞬間に涙することもあるかもしれない。

「少しでも——そうであったなら。私はこの選択を、本物の奇跡だったと信じられる」

 騎士は黙って、その横顔を見つめている。揺れることも、嘆くこともなく。まっすぐに願いたどり着いた場所は、本当に温かなものだった。

 それが子供だけでなく、魔法使いを変えたのだとしたら、その奇跡に間違いはなかった。だからこそ、繋いだ手を離すことを——『かなしい』と、思うべきではないのだ。

 温かな記憶に寄せた想いに、魔法使いは名前をつけない。本のページに栞を挟むように、ということだけを覚えておく。

 穏やかな日々、とても優しい、やさしい時間。
 その終わりは、すぐそこにまで迫っていた。

 ※ ※  ※

 古い絵本を開き、子供はその物語を追う。

 物語の主人公は、魔法使いの弟子である少年だ。
 彼はある日、師匠の留守に『願いを叶える杖』を手に入れる。それを使って願いを叶え、少年は多くのものを手に入れていく。欲しかったものや、お金自体。そして果ては権力まで欲し、杖はその願いを叶えた。

 そこまで読んで、子供は思わず苦笑いしてしまった。絵本にしては中々にえげつない。しかしながら、人の欲望はなんてものは、似たり寄ったりなのかもしれなかった。

 物語は進み——抱えきれないほどのものを手に入れた少年は、いつしか虚しさを感じ始める。
 すべてを手に入れたはずのなのに、少年の周りには誰もいなかった。かつては少なからず存在した友人も、誰一人として彼のそばには残っていない。

 そこで彼は願った。『誰かそばに来て欲しい』——その願いも杖は叶える。少年の周りには、常に誰かがいるようになった。けれど、彼がそばにいて欲しいと願った人は、誰一人として現れることはなかった。

 そこまでに至って、少年はやっと気づく。
『願いを叶える杖』は、確かになんでも願いを叶えてくれる。だが——本当に欲しいものだけは、という呪いの上に成り立つものだったのだ、と。

 手に入れるほどに孤独になっていく自分に気づいて、少年はついに魔法の杖を手放した。
 その瞬間、魔法で手に入れたあらゆるものは消えていく。しかし少年の手の中には、たった一つだけ残ったものがあった。

 それは、一番最初に師匠から贈られたなんの変哲も無い杖。
 魔法が初めて使えるようになった記念にと、師匠が少年のために作ってくれた杖だった。

 何もかも失った少年は、一本の杖だけを握りしめ歩き出す。その目には、かつて大切だったものが美しい光として映し出されていた——。

 終わりを告げた物語に込められたもの。それは『本当に大切なものは、魔法だけでは手に入らない』。
 魔法使いが与えた物語にしては、少々皮肉な内容ではあった。けれど魔法使いに関わってきたからこそ、子供には理解できる。魔法使いにとって、この物語は救いだったのだ。

 万能であるが故に、『孤高』へと堕ちた魔法使い。
 けれど魔法では奪い去れない大切なものがあると、魔法使いは伝えようとしたのかもしれない。

「……もう、このお話も終わりだな」

 最後のページをめくり、しばらく眺め——ゆっくりと本を閉じた。
 ぱたんと、密やかな音が部屋の中に響いて、子供は向かいに座る魔法使いを見た。

「イクス、読み終わったよ。ずいぶん時間かかっちゃったけど」
「……そうか、よく頑張ったな。これは絵本にしては難しい方だったのだが」
「そんなの渡してたの? いつも思うけどイクスって厳しすぎだよね」
「一言もないな。だが、別にそれが嫌なわけでもないんだろう」
「まあ、もう慣れたかな。気にならない程度にはなったかも」
「お前はお前で手厳しいな。もう少し褒めれば踊るかもしれんぞ」
「はは、それはそれで見て見たいかも」

 気兼ねなく言葉をかわすことができるようになるとは、最初はお互いに思いもしなかった。
 そばにいればどんなものでも少しずつ情が移るとはいう。だが恐らくそれだけでは、少し足りなかった。時を重ねて、想いを重ねて、その先でやっと重なったからこそ、この光景は存在している。

 それは魔法が起こした奇跡ではなく、積み重ねた先にあった大切な時間だった。

「なあ、イクス」

 子供は微笑んだ。流れていった時間をいとおしむような、優しい笑い方だった。過ごした短い季節を思い返す瞳は、魔法使いをも温かなものとして捉えていた。

「……楽しかったな」

 たった一言だけ。短く紡がれた言葉に魔法使いは目を見開き——そして浮かべたのは不恰好な笑顔だった。互いの想いは、言葉にならなくとも痛いほどに伝わっていく。これが最後になるのだと、『かなしい』想いが胸をかき乱す。
 しかし今は、その想いに囚われはしない。魔法使いは笑う。すべての想いを込めて笑いかける。

「ああ、楽しかった。私も、本当に楽しかったよ。きっと、今まで生きて来て、一番楽しかった」
「そっか」

 良かった。短く告げて、子供は照れ臭そうに笑う。
 その言葉には、本当に全てが込められている。きっと、忘れることはない。魔法使いも子供も、この日々を何度も思い出すだろう。

「だから、おれは行くよ」

 それは最初で最後の、別れの挨拶。

 魔法使いは頷き、目を伏せた。今感じている想いを、子供に背負わせてはならない。この心にある綺麗な想いだけを、この時間に残していく。

「……ああ、そうだな」

 さよならとも、ありがとうとも言えない。
 それでも時間は流れ、その日は静かに訪れる。

 ※ ※  ※

 雪が溶け始め、春が訪れる頃、その日はやってきた。

 家の前に置かれた雪だるまを眺め、子供はゆっくりと歩き出す。
 雪だるまは春を前にして、半ば溶け傾いている。かつての思い出を背に、子供は顔を上げる。振り返ることなく歩いていく。

 見送るものは誰もいない。一人その道を行き——ひときわ高い木の下で足を止める。


「……来たか」
「うん、来た」

 正式な騎士装束をまとったヴィルを前にして、子供は一つだけ頷いた。
 木の枝の先には新たな緑が芽吹く。雪の下から顔をのぞかせた小さな花が強く葉を伸ばす。
 そんな季節真ん中で、子供は歩き出そうとしていた。それはとても嬉しいことだと、騎士は思う。けれど同時にとても哀しいとも思っている。口には出さなくとも、いままでの想いを消すことはできない。

「もう、いいのか」
「うん、別れはもう済ませてきた。……だから、行こう」

 子供は騎士に頷きかけ、自ら前へと歩き出す。地面を踏みしめ進む足取りに、迷いはなかった。まっすぐに、顔を上げ前へと歩いていく。
 決然とした背中にヴィルは何か言いかけ——すぐに口を閉ざす。口にしようとした言葉を胸に閉じ込め、子供の横に並んで歩き出す。

 二人の姿が遠ざかっていく。その後ろ姿を見守るのは、森の木々だけだ。だが決して寂しい道行きではない。子供の黒い瞳には、未来を見据える強い輝きが宿っている。

 だからもう、振り返らない——そのはずだったのに。

 足音が、小さく響いた。聞き慣れてしまった特徴のある、わずかに靴底をこする足音。
 気づけば、子供の足は止まっていた。何かをこらえるように目を伏せ、しかし振り返りはしない。だが騎士にそっと背中を叩かれ、やっと——背後を振り返った。

「——イクス」

 その名を呼んだ。けれど言葉は返らない。魔法使いはまっすぐに子供を見つめていた。緩やかに風が頰を撫で——ゆっくりと歩き出す。子供へと、向かって。


『今、別れるのだとしても』

 子供は歩く。魔法使いへと向かって。ゆっくりと、少しずつ早足で。次第に駆け足で、最後には走り出す。

『それは決して、終わりではない』

 走って、走って。息が切れても止まらない。今、会いに行く。それだけを心に埋めて。

『遠い時間であっても想い続ける。それが本当に——』

「イクス!」

 子供が腕に飛び込んでくる。魔法使いは強く子供を抱きしめた。

 今ここにあると確かめるように、温もりを抱きしめる。

「ただ、これっきりで『さよなら』っていうのもありだとは思ったんだけど」

 両手で小さな顔を包んで、魔法使いは微笑んだ。
 その瞳は穏やかで優しくて、子供の目に透明なものが滲んでいく。

「ひとつだけ、大切なことを忘れていた」

 微笑みのまま、子供の耳元に顔を寄せる。
 穏やかに、安らかな声が子供の耳元で響き、そして。

「お前の旅立ちに、これだけは贈らせてくれ」

 ――そして、魔法使いはその名前を呼んだ。





 もしお前が、いつかこの日を思い出してくれる時があったなら。
 私にとってそれは幸せなことだ。
 ここから私は離れることができないけれど、いつもお前の幸せを祈っている。

 だがあえてここで、さよならとは言わない。
 。そういう魔法なら悪くはないだろう?



 ——森が遠ざかり、空は果てしなく広がっていく。
 子供は振り返らない。けれど決して心が遠ざかることはない。

「なあ、ヴィル。お願いがあるんだけど」
「うん? どうした、俺にできることか」

 珍しい『お願い』に、騎士は不思議そうな顔をする。子供は晴れやかに笑って——一番最初の願いを口にした。

「図鑑をおれにくれないか。調べて、教えてあげたいことがあるんだ。花の名前なんだけど」

 たぶんその物語は、長く続く旅の途中。
 けれど刻まれた記憶は、小さな心をずっと守り続けている。

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