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第六章 百地のからくり
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風が冷りとなでる。
辺りは、ようように薄明るくなってきた。けれど、空はどんよりと雲におおわれてる。四方は、ただ霧の海。
霧には、透けたものが、けらけら笑い、しくしくと泣いている。まるで、そいつらのいる客席の花道を船が進んでいるようであった。
ほどなく、左手に霧に煙る湊がちらりとのぞく。
「小唐」
甲板で水夫どもが口々にいう。ちょうど船蔵から上がってきた鈴々と才蔵も指さした。あの赤い灯りもなく、ひっそりとしていた。
「みな逃げたのね」
鈴々がぽつりとつぶやく。
才蔵もうなずいた。
・・さて、茄子婆に糸瓜爺は。いや、あの二人ならいまごろ京の外れ辺りで、なにくわぬつらで野菜売りでもやってるか・・
ふいに、船がぎいと右へ舵を切った。船縁を掴む手に力が入る。
そこにあった。
尖る山、切り立つ崖、なにもかも黒々としている。
墨島。霧が濃い。
船がゆるゆると寄ってゆく。島の木々は掴みかかるような枝ぶり、ごつごつとした岩々。そこへ人魂が一つ、二つ、ゆらりとゆれてはふっと消える。みょうな肌寒さがあった。
「なんと」
「まんま、冥土ではないか」
「ひとが来てよいのものか」
水夫どもがおびえる。
「おらあ。肝を据えろ。そんなへっぴり腰なら海へ転げるぞ」
立波の一喝。
それはたまらんと水夫どもが怖気を振るった。
やがて、船は入り江から船着場へゆく。
風がひゅうと吹いた。
ほんの数日前には、あれほどひとで賑わってた処にひとっこひとりいない。船着き場の小屋はどれもがらんとしている。奥にはまだ何本かの木材が積まれたままであった。
ざぷりと船を着けると、はや桟橋に下りた才蔵が杭に船の縄を巻く。板を渡すと、とんと降りる阿国と鈴々につづいて、千石と百学が馬をひいた。
おおいと千石がひとを呼ぶ。木霊しかなかった。
「ふむ。ちょいと用で出てったような」
阿国が小屋をのぞくと、むしろをしく寝床に乱れはなかった。
と、だしぬけにへなちょこな叫びが上がった。
わっ笑うなっ、いや、泣くなっ。水夫どもがなにやら手で霧をふり払っている。
立波がわびた。
「すまねえ。どうやらわしらはここまでだ」
千石が笑った。
「ありがとよ。さあ、もういってくれ」
「けど、これなら銭ははずんでもらわねえと、足りねえな」
「そうか、なら淡路屋の店に」
「いいや、おまえからだ。いいか、夕に戻る。払わねえうちはくたばるな。いいな」
互いに笑いあった。
千石が船の綱をほどく。船はのろりと離れると沖に向かい、霧に消えた。
阿国はそれをずっとながめていた。
うかない顔をしている。
「なにか、つっかえるものでもあるのかい」
千石がおどけたふうにいう。
阿国はふっと笑った。
「いやね。ひょっとして、まんまと招かれたのかね」
百学がえっとなった。
「それはいったい」
「なに、みょうな虫の知らせってやつ」
「あら、虫って。そんなへんなのいっぱいいるよ。ここなら」
才蔵がへらっと笑う。
「では、そんなのにたぶらかされぬように」
鈴々がお札を貼ってゆく。
阿国と千石は肩に貼るも、百学は額に貼ってという。
「なあに、ひと喰らいのお札みたい」
「いえ、これなら、ほら、千切れ具合もわかる」
それならとうなずく鈴々。すると才蔵はほれっと下っ腹をさらしたので、ぺんと音がするほどに貼ってやった。
「おみごと」
うずくまる才蔵に千石は大笑い。
「虫は、虫か」
阿国もつられて笑った。
しばしあと、百学がおやっと目をぱちぱちする。
「死人が消えてる」
「ふむ、草や葉っぱも緑だ、海も青い。そも霧が薄くなった」
千石も目を丸くした。
「これって、お札が呪いを弾いたのかも。桃々さま」
鈴々は胸元に貼るお札に手をあてた。
よっしゃあと千石は叫び、ひらりと馬にまたがった。
「とろとろしてたら、すぐに日は傾く。とったかみたかで坊主をぶちるかい」
おまちと、阿国が手綱を掴んだ。
「急ぐさ、だから廻れってね。ここでねたのひとつも拾えたら打つ手もひねれる。やみくもに突っ走るのはしくじるだけさ」
「では、陣屋とか」
百学がちらりと向く。
「おう。ひとがいるかもな」
「こちらに薬もあります。助けとなれば、なにか教えてくれるかもしれない」
鈴々を才蔵が馬にまたがせた。
辺りは、ようように薄明るくなってきた。けれど、空はどんよりと雲におおわれてる。四方は、ただ霧の海。
霧には、透けたものが、けらけら笑い、しくしくと泣いている。まるで、そいつらのいる客席の花道を船が進んでいるようであった。
ほどなく、左手に霧に煙る湊がちらりとのぞく。
「小唐」
甲板で水夫どもが口々にいう。ちょうど船蔵から上がってきた鈴々と才蔵も指さした。あの赤い灯りもなく、ひっそりとしていた。
「みな逃げたのね」
鈴々がぽつりとつぶやく。
才蔵もうなずいた。
・・さて、茄子婆に糸瓜爺は。いや、あの二人ならいまごろ京の外れ辺りで、なにくわぬつらで野菜売りでもやってるか・・
ふいに、船がぎいと右へ舵を切った。船縁を掴む手に力が入る。
そこにあった。
尖る山、切り立つ崖、なにもかも黒々としている。
墨島。霧が濃い。
船がゆるゆると寄ってゆく。島の木々は掴みかかるような枝ぶり、ごつごつとした岩々。そこへ人魂が一つ、二つ、ゆらりとゆれてはふっと消える。みょうな肌寒さがあった。
「なんと」
「まんま、冥土ではないか」
「ひとが来てよいのものか」
水夫どもがおびえる。
「おらあ。肝を据えろ。そんなへっぴり腰なら海へ転げるぞ」
立波の一喝。
それはたまらんと水夫どもが怖気を振るった。
やがて、船は入り江から船着場へゆく。
風がひゅうと吹いた。
ほんの数日前には、あれほどひとで賑わってた処にひとっこひとりいない。船着き場の小屋はどれもがらんとしている。奥にはまだ何本かの木材が積まれたままであった。
ざぷりと船を着けると、はや桟橋に下りた才蔵が杭に船の縄を巻く。板を渡すと、とんと降りる阿国と鈴々につづいて、千石と百学が馬をひいた。
おおいと千石がひとを呼ぶ。木霊しかなかった。
「ふむ。ちょいと用で出てったような」
阿国が小屋をのぞくと、むしろをしく寝床に乱れはなかった。
と、だしぬけにへなちょこな叫びが上がった。
わっ笑うなっ、いや、泣くなっ。水夫どもがなにやら手で霧をふり払っている。
立波がわびた。
「すまねえ。どうやらわしらはここまでだ」
千石が笑った。
「ありがとよ。さあ、もういってくれ」
「けど、これなら銭ははずんでもらわねえと、足りねえな」
「そうか、なら淡路屋の店に」
「いいや、おまえからだ。いいか、夕に戻る。払わねえうちはくたばるな。いいな」
互いに笑いあった。
千石が船の綱をほどく。船はのろりと離れると沖に向かい、霧に消えた。
阿国はそれをずっとながめていた。
うかない顔をしている。
「なにか、つっかえるものでもあるのかい」
千石がおどけたふうにいう。
阿国はふっと笑った。
「いやね。ひょっとして、まんまと招かれたのかね」
百学がえっとなった。
「それはいったい」
「なに、みょうな虫の知らせってやつ」
「あら、虫って。そんなへんなのいっぱいいるよ。ここなら」
才蔵がへらっと笑う。
「では、そんなのにたぶらかされぬように」
鈴々がお札を貼ってゆく。
阿国と千石は肩に貼るも、百学は額に貼ってという。
「なあに、ひと喰らいのお札みたい」
「いえ、これなら、ほら、千切れ具合もわかる」
それならとうなずく鈴々。すると才蔵はほれっと下っ腹をさらしたので、ぺんと音がするほどに貼ってやった。
「おみごと」
うずくまる才蔵に千石は大笑い。
「虫は、虫か」
阿国もつられて笑った。
しばしあと、百学がおやっと目をぱちぱちする。
「死人が消えてる」
「ふむ、草や葉っぱも緑だ、海も青い。そも霧が薄くなった」
千石も目を丸くした。
「これって、お札が呪いを弾いたのかも。桃々さま」
鈴々は胸元に貼るお札に手をあてた。
よっしゃあと千石は叫び、ひらりと馬にまたがった。
「とろとろしてたら、すぐに日は傾く。とったかみたかで坊主をぶちるかい」
おまちと、阿国が手綱を掴んだ。
「急ぐさ、だから廻れってね。ここでねたのひとつも拾えたら打つ手もひねれる。やみくもに突っ走るのはしくじるだけさ」
「では、陣屋とか」
百学がちらりと向く。
「おう。ひとがいるかもな」
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