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142 奴はだめだ (レイリッチ視点で)
しおりを挟む「駄目です。さぁ、レイ! 坊ちゃまに気付かれる前にお帰りください。ギガイル様のお店に託けてありますから、そこで再びお仕事がいただけるはずです。もう二度とこちらに来てはなりません」
姉さんのお礼に屋敷を訪れると、いつものメイドが俺を追い返した。
どうしよう。借りを作ったままだ。
姉さんから、先生から、施しを受けるなと厳しく言われているのに。俺は借りた金も返せず、一言の礼すら言うことが許されないのか? いつも俺を気にかけてくれたエンデアベルト家のメイドの冷たい態度にも不信感が募った。まさか……? 姉さんに魔力を渡したことで、あのチビに何かあったんだろうか? ドキドキと不安が押し寄せてくる。
すごすごと引き返そうとすると、裏庭の奥でアイツと一緒にいたメイドが花を手折っているのが見えた。何か教えてもらえるかもしれない。気配を殺してそっと近づいた。
「どうしたの?」
「わぁ!」
不意に後ろから甲高い声が響いてきた。アイツだ。鍛えた俺の後ろを取るなんて。驚いて低木の陰に身を潜めた。
「コウタ様! どうされましたか?」
「ううん。なんでもないよ。 そうだ! ミユカ。オレ、ちょっとおやつが食べたくなっちゃった! ディーナーさんに小さなサンドイッチを作ってもらえないかな?」
「まぁ! コウタ様がご自分から食べたいとおっしゃるなんて! いい傾向ですわ。 すぐに頼んでまいります。 あっ、でも、ちゃんとこちらにいらしてくださいよ! ソラ様もお約束ですよ」
『ピピ!』
「うん。約束する」
ニッコリ笑ってメイドを見送ったチビは、そっと俺の背を叩いて、ニンマリ満面の笑みを見せた。
「来てくれてありがとう! ねぇ? 木登りできる? あっちの大きな木の上でゆっくり話そう?」
コイツも俺と会うなと言われているのかもしれない。俺達は隠れるようにして木に登った。いや……。木に登ったのは俺で。アイツは小さな小鳥を大きく変身させてそいつに乗りやがった。何だってんだ? 相も変わらず不思議な奴だ。
外壁に近い大木は酒樽のような太い幹で、柔らかな濃緑の葉を茂らせていた。ふわり空から飛び降りたチビは、さほど太くもない枝にすとんと足を乗せて、ぴょんと飛び降りるかのようなしぐさで腰を落ち着かせた。何というバランス。ぶらぶらさせる足の振動で、さわと枝葉が笑うようで、アイツの笑顔のように眩しい陽の光がまだらに俺達の顔を包んだ。
「お姉さん、どう? あのね、レイ。オレが回復を使ったって内緒にしてくれる? いろんな人に見つかったらまずいことになるんだって」
「まずいこと?」
「うん。オレね、拾い子でしょう? ディック様の子になりたいなっておもっているんだけど、回復とか魔法とか。使えるって分かったら、オレのことが欲しいっていう人がいて。今もちょっと困ってるの」
「困ってんのか?」
「うーん。よくわかんないけど。オレがディック様の子になるのは駄目だって王様とか偉い人とか、許してくれなくて。だからオレ、しばらく大人しくしているの」
あぁそうか。こいつは特別って奴だ。屋敷の者の態度が変わったのも、俺との接点を作らせない為か。そうだ、その方がいいかもしれない。だって俺は……。
くったくのない呑気そうな瞳。きれいな混じりけのない漆黒の瞳に、白い肌と桃淡い頬が、世にいう「かわいい」っていうものの全てだ。柔らかな風になびく漆黒の細い毛が、世界中のそよ風を己の味方につけたかのようで、きらきらと金の光を纏って艶めかせている。
確かに何の力がなくても傍にいたいと思う。ましてや、貴重な回復魔法の使い手で、その魔法だって規格外。不治の病の姉を元気にしてしまったのだ。そんな奴は、たとえ人を何人殺してだって欲しいはず。幼くたって闇を知った俺には奴の有用性が十分に分かる。
「分かった。言わねぇ」
「うん。ありがとう!」
ふわり温かな光を放ったチビが眩しくて、俺はつんとそっぽを向いた。
「あ、あの。 ありがとうな」
照れくさい。小さな声で絞り出すと、奴はわざと俺の顔を覗き込んで、嬉しそうに笑った。
「うん。お姉さん、大丈夫なんだ! よかった」
たった一度会っただけの姉さんの無事を何だってコイツはこんなに喜ぶのだろう。恥ずかしくなってふと我に返る。
そうだ。コイツと関わっちゃいけない。決意が緩む。俺の、先生との約束。光の当たる場所に俺はいちゃいけないんだった。
「金は、必ず返すから。でも、もう二度と会わない」
「えっ?」
大きく見開いた漆黒が瞬時に潤んできた。速ぇえよ。反応が。泣かれちゃ面倒だ。
シュタと木から飛び降りると、茂る葉と陽の光で奴の顔が暗く陰った。
「俺、姉さんと働くから、ここには来れない。お前の秘密は守るし、金も返す。真の男は恩を忘れねぇ」
見上げた顔に水滴が落ちる。胸が熱いって、何でだ? コイツは俺から切るんだ。俺には柔い気持ちがあっちゃいけない。
「待って! レイ、オレ、オレ……」
すがるような声は苦手だ。礼は言ったんだ。もう立ち去ろう。だけど、だけど。
俺は、姉さんを助けるために、両親の無念を晴らすために先生から厳しい訓練を受けて来た。ギガイルの店での辛く苦しい扱いだって、力にするために耐えてきた。何があっても動じない。子どもの心に蓋をすることを覚えて生きて来たのに。たった数日前に会ったばかりのコイツと別れるだけのことだ。なのに、どうしてこんなに苦しい気持ちになる?
そうだ。アイツの気配。柔らかでほわほわで、一緒にいると心地よくなるあの気配。やはりアイツは駄目だ。一緒にいると駄目になる。もう二度と会わない。
キッと見上げた頬と結んだ拳に力を入れ、動じないぞと自問して、最後にアイツの無垢な顔を睨んだ。
「キャンディロップ! 草原にいる耳の長い珍しい魔物だ。 アイツを驚かせるとびっくりして小さな飴粒を落とす。前にお前にやっただろう? 気配を殺して……じっと待ってりゃ、弱っちい子どもに寄って来る。寄って来たらでっかい音を出して驚かせるんだ。すっごく珍しいし、知ってる奴は少ない。けど、お前にだけは教える。秘密だ」
「…………うん!」
もう振り向かない。そう心に決めて、俺は息を吐き続けながら走った。奴を呼ぶメイドの声が遠くに聞こえる。俺は裏戸を守る兵に体当たりをして走り抜けた。走って走って走って……。
大丈夫だ。俺はぶれない。もともと、アイツとは出会っちゃ駄目だったんだ。住む世界が違う。俺の、俺の闇に光はいらない。
心地いい気配を吹き飛ばした俺の目線に、ニット帽を深くかぶった先生が見えた。薄暗い路地の一角。白い塀の陰にちょっと反らしたその身を溶け込ませた先生は、細く長い草を齧って、愉快そうに瞳を向けた。
「鍛錬、足りねぇぞ」
こくり頷いた俺は、先生が待たせていた馬車に乗り込んで闇の鍛錬場に向かう。
出会っちゃ駄目だった。甘く柔くなった心を再び鍛えるんだ。姉さんのために。
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