スペクターズ・ガーデンにようこそ

第１章：進級

進級、クラス替え

　私は今日、中学二年生になった。学年末試験で赤点を取ってしまったときには焦ったけど、補習をちゃんと受けたし、再試験では半分くらいは解答できたから大丈夫。大体、数学なんてこれからの人生に役立つとは思えないし、さっぱり興味が湧かないし、一体全体難し過ぎるのよ！　なんであんなわけのわからないものを勉強しなきゃいけないのかしら。
　って、それは大した問題じゃない。思いもしなかった出来事が起こったのだ。その出来事とは――

「弥勒（ミロク）兄さーん！　典兎（ノリト）さーん！　聞いて下さいよぉっ！」

　色とりどりの春の花で埋めつくされた入口を抜けるなり、私は奥にいるだろう二人の名を呼ぶ。

「いらっしゃい。結衣ちゃん」

　店の奥のスタッフルームから先に顔を出したのは線の細い感じの青年だった。優しげな笑顔をいつも絶やすことなく、フラワーショップ『スペクターズ・ガーデン』に訪れる客を迎えてくれる彼は、去年の春からバイトとして働いている典兎さんだ。

「結衣、前から何度も言ってるだろ？　なんでテントにはさん付けなのに、俺には兄さんなわけ？　いーかげん、直せよ！」

　微苦笑を浮かべて典兎さんの後ろから出てきたのはがっしりとした体格の青年。よーちゃんのお兄さんで、このフラワーショップの後継ぎになる弥勒さん。私は女ばかりの姉妹なので、弥勒兄さんと呼んで慕っている。典兎さんがバイトで入るようになってからは、私にお兄さん呼ばわりされるのを嫌がるようになったんだけど、その理由が今ひとつわからないのでそのまま無視して兄さん呼びを続けている。

「いやぁ、ミロクが僕のことをテントって呼び続けているのと大差ないと思うけどなぁ」

　やんわりと典兎さんから指摘されると、弥勒兄さんは人差し指を彼に向けた。

「その名前、フツーはノリトって読まない」
「頑固だねぇ。出会ってからえっと……」

　言いながら、典兎さんは左手の親指から順に薬指まで折る。

「……そろそろ五年になる？　その間何度も何度も訂正したよね？」

　やれやれといった表情で告げると、弥勒兄さんはむっとした。

「テントで良いじゃねーか」
「なら、今さら呼び方を変えなくたっていいんじゃない？　結衣ちゃんは出会ってからずっとミロクのことを兄さんって呼んでいたんだし」
「だからそれは――」
「ははぁん、やっぱ、ミロク、君は――」
「ばかっ！」

　台詞を遮って指摘しようとした典兎さんの口を、弥勒兄さんは血相を変えて素早くふさぐ。
　最近こんなやり取りを見せてくれるようになった二人だが、いつもこの台詞の先を聞かせてくれない。「君は――」のあとは何が続くのだろう？　かなり気になるが、そのあと決まって弥勒兄さんが私を睨むので聞けずじまいだ。

「――ただいま」

　よーちゃんの声。私が視線を向けると、入口には腰まで届く黒髪を肩口で二つに分けたセーラー服の美少女が立っていた。先に駆けていった私の後ろをよーちゃんは歩いていたはずで、やっと追いついたらしい。
　このお店『スペクターズ・ガーデン』はよーちゃんのお父さんが経営するフラワーショップで、この裏に彼女の家がある。私はよーちゃんと通学するのに便乗して、毎日ここに遊びに来ていた。

「……って、またやってたの？」

　呆れたと言わんばかりの視線を長い前髪の間から実の兄と典兎さんに送る。

「仲が良いのは結構なことだけど、あんまりベタベタしてると誤解されるよ？」

　言われて、弥勒兄さんは手を典兎さんの口元から外して後退する。
　典兎さんはそんな弥勒兄さんに恨めしそうな視線を向けたあとで、私ににこやかな顔を向けた。

「そうだ。結衣ちゃん、慌ててやってきたみたいだけど、何かあったのかい？」

　典兎さんに訊かれて、私はなんでここまで走って来たのかを思い出す。

「そうそう！　聞いて下さいよぉっ！」
「だから何を？」

　興奮気味の私を落ち着かせるためにか、弥勒兄さんはゆっくりと訊ねた。

「――今日、クラス替えの発表があったんだ」

　私がその問いに答える前に、よーちゃんが冷めた口調で告げた。

「まぁ、そりゃあるだろうね、進級したわけだし」

　典兎さんは引っ掛かるところがなかったようだ。頷いて続く言葉を促す。

「それが？」

　弥勒兄さんは興味がないらしく、つまらなそうに問う。

　――二人ともわかってない！

「だから、それが大問題なんだってばっ！」

　二人は私が怒鳴った理由を掴めなかったらしく、互いの顔を見合わせて、んなことを言われても理解できないというジェスチャーを交わした。

「だぁかぁらっ！　よーちゃんとクラスが離ればなれになっちゃったのっ！」

　ショックで私はその場にうずくまると、リノリウムの床に『の』の字を書いてみる。これで落ち着けばいいけれど、気持ちの整理なんてつくわけがない。

「――いや、それは当然の帰結だと思うんだが？」

　はっきりと指摘してきたのは弥勒兄さん。

　――つ、冷たい……冷たすぎる……。

「当然？」

　私はしゃがみこんだまま、弥勒兄さんに視線を向ける。

「だって、結衣は文系だろう？　葉子はどう転んでも理系なんだし」
「あぁ、二年から文系理系に分かれるんだっけ？」

　弥勒兄さんの台詞を聞いて、典兎さんはよーちゃんに目を向ける。
　それに対し、よーちゃんは涼しげな顔で頷いた。

「そういうこと」

　――よーちゃんは私と一緒じゃなくても寂しくないのかな？

　私の心には疑問が浮かぶ。
　掲示板にクラスの発表が貼り出されたのを見たときも、よーちゃんはいたってクールだった。
　私と違って、よーちゃんは普段から落ち着いているけど、それでもあのときの落ち着きっぷりは異常に感じられた。だって、今までずっと同じクラスだったんだよ？　冷静にこの状況を受け入れられるものかなぁ？

「数学のテストで赤点取って、補習を受けているようじゃ、同じクラスになるのは無理だろうな」
「な……！　なんで知ってるの？」

　隠していたはずなのに！
　私は勢いよく立ち上がって弥勒兄さんを睨む。
　弥勒兄さんはしまったという顔をしたあとに、典兎さんに助け舟を求めるべく目を向けたが、ぷいっと横を向かれてしまう。

　――ってことは、典兎さんも私が補習を受けていたことを知っていたんだっ！

「兄さんを責めないであげて。私が教えたんだから」

　腹が立った私が文句を言おうとしたところで、よーちゃんの落ち着いた声が割り込んだ。

「よ、よーちゃんが？」

　私は目をぱちくりさせてよーちゃんを見やる。顔の半分を隠す前髪でよーちゃんの表情はよく見えない。

「相談したの。今年も同じクラスになりたかったから」

　よーちゃんは二年生から文系と理系に分かれることを理解していたようだ。私はそんなこと、微塵も考えていなかったけど。

「だ、だったら私にも相談してよ！　そしたら私、もっと勉強したよ？」
「ううん、だけど、兄さんたちに相談してみて考え直したからさ。だから黙ってた。ごめんね」

　言って、彼女はぺこりと頭を下げた。
　よーちゃんがこんなふうに謝ってくるのは珍しい。大体、よーちゃんが私に隠し事をしたり、意地悪したり、約束を破ったりしたことはない。私が嫌がることを彼女にされた想い出はないのだ。そりゃケンカすることもあったけど、それはいつも私が悪かったことばかりだし、本当に、今まで――
　私は困惑していた。

　――私、よーちゃんの本当の気持ち、わかっていないんじゃ……。

「――考え直したって……？」

　私が搾り出した言葉はそれだけ。

「結衣には結衣の進むべき道があるから。私には私の、ね？　だから無理に合わせるのは良くないなって」
「そんなこと――」

　《ない》に続くはずの台詞が出てこない。
　よーちゃんは理系だといっても、文系科目も私が修める成績くらいは余裕で取れる。先生に相談して、文系クラスを選ぶことは可能だったはずだ。それをあえてしなかったってことは……。
　私は俯いて、下唇を噛む。
　よーちゃんは自分で自分の進む道を選んだ、それだけのこと。《今》ではなく《将来》を選んだってこと。
　言葉としてはわかる。だけど頷けない。

「……やっぱり、言っておくべきだったね。ごめん！　結衣」
「ううん……謝ることないよ……」

　空気が漏れたみたいな掠れた声。私がなんとか出せる精一杯の気持ち。

「勝手に決めちゃってごめん！」
「……もう……いいよ」

　私の足は無意識に外へと向かう。ふらふらと、何かに導かれるように。

「結衣ちゃん！」

　典兎さんが私の名を呼んで引き留めようとしてくれたけど、もう全速力で走り出していた。ここに向かうよりもずっと勢いよく足を動かす。
　何て言ったらいいのかわからなかった。謝るよーちゃんに、掛ける言葉が浮かばなかった。
　だってよーちゃんは悪くはない。相談してくれなかったことは寂しく思ったけど、それはよーちゃんが善かれと思ってしたことだ。だから責めてはいけない。
　でも、この心のモヤモヤはうまく伝えることができそうにないのだ。
　よーちゃんはいつだって私の前で道を示してくれる、そう思っていた。一歩先を進んでは、私に手を差し伸べてくれるような気がしていた。

　――だけどもそれは、私が甘えていたからなんだ。

　よーちゃんは自分の道を歩き出す。私とは別の道を。行き先の異なる道を歩き出したんだ。

　――なのに、私は……。

　家に着くなり部屋にこもった私は、枕に顔を埋めて気が済むまで泣いた。