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第一章

13.涙の数だけ

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 丁寧に施した化粧を乗せた顔を何度も角度を変えて確認する。
いつも通りのジゼルの顔が、自室の鏡台に映っていた。
(フェリクスが私を気にかけてくれるのは魔術の師匠だからなのに勘違いしかけるとか、本当に馬鹿みたいよね。でも、恥ずかしくて死にそうになってもなんだかんだ寝れちゃうから、私も図太いなぁ)
前髪を整えながら、ジゼルは自嘲する。
自惚れていた自分が恥ずかしくて、寝台でゴロンゴロン転がっていたのは昨夜のこと。
いい歳こいた大人なのだから、この程度の切り替えが出来なくてどうすると思うものの、やはり現金さが否めない。
(今日が楽しみだから、結局さっさと湯浴みして寝ちゃったんだよね)
ジゼルは鏡台横の小机に置いてあるバッグの中をのぞき込んだ。
一通の封筒の中身を確認して、再びバッグに丁寧にしまう。
この行為を何度繰り返したかは自分でも分からない。
つい心配になって、何度も確かめてしまう。
ジゼルが身にまとう上品なベージュのワンピースはしわ一つなく、靴もぴかぴかに磨きあげられて、髪は編み込んで下の方でまとめてある。
そのまとめられた黒髪に飾られているのは、薔薇が浮き彫りされたカメオのバレッタだ。
独り立ちした後、初めて自分のお金で買った思い入れのある装飾品である。
今日はとっておきのお洒落をしなければ、と朝から気合いを入れて支度をした。
その結果が映る鏡に向かって、ジゼルはにっこりと笑う。
(うん、大丈夫。おかしいところはないみたい)
今日は装いをすっぽりと覆い隠すローブは着ないで、このまま出かける予定だ。
「余裕をみて、そろそろ出ようかな」
壁掛け時計の針を一瞥いちべつしたジゼルは、もう一度バッグをのぞき込んでから肩に斜め掛けた。
まかり間違っても強盗に盗られないよう、肩紐をしっかり掴む。
戸締まりをして工房の敷地を出ると、斜め向かいのお爺さんがたまたま散歩から帰ってきたところらしく声をかけられた。
「お、魔女さん。おめかししてお出かけとは、コレかい?」
ニヤリと笑って親指を立てるお爺さんに、ジゼルはニヤリと笑い返す。
「ふふ。薬問屋の跡取りとお出かけです」
「なんでい。あの弟子の兄ちゃんじゃないのかい」
肩透かしを食らったように、お爺さんが口をへの形に曲げた。
ジゼルの頬がぴくりとひきつる。
「嫌だ。違いますよ。すみませんけど、待ち合わせしてるので行きますね」
「おう。楽しんでおいでよ」
ぺこりと会釈をして、その場を離れる。
ちゃんと笑えているか、どうにも自信がない。
(あー、さっきまで全然大丈夫だと思ってたのになー)
ジゼルは早歩きで路地を歩きながら、宙を仰ぐ。
あくまでからかいだと分かっていても、自分の自惚れが思い出されて心がささくれ立つ。
(やめやめ! 今日はもうそのことは考えない!)
ジゼルはかぶりを振って、頭を切り替えようとする。
今日は前々から楽しみにしていた日なのだ。
雑念を頭から追い出して、ジゼルは力強く大通りへ踏み出した。


「エルミーヌ、お待たせ!」
「ううん。私が楽しみで早く来ちゃっただけだから」
庶民派劇団の公演がかかっている劇場の前で、ジゼルはエルミーヌと合流した。
今日はもともと休日で、ジゼルは薬問屋の跡取り娘で友人のエルミーヌと歌劇を観る約束をしていたのだ。
絶対に忘れるわけにはいかないと何度も確かめた鑑賞券をもぎりに渡し、劇場の中へ入る。
運良くとれた中央上手寄りの席に並んで座り、エルミーヌとお喋りしながら開演を待つ。
「はぁ。楽しみね。もう観た人がすごく良かったって。期待がどんどん膨らむわ」
エルミーヌが目を輝かせて言う。
対するジゼルの表情は晴れない。
劇場に入るまではジゼルも楽しみで仕方がなかったが、開演が迫るにつれ不安が頭をもたげてきたのだ。
「楽しみは楽しみだけど、今回の公演は悲劇だからなぁ。ご贔屓が出演するからには、観ないわけにはいかないけど、私、悲劇はあんまり好みじゃないんだよね。私以外にもそういう人はいるから、心配になっちゃって」
ジゼルの贔屓は中堅の女性俳優で、今回は二度目の主役である。
そのまま花形として定着出来るか否かがかかっている大事な公演だ。
それが悲劇では不利なのでは、と彼女を応援している身として気が揉む。
「ジゼルのご贔屓は実力派だし心配いらないって。さっきも言ったけど、この公演の評判も上々よ」
「うー。それでも心配なものは心配なの」
「あれよね。ジゼルは、頭で考え過ぎて心配しなくても良いことまで心配するわよね」
呆れた視線を寄越すエルミーヌに、ジゼルは「うっ」と口をつぐむ。
心当たりがあり過ぎるからだ。
「もうちょっと気楽に考えたら? 少なくともご贔屓の心配はお芝居観てからにしなさいよ。失礼じゃない」
「ハイ。マッタクモッテソノトオリデス」
ジゼルは反論のしようもなく、肩を縮ませた。
さすが十年来の友人。ジゼルのことをよく分かっている。
「私たちが出来るのは、公演の鑑賞券を買って観劇して、ご贔屓の絵姿を買って、この公演とご贔屓がいかに素晴らしかったか語るくらいなものよ」
ふんっと拳を握って、エルミーヌが力説する。
「エルミーヌは、ご贔屓の絵姿の売り上げにだいぶ貢献してるよね」
エルミーヌのご贔屓は年輩の男性俳優で、脇を渋く固める名優だ。
その絵姿を大量に購入し、店の常連さんに配ったりしているのを知っている。
「えぇ。私の出来る範囲で出来るだけのことをしたいの。無理なく、楽しく、ね。一番はやっぱり、素直に劇を楽しむことだと思うわ」
エルミーヌの言葉に、ジゼルはうなずく。
ジゼルはエルミーヌほどの財力はないが、心構えは同じだ。
「そうね。まずはじっくり公演を堪能しないと、人に薦めることも出来ないものね」
「そう。その意気よ」
エルミーヌと他愛もない歌劇の話題で盛り上がっていると、まもなくの開幕を知らせる鐘が劇場内に鳴り響く。
その途端ざわめきが消え、座長の挨拶と共に幕が上がった。


舞台の上に紡がれたのは、王道の物語だった。
高貴な姫君と敵国の騎士が、運命のいたずらでお互い敵国の者とは知らずに出会い、引かれ合い、愛を育む。
だが、必然のようにお互いの正体を知り、二人は引き裂かれた。
高まる両国間の緊張を解こうと奔走する姫君。
戦争を止められる立場になれるよう、がむしゃらに出世を目指す騎士。
しかし、その努力空しく両国の間で戦争が始まった。
戦争を止めようとしたことで父王から疎まれ、命令権限のない観戦官として出陣を命じられた姫君。
出世欲が仇となり、先陣を命じられた騎士。
二人は、敵同士として戦場で再び相まみえる。
戦況は、騎士の国が終始優勢に進んだ。
劣勢に陥った姫君の国は、国一番の勇士と名高い将の戦死を受け、敗走を始める。
混乱と絶望のなか、足手まといの姫君は、本陣に置き去りにされた。
真っ先に姫君の残る本陣にたどり着いた騎士に、姫君は儚げな笑みを浮かべて懇願こんがんする。
「生きてこの身をはずかしめられるくらいならば、貴方の手に掛かって死にたい」
手をとり合い、すべてを投げ捨てて逃げ出すことを、不器用な二人は選べなかった。
それが出来たのなら、戦場こんなところまで来なかっただろう。
姫君は王女として、騎士は騎士としての生き方以外を、選べなかった。
生まれた国が同じだったら。生まれた国が違っても、なんのしがらみもない平民同士であれば。
いくつもの『たられば』が頭をよぎる。
しかし、運命の女神は二人に微笑まなかった。
姫君と騎士は死出しでの口づけを交わし、騎士の剣が姫君の胸を貫く。
戦争は、騎士の国の勝利で終わった。
掃討戦で武功を上げた騎士は、恩賞として辺鄙へんぴな場所であるが土地を授けられる。
騎士は領主として残りの生涯を民に尽くした。
その真摯な態度と領地運営手腕で良縁を何度も持ちかけられたが、最後まで独り身を通したという。
騎士が遺した領地の中に、たくさんの白い花が揺れる丘がある。
その丘に二つの塚が立っていた。
一つは遺言通りに埋葬された騎士の墓。
もう一つの塚については、一切記録が残っていない。
ただ寄り添うように立つ二つの塚に、人々が想いを馳せるだけであった。


「う、うあ、あぁ、ああ」
舞台の幕が降りると同時に、ジゼルは目から涙を垂れ流しながら手が痛くなるほどの拍手を送った。
感動と切なさとが混じり合い、意味のない声が口から漏れている。
他の観客たちも皆ジゼルと同じような状態で、場内は割れんばかりの拍手が響きわたっていた。
最後の挨拶に役者たちが出てくると、主役から端役に対してまで、惜しみない拍手が沸き起こる。
「良かった。いや、死んじゃったのはやっぱり切ないんだけど、二人の想いの強さが伝わってきて……尊い」
ぐずぐずと鼻をすすりながら、ジゼルは胸の前で祈るように手を組んだ。
この感動を話し合わない選択はないと、ジゼルとエルミーヌは劇場を出て近くの喫茶店へ移動していた。
思い出し泣きしているジゼルは傍目にも怪しいが、この喫茶店はジゼルたちのような歌劇鑑賞帰りの客がよく来るため、店も客も慣れっこである。
そして素晴らしい歌劇の衝撃でジゼルの語彙ごいは死んでいた。
しかし、同じ劇を観たエルミーヌにはしっかり伝わり、「分かる」と力強い同意を得られた。
「戦場での歌の掛け合い、最高だったわね」
「それね! 情感たっぷりで胸に迫ってきて……私、もうあそこからずっと涙腺が崩壊してた」
ジゼルが持ってきた手巾ハンカチは、だいぶ湿っている。
また出てきた涙を拭い、出て行った分の水分を補給しようとお茶を口にした。
二人が飲んでいるのは、金桜子きんおうしの香草茶だ。
実はこの香草茶、ジゼルが納入しているものである。
この喫茶店を利用しているうちに店主と懇意になり、茶の種類を増やしたい店主がジゼルが香草茶の調合もしていると知って依頼してきたのだ。
何種類かの香草茶を納入しているが、今回注文した金桜子は美肌や便秘解消に効果があるとされている。
女性が主要客のこの喫茶店では人気の香草茶だ。
ただ金桜子は酸味があって、そのままでは飲みにくい。
はちみつや砂糖を入れても良いが、金桜子で作ったジャムを入れる飲み方がジゼルは好きだった。
ちなみにジャムは、店主のお手製である。
「今回、私のご贔屓は敵みたいな役どころだったけど、あの低くて魅力的な歌声は健在だから良かったわ」
エルミーヌが飲みきった後の出涸らしをスプーンで口に運びながら言った。
金桜子の効果をより得たいなら、お茶を飲みきった後の出涸らしまで食べてしまった方が良いことをエルミーヌも知っているのだ。
「エルミーヌのご贔屓は姫君の父王だったね。王としては敵国の騎士との恋なんて許せるはずないのは分かるけど、迫力あって怖かった。前の公演ではお茶目なおじ様の役だったのに、がらりと印象が違って。本当に演技も歌も上手だよね」
「うふふふふ。ありがとう。ジゼルのご贔屓も声が伸びやかで、さすが主役という歌唱力だったわ。ほら、余計な心配だったでしょ?」
「うん。本当に良かったぁ」
ご贔屓の麗しくも切ない歌声を思い出し、ジゼルはまた涙ぐむ。


喫茶店で半時以上観劇した公演についてエルミーヌと喋り倒したが、さすがにそれ以上はお店の迷惑になるし、エルミーヌは家のこともある。
「実は今観た歌劇、もう一公演分、鑑賞券があるの。四日後なんだけど、一緒にどうかしら?」
「ありがとう! エルミーヌ様! 女神様!! なんとしてでも予定を空けるから!!!」
別れ際に熱い握手を交わし、二人はそれぞれ帰途きとについた。
(またあの素晴らしい公演が観られるなんて、本当にエルミーヌには感謝してもし足りない。だけど苦手な悲劇を何度も観たくなるなんて……。脚本も演出も良かったものね。あぁ、切なくて悲しくて、でも美しい悲劇。うぅ、あの最後を思い出すとまた涙が……)
幸い、工房近くの路地に人影はない。
ぐずぐずと泣きながら敷地に入ろうとしたその時。
「お師匠様?」
聞き覚えがある声に振り向くと、ジゼルが来た方とは逆の角に、見たこともない怖い顔をしたフェリクスが立っていた。
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