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第1章 オメガ狩り
5話
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怒りの籠った村人たちの視線を暫し浴びていたカイは、ようやく思い至ったかのように、ふとヴェルを見下ろした。
「オメガか……」
ぽつりと呟かれた声には、僅かに苦いものが混じっているように思えた。しかしそれを表情に出すこともなく、カイは淡々と続ける。
「これからお前をラジナ城砦へ移送する」
ラジナ城砦、という単語にヴェルは目を見張った。西方国境における最も重要な砦と言われ「シュリスの守り神」という異名すらある有名な城砦だ。
(王都じゃなく、ラジナ城砦? ってことは、西方国境警備軍の軍隊長ってのも、お飾りの意味じゃないな……)
戦時中でもないのに、と怪訝な顔をするヴェルに、カイは続けた。
「移送は兵士たちに任せる。会議の途中で抜け出したのでな。俺は先に戻る。……ダオン!」
突然名を呼ばれ、ダオンは「はいっ!?」と声をひっくり返した。
「兵士たちは徒歩だが、お前はどうせ馬車でここまで来たのだろう? ちょうどいい。お前はこのまま俺と戻り、馬車にはオメガを乗せてやれ」
「え? は、いや、それはさすがに、あれは私の馬車で……」
「砦の馬車だろう」
「えー、まー、いやー……、ですがこの通り、私は礼服ですし……」
「無論、高貴なるカロン家の服は汚さない。気を付けて送らせていただこう」
カイは長い腕を伸ばして、ごにょごにょ喋っていたダオンの首根っこを掴むと、片手だけで一気に馬上へ引き上げた。「ひええっ」と悲鳴を上げるダオンの貧相な身体を荷物のように抱えたまま、カイはヴェルを見下ろす。
「兵士たちに馬車を警護させる。山を迂回するから丸一日はかかるだろう。……村のためを思うなら、逃げようなどと考えるなよ」
元より逃げるつもりはない。村を見捨てて一人だけ逃げるつもりなら、とっくに逃げている。
睨むようにして頷いたヴェルに、カイは一瞬何かを言いかけたものの、すぐに口を噤む。
そしてカイは、傍らの兵士に「腕を解いてやれ」とヴェルのほうを顎でさした。そのまま、視線を前に戻すと馬の腹を軽く蹴る。
来た時と同様、力強く地面を駆け出した葦毛の馬は、あっという間に山道へと向かっていく。
敬礼の姿勢でそれを見送った兵士たちだったが、すぐに隊列を組み直す。小隊長らしき男が「これより帰還する。馬車の警護には二名をつけ、残りは山道を使う」と号令を出した。
指名された兵士たちは機敏な動きで一馬立ての馬車を用意をし、先ほどよりはいくばくか丁寧に扉を開け、ヴェルをキャビンに乗せた。
小さな馬車は内部も狭く、確かにこの中で先ほどの貴族の男と二人きりというのは避けたい。なんなら、捕縛された自分は歩かされるものだとばかり思っていたので、待遇の良さに驚きを隠せない。
馬車に乗せられるヴェルの後ろから「ヴェルにいちゃん!」と声がかかる。肩越しに振り向くと、見守るしかない村人たちの中から、ユトが走り出すところだった。しかしすぐ、その小さな身体は周りの大人に優しくおさえられる。
ヴェルは、へらりと笑みを浮かべ、ユトに向かって軽く手を振った。
何も怖くないのだと。問題など何も起きていないのだと。突然理不尽に襲われ、家に火をつけられた幼い子どもを、少しでも安心させてやりたかった。
上手く笑えたのか分からないまま、ヴェルは背を押され、中の椅子に腰掛けた。バタン、と扉が閉まる音と共に、ヴェルは俯き、無意識にチョーカーをさする。
怖くないはずがない。問題がないはずがない。
オメガは三か月に一度、ヒートと呼ばれる妊娠可能期を迎える。このヒートを、心無い者は「発情期」と呼ぶ。アルファの発情を促すフェロモンをうなじ部分から分泌するからだ。
今でこそ、フェロモン抑制用の魔導具が流通しているので問題はないが、魔導具も大して発明されていなかった大昔は、魔導師が特別に調合した薬でないと、フェロモンを抑えられなかったという。
アルファは、オメガやベータよりも力が強く、細身の女性アルファであっても、大柄な男性ベータを簡単に投げ飛ばしてしまうほどだ。
そんなアルファが、オメガフェロモンに当てられて発情をし、酷い時には理性を飛ばしてしまうのである。これをラット状態と呼ぶ。理性の利かないアルファに襲われたら最後だ。
オメガは三か月に一度、そんな恐怖を抱えながらヒートを迎えるのだった。
無論、ヒートはアルファにだけではなく、オメガ自身にも発情を誘発させる。チョーカーのお陰で理性を手放すほどではないが、もしこの抑制具がなければ、ラット同様、理性を飛ばして、手あたり次第、アルファへ擦り寄ってしまうことだろう。
たとえオメガがアルファに襲われても、誰も助けてはくれない。それどころか「オメガが誘った」と言われるのが常だ。
オメガ狩りにオメガ差別。三か月ごとの発情に、コントロール不可能のフェロモン。まったくもって、オメガという身体にはデメリットしかない。
アルファとオメガがつがいになる条件は、ヒートの際、抱かれながらうなじを噛まれること。何とも間の悪いことに、今日から一週間ほど、ヴェルはヒートを迎える。
ヴェルは重苦しいため息を吐いた。
「まあ……。強制発情薬を使われないだけマシか」
無理やりオメガを発情させる薬すら、この世には存在する。それくらい、オメガの社会的地位は低いのだ。
だからこそ、オメガである自分を、ベータと分け隔てなく受け入れ、守ろうとしてくれた村を守りたいのだ。
逃げ出すわけにはいかない。どんな事がこの身に降りかかろうと、耐えるしかない。
ヴェルはチョーカーのお陰で、今まで酷いヒート症状を経験したことはない。少しのだるさや熱っぽさを感じるくらいだ。
きっと、ラジナ城砦に連れて行かれたらチョーカーは没収されてしまうのだろう。チョーカーなしで迎えるヒートなど、地獄そのものだろうし、ましてやそこには、自分のうなじを噛む存在がいるのだ。
そう考えるだけで身が竦みそうになるが、ヴェルはその怯えを誤魔化すように、ぎゅう、と手を握りこんだ。
「オメガか……」
ぽつりと呟かれた声には、僅かに苦いものが混じっているように思えた。しかしそれを表情に出すこともなく、カイは淡々と続ける。
「これからお前をラジナ城砦へ移送する」
ラジナ城砦、という単語にヴェルは目を見張った。西方国境における最も重要な砦と言われ「シュリスの守り神」という異名すらある有名な城砦だ。
(王都じゃなく、ラジナ城砦? ってことは、西方国境警備軍の軍隊長ってのも、お飾りの意味じゃないな……)
戦時中でもないのに、と怪訝な顔をするヴェルに、カイは続けた。
「移送は兵士たちに任せる。会議の途中で抜け出したのでな。俺は先に戻る。……ダオン!」
突然名を呼ばれ、ダオンは「はいっ!?」と声をひっくり返した。
「兵士たちは徒歩だが、お前はどうせ馬車でここまで来たのだろう? ちょうどいい。お前はこのまま俺と戻り、馬車にはオメガを乗せてやれ」
「え? は、いや、それはさすがに、あれは私の馬車で……」
「砦の馬車だろう」
「えー、まー、いやー……、ですがこの通り、私は礼服ですし……」
「無論、高貴なるカロン家の服は汚さない。気を付けて送らせていただこう」
カイは長い腕を伸ばして、ごにょごにょ喋っていたダオンの首根っこを掴むと、片手だけで一気に馬上へ引き上げた。「ひええっ」と悲鳴を上げるダオンの貧相な身体を荷物のように抱えたまま、カイはヴェルを見下ろす。
「兵士たちに馬車を警護させる。山を迂回するから丸一日はかかるだろう。……村のためを思うなら、逃げようなどと考えるなよ」
元より逃げるつもりはない。村を見捨てて一人だけ逃げるつもりなら、とっくに逃げている。
睨むようにして頷いたヴェルに、カイは一瞬何かを言いかけたものの、すぐに口を噤む。
そしてカイは、傍らの兵士に「腕を解いてやれ」とヴェルのほうを顎でさした。そのまま、視線を前に戻すと馬の腹を軽く蹴る。
来た時と同様、力強く地面を駆け出した葦毛の馬は、あっという間に山道へと向かっていく。
敬礼の姿勢でそれを見送った兵士たちだったが、すぐに隊列を組み直す。小隊長らしき男が「これより帰還する。馬車の警護には二名をつけ、残りは山道を使う」と号令を出した。
指名された兵士たちは機敏な動きで一馬立ての馬車を用意をし、先ほどよりはいくばくか丁寧に扉を開け、ヴェルをキャビンに乗せた。
小さな馬車は内部も狭く、確かにこの中で先ほどの貴族の男と二人きりというのは避けたい。なんなら、捕縛された自分は歩かされるものだとばかり思っていたので、待遇の良さに驚きを隠せない。
馬車に乗せられるヴェルの後ろから「ヴェルにいちゃん!」と声がかかる。肩越しに振り向くと、見守るしかない村人たちの中から、ユトが走り出すところだった。しかしすぐ、その小さな身体は周りの大人に優しくおさえられる。
ヴェルは、へらりと笑みを浮かべ、ユトに向かって軽く手を振った。
何も怖くないのだと。問題など何も起きていないのだと。突然理不尽に襲われ、家に火をつけられた幼い子どもを、少しでも安心させてやりたかった。
上手く笑えたのか分からないまま、ヴェルは背を押され、中の椅子に腰掛けた。バタン、と扉が閉まる音と共に、ヴェルは俯き、無意識にチョーカーをさする。
怖くないはずがない。問題がないはずがない。
オメガは三か月に一度、ヒートと呼ばれる妊娠可能期を迎える。このヒートを、心無い者は「発情期」と呼ぶ。アルファの発情を促すフェロモンをうなじ部分から分泌するからだ。
今でこそ、フェロモン抑制用の魔導具が流通しているので問題はないが、魔導具も大して発明されていなかった大昔は、魔導師が特別に調合した薬でないと、フェロモンを抑えられなかったという。
アルファは、オメガやベータよりも力が強く、細身の女性アルファであっても、大柄な男性ベータを簡単に投げ飛ばしてしまうほどだ。
そんなアルファが、オメガフェロモンに当てられて発情をし、酷い時には理性を飛ばしてしまうのである。これをラット状態と呼ぶ。理性の利かないアルファに襲われたら最後だ。
オメガは三か月に一度、そんな恐怖を抱えながらヒートを迎えるのだった。
無論、ヒートはアルファにだけではなく、オメガ自身にも発情を誘発させる。チョーカーのお陰で理性を手放すほどではないが、もしこの抑制具がなければ、ラット同様、理性を飛ばして、手あたり次第、アルファへ擦り寄ってしまうことだろう。
たとえオメガがアルファに襲われても、誰も助けてはくれない。それどころか「オメガが誘った」と言われるのが常だ。
オメガ狩りにオメガ差別。三か月ごとの発情に、コントロール不可能のフェロモン。まったくもって、オメガという身体にはデメリットしかない。
アルファとオメガがつがいになる条件は、ヒートの際、抱かれながらうなじを噛まれること。何とも間の悪いことに、今日から一週間ほど、ヴェルはヒートを迎える。
ヴェルは重苦しいため息を吐いた。
「まあ……。強制発情薬を使われないだけマシか」
無理やりオメガを発情させる薬すら、この世には存在する。それくらい、オメガの社会的地位は低いのだ。
だからこそ、オメガである自分を、ベータと分け隔てなく受け入れ、守ろうとしてくれた村を守りたいのだ。
逃げ出すわけにはいかない。どんな事がこの身に降りかかろうと、耐えるしかない。
ヴェルはチョーカーのお陰で、今まで酷いヒート症状を経験したことはない。少しのだるさや熱っぽさを感じるくらいだ。
きっと、ラジナ城砦に連れて行かれたらチョーカーは没収されてしまうのだろう。チョーカーなしで迎えるヒートなど、地獄そのものだろうし、ましてやそこには、自分のうなじを噛む存在がいるのだ。
そう考えるだけで身が竦みそうになるが、ヴェルはその怯えを誤魔化すように、ぎゅう、と手を握りこんだ。
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