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第40話 嵐子 大ピンチ!

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 坂田が傷口の具合を確かめるべく、嵐子の傍らに駆け寄った。
 が、彼女は坂田を押し除けると、ピコハンを痺れた右手から左手に持ち替えて立ち上がった。その瞳は好敵手を得た喜びに爛々と輝いている。依然、彼女の闘志は失われていない。
 理事長が呟いた。

「蛙の子は蛙か。それにしても二人とも良くやる。特に靖。我が息子があれほどの実力を秘めていようとは……。いや、お父さん、気付かなかったよ」
 
 多分、息子はその実力に比肩しうる好敵手に恵まれなかった。また生来の優しい気性が災いして、相手に対して無意識に手加減をしていた。相応の剣技を修得しながら、観る者にある種のもどかしさを感じさせるのは、それらの要因が重なって、彼が十全な実力を発揮する機会を奪われていたからだ。
 理事長の見識は坂田や山田校長、その他複数の学校職員、遅れて会場に現われた佐馬之丞や礼次郎、一部の生徒とその保護者等に共有された。
 
 嵐子が右足を大きく引いて半身となり左膝を垂直に立てた。ピコハンは深く左脇に構える。先ほど見せた受けの構えより更に歩幅を大きく取ることで、靖の斬撃に耐え弾き返そうという狙いなのだ。
 その構えが安定したのを見て取った靖。流氷を正眼に構えるとコーナーポストから宙高く舞い上がった。
 ピコハンが背中に隠れるくらいに嵐子は更に脇深く構えた。上段から襲い掛かる流氷に狙いを定めて、素早い動きでリングの床すれすれにピコハンを振り上げた。

 あれは空気の障壁!
 
 佐馬之丞が唸った。
 以前、五月雨五月との対戦で見せた、空気を超高圧により一瞬で堅固な壁とするあの技を、嵐子は再び靖相手に仕掛けようというのだ。
 ピコハンが空気を切り裂き乱気流を生んだ。
 嵐子の髪が激しく乱れる。
 ほぼ同時に靖の長髪も後方へ靡いた。
 繰り出された刃動が空気の障壁を作り、猛禽のごとく急降下する靖を押し包んだ、かに見えた。
 瞬間、靖の身体が上方へ跳ねた。
 空気の障壁が緩衝材となって、そのしなやかな肉体を弾いたように佐馬之丞には見えた。
 実際、その動きは空気抵抗に弄ばれつつ緩慢に落下する羽毛を想わせる。
 だから多くの観客の目には、彼の一連の所作がハッキリと見て取れた。
 靖は緩やかに空中で一回転すると、伸び上がった嵐子の背後に回って流氷を軽く一振り、袈裟に斬り下げた。そして対角線上のコーナーポストに音もなく着地すると、双眼を見開いて気息を整えた。
 リング上の一切が動きを止めた。
 観衆が固唾を飲んで次の瞬間を待った。
 刹那、嵐子の背中に一筋の裂傷が走り血飛沫が四方へ跳んだ。
 浴衣が開けて艶めかしい背中が露になった。その激痛に耐えきれずに嵐子は両肩を抱えて膝を折った。

「ら、嵐子ちゃん!!!!!!」
 
 花道の奥で観戦していた礼次郎が思い余って絶叫した。
 リングへ向かって駆け出そうとしたその肩に、佐馬之丞の手がかかった。

「待て! これは正式な決闘だ。当事者以外は決して手を出してはならぬ。ここは我慢するのだ」
 
 振り向いた礼次郎の顔は蒼褪めていた。

「で、でもよ、このままじゃあ嵐子ちゃんが」
「一番合戦は助太刀など決して望んではおらぬ。彼女の想いを汲み取るのだ。それが出来なければ、お前に彼女の友たる資格はない」
「ク、クソがあ!」

 と叫んではみたものの、礼次郎にも佐馬之丞の言い分はよく理解できる。
 今、彼に出来ることは、逸る気持ちを抑えて、嵐子ちゃんの闘いぶりを見守り、その勝利を願うことだけだ。

 ■■■

 嵐子は立ち上がった。
 浴衣に柄のごとく点在する血痕が悲壮な姿を際立たせる。誰の目にも彼女が深手を負っていることは明白だった。
 靖の瞳に憐憫の情が浮かび上がった。

「君、その身体でこれ以上闘うことは不可能だ。試合を放棄したまえ」
 
 嵐子が口端を歪めた。

「いえいえ、勝負はこれからですぅ。わたしは必ずや会長さんの必殺剣を粉砕してみせます。さあ、どこからでもかかって来なさい!」
 
 ピコハンを靖に突き付けて大見得を切った嵐子。
 いつもなら拍手や失笑の沸く場面だが、彼女の凄惨な姿を目の当たりにすれば、誰もがそんな行為を自重してしまう。
 靖も自身の闘志が萎えるのを感じていた。
 降参を促すよう坂田に目で合図を送ったが、彼はかぶりを振って拒絶した。
 靖は仕方なく流氷を下げた。

「君はなぜそうまでして闘おうとするんだ? 所詮、高校生同士の剣術試合だ。命を懸けてまでやる必要はないはずだ」
「会長さんがわたしの立場だったらどうします? 降参しろと言われてYESと答えられますか? わたしだったら口が裂けても言えません」
「……」
「お母さんが死ぬ間際に言い残したんです。ーー強くなれ、嵐子。そして冥王高校に入って世界一の剣豪を目指せって」
「君の母親は冥王史上最強とうたわれた……」
 
 嵐子が双眼に闘志を漲らせてピコハンを霞上段に構えた。

「わたしはそんな母親の娘です。だから負ける訳にはいかないのです!」
 
 言い様、嵐子は腰を目一杯落として跳躍した。
 二度の仕太刀に失敗したので、今度は先制攻撃の打太刀に切り替えたのだ。
 同時に靖も跳躍した。
 コーナーポスト上にいた分、嵐子より高く跳ぶことが出来た。が、上から打ち掛かれば刃は受け流されてしまう。そのまま肩口に強烈な痛打を喰らうのは誰の目にも必定だった。
 落下態勢に入った瞬間、靖は流氷を水平に構えた。

「一つ訂正しよう。以前、君より玲花君の方が強いと言ったが、それは僕の誤りだった。君は間違いなく玲花君より強い」
 
 相手が打ってこないと知って嵐子は構えを解いた。で、繰り出したのだ。爪先を。
 それも靖の股間を狙って。

 チィ! 

 靖の顔にあからさまな嫌悪の情が浮かんだ。
 身体を左半身に捻って金的攻撃を躱すと、握り締めた流氷の柄頭を嵐子の鳩尾みぞおちに叩き付けた。
 瞬間、嵐子の身体が九の字に折れた。
 見開かれた双眼から光が消えた。
 背中から落下した身体がマッド上で跳ね上がった。そしてうつ伏せの状態のままピクリとも動かなかった。
 靖はその様子をコーナーポスト上から冷徹な眼差しで見つめていた。
 会場内から音が消えた。
 放送席で本居が唸った。

 あれは鳩射刺殺きゅうしゃしさつ
 朽木アナが呻いた。

「本居部長、あ、あの技は反則なのでは?」
「古来、剣術には柄頭で相手の顔面や胸を突く技があるのです。だから反則にはならないでしょう」
 
 本居は外した眼鏡の汚れを丁重にハンカチで拭い取った。
 勝負は決したと思ったのだ。
 そのとき背後から津波のごときどよめきが起こった。
 慌てて掛け直した眼鏡のレンズの向こうに、彼は奇蹟を見た。

 ■■■

「----!」
 
 靖の双眼に驚愕の色が浮かび上がった。
 嵐子が立ち上がったのだ。
 ピコハンを杖にヨロヨロと、それでも瞳を爛々と輝かせて、口元には薄ら笑いすら浮かべて。
 常識では考えられないことだ。
 渾身の必殺剣を三度も受けて立ち上がるなどあってはならないことだ。そして四度目の斬撃は確実に彼女の命を奪うことになる。
 靖は双眼を閉じた。
 彼女の命を奪う訳にはいかない以上、致命傷を与えて戦闘不能に追い込む以外に試合を終わらせる手段はない。
 狙いは左肩。そこを破壊すれば両腕が使えなくなり、試合の帰趨は決する。
 剣豪同士と見紛う壮絶な試合に決着をつけるべく、靖は双眼を見開くと再び流氷を正眼に構えた。
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