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01.ヤマユリの
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『物語はいつもめでたしめでたしで終わるとは限りません。それでも、私はめでたしめでたしの物語を、あなたに捧げます。どうか、ほんの一瞬でも、この物語があなたの慰めとなりますように』
茶色に黄色、赤に深い緑。
新年を間近に控え、山はすっかり色とりどりの冬の装いに姿を変えていた。
この辺りはめったに雪が降らない。
しかし、温暖というほどでもなく、ほどほどに寒かった。
そんな山の中腹で、渋茶の頭巾に毛皮の上着、厚手のズボンという、おおよそ二十歳の乙女とは思えない格好をしたエマは、白い息を吐きながら鉈を振るっていた。
キハダの幹に切り込みを入れ、皮を剥ぐ。
連れてきた白黒二頭の猟犬たちが、辺りをぐるぐると回って警戒していた。
熊は冬眠している時期だが、冬眠しそこねた熊は恐ろしい。
他にもこの山には猪や鹿も生息している。
一人で山に入る以上、猟犬たちが頼りである。
「本当ならね、こんな時期に採らなくても大丈夫っ、なんっ、だけど!」
よいしょっと剥いだ皮を、背負い籠の中に放り込んでいく。
この樹皮は内側の層を除いて乾燥させると、整腸作用のある薬になる。
村で常備している薬は、今のところ必要な量は確保しているが、新年を迎えたその後のことを考えると、少々心許ない。
本当ならもっと前から準備しておくべきだったが、なにせ六十年ぶりのことで、エマ自身も周りも慌ただしかったのだ。
「まぁ、こんなものかな。春には余所に修行に出てたベンさんが戻ってくるし。アン婆は足腰が衰えたとはいえ、頭はぴんしゃんしてるからどれ使えば良いかはアン婆に訊けば分かるし」
そこそこの量を採り終えたエマは、うーんと背伸びをした。
「ミル、カフ、そろそろ帰るよ」
うぁふ。
エマが籠を背負って声をかけると、猟犬たちは短く鳴いてエマの前後を固めた。
ミルの先導で山道を下りていく。
その途中、木々が途切れ、山里が見渡せるところがある。
ミルは心得たもので、その少し先で歩みを止めた。
エマがここから眺める景色が好きなことを、彼女も知っているのだ。
畑と点在する家々。
そこからたなびく竈の煙。
遠くに見える穏やかな河。
その向こうには領主様の居る街の塔が見える。
その更にずっと向こうには、王様の居る都があるらしい。
エマはほとんど、この村を出たことがない。
行っても、隣村かその程度だ。
「せめて、あの街くらいには行ってみたかったなぁ」
遠い目をしてつぶやいたエマの足下に、心配顔のカフが寄ってきた。
「あぁ。ごめん。いつもより止まっているの長かったから心配させたね」
首をわしゃわしゃと撫でると、カフはぶんぶんと尻尾を振った。
カフよりお姉さんのミルは、仕方がないというふうに同僚の甘えた様子を座って眺めている。
「もう行くよ。ミル、カフ、待たせたね」
エマが歩き出すと、忠実な猟犬たちは再び前後を固めて仕事を果たす。
(こうやってミルとカフを連れて山に入るのは、これが最後かな……)
敏感なミルが、振り向いてもの言いたげな視線を寄越した。
エマは彼女を安心させるように、にっと笑う。
「なんでもないよ。さぁ、日が暮れる前に家に帰らなきゃ」
胸に満ちる寂しさを飲み込んで、エマは山道を下っていった。
山の麓近くにある家まで戻ってきたエマは、ミルとカフを裏手にある犬小屋に戻し、水を換えてやった。
そのまま勝手口から中に入ると、その音を聞きつけて七つになる末の弟が台所へ駆け込んできた。
「エマ姉ちゃん!」
「なに、そんなに慌ててどうしたの」
いつもは大人しい弟が、ぐいぐいと頭巾を脱いでもないエマの手を引く。
「エマ姉ちゃんにお客さん! なんかこの辺りじゃ見ないカッコしてる男の人たち!」
「はぁ?」
エマは首を傾げた。
エマを尋ねてくるそんな男に心当たりはない。
「ちょっと待ってよ、着替えてくるから」
「だめだめ。もう結構待たせてるし。父ちゃんがすぐに連れてこいって!」
渾身の力で、末弟はエマを引っ張っていく。
「エマ姉ちゃん連れてきたー!」
末弟が大きな声をかけて、客間の扉を開ける。
木の椅子に腰かけて客の相手をしていた父が、「やっと来たか」と息を吐いて立ち上がった。
「だいぶ待たせてしまって悪いな。ゆっくりしていってくれ。エマ、さっさと入れ」
父は部屋の入り口で立ちすくんでいたエマの肩を押す。
「お前なら……大丈夫だな。使命を忘れるな」
意味深なことをエマの耳に囁いて、父が扉を閉じた。
客間にはエマと客の男二人が残される。
エマは痩せた男の方を目を見開いて見つめていた。
立ち上がった男はエマより頭一つ分大きい。
長年の苦労が祟ったのか、頬が少し痩けているようだ。
二つ年下の彼は、最後に会った時はまだエマより少し背が高いくらいだったのに、四年の歳月は少年を青年に変えていた。
しかし、金茶の髮と深い青の瞳は変わらない。
子供らしいふっくらとした頬はなくなっていたが、面影のある顔にエマは呆然とつぶやく。
「ヒュー……あんた、解放されたの?」
「うん。五日前にね。……その、ごたごたがあって、王様が変わったんだ。まだ聞いてない?」
はにかみながら答える男に、エマは驚いて首をぶんぶんと横に振った。
この村は都から馬でも三日かかる距離にある。
エマの父は村長だから、ここまで伝わっていればエマだってもう知っているはずだ。
そのごたごたがあったという話も聞いてなかったから、余程の急変だったのだろう。
エマは潤みそうになった目元にぐっと力を入れて、なんとか笑みの形にする。
「あんたが解放されて良かった。……でも、五日前に解放されたばっかりじゃ、本調子じゃないんでしょ? この村に帰ってくるにしたって、もっと都でゆっくり体調を整えてからにしたら良かったんじゃ」
「それなんだけどね」
「女、カティは、その手に何を持っていたか」
おっとりとした笑みを浮かべ言葉を紡ごうとしたヒューをさえぎって、もう一人の男の方が口を開いた。
エマよりもいくつか上、おそらく二十代半ばだろう。
丁寧に髮を撫でつけ、これはヒューも一緒だが上等で垢抜けた服を着ている。
エマは男の突然の問いかけに、顔をしかめた。
知らない者には意味不明な問いだが、エマにはどうしてその問いをしたか推測がついた。
推測はついたが、何故この男が言うのだろうか。
「アドルフ!」
ヒューが声を荒げ、男の肩を掴んだ。
アドルフと呼ばれた男は、それを無視して問いを重ねた。
「おい。女、答えは?」
「さぁ? ハコベかなんかじゃないですか? というか、どちら様ですか? それと、今の質問、意味が分かりません」
尊大な態度の男を、エマは不信感丸出しで見上げる。
アドルフは皮肉げな笑みを浮かべて答えた。
「俺はヒューの後見人だ。ヒューはヤマユリの君を探している」
男は明らかに馬鹿にしたような顔で、エマの頭の天辺から足の爪先までじろじろ見回した。
「まぁ、この女はヤマユリという感じではないな」
見知らぬ男性に値踏みするように見られ、価値なしと断じられたのは実に腹立たしい。
(どうせ、私はただの田舎の芋娘よ)
服に継ぎ接ぎを当ててあるような状態ではなかったが、山へ向かうために厚手のズボンを履き、毛皮を着て、黒く長い髮も結わって頭巾の中に押し込めてあった。
いい年の娘の姿としては、魅力のある格好とはいえない。
もっとも、とっておきのよそ行きを着ていたところで、洗練した格好の男にしてみれば同じようなものだろうが。
ヒューや男のような格好の人間など、この辺りには居ない。
この辺りの人間は、領主のお膝元でももっと芋くさい。
さすがに礼儀知らずと思われるのは嫌で、エマはまだかぶったままだった頭巾を脱いだ。
はねた髮を手櫛で整えるが、ぼさぼさになった頭がほんの少しマシになった程度にしかなっていないだろう。
その証拠に、アドルフが苦々しい顔でエマを指さした。
「よく見ろ。こいつはヤマユリというより、ヤマイモだろうが」
「アドルフ、エマちゃんに謝れ」
ヒューがアドルフの襟首を掴み、据わった目でにらみつけた。
「目を覚ませ、ヒュー。この芋女がヤマユリの君であるはずがない。さっきの答えを聞いただろう」
アドルフはヒューの手を引き剥がし、あごでエマを指し示した。
ヒューは首を横に振る。
「そんなことない。僕が幽閉されていた二年の間、ずっと手紙をくれていたヤマユリの君はエマちゃんだよ」
確信を持ったように、ヒューが言う。
エマはごくりと唾を飲み込んだ。
「なんでそう思うのよ。っていうか、ヤマユリの君ってなんなの」
「うん? エマちゃんはとぼけるのが上手いねぇ」
ヒューはからからと笑う。
エマはむっとした顔で言い返した。
「別に、とぼけてるわけじゃない。本当に分からないだけ」
「そう? ヤマユリの君は、幽閉されていた僕に二年間ずっと手紙をくれていた人だよ。最初の手紙にヤマユリを描いた絵を入れてくれたから、ヤマユリの君。差出人の名前はなかったけど、僕がヤマユリが好きだって知っているのはエマちゃんくらいだし、僕が退屈しないようにって書かれていたお話だって、ちっちゃい頃に聞いたことある感じの話だった。カティのお話、懐かしかったよ? 文字だってエマちゃんの字らしかったし」
「あんた、私の筆跡なんて知らないでしょ」
エマが反論すると、ヒューは心底不思議そうな顔で首を傾げた。
「え? 僕が文字覚えられないって言ったら教えてくれたの、エマちゃんだったでしょ?」
「…………そうだった?」
「そうだったよ」
記憶にないエマは、そっと目をそらす。
ヒューが寂しげな笑みを浮かべた。
「エマちゃんは皆の面倒をよく見てたもんね。僕にはエマちゃんしかいなかったけど、エマちゃんにはたくさん子分がいたし」
「妹分、弟分と言って。それじゃ私がガキ大将だったみたいでしょ」
「えっ。村長さんちの一番上のお姉ちゃんって言ったら、ここら辺りの悪ガキは皆怖がってたよ。悪さすると鉈振り回して追っかけてくるから」
「…………そんなことも、あったかな?」
「あったよ」
ヒューのきらきらした笑みと、その後ろで野蛮人を見るような顔をしているアドルフの視線が痛い。
ヒューは小さい頃から泣き虫で寂しがりやで、村の同い年くらいの子たちの後ろを半べそかきながら追いかけていた。
その頃のヒューは女の子みたいな顔をしていたし大人しいしで、やんちゃな男の子たちからは爪弾きにされることもよくあった。
父から下の子たちの面倒を見るのが仕事と言われていたエマは、仕方がないので自分たちの仲間に入れてあげていたのだ。
とはいえ、なんだかんだ言っても、一番仲の良い異性はヒューだった。
父の『ヒューと年頃になったら結婚させるか』という軽口も、エマは満更ではなかった。
(……でもそれは昔の話。今はもう、事情が違うもの)
ともかく、そういうことは覚えているのだが、悪ガキどもを鉈を振り回して追いかけていたことは覚えていない。
言われてみれば、そういうこともあった? 程度だ。
(家やアン婆の手伝いとか、そうじゃなかったら刺繍とか、女の子らしいことをしていた記憶しかない……)
記憶とは、都合良く書き換わるものらしい。
エマはごほんと咳払いして、早口に言った。
「そ、それはおいておくとして。私はヤマユリの君とやらではないけど、ヒューはヤマユリの君を見つけてどうしたいの?」
尋ねられたヒューが、顔を朱に染めもじもじとしだした。
「あ、あのね。エマちゃんはまだ実家にいるってことは、結婚してないんだよね? その、あの、……僕と結婚してください!」
腰を直角に折って、ヒューが頭を下げた。
エマが驚き聞き返すより先に、アドルフが悲鳴じみた声を出す。
「はぁ!? ヒュー! ヤマユリの君に会って礼が言いたいとしか聞いてないぞ!」
「うん。だって詳しく話したらアドルフうるさいこと言うだろし」
「当たり前だ! お前は光の神子なんだぞ! 国中にあふれていた瘴気を払った功績から国民に人気が高いお前に、王位を奪われると疑心暗鬼にかられて幽閉した愚かな前王は弑された! 新しく王として立たれるシーウェル公はお前のことを正当に評価してくださる! 称号や領地の授与も検討されているんだ! 結婚相手だって良家の子女が選び放題だぞ! それをお前、こんな芋女を選ぼうだなんて」
「僕はずっとこの村に帰ってきたかった! エマちゃんがいいんだ!」
「自分の立場を考えろ! 光の神子としての自覚を持て!」
「光の神子なんて、なりたくてなったわけじゃない!」
エマそっちのけで怒鳴り合う二人。
突然の求婚に呆然としてエマは、時間が与えられたことでなんとか冷静になることが出来た。
ヒューにとって、エマは平穏で幸福な子供時代の象徴なのだろう。
だから執着する。
(哀れで可愛い、私の……)
ここでヒューの求婚に是と言えたらどんなに良かっただろう。
しかし、エマの答えは決まっている。
ただ、返事をしようにも、口を挟む隙がない。
エマはため息を吐いて、大きな音が鳴るように手を打ち合わせる。
パァン。
取っ組み合いになりかけていた男たちが動きを止めて、エマの方を向く。
この機会を逃さず、エマは一息に言い切った。
「悪いけどヒューとは結婚できない。私は年が明けたら嫁ぐから。それに私はヤマユリの君じゃない。ヒューの勘違い」
「え」
ヒューが目を見開いた。
くしゃりと顔を歪み深い青の瞳が潤む。
今にも泣きそうだ。
(泣き虫なのは変わらないんだ。もう十八なのに……)
自分が知っているヒューがまだ居ることに、エマは仄暗い喜びを覚えた。
もう守ってあげられないのに、申し訳なさよりも嬉しさを覚えるなんてひどい人間だ。
「だ、誰と結婚」
「それ聞いてどうするの? 誰が相手にしろ、ヒューの求婚は断るって言ってるのに」
「そんな……」
ヒューが唇を噛みしめ、涙をこらえている。
対照的にアドルフはあからさまにほっとした顔をしていた。
ヒューの肩を抱き、軽薄な口調で彼をなぐさめる。
「ほら。この女はお前のヤマユリの君ではないと言っている。そう落ち込むことはない」
「違う。エマちゃんだよ。ヤマユリの君はエマちゃんだ。エマちゃんだと思ったから僕は……。エマちゃん、僕を選んでよ」
すがるように、ヒューが黒い手袋をはめた手をエマに向かって伸ばす。
その手袋の下には、光の神子の証である紋章が浮かんでいるのを、エマは知っていた。
四年前、いきなりヒューの右手の甲に鮮やかに光る紋章が浮かび上がって、それを察知した教会だか国だかの使いが、あっと言う間にヒューを連れて行ってしまったのだ。
その場に居合わせたエマは『行きたくない』と泣くヒューにかける言葉が思い浮かばず、黙って立ち尽くしかなかった。
苦い思い出だ。
(もし、ヒューが一年前に帰って来てたら……。ううん。これで良かったんだ)
エマは目を伏せて、
「ごめんね」
と言った。
「エマちゃん……」
「ヒュー、帰るぞ」
うつむくヒューの背中をアドルフが押す。
エマが玄関まで案内すると、ヒューを先に外へ行かせたアドルフが冷たい目でエマを見下ろした。
「女。ヒューの求婚を断ったことは褒めてやる。身の程を知っているのは良いことだ」
ぼそりとヒューに聞こえないように向けられた言葉に、エマは無表情に返した。
「新年に嫁ぐのは嘘じゃありませんから」
「お前のような可愛げのない芋女でも貰い手がいたか」
アドルフがわざとらしく片眉を上げる。
エマは皮肉げな笑みを浮かべた。
「奇特なお方が、私が良いとご指名で」
「ふん。邪魔をしたな」
この辺りの農耕馬とは違う立派な馬に跨がって、二人は村を後にした。
その背中をぼんやりと見送って、エマは自身の左肩をぐっと掴む。
陽が傾き、山から冷たい風が吹き下ろしてくる。
しばらくその風に吹かれていたエマは、気遣わしげな顔で迎えにきた末弟の頭を撫で家の中に入った。
エマは、年が明けた早々に、山の神に嫁ぐことが決まっていた。
茶色に黄色、赤に深い緑。
新年を間近に控え、山はすっかり色とりどりの冬の装いに姿を変えていた。
この辺りはめったに雪が降らない。
しかし、温暖というほどでもなく、ほどほどに寒かった。
そんな山の中腹で、渋茶の頭巾に毛皮の上着、厚手のズボンという、おおよそ二十歳の乙女とは思えない格好をしたエマは、白い息を吐きながら鉈を振るっていた。
キハダの幹に切り込みを入れ、皮を剥ぐ。
連れてきた白黒二頭の猟犬たちが、辺りをぐるぐると回って警戒していた。
熊は冬眠している時期だが、冬眠しそこねた熊は恐ろしい。
他にもこの山には猪や鹿も生息している。
一人で山に入る以上、猟犬たちが頼りである。
「本当ならね、こんな時期に採らなくても大丈夫っ、なんっ、だけど!」
よいしょっと剥いだ皮を、背負い籠の中に放り込んでいく。
この樹皮は内側の層を除いて乾燥させると、整腸作用のある薬になる。
村で常備している薬は、今のところ必要な量は確保しているが、新年を迎えたその後のことを考えると、少々心許ない。
本当ならもっと前から準備しておくべきだったが、なにせ六十年ぶりのことで、エマ自身も周りも慌ただしかったのだ。
「まぁ、こんなものかな。春には余所に修行に出てたベンさんが戻ってくるし。アン婆は足腰が衰えたとはいえ、頭はぴんしゃんしてるからどれ使えば良いかはアン婆に訊けば分かるし」
そこそこの量を採り終えたエマは、うーんと背伸びをした。
「ミル、カフ、そろそろ帰るよ」
うぁふ。
エマが籠を背負って声をかけると、猟犬たちは短く鳴いてエマの前後を固めた。
ミルの先導で山道を下りていく。
その途中、木々が途切れ、山里が見渡せるところがある。
ミルは心得たもので、その少し先で歩みを止めた。
エマがここから眺める景色が好きなことを、彼女も知っているのだ。
畑と点在する家々。
そこからたなびく竈の煙。
遠くに見える穏やかな河。
その向こうには領主様の居る街の塔が見える。
その更にずっと向こうには、王様の居る都があるらしい。
エマはほとんど、この村を出たことがない。
行っても、隣村かその程度だ。
「せめて、あの街くらいには行ってみたかったなぁ」
遠い目をしてつぶやいたエマの足下に、心配顔のカフが寄ってきた。
「あぁ。ごめん。いつもより止まっているの長かったから心配させたね」
首をわしゃわしゃと撫でると、カフはぶんぶんと尻尾を振った。
カフよりお姉さんのミルは、仕方がないというふうに同僚の甘えた様子を座って眺めている。
「もう行くよ。ミル、カフ、待たせたね」
エマが歩き出すと、忠実な猟犬たちは再び前後を固めて仕事を果たす。
(こうやってミルとカフを連れて山に入るのは、これが最後かな……)
敏感なミルが、振り向いてもの言いたげな視線を寄越した。
エマは彼女を安心させるように、にっと笑う。
「なんでもないよ。さぁ、日が暮れる前に家に帰らなきゃ」
胸に満ちる寂しさを飲み込んで、エマは山道を下っていった。
山の麓近くにある家まで戻ってきたエマは、ミルとカフを裏手にある犬小屋に戻し、水を換えてやった。
そのまま勝手口から中に入ると、その音を聞きつけて七つになる末の弟が台所へ駆け込んできた。
「エマ姉ちゃん!」
「なに、そんなに慌ててどうしたの」
いつもは大人しい弟が、ぐいぐいと頭巾を脱いでもないエマの手を引く。
「エマ姉ちゃんにお客さん! なんかこの辺りじゃ見ないカッコしてる男の人たち!」
「はぁ?」
エマは首を傾げた。
エマを尋ねてくるそんな男に心当たりはない。
「ちょっと待ってよ、着替えてくるから」
「だめだめ。もう結構待たせてるし。父ちゃんがすぐに連れてこいって!」
渾身の力で、末弟はエマを引っ張っていく。
「エマ姉ちゃん連れてきたー!」
末弟が大きな声をかけて、客間の扉を開ける。
木の椅子に腰かけて客の相手をしていた父が、「やっと来たか」と息を吐いて立ち上がった。
「だいぶ待たせてしまって悪いな。ゆっくりしていってくれ。エマ、さっさと入れ」
父は部屋の入り口で立ちすくんでいたエマの肩を押す。
「お前なら……大丈夫だな。使命を忘れるな」
意味深なことをエマの耳に囁いて、父が扉を閉じた。
客間にはエマと客の男二人が残される。
エマは痩せた男の方を目を見開いて見つめていた。
立ち上がった男はエマより頭一つ分大きい。
長年の苦労が祟ったのか、頬が少し痩けているようだ。
二つ年下の彼は、最後に会った時はまだエマより少し背が高いくらいだったのに、四年の歳月は少年を青年に変えていた。
しかし、金茶の髮と深い青の瞳は変わらない。
子供らしいふっくらとした頬はなくなっていたが、面影のある顔にエマは呆然とつぶやく。
「ヒュー……あんた、解放されたの?」
「うん。五日前にね。……その、ごたごたがあって、王様が変わったんだ。まだ聞いてない?」
はにかみながら答える男に、エマは驚いて首をぶんぶんと横に振った。
この村は都から馬でも三日かかる距離にある。
エマの父は村長だから、ここまで伝わっていればエマだってもう知っているはずだ。
そのごたごたがあったという話も聞いてなかったから、余程の急変だったのだろう。
エマは潤みそうになった目元にぐっと力を入れて、なんとか笑みの形にする。
「あんたが解放されて良かった。……でも、五日前に解放されたばっかりじゃ、本調子じゃないんでしょ? この村に帰ってくるにしたって、もっと都でゆっくり体調を整えてからにしたら良かったんじゃ」
「それなんだけどね」
「女、カティは、その手に何を持っていたか」
おっとりとした笑みを浮かべ言葉を紡ごうとしたヒューをさえぎって、もう一人の男の方が口を開いた。
エマよりもいくつか上、おそらく二十代半ばだろう。
丁寧に髮を撫でつけ、これはヒューも一緒だが上等で垢抜けた服を着ている。
エマは男の突然の問いかけに、顔をしかめた。
知らない者には意味不明な問いだが、エマにはどうしてその問いをしたか推測がついた。
推測はついたが、何故この男が言うのだろうか。
「アドルフ!」
ヒューが声を荒げ、男の肩を掴んだ。
アドルフと呼ばれた男は、それを無視して問いを重ねた。
「おい。女、答えは?」
「さぁ? ハコベかなんかじゃないですか? というか、どちら様ですか? それと、今の質問、意味が分かりません」
尊大な態度の男を、エマは不信感丸出しで見上げる。
アドルフは皮肉げな笑みを浮かべて答えた。
「俺はヒューの後見人だ。ヒューはヤマユリの君を探している」
男は明らかに馬鹿にしたような顔で、エマの頭の天辺から足の爪先までじろじろ見回した。
「まぁ、この女はヤマユリという感じではないな」
見知らぬ男性に値踏みするように見られ、価値なしと断じられたのは実に腹立たしい。
(どうせ、私はただの田舎の芋娘よ)
服に継ぎ接ぎを当ててあるような状態ではなかったが、山へ向かうために厚手のズボンを履き、毛皮を着て、黒く長い髮も結わって頭巾の中に押し込めてあった。
いい年の娘の姿としては、魅力のある格好とはいえない。
もっとも、とっておきのよそ行きを着ていたところで、洗練した格好の男にしてみれば同じようなものだろうが。
ヒューや男のような格好の人間など、この辺りには居ない。
この辺りの人間は、領主のお膝元でももっと芋くさい。
さすがに礼儀知らずと思われるのは嫌で、エマはまだかぶったままだった頭巾を脱いだ。
はねた髮を手櫛で整えるが、ぼさぼさになった頭がほんの少しマシになった程度にしかなっていないだろう。
その証拠に、アドルフが苦々しい顔でエマを指さした。
「よく見ろ。こいつはヤマユリというより、ヤマイモだろうが」
「アドルフ、エマちゃんに謝れ」
ヒューがアドルフの襟首を掴み、据わった目でにらみつけた。
「目を覚ませ、ヒュー。この芋女がヤマユリの君であるはずがない。さっきの答えを聞いただろう」
アドルフはヒューの手を引き剥がし、あごでエマを指し示した。
ヒューは首を横に振る。
「そんなことない。僕が幽閉されていた二年の間、ずっと手紙をくれていたヤマユリの君はエマちゃんだよ」
確信を持ったように、ヒューが言う。
エマはごくりと唾を飲み込んだ。
「なんでそう思うのよ。っていうか、ヤマユリの君ってなんなの」
「うん? エマちゃんはとぼけるのが上手いねぇ」
ヒューはからからと笑う。
エマはむっとした顔で言い返した。
「別に、とぼけてるわけじゃない。本当に分からないだけ」
「そう? ヤマユリの君は、幽閉されていた僕に二年間ずっと手紙をくれていた人だよ。最初の手紙にヤマユリを描いた絵を入れてくれたから、ヤマユリの君。差出人の名前はなかったけど、僕がヤマユリが好きだって知っているのはエマちゃんくらいだし、僕が退屈しないようにって書かれていたお話だって、ちっちゃい頃に聞いたことある感じの話だった。カティのお話、懐かしかったよ? 文字だってエマちゃんの字らしかったし」
「あんた、私の筆跡なんて知らないでしょ」
エマが反論すると、ヒューは心底不思議そうな顔で首を傾げた。
「え? 僕が文字覚えられないって言ったら教えてくれたの、エマちゃんだったでしょ?」
「…………そうだった?」
「そうだったよ」
記憶にないエマは、そっと目をそらす。
ヒューが寂しげな笑みを浮かべた。
「エマちゃんは皆の面倒をよく見てたもんね。僕にはエマちゃんしかいなかったけど、エマちゃんにはたくさん子分がいたし」
「妹分、弟分と言って。それじゃ私がガキ大将だったみたいでしょ」
「えっ。村長さんちの一番上のお姉ちゃんって言ったら、ここら辺りの悪ガキは皆怖がってたよ。悪さすると鉈振り回して追っかけてくるから」
「…………そんなことも、あったかな?」
「あったよ」
ヒューのきらきらした笑みと、その後ろで野蛮人を見るような顔をしているアドルフの視線が痛い。
ヒューは小さい頃から泣き虫で寂しがりやで、村の同い年くらいの子たちの後ろを半べそかきながら追いかけていた。
その頃のヒューは女の子みたいな顔をしていたし大人しいしで、やんちゃな男の子たちからは爪弾きにされることもよくあった。
父から下の子たちの面倒を見るのが仕事と言われていたエマは、仕方がないので自分たちの仲間に入れてあげていたのだ。
とはいえ、なんだかんだ言っても、一番仲の良い異性はヒューだった。
父の『ヒューと年頃になったら結婚させるか』という軽口も、エマは満更ではなかった。
(……でもそれは昔の話。今はもう、事情が違うもの)
ともかく、そういうことは覚えているのだが、悪ガキどもを鉈を振り回して追いかけていたことは覚えていない。
言われてみれば、そういうこともあった? 程度だ。
(家やアン婆の手伝いとか、そうじゃなかったら刺繍とか、女の子らしいことをしていた記憶しかない……)
記憶とは、都合良く書き換わるものらしい。
エマはごほんと咳払いして、早口に言った。
「そ、それはおいておくとして。私はヤマユリの君とやらではないけど、ヒューはヤマユリの君を見つけてどうしたいの?」
尋ねられたヒューが、顔を朱に染めもじもじとしだした。
「あ、あのね。エマちゃんはまだ実家にいるってことは、結婚してないんだよね? その、あの、……僕と結婚してください!」
腰を直角に折って、ヒューが頭を下げた。
エマが驚き聞き返すより先に、アドルフが悲鳴じみた声を出す。
「はぁ!? ヒュー! ヤマユリの君に会って礼が言いたいとしか聞いてないぞ!」
「うん。だって詳しく話したらアドルフうるさいこと言うだろし」
「当たり前だ! お前は光の神子なんだぞ! 国中にあふれていた瘴気を払った功績から国民に人気が高いお前に、王位を奪われると疑心暗鬼にかられて幽閉した愚かな前王は弑された! 新しく王として立たれるシーウェル公はお前のことを正当に評価してくださる! 称号や領地の授与も検討されているんだ! 結婚相手だって良家の子女が選び放題だぞ! それをお前、こんな芋女を選ぼうだなんて」
「僕はずっとこの村に帰ってきたかった! エマちゃんがいいんだ!」
「自分の立場を考えろ! 光の神子としての自覚を持て!」
「光の神子なんて、なりたくてなったわけじゃない!」
エマそっちのけで怒鳴り合う二人。
突然の求婚に呆然としてエマは、時間が与えられたことでなんとか冷静になることが出来た。
ヒューにとって、エマは平穏で幸福な子供時代の象徴なのだろう。
だから執着する。
(哀れで可愛い、私の……)
ここでヒューの求婚に是と言えたらどんなに良かっただろう。
しかし、エマの答えは決まっている。
ただ、返事をしようにも、口を挟む隙がない。
エマはため息を吐いて、大きな音が鳴るように手を打ち合わせる。
パァン。
取っ組み合いになりかけていた男たちが動きを止めて、エマの方を向く。
この機会を逃さず、エマは一息に言い切った。
「悪いけどヒューとは結婚できない。私は年が明けたら嫁ぐから。それに私はヤマユリの君じゃない。ヒューの勘違い」
「え」
ヒューが目を見開いた。
くしゃりと顔を歪み深い青の瞳が潤む。
今にも泣きそうだ。
(泣き虫なのは変わらないんだ。もう十八なのに……)
自分が知っているヒューがまだ居ることに、エマは仄暗い喜びを覚えた。
もう守ってあげられないのに、申し訳なさよりも嬉しさを覚えるなんてひどい人間だ。
「だ、誰と結婚」
「それ聞いてどうするの? 誰が相手にしろ、ヒューの求婚は断るって言ってるのに」
「そんな……」
ヒューが唇を噛みしめ、涙をこらえている。
対照的にアドルフはあからさまにほっとした顔をしていた。
ヒューの肩を抱き、軽薄な口調で彼をなぐさめる。
「ほら。この女はお前のヤマユリの君ではないと言っている。そう落ち込むことはない」
「違う。エマちゃんだよ。ヤマユリの君はエマちゃんだ。エマちゃんだと思ったから僕は……。エマちゃん、僕を選んでよ」
すがるように、ヒューが黒い手袋をはめた手をエマに向かって伸ばす。
その手袋の下には、光の神子の証である紋章が浮かんでいるのを、エマは知っていた。
四年前、いきなりヒューの右手の甲に鮮やかに光る紋章が浮かび上がって、それを察知した教会だか国だかの使いが、あっと言う間にヒューを連れて行ってしまったのだ。
その場に居合わせたエマは『行きたくない』と泣くヒューにかける言葉が思い浮かばず、黙って立ち尽くしかなかった。
苦い思い出だ。
(もし、ヒューが一年前に帰って来てたら……。ううん。これで良かったんだ)
エマは目を伏せて、
「ごめんね」
と言った。
「エマちゃん……」
「ヒュー、帰るぞ」
うつむくヒューの背中をアドルフが押す。
エマが玄関まで案内すると、ヒューを先に外へ行かせたアドルフが冷たい目でエマを見下ろした。
「女。ヒューの求婚を断ったことは褒めてやる。身の程を知っているのは良いことだ」
ぼそりとヒューに聞こえないように向けられた言葉に、エマは無表情に返した。
「新年に嫁ぐのは嘘じゃありませんから」
「お前のような可愛げのない芋女でも貰い手がいたか」
アドルフがわざとらしく片眉を上げる。
エマは皮肉げな笑みを浮かべた。
「奇特なお方が、私が良いとご指名で」
「ふん。邪魔をしたな」
この辺りの農耕馬とは違う立派な馬に跨がって、二人は村を後にした。
その背中をぼんやりと見送って、エマは自身の左肩をぐっと掴む。
陽が傾き、山から冷たい風が吹き下ろしてくる。
しばらくその風に吹かれていたエマは、気遣わしげな顔で迎えにきた末弟の頭を撫で家の中に入った。
エマは、年が明けた早々に、山の神に嫁ぐことが決まっていた。
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