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第8話

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「なんなら今からでも」
ケビンという男性は私にまた胡散臭い笑顔を見せた。

「い、今から?」

それは困る。アダンやレイラとお別れすら出来やしない。

「逃げられても困りますから」

その答えに思わず恐怖を感じる。こんな好条件なのに、私が逃げるのでは……とこの男は思っているのだ。

「……お金と酒、野菜や小麦はちゃんと持って来てくれるの?」
と言った私に

「もちろんです。貴女がベイカー家に来たら直ぐにでも」
とケビンという男は頷いた。

「……わかった!じゃあちょっと荷物だけ持って来ても良いでしょう?」

「ふむ。まぁいいでしょう。私は忙しいので、なるべく早くお願いしますよ」

そう言われた私は彼に背を向けた途端に、見えない様に舌を出した。

女将さんは何とも言えない顔をしている。……きっと私の本心はわかっているのだろう。

私はそれ以上女将さんの顔を見ていられなくて、急いで自分の部屋へと駆け戻った。

ほんの少ししかない着替えや持ち物を小さなカバンに詰めていく。
すると慌てた様にアダンが私の部屋の扉をノックもなしに開けた。

「おい!お前、ここを出ていくって本当か?!」

「うん。なんかここより待遇良いみたいなんだぁ。だから、心配しないでよ。高い給金貰ったら、アダンにも新しい洋服でも買ってあげるからさ!」
私はアダンに背を向けたまま、そう言った。
本当は顔を見るのが怖い。声色で分かる、アダンが怒っている事を。

小さな頃、冬の凍てつく様な冷たい水で洗濯をさせられて泣いていた私のかじかむ指先を自分の両手で包み込みながら、アダンは言った。
『絶対にここを二人で出ていこう。それまでの我慢だ。俺がニコを守るから』

その約束を、私は果たせなかった。

「ニコ!こっちを向けよ!!」
アダンは強引に私の肩を掴んで、自分の方へと私を向かせた。

「……!」

きっと、私の頬を流れる涙を見て、何も言えなくなってしまったんだろう。アダンはそのまま言葉を飲み込んだ。

「アダン……これしか選べる道がないの。約束……守れなくてごめん」

「……ニコ……」

私はアダンの顔をまともに見れなくなって、小さなカバンを胸に抱える様にして立ち上がると、アダンの横を走り抜ける。

「おい!」

アダンの声から逃げる様に、私は部屋を後にした。
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