秒に刻む病

迷空哀路

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05:たゆたう

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柔らかなアイボリー色の絨毯が目に入る。白い壁にライトウッドの机。その上には紅茶が入ったマグカップが置いてあった。湯気は立っていない。もう冷めているようだ。
景色が横だったので目を動かすと、すぐ上に男の顔が見えた。自分はこの人の足の上で寝ていたようだ。
「あ、起きたね……おはよう」
「……」
頭はぼうっとしていたけど、この男の姿を思い出せた。
「どうしたの。怖い夢でも見た?」
細い指が頭に触れる。髪の毛を撫でつけるように優しくそれが繰り返される。
「溺れた夢を見た……気がする」
「そっかぁ。それは怖かったね」
この空間はただ穏やかで、何の脅威もないような、そんな気がした。
「俺のこと、覚えてる?」
小さく頷くと、嬉しそうに顔を染めた。赤くなっても逸らすことなく、顔を覗いてくる。
「良かった。嬉しいなぁ……またちゃんと、君に会えた」
どういう意味だと聞こうと思ったけど、声を出すのも億劫だった。
「ここにはいつまででもいていいんだよ。君が望む限りね。いつでも暖かくして待ってるから」
返事はなくてもいいのか。一人でに話し続けている。
「次は何を作ろうかな。甘いもの……クッキーとかどう? やっぱりケーキがいいかな。レアチーズケーキなら早く作れるよ。クリームのがいいならスポンジ焼かなくちゃだから、時間かかっちゃうけど……」
「作るの、好き?」
声を出したのに少し驚いた顔をしたが、次にはその顔が更に嬉しそうに笑った。
「うん。君が食べてくれるから。君に食べてもらえると思ったら、何も苦じゃない。もっと美味しいものを作って……一緒に食べて……ずっと一緒にいたいな」
やっぱり甘い匂いがする。それはお菓子作りをよくしているからなのか、香水でもつけているのか。
茶色の瞳が自分を捉えそうなぐらい近づく。唇に触れた感触に気づくのに、一瞬遅れた。
「しちゃった……君と」
今度は照れたように目を逸らす姿を見ていたら、なぜか起きたくなった。体を起こして、再び見つめ直す。
「……ん?」
ただそれから動く気にはなれなくて、変な空間が生まれてしまう。その隙間を埋めるように近づいてきた。
「……してくれないの? もう一回」
甘えるように見上げてくるけど、体を抱きしめたまま、これ以上動く気はなさそうだった。
「いいんだよ……全部、君のしたいことで」
先程から、いや前に会った(と言っていいのだろうか)時から、君がしたいこととか、君が望むこととか、そんな事を繰り返し言っている気がするかしいくら相手にそう言われようと、頭の中には何もなかった。したいことは思い浮かばない。お腹が空いたとか、トイレに行きたいとか、そんな欲さえ自分の中にはなかった。
ただ抱きしめられたまま動く気にはなれず、完全に思考も体も停止してしまった。この空間の謎というか、何かを知りたい気はある。でもそれを暴くようなヒントがその辺に転がっているわけでもない。手を伸ばしても掴むのは空虚だ。
それを頼めばいいのだろうか。この男に。全てを教えてほしいと……でも、答えるだろうか。甘い言葉、優しい態度、暖かな部屋……自分を包んでいるその全てが、真相という言葉から最も遠い気がする。
「……知りたい」
「ん?」
「貴方のことを」
──知らなくていい。空耳が聞こえた。いや違う。これは前にあった時に彼から言われた言葉だ。
じっと待っていると、柔らかく微笑んだ。
「何それ、かわいい」
「……」
失敗か。恐らく俺はこの調子でずっとこいつにからかわれるだけかもしれない。でも頭をフル回転させて絶対に真実を暴きたい! なんて気持ちはないし、気力もない。ただちょっとだけ……こいつの余裕を崩してやりたいと思う。
自分から腕を引いて口をくっつけると、驚いたように目を開いた。
「もう……そんなことされたら照れちゃうよ」
「……もっと好きになりたい」
「えっ」
「だから、教えて」
はははと吹き出すように笑う声で失敗したと分かった。やっぱりこういうのは向いていないみたいだ。
「なるほどね、そうきたか。……そんなことしなくたって、いいのに。君にならじっくりと……ゆっくり……好きになるまで、教えてあげるのに」
ふとした瞬間にちらりと見える闇。こいつのこれが溢れ出したら、俺は無事に入れるのだろうか。と、感じさせるような声色だった。
「それって、俺は貴方のことを好きじゃないってこと?」
「……っ」
初めてこんなに長い沈黙が訪れたと思った。たいした時間じゃないだろうけど、状況のせいもあって、不安が募る。
「それを俺に聞くの? そんなの聞かれても困っちゃうよ……人の気持ちを読めるなんて能力はないし、ちゃんと確かめる方法なんて、ないよ」
意外と真っ当な答えが返ってきたことに安心したけど目の前の顔は晴れなくて、結局不安が膨れ上がっただけだ。もう余計なことは言わない方がいいかもしれない。
「……そうでしょ?」
「……う、うん。ごめん」
「違う。謝ってほしい訳じゃなくて……」
僅かにだけど指先が震えていた。少し冷えてもいる。それで両頬を掴むと、真剣な顔と目が合った。
「考えてほしい。君が俺を好きになれるか。どこが好きか……考えてみて、ほしい」
知らなくていいと目を逸らせるだけの前回と比べたら前進しているのだろうか。
「……ごめん。違うんだ。……ここは、君を安心させる為の部屋なのに。何も考えないで、ただ穏やかに眠れる、暖かい部屋。難しいことも、面倒なことも全部忘れて、甘くて楽しい……嫌なことなんて一つもない場所」
突然ぎゅっと肩を掴まれた。どんどん力が強くなっていく。
「お願い、もう一回やり直させて……! 今度はちゃんとやるから! 君を大事にする……っ、分からないことを聞いたりしないし、余計なことも考えなくていいようにする……だから、見捨てないで……俺のこと」
一体どこでスイッチが入ったのか、こちらが何の状況も掴めていないことにまず気づいてほしい。
「やり直すって……」
一度目を閉じ、肩から手を離した。数秒経ってから開くと、先程までの穏やかな顔に戻っていた。
「沢山話して、疲れちゃったよね。少し寝よう。今度は一緒に、ね。あ、そうだ! 君の為に用意したものがあるんだ。あっちのベッドに新しい毛布と枕があるよ。クッションも必要だよね、どれが好きかな?」
羊やら月やらのぬいぐるみ? クッションがソファーの裏から次々現れて、それが体を覆っていった。
「気持ちいい? 暖かい? ……良かった。この子達と俺に包まれて、一緒に寝よう」
その声がだんだんと遠くなる。またか、と思いながら目を閉じた。

……いつの間にか落ちていた意識が戻った。目を開けても、本当に開いたかどうか不安になる暗さだった。
でも体は暖かい水の中に浮かんでいるように気持ちいい。波に揺られているのか、少しだけ体が左右に動くだけで、それ以外は何もない。
また水の中か。声には出さずに呟いた。どうして毎回水の中に落ちるのか。何か意味があるのか。
現実的に考えるとあいつが部屋を真っ暗にして、プールの中に俺を落としているだけではないのか。本気を出せば俺はここから出て、あいつの部屋からもでて、元々住んでいた家に帰れるんじゃないか。
元々……住んでいた? 
ああ、ダメだ。思い出せないんだ、その辺は。

──ちゃんと寝なきゃ、ダメだよ?

上から声が降ってくるような感覚だった。確かに聞こえたその声に驚いて起きあがろうとしたけど、それよりも強い眠気が急に遅ってきた。
「なんだよ、これ……っ」
抗えない、落ちる……。
あいつの笑った顔が脳裏に浮かぶ。今度は会ったらその時は……絶対に信用しない!
そう決めて目を閉じると、体は深い闇の中へ沈んでいった。



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