一花カナウ

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 取り敢えず引き返そうと歩みを向けたとき、交差点で見かけた女性がぼくに対してちょうど横向きに立っていた。ひやっとするすました顔で家のなんの変哲もない壁を見つめている。さっき後ろを確認したときにはいなかったはずだ。


 しかもこの道はずっと先まで枝分かれすることなく続いている一本道。向こうからやって来たとすれば気が付かないはずがない。


 見覚えのある傘を差している彼女はゆっくりとこちらに躰を向けた。


「傘、お忘れになっていましたから、届けようと追いかけてきました」


 彼女はあのとき見せた笑みを浮かべ、ぼくの近くに寄ると取っ手を差し出した。


 幻想的で、まだ夢を見ているような気がした。傘はぼくが風に持って行かせてしまったものだった。


「どうぞ」


「わざわざよかったのに」


 諦めていた傘がそこにあって吃驚した。きっとぼくは驚きのあまり目を大きく見開いていたはずだ。


「もう充分に雨をお楽しみになったでしょう? これ以上躰を雨に晒すのは毒ですわ」


 上品そうに言って彼女は差し出した。


「でもあなたも濡れてしまうでしょう? 家か、せめて雨をしのげる場所まで送りましょう」


 ぼくは落ち着きを取り戻し、傘を受け取り声を掛ける。彼女は目をしっかりと合わせたまま、左手で拒否を示した。


「いえ、もとより傘など必要ないのです」


 柄を確かに握ったのを確認すると、彼女はふわりと飛び退いた。重力を感じさせないしなやかな身のこなしにぼくは目を丸くした。


「私に魂を奪われてはなりませんよ」


 正面から強い風。水を含んだスカートの端が重たげに揺れている。


「夢幻の中を彷徨いなさるな。この街に合わないとお思いならば、一度故郷に戻るといい。きっと夢から覚めることでしょう」


 彼女の声は風の叫びに溶けた。


 ぼくは傘を飛ばされまいとドームを正面に構えた。


 風が止む。


 おそるおそるあげた傘の先には一匹の白猫。その猫はぼくが「あっ」と声を出す前に茂みに入って消えてしまった。


 よくまわりを見れば、ぼくはまだ商店街へと抜ける道の途中で十字路まででさえ辿り着いていないのだった。


 しばらく状況を飲み込めずにいたが、ある考えがぼくの頭を埋めていった。


 無性におかしくなってぼくは来た道を引き返すことに決めた。


 その先にあるのは雨に浮かぶ見慣れた街だった。
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