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第4章 ファレンの花

28話

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 生き方は一つではないから——。ノアにはそう言われたものの、ヴェル自身、急に気持ちを切り替えて生きていけるわけでもない。
 ノアは、あの場だけの話としてくれたものの、シュリス側の人間に正体がバレたのだ。必要とあればカイたちにも伝えられるはずである。
 そもそも、ずっと村人を騙しながら暮していた引け目はずっとある。
「……ここ追い出されたらどうしようかな……」
 カイとしても、何らかの事情で村に帰せないだけなのだ。事情が解決すればきっとここからヴェルは追い出される。
 きっともう、村に戻るべきではない。かといって、ザディオスに戻る気はない。脱走兵として咎められるか、運が悪ければ実験動物としてあの施設に入れられるかもしれない。
 中立国であるエテンに亡命するか。それともシュリスの港町から別の大陸へ渡って、全く違う名前で生きていくか。

 そんなことを悶々と考えつつ、池のほとりにしゃがんでファレンを眺めていたヴェルは、ふと、人の気配を感じて振り向いた。
 そこには、何やら呆けた様子のカイが佇んでおり、ヴェルは首を傾げる。
「帰ってきてたのか? お疲れ様」
 声を掛ければ、カイはどこかぎくしゃくとした様子で「ああ」と答えた。様子がおかしいが、また寝不足のせいだろうか。
 少しでも気が紛れれば、と思い、カイに向かって手招きをした。
「見てみなよ。ファレンがそろそろ咲きそうだから」
 カイは一瞬躊躇ためらった様子を見せたが、ややあって、ヴェルの隣までやってくる。
 例の良い匂いがふわり、と横からしてくるのをなるべく無視しながら、ヴェルは蕾たちを指差した。
「ほら。あの辺なんかは日当たりがいいから、来週には咲きそう」
「そうだな。無事に育って良かった。手入れがいいのだろう」
 思ってもない言葉に、先ほどまで悶々としていたヴェルの胸が幾分、弾む。
「いやいや。こいつらの生命力の強さだろ。俺は何も……」
「きちんと池の藻を取り、害虫除けをしている。周りの雑草も抜き、綺麗に手入れしてある。こういう手間暇をかけてくれる人間がいるから、花も無事に咲けるのではないか?」
 すらすらと淀みなく言われ、ヴェルの耳が急に熱くなる。さすが、一流の武人は観察眼も違うということか。褒められ慣れていないヴェルは「よ、よく見てるね……」と、思わず言葉がつっかえてしまう。
 ここに恩師がいたら、もっと素直に御礼を言いなさい、とでも言われそうだ。
(そうだよな。誰相手であっても、ありがとうとごめんなさいは基本!)
 ヴェルはそう心の中で意気込み、ありがとうと言うべく隣のカイを見た。すると、カイもちょうどこちらを見ており、ばちりと視線が合ってしまった。
 西日のせいか、カイの赤みがかった瞳はまるでルビーのように深く美しい紅色に染まっている。
 思わず、吸い込まれてしまったかのように、その不思議な色合いの瞳を見つめた。
 何か言わなくては、と焦る気持ちと、このままただずっと瞳を見つめていたいような気持ちに挟まれ、ヴェルが言葉に詰まっていると、カイの唇が開かれる。

「……お前は、何なんだ」
「へ?」

 何なんだ、とは。
 まさか、ザディオス人ということについてか?
 確かに、ノアがカイにだけは報告していてもおかしくはないし、普通はするだろう。

「あ、えっと……」
「こうして庭の手入れをしたり、俺を恨まないと言ったり、変わっている」
 あ、そっちか。と、カイの言葉にどこかほっと胸を撫でおろした。どうやらノアはカイにも伝えていないらしい。
 なぜだろう。カイにザディオス人だとバレて、拒絶の視線を向けられるのは、想像するだけで悲しく思えた。
「あ、あんたを恨まないのは別に……。俺自身、人を恨めるような大した人間じゃないっていうか」
「そうか。強いな」
「強くないって」
 単純に後ろめたいだけだ。今も、カイは「身を呈して村を守ろうとした男」としてヴェルを見ているのだろう。誤解もいいところである。
 そんなに良い人間ではないのだ。カイのように、義を重んじ、自分が加害者側だと認識すれば謝罪をし、相手に対して即座に償おうとする。そんな善人ではないのだ。
 思わず苦笑が漏れてしまう。
「あんた、俺のこと買い被り過ぎだよ。本当に俺は小物こものだから」
 心からの気持ちでそう言ったのに、なぜかカイは一瞬きょとんと目を瞬かせる。そしてすぐに、口元をむずむずさせ、笑いをこらえるような顔になった。ヴェルは怪訝そうに眉根を寄せる。

「何笑ってんだよ」
「……笑っていない」
「ほとんど笑ってるだろ」
「まだ笑っていない」
 屁理屈を言いつつも、カイはとうとう「ふは」と堪えきれずに笑いを漏らした。
 肩を小さく震わせ、くつくつと年相応に笑う顔を見て、ヴェルの鼓動が跳ね、じわりとした朱が頬にさす。それを誤魔化すように「だから何笑ってんの」と問う。
「すまん。笑うつもりはなかったんだが。俺は本当の『小物こもの』を大勢見てきているのでな。彼らに比べたら……」
「本当の小物ぉ?」
「ああ」
 ようやく笑みをおさめながら、カイは呼吸を整えるように、ふう、と息を吐く。
「中央貴族たちの保身や騙し合いは中々のものでな。財産のために他者を貶め、蹴落とすことに何のためらいもない。貴族だけではない。王宮も、商人連合も、隙あらば自分の利益だけを優先させようとする」
「……俺が世間知らずって意味?」
「いや。お前に小物の素質と環境がなさすぎるという意味だ」

 そして、カイはヴェルを見て僅かに口の端を持ち上げる。
「だからか。お前と話していると安心する。こんな事を俺に言われても、お前にとっては迷惑だろうが」
 その言葉に、ヴェルは咄嗟に「違う」と返した。反射的に口をついて出てしまった言葉を補足するように、ヴェルはたどたどしく続ける。
「あ。いや……、その。あんたはそうやって、俺と関わらないようにするけど……俺は全然迷惑って思ってないし。なんなら俺も、あんたと話すと安心する……し……」
 だんだん声が小さくなり、視線が下がっていく。何を言っているんだ俺は、という自己嫌悪にも似た重い気分がずしりと頭上から降ってきた。しかし
「安心?」
 聞こえてきたカイの声があまりに明るいので、思わずちらりと視線だけでカイを見やる。
「そうか。お前を不快にさせていなかったなら何よりだが。……その、安心とまで思ってもらえたのは有り難い限りだ」
 困惑を隠しきれず、だがどこか嬉しそうなカイの顔がそこにあり、ヴェルの頬の熱が耳の方まで伝わってしまう。何か返事をしようとするが、それより前にカイの顔が一瞬で曇る。
「しかし、それはそれで心配だな」
「ん? 何が?」
「攫った加害者に対して安心感を覚えるなど……。お前、他の人間にもそんなに隙だらけなのか」
「だから俺は隙だらけじゃないって! あ、じゃなくて、別にあんたも俺を攫いたくて攫ったわけじゃないんだから、加害者って言うほど加害者じゃないだろ!」
「しかし……」
「俺、警戒心強いから! 大丈夫!」
 疑いの眼差しを向けたカイだったが、すぐに相好そうごうを崩した。
「……その言葉を信じるとすれば。そうだな。お前に安心感を覚えてもらえたというのが、俺にとっては嬉しい」

 ふわり、と微笑まれた瞬間、ヴェルのうなじあたりに不思議な痺れが走った。なぜだかカイの顔を見ていることが気恥ずかしく感じ、俯く。
「……っ」
 どくどくと脈打つ鼓動の音が、やたら耳の奥から響いてきた。例の匂いがやけに強く感じられ、顔を上げられない。

(あ、そうか)
 ない。絶対にない。と、背を向けてきた感情が、急にすとんと腹の中に落ちてきた。
(俺、この人のこと――……)

 義を通そうとし、当たり前のようにこちらをおもんばかる。
 英雄と畏れられている一方で、年相応に、笑ったり眠ったりする。そんなアルファのことが――

 自覚をした途端、ぎゅう、と胸と喉の間が締め付けられるように苦しくなった。
 そんな資格はない。先生が殺され、村が襲われたのは自分の存在があったからだ。そんな自分に、誰かを好きになる資格などあるはずがない。

 ザディオス人なのだと、ここで打ち明けてしまおうかと一瞬考えを巡らせた。
 もうノアは知っているのだし、これ以上この王子様に嘘を吐くのは後ろめたい。

(さすがに俺だって分かってる)
 ノアは「ザディオスはもう敵国ではない」と言った。それはあくまでもノアの感情だ。つい三年前まで戦争をしていた両国間にはまだ溝はあるし、関係は冷ややかだ。
 何より、ザディオスからの侵略戦争が国境戦争の発端だ。
 ザディオス人を憎むシュリス人は多い。カイも、そうかもしれない。
(早めに打ち明けたほうがいい……)

 ヴェルは震える唇を僅かに開いた。蚊の鳴くような声が、喉で引っかかりながら何とか吐き出される。
「あ。あのさ……」
 しかし、ヴェルが続けるより早く、カイが「そういえば」と口火を切った。
「お前にここにいてもらわねばならない理由だが。全貌ぜんぼうが分かり次第、お前に伝えようと思っている」
「え?」
「城砦内の誰を信用していいか分からなかったのでお前の行動も制限していたが。それもそろそろ見当がついてきた。何より、今、お前を村に帰す方が危険だから帰せないが……。解決したらすぐにでも送り届けよう」
「あ。……ああ」
 カイの真摯な言葉に、ヴェルはますます居心地が悪くなる。言わなければ。打ち明けなければ。
 村に送り届けられたところで、自分はまたのうのうとあの村で暮らすことなどできないのだ。だって、あの村の人々の家族を殺したのは、自分の国なのだから。

 ヴェルは声を震わせながら喘ぐように言う。
「ま、待ってくれ……」
「何だ?」
 言え。打ち明けろ。
「え……ええと。あのさ、俺……」
 言わなければ、と分かっているのに喉が詰まる。変な汗が滲んで、背を伝う。
「俺……」
 もし打ち明けてしまったら、カイは安心感など持ってくれなくなるだろう。こんな風な微笑みをもう自分には向けてくれないかもしれない。
(分かってる。それが普通なんだ。俺にそんな資格……)

 でも、もう少しだけ、今のままでいられないだろうか。
 別に、この淡い想いを告げたいわけでもなければ、カイとどうこうなりたいわけではない。
 ただ、こうして他愛のない話で笑い合うような時間がほしいと思ってしまう。

 村に帰るわけにもいかない。ザディオスに戻るわけにもいかない。ここを追い出されたら、もう二度と、こんな穏やかな時間は持てないかもしれない。

 ああ、また繰り返すのか。先生の時も。村の人たちの時も。いるべきではない異分子のくせに、浅ましく優しさに縋ってしまった。同じ馬鹿な真似を繰り返そうとしているのか。
(ダメだ。そんなの……。ダメなんだ)

 ダメだとわかっているのに。

 北方の寒い町で、餓死と凍死の恐怖に怯えて生きていた感覚が蘇る。
 腕の中で硬くなっていく恩師の感覚が蘇る。
 何年も、道具として扱われ、痛みの中、虚ろな目で白い天井を眺めるしかなかった感覚が蘇る。
 怖くて、孤独で、冷たくて。

「あ、のさ……、えっと……」

 長い時間じゃない。ほんの少しの間だけ、先延ばしにしたい。この穏やかな感覚に浸りたい。
(ダメだ。言え。早く言え。真実を打ち明けろ)
 それが正しい行いだと分かっているのに。きっとカイのような善人であれば、そうするのに。
 はく、と動いた口から、乾いた笑いが漏れた。
「あ。はは……、あれ? 俺いま何言おうとしたんだっけ。忘れた……」
 冷や汗が滲んで止まらない。きっとひどい顔色をしているのだろうが、この黄昏の陽色が隠してくれていると願いたい。
 怪訝そうにカイが首を傾げた。
「言いたいことがあるなら言った方がいいぞ。俺にできる事があれば何でも聞くが」
「ええ? いやいや、王子様優しすぎるだろ。あはは」
 とぼけたように言って立ち上がる。今はとにかくこの場にいるのが恐ろしい。これ以上この口が何かを喋る前に立ち去りたい。
「えっと、花のことだったかもしれない。何だっけな……。ごめん。思い出したら言うよ。あ、リウがもう夕飯の支度してると思うから。あんたは館に早く戻ってやれよな」
 じゃあそういうことで、と踵を返そうとすると、後ろから「待ってくれ」と声を掛けられる。
「迷惑でないというのなら、またこうして話してもいいか?」
 心臓が奇妙な音を立てて跳ねる。そろり、と振り向けば、カイは真剣な面持ちでこちらを見ていた。
 思ってもない申し出だ、と喜べばいいのか。苦い感情がじわじわと身体を侵食していく。
 ヴェルは躊躇った様子を見せたが、小さく頷いた。途端に、カイはパッと表情を明るくした。
 獅子と恐れられた男のはずだが、こうも素直に表情に出るというのはどこか大型犬のようにも思える。少しの微笑ましさと、多大なる罪悪感に押しつぶされながら、ヴェルは引き攣ったへたくそな笑みを返した。
「お、俺もあんたと話せるの、嬉しいよ。……じゃあ。またね」
「ああ。また」

 逃げるようにしてその場を後にし、足早に納屋へ駆け込んだ。
 心臓が痛むほど鳴っている。これが、騙している後ろめたさからなのか、それとも恋のときめきとやらなのか、何も分からない。
「……っ」
 ヴェルはぐしゃりと前髪を掴み、よろけるようにして壁にもたれかかった。
「ごめんなさい……」
 奥歯をかみしめたまま漏れたのは、吐息のような声だ。
 俯いたまま、ヴェルは何度も「ごめんなさい」と繰り返した。

 別に、何か月もこの時間を享受したいわけではない。
 別に、好きですと伝えたいわけではない。

 ただ、もう少しだけ一緒の時間を過ごしてみたいだけだ。

 いっそ、ただの子産みの道具として。無理やりつがわせるために連れて来られたほうがよかったかもしれない。
(それか、結婚相手としての正式なつがいが、ちゃんといればよかったのに。何であんな良い奴がフリーのアルファなんだよ。おかしいだろ)

 そういう相手がいれば、こんな分不相応な願いなど持たなくて済んだ。
 ただの道具として扱ってもらえれば。
 温かい笑みなど向けられなければ。

(俺は卑怯な嘘つきなんだよ。そんな俺に優しくするなよ)

 もっとほしくなってしまう。ダメだと分かっていても、この時間を少しでも延ばそうとしてしまう。

(人を好きになる資格なんてない。でも……)

 絶対バレないようにするから。だって「話していると安心する」と本人から言われたのだ。
 『良き庭師』として会話をするだけならば。それくらいなら――

 言い訳じみた言葉がぐるぐると脳内を駆け巡り、ヴェルは壁にもたれたまま乾いた笑みを漏らした。
「ははっ……、卑怯者……」
 
 生まれて初めての恋とやらが、苦すぎて、重すぎて、くるしすぎて、痛すぎて。
 ノアには悪いが、ちっとも良いものだなんて思えない。





――……

「カイ王子殿下はどこまで気付いているんだろうね」
「さあ。食えぬお方ですから」
「まったく厄介だ。頭まで筋肉なら良かったのになぁ……。まあいい。例のオメガでいいんだよな?」
「はい」
「ああ。楽しみだ。楽しみだなぁ」

 うっとりとした声が、暗い部屋に響いて落ちていく。
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