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第一部「君と過ごしたなもなき季節に」編
0:ひとりぼっちの魔法使い
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――その森には、魔法使いが住んでいる。
深い深い森の奥、人も寄り付かない場所で独りきり。たまに訪れるのは監視役の騎士と、窓辺に止まる鳥たちだけ。
森の奥の家でひとり、なにもない日々を数えて暮らす。
時を数えるのも忘れてしまうほど長い間。魔法使いはひとりぼっちだった。
そんな彼を人は、孤高の魔法使いと呼んだ。
けれど彼が、その呼び名を望んだことは、一度たりともなかった。
※ ※ ※
この出会いを、運命と間違っても呼ぶことはできない。
魔法使いは孤独なものなのだと、彼を育てた師は言った。
誰にも心許すことなく、ゆえに誰にも理解されない。それは人そのものよりも世界の理に寄り添い、ときに世界に反逆してきた魔法使いにとって、当然の『理《ことわり》』であるのだ、と。
だから彼——魔法使い『イクス』にとって、この森の静けさは愛すべきものだった。
人はわずかな例外を除き訪れない。それは紛れも無い『孤独』だったが、何者にも侵されることのない静寂を、いとおしいものと感じていた。
耳に届くのは森の木々のざわめきと、遠くで鳴く鳥の声だけ。夜は灯りもなく、輝くのは空の星と月のみ。
そんな日々を、彼は愛していた。
たとえどれほど孤独だとしても、確かに愛していた。
――少なくとも、あの日。
森の中でうずくまり震える、小さな子供に出会うまでは。
※ ※ ※
魔法使いは、目の前にうずくまるものを無感情に見つめていた。
森の木々は静かに葉を落とし、鮮やかに地面を彩っている。歩めば地面を踏みしめる音が響き、湿り気を含んだ土の香りがした。
あと少しで日も暮れ、じきに夜が訪れるだろう。
木々の影が長く伸び、暗さを増していく空を眺めてから、魔法使いは再び『それ』を見た。
『それ』は、使い古した布のようにボロボロで、どこもかしこも泥をかぶり汚れていた。
何処かから逃げてきたのだろうか?
特に感慨もなく、ため息を漏らす。ふと頭に浮かんだのは、近隣諸国の情勢の変化だった。
最近、隣国の王が崩御した結果、後継者争いによる内乱が起こっているのだという。
そのためこの国まで難民が大量に流入しているのだと、監視役である騎士が言っていたのを思い出す。
例の隣国との国境は、まさに今この森がある地域だった。
だとしたら、多くの難民がこの森にまで押し寄せるのだろうか。どうでもいいが面倒な話だ。そう感想を漏らした数日前のことが頭をよぎる。
そして今、その戦乱の現実が目の前にうずくまっている。
おそらく、隣国の難民の子供なのだろう。
『それ』は小さく、とてもやせ細っていた。身につけている服はボロ切れにしか見えず、靴のない素足は傷と土で汚れきってる。
微動だにしない小さな姿は、普通なら哀れを誘っても不思議ではない。だが、魔法使いは目をそらすこともなく、ただその姿を見つめていた。
――どうせ、もう生きてはいない。ここまで逃げてきて、力尽きたのだろう。
名も知らぬ、どこの誰ともわからぬ子供だった。
しかし命の消えたその身体は、物言わぬ肉塊でしかない。それがわかってしまったから、魔法使いは興味を失い目をそらした。
だけどもし。
たとえば、その子供がまだ生きていたなら?
魔法使いは小さな骸に背を向ける。
口元に苦い笑みが広がるのを感じ、魔法使いは戸惑い首を振った。
監視役の騎士が見たら腰を抜かしそうなくらいに、苦々しい笑いだった。
思わず浮かんだ『もしも』の話は、あまりにも無意味な仮定だった。
その子供が生きていたなら、どうしたというのだろう? 抱き上げて温めて? そんなこと考えられない。
考えられるわけがなかった。
魔法使いは孤独な生き物だ。
誰かの手をとって救い上げるなど、そんなことは夢にも思いはしない。
冷たい枯葉を踏みしめ、歩き出した。そのはずだった。
けれど、その瞬間、何かが裾を引っ張った。
強い力ではない。それなのに、ひどく切羽詰まったものを感じ、魔法使いは振り返る。
そして、目に映ったのは――。
最後の力を振り絞るようにして裾を握りしめる、ボロボロの子供の姿だった。
あまりにも弱々しいのに、怨念に近いほどの生への執着を感じる瞳。
魔法使いは、小さく息を呑んだ。それほどまでに醜く鮮やかな、幼くも激しい生への渇望。
「たす、けて」
ひび割れた唇が、かすれた声を吐き出した。
魔法使いは動けなかった。
振り払うことなど簡単なはずなのに、見捨てることは更に容易いはずなのに。
魔法使いは動かなかった。闇のような黒い瞳から逃れることができない。
「たすけ、て。たすけて」
繰り返す。壊れたように、狂ったように。
それはきっと、本当に恐ろしいまでの執念。
生きていたい。生きたい、生き続けたい。
「――助けて‼」
幼くとも、いや幼いからこそ。生への叫びは純粋なものだった。
魔法使いは驚いたように、子どもを見下ろした。
やっと本当に『それ』が、生きた人間だと気付いてしまったから。
――ここから始まるのは、忘れえぬ優しくも苦い季節の話。
魔法使いは、初めてこの腕に小さな命を抱きしめる。
のちに魔法使いは、それを人生ただ一度の『奇跡』と呼んだ。
深い深い森の奥、人も寄り付かない場所で独りきり。たまに訪れるのは監視役の騎士と、窓辺に止まる鳥たちだけ。
森の奥の家でひとり、なにもない日々を数えて暮らす。
時を数えるのも忘れてしまうほど長い間。魔法使いはひとりぼっちだった。
そんな彼を人は、孤高の魔法使いと呼んだ。
けれど彼が、その呼び名を望んだことは、一度たりともなかった。
※ ※ ※
この出会いを、運命と間違っても呼ぶことはできない。
魔法使いは孤独なものなのだと、彼を育てた師は言った。
誰にも心許すことなく、ゆえに誰にも理解されない。それは人そのものよりも世界の理に寄り添い、ときに世界に反逆してきた魔法使いにとって、当然の『理《ことわり》』であるのだ、と。
だから彼——魔法使い『イクス』にとって、この森の静けさは愛すべきものだった。
人はわずかな例外を除き訪れない。それは紛れも無い『孤独』だったが、何者にも侵されることのない静寂を、いとおしいものと感じていた。
耳に届くのは森の木々のざわめきと、遠くで鳴く鳥の声だけ。夜は灯りもなく、輝くのは空の星と月のみ。
そんな日々を、彼は愛していた。
たとえどれほど孤独だとしても、確かに愛していた。
――少なくとも、あの日。
森の中でうずくまり震える、小さな子供に出会うまでは。
※ ※ ※
魔法使いは、目の前にうずくまるものを無感情に見つめていた。
森の木々は静かに葉を落とし、鮮やかに地面を彩っている。歩めば地面を踏みしめる音が響き、湿り気を含んだ土の香りがした。
あと少しで日も暮れ、じきに夜が訪れるだろう。
木々の影が長く伸び、暗さを増していく空を眺めてから、魔法使いは再び『それ』を見た。
『それ』は、使い古した布のようにボロボロで、どこもかしこも泥をかぶり汚れていた。
何処かから逃げてきたのだろうか?
特に感慨もなく、ため息を漏らす。ふと頭に浮かんだのは、近隣諸国の情勢の変化だった。
最近、隣国の王が崩御した結果、後継者争いによる内乱が起こっているのだという。
そのためこの国まで難民が大量に流入しているのだと、監視役である騎士が言っていたのを思い出す。
例の隣国との国境は、まさに今この森がある地域だった。
だとしたら、多くの難民がこの森にまで押し寄せるのだろうか。どうでもいいが面倒な話だ。そう感想を漏らした数日前のことが頭をよぎる。
そして今、その戦乱の現実が目の前にうずくまっている。
おそらく、隣国の難民の子供なのだろう。
『それ』は小さく、とてもやせ細っていた。身につけている服はボロ切れにしか見えず、靴のない素足は傷と土で汚れきってる。
微動だにしない小さな姿は、普通なら哀れを誘っても不思議ではない。だが、魔法使いは目をそらすこともなく、ただその姿を見つめていた。
――どうせ、もう生きてはいない。ここまで逃げてきて、力尽きたのだろう。
名も知らぬ、どこの誰ともわからぬ子供だった。
しかし命の消えたその身体は、物言わぬ肉塊でしかない。それがわかってしまったから、魔法使いは興味を失い目をそらした。
だけどもし。
たとえば、その子供がまだ生きていたなら?
魔法使いは小さな骸に背を向ける。
口元に苦い笑みが広がるのを感じ、魔法使いは戸惑い首を振った。
監視役の騎士が見たら腰を抜かしそうなくらいに、苦々しい笑いだった。
思わず浮かんだ『もしも』の話は、あまりにも無意味な仮定だった。
その子供が生きていたなら、どうしたというのだろう? 抱き上げて温めて? そんなこと考えられない。
考えられるわけがなかった。
魔法使いは孤独な生き物だ。
誰かの手をとって救い上げるなど、そんなことは夢にも思いはしない。
冷たい枯葉を踏みしめ、歩き出した。そのはずだった。
けれど、その瞬間、何かが裾を引っ張った。
強い力ではない。それなのに、ひどく切羽詰まったものを感じ、魔法使いは振り返る。
そして、目に映ったのは――。
最後の力を振り絞るようにして裾を握りしめる、ボロボロの子供の姿だった。
あまりにも弱々しいのに、怨念に近いほどの生への執着を感じる瞳。
魔法使いは、小さく息を呑んだ。それほどまでに醜く鮮やかな、幼くも激しい生への渇望。
「たす、けて」
ひび割れた唇が、かすれた声を吐き出した。
魔法使いは動けなかった。
振り払うことなど簡単なはずなのに、見捨てることは更に容易いはずなのに。
魔法使いは動かなかった。闇のような黒い瞳から逃れることができない。
「たすけ、て。たすけて」
繰り返す。壊れたように、狂ったように。
それはきっと、本当に恐ろしいまでの執念。
生きていたい。生きたい、生き続けたい。
「――助けて‼」
幼くとも、いや幼いからこそ。生への叫びは純粋なものだった。
魔法使いは驚いたように、子どもを見下ろした。
やっと本当に『それ』が、生きた人間だと気付いてしまったから。
――ここから始まるのは、忘れえぬ優しくも苦い季節の話。
魔法使いは、初めてこの腕に小さな命を抱きしめる。
のちに魔法使いは、それを人生ただ一度の『奇跡』と呼んだ。
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