白き淵に沈む時

駒元いずみ

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本編

つもりて淵となりぬるは 一

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「起きてください。姫様」
誰かに呼ばれたような気がして、リディアは深い眠りから浮上した。
眠たい目をこすり、ゆっくりとまぶたを上げる。
どうにも体が重く、頭がぼうっとする。
脚の付け根の違和感に意識が向いた途端、昨日の出来事を思い出して顔が熱くなった。
じっとしていられない気分になり、リディアは肩口までかけられていた掛布の端を握り締める。
「おはようございます、姫様。起こしてしまって申し訳ありません」
寝転んだまま声が聞こえた方へ顔を向けると、既に身なりを整えたニールが寝台の端に膝を乗り上げ、リディアの顔をのぞき込んできた。
窓掛の隙間から差し込んだ陽の光で、ニールの顔は判別出来る。
自分はぐったりと疲れきっているのに、元気溌剌げんきはつらつとした様子が腹立たしい。
リディアが不機嫌な表情を浮かべるのとは対照的に、ニールはにこやかに笑った。
「姫様のお身体は俺が清めさせて頂きました。俺は午前中に片付けないといけない仕事があるので行きますが、まだ朝方なので姫様はもう少しお休みください。ご起床は午後の慰問に間に合うよう、侍女に伝えておきます」
「……それなら、起こさずに侍女に言付ことづければ良いでしょう」
気遣っているようで気遣っていない事態に、リディアの眉間のしわが深くなる。
ニールはにこにこと笑ったまま、とぼけたように言った。
「だって、朝のご挨拶したいじゃないですか」
「必要ないわ」
「必要です。必須です。必定ひつじょうです。あと、行ってらっしゃいのちゅう、ください」
唇に人差し指を当てて可愛こぶる様子に頭痛を覚えたリディアは、半眼でニールをにらみつける。
「寝言を言っていないで、さっさと行きなさい」
「ちゅう、してくれないんですか?」
「するわけがないでしょう」
冷たく言い捨てたリディアは寝返りをうち、ニールに背を向ける。
そのまま二度寝してしまおうとしたが、その程度で諦めるようなニールではなかった。
「姫様」
ぐっと肩を掴まれて、強制的に仰向けにされた。
「何を」
「『いってらっしゃいのちゅう』がもらえないなら、『いってきますのちゅう』を差し上げますね」
「は?」
文句を言うために開いた口を、覆いかぶさってきたニールの唇でふさがれる。
「んん~!」
頭の後ろに回された大きな手がしっかりとリディアを押さえており、逃げようにも逃げられない。
ニールの舌が、我が物顔で口腔内を蹂躙している。
『いってきますのちゅう』にしては濃厚過ぎる口付けに、リディアは危機感を覚えた。
不埒なニールの左手が、掛布越しに腰の線をなぞっているのも、その危機感に拍車をかける。
(こ、このままでは、なし崩しで行為にもつれ込んでしまう!)
ただでさえだるい腰が、更に使い物にならなくなってしまうのは御免だった。
それにこちらの意志を無視して、ニールの好きにされるのは頭に来る。
さらに理由をあげれば、この男は午前中にこなすべき仕事が待っていると自ら言ったのだ。
それなのに、リディアの身体を隠す掛布を剥ぎ取ろうとしているとは、ふざけるにも程がある。
口付けの快楽よりも怒りが勝ったリディアは、寝台脇の小机に手を伸ばす。
指先で捜し当てたそれを掴み、角度を変えるために口を離された瞬間、ニールの脳天にそれを振り下ろした。
「いい加減になさい! この阿呆あほうが!」
「痛っ」
ニールが脳天を押さえながら体を起こした。
リディアもしっかりと掛布を身体に巻き付けて、身体を起こす。
寝台に片膝だけ乗り上げた状態のニールの濃い茶色の目には、薄らと涙が浮かんでいた。
頬が赤いのは、先ほどの口付けの余韻だと思いたい。
「ひ、姫様。俺、蔑まれるのはぐっと来るんですけど、痛みを快楽にするのはちょっとまだ早いかと……」
「何の話をしているの、お前は」
もじもじとニールが恥じらうように言う。
リディアはニールを叩くのに使った扇を開き、口元を隠して大きなため息を吐いた。
(この変態に底はないのかしら……)
とにかく、また変な雰囲気にならない内に、ニールを追い出さなければなるまい。
ぴしゃりと扇を閉じ、リディアはニールの目を見据えて言った。
「ニール。お前はいくら卑しい生まれでも、今は人の上に立つ立場になったのでしょう。お前はお前の為すべきことをなさい」
「……はい」
渋々と、ニールがうなずく。
「では、さっさと行きなさい」
「その前に一つ確認なんですが」
「それは後ではいけないことなの?」
リディアは不愉快だという態度を隠さずに聞き返した。
ニールが恐る恐るといった体で続ける。
「お答え頂ければ、それを励みに仕事を頑張れそうなんですが……」
「……何なの?」
答える答えないの問答をしている時間も馬鹿らしく、リディアは尋ねる。
ニールはぱっと笑みを見せ、意気込んで言った。
「領主の仕事が俺の為すべきことですけど、跡継ぎを作ることだって大事な仕事の内ですよね」
お前は何を言い出すんだ、と思いつつ、リディアはにべもなく答えた。
「領地の復興が最優先だわ」
「でも、子作りは大事な仕事ですよね」
ニールはよい笑顔を浮かべて畳みかけてくる。
これは望む答えを聞くまでは動かないという、言外の主張だろうか。
リディアは渋い顔でニールをにらみつけた。
ニールの目的は、どう考えても子作りの結果ではなく、過程の行為だろう。
跡継ぎうんぬんは、建前に過ぎない。
ただ、リディアの口からニールの言うことを否定することは出来なかった。
別にニールのことを気遣ってのことではなく、リディアの立場の問題だ。
好む好まざるはさておき、リディアはバンフィールド辺境伯夫人になってしまった。
国境に近いこの地を治めるバンフィールド辺境伯に、王家の血を継ぐ者を据えようというのがリディアの嫁いだ狙いの一つである。
跡継ぎを作るのは、確かに大事な仕事の一つなのだ。
リディアは嫌々という気持ちを全面に出した表情を浮かべ、すぃっと目をそらして言った。
「……そういうことは、夜にするものでしょう」
少なくとも、リディアの知る常識ではそうだった。
昨日は例外だ。例外はそうそう繰り返すものではない。
その婉曲な肯定に、ニールはにやりと笑った。
「じゃあ、夜はいやらしくよがっている所をたぁっぷり見せてくださいね、姫様」
「せめて建前は堅守なさい!」
リディアが声を荒げると、ニールはくすくす笑って一礼した。
「では心置きなく子作りに励めるよう、仕事を片付けてくるとしましょう。いってまいります、姫様」
「いいからさっさと黙って行きなさい!」


すこぶる機嫌が良さそうな足取りで部屋を出ていくニールを見送るはめになったリディアは、ぼふっと倒れるように寝台に横たわり、額に手を当てて大きく息を吐いた。
婚姻はお互いの価値観のすり合わせだと、嫁入り前に母から諭されたが、あまりにも価値観がかけ離れている場合はどうしたら良いのだろうか。
(あの変態の価値観に合わせたら、とんでもないことをされそうだわ……)
そこで昨日の痴態を思い出してしまったリディアは、寝返りをうち、柔らかな枕に顔を埋めた。
髪の隙間からのぞく耳は真っ赤になっていた。
まさか、自分があれほど快楽に弱いとは思ってもいなかった。
それまでのリディアは、これも義務と覚悟を決めていたとはいえ、分を弁えないニールを厭っていた。
なのに、一度肌を許しただけで多少なりとも警戒心が薄れてしまった自覚がある。
一緒に居たいと思うような慕情ではないが、まぁ側に置いてやっても良いか、程度の情は沸いてしまった。
その反面、悔しいと思う気持ちもある。
あんな下品な変態に気を許すなど、とリディアの矜持が訴えるのだ。
それに……。
考えを巡らせていたリディアは、米噛に鈍い痛みを覚えて顔をしかめた。
様々な考えと思いが渦巻いて、自分でも収拾がつかなくなってきている。
疲労感が残る今の状態では頭も働かず、上手く考えがまとまりそうになかった。
もう一眠りして、すっきりとした頭で考えた方が良いだろう。
仰向けに戻り、もぞもぞと掛布を肩まで引き上げる。
その時ふと、これだけは確信出きるということが浮かんだ。
「……わたくしがあれに対して下手したてに出てやることは、死んでもないわ」
そうつぶやいたリディアは、今度こそ二度寝をするため、その目を閉じた。


バンフィールド辺境伯付き筆頭補佐官は、四十代半ばの男性だ。
爵位こそ持たないものの官吏としては大変有能で、宰相自らが推薦して筆頭補佐官になった人物である。
その筆頭補佐官は、執務室に入ってきた若い上司の顔を見て、わずかに眉をひそめた。
「随分とご機嫌ですね」
「うん。ものすんごく幸せな気分だよ」
嫌みであることは承知しているだろうに、この上司はつやつやとした顔で惚気のろけを返してきた。
「さようですか」
妻子を王都に残して単身赴任中の筆頭補佐官は、一切の感情を排した声で答えつつ、執務机の上に書類を追加した。
書類は本来予定していた量よりもかなり増えたが、全て早い内に処理した方が良いものであることは間違いない。
筆頭補佐官以外の補佐官は、元々辺境伯に仕えていた者も含めて何故か独身ばかりだった。
昨日、領主夫妻が補佐官たちが詰めている部屋を出てしばらく経った時、補佐官の一人が仕事をしながら、ぽつりとつぶやいた。
「今頃、領主様はあの奥方様とよろしくやってるんですかね」
一瞬、ぴたりと皆の手が止まったが、すぐに何事もなかったように仕事を再会した。
その時を境に、早めに処理をした方が良さそうな書類が倍増したが、おそらく偶々たまたまだろう。
筆頭補佐官もいくつかの懸案事項の書類を前倒しで作成したが、偶然だ。
遠く離れた空の下に居る家族のことを思うと、筆が乗ってしまっただけのことである。
さて、年若い上司はどのような反応を示すだろうか、と筆頭補佐官は内心意地悪く見守っていた。
椅子に座った上司は、執務机の上に積まれた書類の山を見て首を傾げた。
「本当に今日中に処理しなくちゃいけないのはどれ? 優先順位が高いものから教えてもらえる?」
的確で無駄のない質問に、筆頭補佐官は何だか負けたような気がした。
平民の騎士上がりという経歴を聞いて、幾度となくこの上司を試すようなことをしているが、今のところ、すべてそつなくこなされてしまっている。
筆頭補佐官も人の子だ。
この若造が、と思う気持ちがないわけではない。
しかし、上司の領主としての能力は、認めざるを得なかった。
妬心としんで仕事を疎かにするほど、愚かではないつもりだ。
筆頭補佐官はそのような複雑な心境を綺麗に隠し、淡々と優先順位の高い書類を寄り分けて上司に渡す。
「まずは、配給状況の報告と是正についてですが……」
「おい。邪魔するぞ」
扉を叩くこともなく、三十代後半と見える男が勝手に室内に入ってきた。
その不作法ぶりに、筆頭補佐官は渋い顔をする。
「入る前に声をかけるか、扉を叩くくらいしたらどうですか。ファレル連隊長」
「水臭いことを言うなよ、カールトン筆頭補佐官。頭が固過ぎるとハゲるぜ?」
にやりと笑って、ファレルと呼ばれた男はヅカヅカと執務机の前までやってきてカールトンの隣に立つ。
彼はバンフィールド辺境連隊の連隊長だ。
先の戦を最前線で戦い生き残った猛者もさである。
筆頭補佐官がバンフィールド辺境伯領における文官の長であるとすれば、連隊長は武官の長だった。
ちなみに、領主は文官と武官の両方を統括する立場にある。
王都から遣わされたカールトン。
生粋のバンフィールド辺境伯領っ子のファレル。
この二人は立場と気質が違い過ぎて、犬猿の仲となっている。
ただ、この領地を復興させるという目的自体は共有しており、嫌みの応酬をするに留めるだけの分別はお互いに持っていた。
しかし、それでもハゲるなどと四十過ぎの男には冗談ではすまないからかい方は腹立たしい。
野猿のざるには、人の作法は難し過ぎましたか」
カールトンが無表情のまま言い放つ。
「あ゛? 誰が野猿だって?」
青筋を浮かべたファレルが威嚇する。
執務室内に、一触即発のピリピリした空気が充満した。
若手の補佐官がこの場に居合わせたら、涙目で退出したいと願うほどの剣呑さだ。
「それで、何があったの? ファレル」
ピリピリした空気を物ともせず、配給状況の報告書を読み終えた上司がファレルに尋ねる。
あまりに平素と変わらない口調に、にらみ合っていた二人も毒気を抜かれてしまった。
「これだから、このクソガキは煮ても焼いても食えねぇ」
と、ファレルは頭を掻いてから報告を始めた。
「姫さんが連れてきたヤツらが連隊に着任したから、それ関係の書類を持って来たんだよ」
ほら、と言ってファレルが上司に向けて差し出した書類をカールトンは横から受け取り、パラパラと内容を確認する。
「書式は整っているようですね」
「二度手間になったら面倒だろ」
「その几帳面さを普段の行動にも反映してくれたら良いのですけどね」
チクリと嫌みを言いつつ、カールトンは書類を机上の決済待ちの束へと追加する。
上司は微妙に嫌そうな顔をして書類の山を見てから、ファレルに視線を戻した。
「いつもなら書類関係は副長が持ってくるよね。他にも何か用があるの?」
その問いかけに、ファレルはニヤリと笑った。
「あぁ、”お前の姫様”にご挨拶しとこうと思ってな」
途端、上司の機嫌が降下する。
大抵のことは飄々と受け流す上司だが、リディア=グレイス姫のこととなると冗談が一切通じなくなるのは、もはや周知の事実だった。
最初の頃は辺境伯の爵位を得るために姫を娶ったのだろうと邪推した者も少なくなかったが、上司の話を聞いていれば嫌でも事実は逆だと思い知らされた。
姫がこちらに来るまで、毎日何度も『姫様に心安く過ごして頂くためにはどうしたら良いか』という話を聞かされていれば、そう思うのも当たり前だ。
領主の仕事も平行してきっちりとこなしていたので、文句も言いづらい。
カールトンは生暖かく、他の補佐官たちは羨ましく思いながら話を聞いていたが、ファレルはことあるごとに上司をからかって遊んでいた。
若者相手に大人げない、とカールトンが諫めると、ファレルはそこしか可愛げがない、と返してきた。
それはカールトンも内心思っていたことなので、否定出来ない。
上司は剣術や部隊指揮においても才がある。
上司が領地に着いた当日にファレルが釘を刺す意味で剣術の勝負を申し込んだが、結果は引き分けだった。
今までファレルと五合以上打ち合わせられた者も居なかったので、これには他の隊員たちも驚き、戦での手柄もあって連隊内での上司の評判はまずまずらしい。
上々ではないのは、やはり上司が若過ぎることに反感を持つ者が一定数は居るからだ。
それでもファレルが上司を認めたことで、意志の疎通が十分に計れているのは有り難い。
ただ、ファレルは女好きでも有名で、おまけに麗しの王妃に似ているというリディア=グレイス姫に興味津々だった。
そのファレルがリディア=グレイス姫にご挨拶を、と言い出したのだから、上司が不機嫌になるのも当たり前の話だろう。
上司は実に嫌そうな顔で言った。
「姫様は下品なヤツはお嫌いだよ。それに挨拶なんて必要ないだろ」
「ひでぇ言いぐさだな。俺はバンフィールド辺境連隊の連隊長だぜ? 武官の長が領主夫人にご挨拶するのは、おかしいことじゃねぇだろうが」
「俺が嫌だ」
「嫌だって、お前な、ガキじゃねぇんだからよ……」
普段は私情を交えずに淡々と仕事をこなす上司の子供っぽい態度に、ファレルが呆れ顔になった。
会わせろ、嫌だ、という低次元の言い合いを端で見ている内に、カールトンはイライラし始めた。
まだ書類の一つも片付けていないのだ。
このような下らない争いに割く時間はない。
「領主様」
カールトンの低い声が執務室内に響く。
上司とファレルの二人は、ぴたりと黙った。
カールトンを怒らせて良い事は何もないとよく承知しているからだ。
カールトンは一呼吸置いて、口を開いた。
「ファレル連隊長と会うかどうかは、奥方様自身に決めて頂けば良いでしょう」
「……それだと会っておこうって話になりそうなんだよな……」
上司はぶつぶつとつぶやいていたが、首を縦に振った。
カールトンはうなずき、ファレルに視線を向ける。
「ファレル連隊長は国境の砦に戻らず、街の詰め所で出来る仕事でもしておいてください。奥方様のご意向を確かめてから連絡をやります。奥方様が良いとおっしゃった場合、出来れば本日午後の慰問に同行してください。奥方様の警護には念を入れておきたいので」
「了解。ま、治安はだいぶ回復したが、何かしでかす馬鹿が出ねぇとは限らねぇからな。側で姫さんを拝めるなら役得ってもんだ」
ファレルがニヤリと笑って、上司を見やる。
上司はむっとした顔をしたが、何も言わなかった。
ファレルの腕が確かなのは、上司もよく知っている。
リディア=グレイス姫の安全が優先だと我慢することにしたらしい。
それをニヤニヤと愉快げに見てから、「じゃ、後でな」と手をひらひらさせてファレルは執務室を出て行った。
内心ほっとしたカールトンは、閉まった扉を忌々しげににらみ付けている上司に、滞っていた書類を差し出したのだった。


昼前に侍女に起こされたリディアは、すこぶる不機嫌だった。
それというのも、身体を起こしたリディアの裸体を見た侍女が顔をひきつらせて、
「だ、旦那様もお若いですから……」
と目をそらすほど、身体中くまなく赤い痕を残されていたからだ。
昼の外出着は首元まで襟が詰まったものなので人には分からないとはいえ、気分はよくない。
(これほど執拗に痕をつけるなんて、やはりあの男は偏狂的な変態だわ……)
リディアはうんざりした気持ちで、重たいため息を吐いた。
気分がよくないのは、身体が言うことを聞かないせいもある。
どうにも足に力が入らず自力で歩こうとすると、とても無様な格好になってしまうのだ。
着替えも、用を足すのも、侍女たちに支えられて何とか出来たが、不便極まりない。
朝昼兼用の食事を済ませた今は、ソファの肘掛けにもたれ掛かり、ぐったりとしている。
街中慰問は様々な理由から延期したくはないが、この状態で大丈夫かと不安に思う。
リディアが鬱々とした気持ちで考え込んでいると、侍女が現在の状態になった元凶の来訪を告げる。
「姫様!」
嫌々ながら入室を許可すると、ニールが駆け寄って来てソファに座るリディアの腰にすがるように抱きついてきた。
「ちょっと! 何なの!」
ぐりぐりと下腹に顔をうずめるニールを引きはがそうと格闘している内にふと顔を上げると、部屋の隅で赤い顔をして待機している侍女と目が合う。
みっともない所を見られてしまったことに、リディアの頬が盛大にひきつった。
手を振って侍女を下がらせたリディアは、大きく深呼吸をして気を落ち着かせてから、絶対零度の声音で言った。
「ニール、離れなさい」
「えー、姫様はとてもいい匂いがするんで、離れたくな」
「二度も言わせないで。躾のなっていない犬はいらないわ」
ニールの言葉を遮り、ぴしゃりと言い放つ。
そこまで言ってようやく、ニールはリディアから離れた。
どこか嬉しそうな顔をしているのがまた気持ち悪い。
そしてニールは、何故かリディアの座るソファの前の床で、ちょこんと正座した。
ちなみに正座という座り方も、賢妃リディアとなったカナコが広めたものなので、リディアの機嫌の悪さを助長するものでしかない。
不機嫌さを隠さず、リディアは手に持った扇をぱしっと手の平に打ち付けて尋ねた。
「それで、何の用? まだ出立予定の時間には早いでしょう」
「そうなんですけど……。あの、姫様。バンフィールド辺境連隊の連隊長にお会いになりますか?」
ニールが膝の上に握った手を置いた状態で、おずおずと上目遣いに尋ね返してきた。
リディアは領地入りする前に頭に叩き込んできた情報を思い返し、首を傾げる。
「ファレル連隊長に? 彼は確か、国境の砦に詰めているのではなかった?」
「基本的にはそうなんですけど、たまに街の詰め所に来るんです。今日もその、姫様にご挨拶申し上げたいと街に来ていて……」
「そうなの。では会うわ」
「えぇー。やっぱり……」
リディアの答えを聞いたニールが、がっくりと項垂うなだれる。
その反応に、リディアは眉をしかめた。
「国境の砦に詰めていると聞いていたから会うのは追々と思っていたけれど、こちらに来るのなら早い内に顔を合わせておく方が良いでしょう」
「姫様ならそうおっしゃると思いましたけど、俺としてはあまり会って欲しくないというか……」
「どうして?」
「だって! 絶対にファレルは姫様のことをいやらしい目で見ますよ! 姫様を舐め回すように見て良いのは俺だけなんですぅ!」
ダンダンと床を叩いて憤慨しているニールを、リディアはゴミを見るような目で見下ろした。
(……これに情が沸いたと思ったのも、快楽に浮かされた錯覚だったわね)
リディアの冷ややかな視線に気付いたニールが頬を紅潮させ、膝にすがりつく。
「姫様! そんな蔑んだ目で見るのは、俺だけにしてくださいね!」
「やはり、お前は気持ち悪いだけだわ」
「罵るのも俺だけですよ! 約束ですからね!」
切々と理解しがたいことを訴えているニールから顔をそらし、リディアは、はぁっと息を吐いた。
出かける前から精神的な疲労が溜まっていく。
このような調子で、自分は領主夫人としてやっていけるのだろうか。
とんでもない変態を夫に持ってしまった悲哀を嘆き、リディアはもう一度大きくため息を吐いた。
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