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第一部「君と過ごしたなもなき季節に」編
8:やさしい時間の残し方
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雪が解けるように、木漏れ日が揺れるように。たった一度の季節は緩やかに過ぎていく。
たとえ同じ季節が訪れようとも、同じ風が吹くことはない。出会いはただ一度のもので、二度と同じものは訪れない。だからこそ出会うことは奇跡に似ている。ほんの些細な、出会うことの意味。
魔法より、運命より必然よりも大切なもの。それに気付けたならきっと。
この世界はずっと、やさしくなる。やさしい時間を、残してやれる。
※ ※ ※
時は巡る。ゆっくりと、確実に時間は流れていく。
冬を過ぎた森の木立には、白い雪が降り積もっていた。重たげに枝を下げ、疎ましそうに雪のかけらを降らせた梢の下で、子供が熱心に雪玉を転がしている。
それを少し離れた場所で眺めていた魔法使いは、白い息を吐き出し身を震わせた。
季節は冬の真ん中を越え、一番寒い時期は通り過ぎていた。あとは春に向かって暖かくなっていくだけ——とは言え、雪が溶けるにはまだ早い。
見事に晴れ渡っていても、雪が残る森に吹く風は冷え冷えとしている。それでも子供は活発に動き回っていた。寒さを感じないのだろうか——疑問に感じたものの、魔法使いが疑問を口にすることはない。
考えるまでもなく、寒いものは寒い。ただ感じ方が違う。単にそれだけなのだろうと、魔法使いは襟元をかき合わせた。
「元気だなあ。若いというのは羨ましい限りだ」
背後でそんなぼやきをもらした騎士に、魔法使いは苦笑いを浮かべる。若いなどと羨む台詞を口にしているが、騎士は青年と言っていい年齢のはずだ。
わざわざ子供を羨むあたり、自分の年齢を気にし始めているのか。密かに笑いを噛み殺しながら、魔法使いは意趣返しとばかりに言葉を放つ。
「若さを羨むなんて騎士にあるまじき行為だな。中年になると子供がそんな風に映るものなのか?」
「……ある程度年齢行くと、子供の頃が懐かしくなるもんだよ。俺よりずっと歳食ってる癖に白々しいぞ。それに騎士関係ないし。そして俺は中年でもない」
「なるほどな。みな無い物ねだりという事か。そして首を絞めるななヴィルヘルム」
首を絞め上げ始めた騎士に、魔法使いは腕を叩いて抗議する。しかし当然というべきか、ヴィルは華麗にそれを無視した。
当人たちが真剣であることを差し引いても、傍目からはじゃれ合いにしか見えない。
そんな地味な命のやり取りに気づいた子供は、大人たちに呆れの混じった苦笑いを向けた。
「なにやってるの? そんなことしてるとイクスの首が折れちゃうよ」
「大丈夫だ。折れない絶妙な力加減を実現している」
「折れなければいいというものではないぞ。私は今、冗談ではなく死に向かっている」
「大丈夫だ。お前はそれくらいじゃ死なないと信じている」
「それって大丈夫なの?」
「結論から言おう。大丈夫なわけは——ない!」
言うなり魔法使いは顎を引き、勢いをつけてヴィルの顎に頭を打ち付けた。
ごん、と音がして、さすがの騎士も仰け反り一歩後退る。その瞬間、無防備な顔面に向かって雪玉の一撃が炸裂した。無論投げたのは魔法使いだ。騎士は雪を貼り付けたまま、無言で立ち尽くす。
「侮るな、『黒獅子』。お前はいつも詰めが甘い」
「……ふ、ふ」
騎士の顔から雪がはがれ落ち、下から満面の笑顔が現れた。一片の曇りもない笑顔なのに、薄青い目は全く笑っていない。笑いながら雪を集め始めたヴィルの姿に、子供の顔が引きつる。
「ねえ、あれって大丈夫なの?」
「いやあれは終わった」
「勝手に終わらすな馬鹿野郎っ! これでも喰らえ——‼︎」
大人気ない叫びと共に、無数の雪玉が乱れ飛ぶ。笑顔で雪玉を投げつけてくる黒い騎士から、魔法使いと子供は逃走する。
雪玉を投げつけられて、そのうち投げ返して当て返して。
寒いばかりだった森の中に、楽しげな笑い声が響く。
※ ※ ※
「いやあ、さすがに冷えた、冷えた」
椅子に腰掛けるなりそういって、ヴィルは両手をさすった。
その目の前に熱い茶を置いてやりながら、『はしゃぎすぎなんだよ』と魔法使いは呟く。
窓の外を見れば、子供の雪だるま製作も佳境に入っている。
大きな雪玉を重ねてしまえば、雪だるまは子供の背よりも高くなっていた。さすがにそんな大きな雪玉を子供が重ねられるわけもない。だから重ねたのはヴィルだが、それ以外は子供作だ。
残るは雪だるまの飾り付けだけ。熱心に目の位置を調整している子供を眺めながら、ヴィルは笑う。
「今更だけど、ずいぶん変わったな」
同じように窓の外を見つめ、魔法使いは静かに頷いた。
「まあ、な。前より口数も増えたし……そのぶん、文句や反論も増えたが」
「それはそうなんだがなぁ。ま、言わぬが華か」
「含みのある言い方だな。何か文句でもあるのか」
「だからさ。悪くない、って言ってるんだよ」
悪びれもせず騎士は笑う。なんとなく納得できず、魔法使いは口元をへの字に曲げる。
変わった、と言われれば、確かに変わったのだろう。単純に存在が馴染んだというだけではなく、心とそのものが通った。たぶん、そういうことなのだ。
けれどそれを指摘されてしまうと、どうにもむず痒さが先立つ。魔法使いが中途半端な笑みを浮かべると、ヴィルは軽く瞬いて片眉を吊り上げた。
「なんだよ、変な顔してさ」
「いや。ただ、なんと言うか……おかしなものだと思ってな」
「何がだ?」
取り留めのない感情を見定めるように、魔法使いは目を閉じた。
こんな自分では、何かを得ることなどできないと思っていた。しかし強く手を伸ばせば、カケラくらいは掴み取れたのだろう。結局、得られたはずの何かを振り捨てていたのは、魔法使い自身だったと思い知る。
いつだったか、忘れてしまうほど遠い昔。繋いでいた大きな手が離れてしまう前に、もし、もう一度自分からその手を掴むことができたなら。
魔法使いは『魔法使い』にならず、ただの『イクス』とし生きていけただろうか。たった一つでも、人として当たり前の温かさを、その手に握りしめることができただろうか。
今更だと、魔法使いは心の中で笑った。それはあり得ない夢だった。一度踏み出してしまった後に振り返る記憶など、所詮《しょせん》は永遠に届かない蜃気楼《しんきろう》でしかない。
それに、今は——まぶたを開けば、夢などより確かな現実が残っている。
「こんな風に誰かがいて、当たり前に過ごしていること。それはなんというか……私には、過ぎたことだと思って」
「なんだよ、今更後悔しているなんて言わないだろうな?」
「こんなもの、今までに比べれば後悔のうちに入るわけもない。ただ、私にとって『過ぎたこと』だったとしても……少しでも、この場所がマシなものであったなら——とな」
窓の外には穏やかな光景が広がっている。いつしかその景色に心を寄せていたのは、どちらだったのだろう。この光景が幸せだけをもたらすわけではない。いつか振り返る瞬間に涙することもあるかもしれない。
「少しでも——そうであったなら。私はこの選択を、本物の奇跡だったと信じられる」
騎士は黙って、その横顔を見つめている。揺れることも、嘆くこともなく。まっすぐに願いたどり着いた場所は、本当に温かなものだった。
それが子供だけでなく、魔法使いを変えたのだとしたら、その奇跡に間違いはなかった。だからこそ、繋いだ手を離すことを——『かなしい』と、思うべきではないのだ。
温かな記憶に寄せた想いに、魔法使いは名前をつけない。本のページに栞を挟むように、そこにあったということだけを覚えておく。
穏やかな日々、とても優しい、やさしい時間。
その終わりは、すぐそこにまで迫っていた。
※ ※ ※
古い絵本を開き、子供はその物語を追う。
物語の主人公は、魔法使いの弟子である少年だ。
彼はある日、師匠の留守に『願いを叶える杖』を手に入れる。それを使って願いを叶え、少年は多くのものを手に入れていく。欲しかったものや、お金自体。そして果ては権力まで欲し、杖はその願いを叶えた。
そこまで読んで、子供は思わず苦笑いしてしまった。絵本にしては中々にえげつない。しかしながら、人の欲望はなんてものは、似たり寄ったりなのかもしれなかった。
物語は進み——抱えきれないほどのものを手に入れた少年は、いつしか虚しさを感じ始める。
すべてを手に入れたはずのなのに、少年の周りには誰もいなかった。かつては少なからず存在した友人も、誰一人として彼のそばには残っていない。
そこで彼は願った。『誰かそばに来て欲しい』——その願いも杖は叶える。少年の周りには、常に誰かがいるようになった。けれど、彼がそばにいて欲しいと願った人は、誰一人として現れることはなかった。
そこまでに至って、少年はやっと気づく。
『願いを叶える杖』は、確かになんでも願いを叶えてくれる。だが——本当に欲しいものだけは、決して手に入らないという呪いの上に成り立つものだったのだ、と。
手に入れるほどに孤独になっていく自分に気づいて、少年はついに魔法の杖を手放した。
その瞬間、魔法で手に入れたあらゆるものは消えていく。しかし少年の手の中には、たった一つだけ残ったものがあった。
それは、一番最初に師匠から贈られたなんの変哲も無い杖。
魔法が初めて使えるようになった記念にと、師匠が少年のために作ってくれた杖だった。
何もかも失った少年は、一本の杖だけを握りしめ歩き出す。その目には、かつて大切だったものが美しい光として映し出されていた——。
終わりを告げた物語に込められたもの。それは『本当に大切なものは、魔法だけでは手に入らない』。
魔法使いが与えた物語にしては、少々皮肉な内容ではあった。けれど魔法使いに関わってきたからこそ、子供には理解できる。魔法使いにとって、この物語は救いだったのだ。
万能であるが故に、『孤高』へと堕ちた魔法使い。
けれど魔法では奪い去れない大切なものがあると、魔法使いは伝えようとしたのかもしれない。
「……もう、このお話も終わりだな」
最後のページをめくり、しばらく眺め——ゆっくりと本を閉じた。
ぱたんと、密やかな音が部屋の中に響いて、子供は向かいに座る魔法使いを見た。
「イクス、読み終わったよ。ずいぶん時間かかっちゃったけど」
「……そうか、よく頑張ったな。これは絵本にしては難しい方だったのだが」
「そんなの渡してたの? いつも思うけどイクスって厳しすぎだよね」
「一言もないな。だが、別にそれが嫌なわけでもないんだろう」
「まあ、もう慣れたかな。気にならない程度にはなったかも」
「お前はお前で手厳しいな。もう少し褒めれば踊るかもしれんぞ」
「はは、それはそれで見て見たいかも」
気兼ねなく言葉をかわすことができるようになるとは、最初はお互いに思いもしなかった。
そばにいればどんなものでも少しずつ情が移るとはいう。だが恐らくそれだけでは、少し足りなかった。時を重ねて、想いを重ねて、その先でやっと重なったからこそ、この光景は存在している。
それは魔法が起こした奇跡ではなく、積み重ねた先にあった大切な時間だった。
「なあ、イクス」
子供は微笑んだ。流れていった時間をいとおしむような、優しい笑い方だった。過ごした短い季節を思い返す瞳は、魔法使いをも温かなものとして捉えていた。
「……楽しかったな」
たった一言だけ。短く紡がれた言葉に魔法使いは目を見開き——そして浮かべたのは不恰好な笑顔だった。互いの想いは、言葉にならなくとも痛いほどに伝わっていく。これが最後になるのだと、『かなしい』想いが胸をかき乱す。
しかし今は、その想いに囚われはしない。魔法使いは笑う。すべての想いを込めて笑いかける。
「ああ、楽しかった。私も、本当に楽しかったよ。きっと、今まで生きて来て、一番楽しかった」
「そっか」
良かった。短く告げて、子供は照れ臭そうに笑う。
その言葉には、本当に全てが込められている。きっと、忘れることはない。魔法使いも子供も、この日々を何度も思い出すだろう。
「だから、おれは行くよ」
それは最初で最後の、別れの挨拶。
魔法使いは頷き、目を伏せた。今感じている想いを、子供に背負わせてはならない。この心にある綺麗な想いだけを、この時間に残していく。
「……ああ、そうだな」
さよならとも、ありがとうとも言えない。
それでも時間は流れ、その日は静かに訪れる。
※ ※ ※
雪が溶け始め、春が訪れる頃、その日はやってきた。
家の前に置かれた雪だるまを眺め、子供はゆっくりと歩き出す。
雪だるまは春を前にして、半ば溶け傾いている。かつての思い出を背に、子供は顔を上げる。振り返ることなく歩いていく。
見送るものは誰もいない。一人その道を行き——ひときわ高い木の下で足を止める。
「……来たか」
「うん、来た」
正式な騎士装束をまとったヴィルを前にして、子供は一つだけ頷いた。
木の枝の先には新たな緑が芽吹く。雪の下から顔をのぞかせた小さな花が強く葉を伸ばす。
そんな季節真ん中で、子供は歩き出そうとしていた。それはとても嬉しいことだと、騎士は思う。けれど同時にとても哀しいとも思っている。口には出さなくとも、いままでの想いを消すことはできない。
「もう、いいのか」
「うん、別れはもう済ませてきた。……だから、行こう」
子供は騎士に頷きかけ、自ら前へと歩き出す。地面を踏みしめ進む足取りに、迷いはなかった。まっすぐに、顔を上げ前へと歩いていく。
決然とした背中にヴィルは何か言いかけ——すぐに口を閉ざす。口にしようとした言葉を胸に閉じ込め、子供の横に並んで歩き出す。
二人の姿が遠ざかっていく。その後ろ姿を見守るのは、森の木々だけだ。だが決して寂しい道行きではない。子供の黒い瞳には、未来を見据える強い輝きが宿っている。
だからもう、振り返らない——そのはずだったのに。
足音が、小さく響いた。聞き慣れてしまった特徴のある、わずかに靴底をこする足音。
気づけば、子供の足は止まっていた。何かをこらえるように目を伏せ、しかし振り返りはしない。だが騎士にそっと背中を叩かれ、やっと——背後を振り返った。
「——イクス」
その名を呼んだ。けれど言葉は返らない。魔法使いはまっすぐに子供を見つめていた。緩やかに風が頰を撫で——ゆっくりと歩き出す。子供へと、向かって。
『今、別れるのだとしても』
子供は歩く。魔法使いへと向かって。ゆっくりと、少しずつ早足で。次第に駆け足で、最後には走り出す。
『それは決して、終わりではない』
走って、走って。息が切れても止まらない。今、会いに行く。それだけを心に埋めて。
『遠い時間であっても想い続ける。それが本当に——』
「イクス!」
子供が腕に飛び込んでくる。魔法使いは強く子供を抱きしめた。
今ここにあると確かめるように、温もりを抱きしめる。
「ただ、これっきりで『さよなら』っていうのもありだとは思ったんだけど」
両手で小さな顔を包んで、魔法使いは微笑んだ。
その瞳は穏やかで優しくて、子供の目に透明なものが滲んでいく。
「ひとつだけ、大切なことを忘れていた」
微笑みのまま、子供の耳元に顔を寄せる。
穏やかに、安らかな声が子供の耳元で響き、そして。
「お前の旅立ちに、これだけは贈らせてくれ」
――そして、魔法使いはその名前を呼んだ。
「トワル」
もしお前が、いつかこの日を思い出してくれる時があったなら。
私にとってそれは幸せなことだ。
ここから私は離れることができないけれど、いつもお前の幸せを祈っている。
だがあえてここで、さよならとは言わない。
またいつか会おう。そういう魔法なら悪くはないだろう?
——森が遠ざかり、空は果てしなく広がっていく。
子供は振り返らない。けれど決して心が遠ざかることはない。
「なあ、ヴィル。お願いがあるんだけど」
「うん? どうした、俺にできることか」
珍しい『お願い』に、騎士は不思議そうな顔をする。子供は晴れやかに笑って——一番最初の願いを口にした。
「図鑑をおれにくれないか。調べて、教えてあげたいことがあるんだ。花の名前なんだけど」
たぶんその物語は、長く続く旅の途中。
けれど刻まれた記憶は、小さな心をずっと守り続けている。
たとえ同じ季節が訪れようとも、同じ風が吹くことはない。出会いはただ一度のもので、二度と同じものは訪れない。だからこそ出会うことは奇跡に似ている。ほんの些細な、出会うことの意味。
魔法より、運命より必然よりも大切なもの。それに気付けたならきっと。
この世界はずっと、やさしくなる。やさしい時間を、残してやれる。
※ ※ ※
時は巡る。ゆっくりと、確実に時間は流れていく。
冬を過ぎた森の木立には、白い雪が降り積もっていた。重たげに枝を下げ、疎ましそうに雪のかけらを降らせた梢の下で、子供が熱心に雪玉を転がしている。
それを少し離れた場所で眺めていた魔法使いは、白い息を吐き出し身を震わせた。
季節は冬の真ん中を越え、一番寒い時期は通り過ぎていた。あとは春に向かって暖かくなっていくだけ——とは言え、雪が溶けるにはまだ早い。
見事に晴れ渡っていても、雪が残る森に吹く風は冷え冷えとしている。それでも子供は活発に動き回っていた。寒さを感じないのだろうか——疑問に感じたものの、魔法使いが疑問を口にすることはない。
考えるまでもなく、寒いものは寒い。ただ感じ方が違う。単にそれだけなのだろうと、魔法使いは襟元をかき合わせた。
「元気だなあ。若いというのは羨ましい限りだ」
背後でそんなぼやきをもらした騎士に、魔法使いは苦笑いを浮かべる。若いなどと羨む台詞を口にしているが、騎士は青年と言っていい年齢のはずだ。
わざわざ子供を羨むあたり、自分の年齢を気にし始めているのか。密かに笑いを噛み殺しながら、魔法使いは意趣返しとばかりに言葉を放つ。
「若さを羨むなんて騎士にあるまじき行為だな。中年になると子供がそんな風に映るものなのか?」
「……ある程度年齢行くと、子供の頃が懐かしくなるもんだよ。俺よりずっと歳食ってる癖に白々しいぞ。それに騎士関係ないし。そして俺は中年でもない」
「なるほどな。みな無い物ねだりという事か。そして首を絞めるななヴィルヘルム」
首を絞め上げ始めた騎士に、魔法使いは腕を叩いて抗議する。しかし当然というべきか、ヴィルは華麗にそれを無視した。
当人たちが真剣であることを差し引いても、傍目からはじゃれ合いにしか見えない。
そんな地味な命のやり取りに気づいた子供は、大人たちに呆れの混じった苦笑いを向けた。
「なにやってるの? そんなことしてるとイクスの首が折れちゃうよ」
「大丈夫だ。折れない絶妙な力加減を実現している」
「折れなければいいというものではないぞ。私は今、冗談ではなく死に向かっている」
「大丈夫だ。お前はそれくらいじゃ死なないと信じている」
「それって大丈夫なの?」
「結論から言おう。大丈夫なわけは——ない!」
言うなり魔法使いは顎を引き、勢いをつけてヴィルの顎に頭を打ち付けた。
ごん、と音がして、さすがの騎士も仰け反り一歩後退る。その瞬間、無防備な顔面に向かって雪玉の一撃が炸裂した。無論投げたのは魔法使いだ。騎士は雪を貼り付けたまま、無言で立ち尽くす。
「侮るな、『黒獅子』。お前はいつも詰めが甘い」
「……ふ、ふ」
騎士の顔から雪がはがれ落ち、下から満面の笑顔が現れた。一片の曇りもない笑顔なのに、薄青い目は全く笑っていない。笑いながら雪を集め始めたヴィルの姿に、子供の顔が引きつる。
「ねえ、あれって大丈夫なの?」
「いやあれは終わった」
「勝手に終わらすな馬鹿野郎っ! これでも喰らえ——‼︎」
大人気ない叫びと共に、無数の雪玉が乱れ飛ぶ。笑顔で雪玉を投げつけてくる黒い騎士から、魔法使いと子供は逃走する。
雪玉を投げつけられて、そのうち投げ返して当て返して。
寒いばかりだった森の中に、楽しげな笑い声が響く。
※ ※ ※
「いやあ、さすがに冷えた、冷えた」
椅子に腰掛けるなりそういって、ヴィルは両手をさすった。
その目の前に熱い茶を置いてやりながら、『はしゃぎすぎなんだよ』と魔法使いは呟く。
窓の外を見れば、子供の雪だるま製作も佳境に入っている。
大きな雪玉を重ねてしまえば、雪だるまは子供の背よりも高くなっていた。さすがにそんな大きな雪玉を子供が重ねられるわけもない。だから重ねたのはヴィルだが、それ以外は子供作だ。
残るは雪だるまの飾り付けだけ。熱心に目の位置を調整している子供を眺めながら、ヴィルは笑う。
「今更だけど、ずいぶん変わったな」
同じように窓の外を見つめ、魔法使いは静かに頷いた。
「まあ、な。前より口数も増えたし……そのぶん、文句や反論も増えたが」
「それはそうなんだがなぁ。ま、言わぬが華か」
「含みのある言い方だな。何か文句でもあるのか」
「だからさ。悪くない、って言ってるんだよ」
悪びれもせず騎士は笑う。なんとなく納得できず、魔法使いは口元をへの字に曲げる。
変わった、と言われれば、確かに変わったのだろう。単純に存在が馴染んだというだけではなく、心とそのものが通った。たぶん、そういうことなのだ。
けれどそれを指摘されてしまうと、どうにもむず痒さが先立つ。魔法使いが中途半端な笑みを浮かべると、ヴィルは軽く瞬いて片眉を吊り上げた。
「なんだよ、変な顔してさ」
「いや。ただ、なんと言うか……おかしなものだと思ってな」
「何がだ?」
取り留めのない感情を見定めるように、魔法使いは目を閉じた。
こんな自分では、何かを得ることなどできないと思っていた。しかし強く手を伸ばせば、カケラくらいは掴み取れたのだろう。結局、得られたはずの何かを振り捨てていたのは、魔法使い自身だったと思い知る。
いつだったか、忘れてしまうほど遠い昔。繋いでいた大きな手が離れてしまう前に、もし、もう一度自分からその手を掴むことができたなら。
魔法使いは『魔法使い』にならず、ただの『イクス』とし生きていけただろうか。たった一つでも、人として当たり前の温かさを、その手に握りしめることができただろうか。
今更だと、魔法使いは心の中で笑った。それはあり得ない夢だった。一度踏み出してしまった後に振り返る記憶など、所詮《しょせん》は永遠に届かない蜃気楼《しんきろう》でしかない。
それに、今は——まぶたを開けば、夢などより確かな現実が残っている。
「こんな風に誰かがいて、当たり前に過ごしていること。それはなんというか……私には、過ぎたことだと思って」
「なんだよ、今更後悔しているなんて言わないだろうな?」
「こんなもの、今までに比べれば後悔のうちに入るわけもない。ただ、私にとって『過ぎたこと』だったとしても……少しでも、この場所がマシなものであったなら——とな」
窓の外には穏やかな光景が広がっている。いつしかその景色に心を寄せていたのは、どちらだったのだろう。この光景が幸せだけをもたらすわけではない。いつか振り返る瞬間に涙することもあるかもしれない。
「少しでも——そうであったなら。私はこの選択を、本物の奇跡だったと信じられる」
騎士は黙って、その横顔を見つめている。揺れることも、嘆くこともなく。まっすぐに願いたどり着いた場所は、本当に温かなものだった。
それが子供だけでなく、魔法使いを変えたのだとしたら、その奇跡に間違いはなかった。だからこそ、繋いだ手を離すことを——『かなしい』と、思うべきではないのだ。
温かな記憶に寄せた想いに、魔法使いは名前をつけない。本のページに栞を挟むように、そこにあったということだけを覚えておく。
穏やかな日々、とても優しい、やさしい時間。
その終わりは、すぐそこにまで迫っていた。
※ ※ ※
古い絵本を開き、子供はその物語を追う。
物語の主人公は、魔法使いの弟子である少年だ。
彼はある日、師匠の留守に『願いを叶える杖』を手に入れる。それを使って願いを叶え、少年は多くのものを手に入れていく。欲しかったものや、お金自体。そして果ては権力まで欲し、杖はその願いを叶えた。
そこまで読んで、子供は思わず苦笑いしてしまった。絵本にしては中々にえげつない。しかしながら、人の欲望はなんてものは、似たり寄ったりなのかもしれなかった。
物語は進み——抱えきれないほどのものを手に入れた少年は、いつしか虚しさを感じ始める。
すべてを手に入れたはずのなのに、少年の周りには誰もいなかった。かつては少なからず存在した友人も、誰一人として彼のそばには残っていない。
そこで彼は願った。『誰かそばに来て欲しい』——その願いも杖は叶える。少年の周りには、常に誰かがいるようになった。けれど、彼がそばにいて欲しいと願った人は、誰一人として現れることはなかった。
そこまでに至って、少年はやっと気づく。
『願いを叶える杖』は、確かになんでも願いを叶えてくれる。だが——本当に欲しいものだけは、決して手に入らないという呪いの上に成り立つものだったのだ、と。
手に入れるほどに孤独になっていく自分に気づいて、少年はついに魔法の杖を手放した。
その瞬間、魔法で手に入れたあらゆるものは消えていく。しかし少年の手の中には、たった一つだけ残ったものがあった。
それは、一番最初に師匠から贈られたなんの変哲も無い杖。
魔法が初めて使えるようになった記念にと、師匠が少年のために作ってくれた杖だった。
何もかも失った少年は、一本の杖だけを握りしめ歩き出す。その目には、かつて大切だったものが美しい光として映し出されていた——。
終わりを告げた物語に込められたもの。それは『本当に大切なものは、魔法だけでは手に入らない』。
魔法使いが与えた物語にしては、少々皮肉な内容ではあった。けれど魔法使いに関わってきたからこそ、子供には理解できる。魔法使いにとって、この物語は救いだったのだ。
万能であるが故に、『孤高』へと堕ちた魔法使い。
けれど魔法では奪い去れない大切なものがあると、魔法使いは伝えようとしたのかもしれない。
「……もう、このお話も終わりだな」
最後のページをめくり、しばらく眺め——ゆっくりと本を閉じた。
ぱたんと、密やかな音が部屋の中に響いて、子供は向かいに座る魔法使いを見た。
「イクス、読み終わったよ。ずいぶん時間かかっちゃったけど」
「……そうか、よく頑張ったな。これは絵本にしては難しい方だったのだが」
「そんなの渡してたの? いつも思うけどイクスって厳しすぎだよね」
「一言もないな。だが、別にそれが嫌なわけでもないんだろう」
「まあ、もう慣れたかな。気にならない程度にはなったかも」
「お前はお前で手厳しいな。もう少し褒めれば踊るかもしれんぞ」
「はは、それはそれで見て見たいかも」
気兼ねなく言葉をかわすことができるようになるとは、最初はお互いに思いもしなかった。
そばにいればどんなものでも少しずつ情が移るとはいう。だが恐らくそれだけでは、少し足りなかった。時を重ねて、想いを重ねて、その先でやっと重なったからこそ、この光景は存在している。
それは魔法が起こした奇跡ではなく、積み重ねた先にあった大切な時間だった。
「なあ、イクス」
子供は微笑んだ。流れていった時間をいとおしむような、優しい笑い方だった。過ごした短い季節を思い返す瞳は、魔法使いをも温かなものとして捉えていた。
「……楽しかったな」
たった一言だけ。短く紡がれた言葉に魔法使いは目を見開き——そして浮かべたのは不恰好な笑顔だった。互いの想いは、言葉にならなくとも痛いほどに伝わっていく。これが最後になるのだと、『かなしい』想いが胸をかき乱す。
しかし今は、その想いに囚われはしない。魔法使いは笑う。すべての想いを込めて笑いかける。
「ああ、楽しかった。私も、本当に楽しかったよ。きっと、今まで生きて来て、一番楽しかった」
「そっか」
良かった。短く告げて、子供は照れ臭そうに笑う。
その言葉には、本当に全てが込められている。きっと、忘れることはない。魔法使いも子供も、この日々を何度も思い出すだろう。
「だから、おれは行くよ」
それは最初で最後の、別れの挨拶。
魔法使いは頷き、目を伏せた。今感じている想いを、子供に背負わせてはならない。この心にある綺麗な想いだけを、この時間に残していく。
「……ああ、そうだな」
さよならとも、ありがとうとも言えない。
それでも時間は流れ、その日は静かに訪れる。
※ ※ ※
雪が溶け始め、春が訪れる頃、その日はやってきた。
家の前に置かれた雪だるまを眺め、子供はゆっくりと歩き出す。
雪だるまは春を前にして、半ば溶け傾いている。かつての思い出を背に、子供は顔を上げる。振り返ることなく歩いていく。
見送るものは誰もいない。一人その道を行き——ひときわ高い木の下で足を止める。
「……来たか」
「うん、来た」
正式な騎士装束をまとったヴィルを前にして、子供は一つだけ頷いた。
木の枝の先には新たな緑が芽吹く。雪の下から顔をのぞかせた小さな花が強く葉を伸ばす。
そんな季節真ん中で、子供は歩き出そうとしていた。それはとても嬉しいことだと、騎士は思う。けれど同時にとても哀しいとも思っている。口には出さなくとも、いままでの想いを消すことはできない。
「もう、いいのか」
「うん、別れはもう済ませてきた。……だから、行こう」
子供は騎士に頷きかけ、自ら前へと歩き出す。地面を踏みしめ進む足取りに、迷いはなかった。まっすぐに、顔を上げ前へと歩いていく。
決然とした背中にヴィルは何か言いかけ——すぐに口を閉ざす。口にしようとした言葉を胸に閉じ込め、子供の横に並んで歩き出す。
二人の姿が遠ざかっていく。その後ろ姿を見守るのは、森の木々だけだ。だが決して寂しい道行きではない。子供の黒い瞳には、未来を見据える強い輝きが宿っている。
だからもう、振り返らない——そのはずだったのに。
足音が、小さく響いた。聞き慣れてしまった特徴のある、わずかに靴底をこする足音。
気づけば、子供の足は止まっていた。何かをこらえるように目を伏せ、しかし振り返りはしない。だが騎士にそっと背中を叩かれ、やっと——背後を振り返った。
「——イクス」
その名を呼んだ。けれど言葉は返らない。魔法使いはまっすぐに子供を見つめていた。緩やかに風が頰を撫で——ゆっくりと歩き出す。子供へと、向かって。
『今、別れるのだとしても』
子供は歩く。魔法使いへと向かって。ゆっくりと、少しずつ早足で。次第に駆け足で、最後には走り出す。
『それは決して、終わりではない』
走って、走って。息が切れても止まらない。今、会いに行く。それだけを心に埋めて。
『遠い時間であっても想い続ける。それが本当に——』
「イクス!」
子供が腕に飛び込んでくる。魔法使いは強く子供を抱きしめた。
今ここにあると確かめるように、温もりを抱きしめる。
「ただ、これっきりで『さよなら』っていうのもありだとは思ったんだけど」
両手で小さな顔を包んで、魔法使いは微笑んだ。
その瞳は穏やかで優しくて、子供の目に透明なものが滲んでいく。
「ひとつだけ、大切なことを忘れていた」
微笑みのまま、子供の耳元に顔を寄せる。
穏やかに、安らかな声が子供の耳元で響き、そして。
「お前の旅立ちに、これだけは贈らせてくれ」
――そして、魔法使いはその名前を呼んだ。
「トワル」
もしお前が、いつかこの日を思い出してくれる時があったなら。
私にとってそれは幸せなことだ。
ここから私は離れることができないけれど、いつもお前の幸せを祈っている。
だがあえてここで、さよならとは言わない。
またいつか会おう。そういう魔法なら悪くはないだろう?
——森が遠ざかり、空は果てしなく広がっていく。
子供は振り返らない。けれど決して心が遠ざかることはない。
「なあ、ヴィル。お願いがあるんだけど」
「うん? どうした、俺にできることか」
珍しい『お願い』に、騎士は不思議そうな顔をする。子供は晴れやかに笑って——一番最初の願いを口にした。
「図鑑をおれにくれないか。調べて、教えてあげたいことがあるんだ。花の名前なんだけど」
たぶんその物語は、長く続く旅の途中。
けれど刻まれた記憶は、小さな心をずっと守り続けている。
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