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第四話 生命の木
生命の木5
しおりを挟む私は幸せだったそのころを思い出して哀しくなった。そのあとに続く恐ろしい出来事を語るのがつらくなり、傍らに座っている帽子の男に目をやる。
男はじっと前を見つめたまま動かなかった。静寂をその身に宿し、なににもざわついたりなどしない、泰然とした落ち着きがあった。私はそれを見ると、不思議と心が落ち着いてくるのを感じていた。
どんなことでもこの人は聞いてくれるだろう。ただ、私の語ることに耳を傾けてくれるのだろう。
つきりと、お腹が痛んだ。
軽蔑されるかもしれない。ひどい女だと罵られるかもしれない。
それでも、なぜか私はそれをこの人に聞いてもらわなければいけないような気がしていた。
森は優しい緑色をしている。しかしそれと対比するように、脳裏に浮かぶのは赤い色。
血の色だった。
*
赤池とつきあい始め、半年が過ぎようとしていた。赤池は元彼のように、私を束縛するようなこともなく、いつも優しかった。休日にはバイクに乗り、いろいろなところに連れて行ってくれた。たまには家でのんびり過ごしたり、いい感じのつきあいができていたように思う。
生理が来ないことに気づいたのは、桜も散って葉桜に変わりだしたころだった。まさかと思い、薬局で妊娠検査薬を買って確かめると、陽性反応が出た。
眩暈がした。結婚もしていない。覚悟もできていない私に、それは恐怖でしかなかった。
子供ができた。
そんなこと、嘘みたいだと思った。誰かに勘違いだと言ってほしかった。
産婦人科を初めて受診した。病院内は妊婦さんがたくさんいたが、私がそのうちの一人だなんて、とても思えなかった。待ち時間が長く、その時間が地獄のように感じられた。
「おめでとうございます。妊娠五週目に入っています」
その言葉を、私はどこか遠いところで聞いていたように感じていた。
妊娠した。私のお腹の中に子供がいる。
再び私の脳裏をよぎったのは、元彼の残酷な顔だった。
俺に黙って他の男の子供を作るなんて! ふざけるな! 俺に謝れ!
元彼が私の頬を殴りつけ、お腹を蹴りあげる。許してくださいと請うても、元彼は暴力をやめない。引っぱたかれ、何度も足蹴にされる。
許して。許して。私が悪かったの。
恐る恐る目を開け、元彼の顔を見ると、その顔は赤池の歪んだ顔に変わっていた。
アパートに帰り、私は一人で考えた。子供ができたことを、赤池に話すことが怖かった。話してしまったら、赤池が元彼のように豹変してしまうような気がした。
どうしたらいいのだろう。
私は病院でもらった超音波写真を眺めた。黒い写真の中に写っているのは、まだ人の形をなさない小さな丸い粒。こんなものが大きくなって赤ん坊になるなんて、信じられなかった。
赤ん坊のことを想像すると、再び元彼の暴力が脳内を駆け巡った。
許されないんだ。私が赤ん坊を産むなんてことは、許されないことなんだ。
堕ろそう。
私は赤池にこのことを告げず、黙って堕ろしてしまおうと思っていた。病院で同意書をもらい、必要なお金をおろした。アパートに帰り、同意書に名前を書こうとして、手が震えた。ぽつり、ぽつりと紙面に丸い染みができていく。
なにをしようとしているのだろう。私はこの手でなにをしようというのだろう。
泣きながら、お腹にそっと手を当ててみた。
この子は生きているのだ。まだ人の形になっていなくても、この子は私のお腹で生きようとしているのだ。
私は目の前の同意書をくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。
私は殺人を犯そうとしていた。この生まれてこようとしている命をなかったことにしてしまおうとしていた。
「馬鹿だ。私……」
私は声を出して泣いた。産もうと思った。
赤池には来週会って、ちゃんと話をしようと思った。結婚することになるかどうかはよくわからないが、子供を産んで育てていくことだけは反対されたとしても貫こうと、そう決意した。
会社に行き、普段通り仕事をしているときだった。事務所から工場へ指示書を持っていっている途中に、私は急激な腹痛に襲われた。もうその場から一歩も動けなくなり、近くにいた作業員の人が異変に気づいて駆けつけてくれた。それからばたばたと周囲が慌ただしくなって、私はいつの間にか気を失ってしまった。
気がついたときは病院のベッドの上だった。なにが自分の身の上に起きたのか、そう考えたときに、はっとしてお腹を触った。まさかと思った。
流産したと知ったときのショックは、言葉にならなかった。ものすごく大切なものを失ってしまったのだという、喪失感。ただ、それだけだった。
しかし、不思議なことに涙が出なかった。 それを私は罪悪のように感じ、どうにかして泣こうと思うのだが、泣くことができなかった。
なんてひどい人間なのだろう。きっと、子供も私に殺されようとしていたことを知って、私のお腹に居続けることを拒んだのだ。だからいなくなってしまったのだ。
それからの数日を、私は呆然としたまま過ごした。それでも赤池からのメールや電話には、いつものようにから元気を装った。このことは彼に感づかれてはいけない。この事実は、なかったことにしなければいけなかった。
しかし、そうすることにも疲れ果てた私は、どこかへ行ってしまおうと思いつき、必要最低限の荷物だけを持って、電車を乗り継ぎ、遠くの山のほうへと向かっていた。どこへ行こうとしているのか、自分でも理解できなかった。
ただ、どこか私の存在を消し去ってくれるような、遠いところを目指していた。
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