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狼は雪原を見る1

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 メリーに触れることは俺に安らぎを与えてくれた。
 そして、その反対側で失うことへの恐れを強烈にする。

 冬が近づくに連れて、メリーはどんどん寝ている時間が増えて行った。

 ヒトの国からの使者は途絶え、メリーの兄達も塔を訪れる機会が減っていく。そして、城の中にはぴりぴりした空気が流れるようになった。
 ミスリルの銀の焼ける臭い、軽い槌の音。空を編隊で飛ぶグリフォン。飛ぶ矢の刺さる音。
 メリーを溺愛する兄達が訪れることの出来ないような事態……

 戦が起こるのだ。


 俺はメリーと新しい遊びを始めた。

 起きている事の少なくなったメリーには大変なことだったが、起きているメリーの機嫌の良い時間、俺は繰り返し繰り返しメリーとその遊びをした。

「愛しています」

 俺は囁いてキスをする。そうするとメリーは祈りの言葉を唱える。

 とても単純な遊びだ。

 メリーは幼児で、祈りの言葉を正確に言うのは大変だが、フロドの言うとおり、メリーは口の達者な幼児だった。
 俺は誰も来ない忘れられた塔の中、何度も何度もそれを繰り返した。

 すぐに、メリーはその遊びを俺が好きなのだと気付いた。うまく出来ると、とても喜ぶのだと。痛みと恐れを抱え、悲しみに染まった俺の心を癒すその遊びにメリーもすぐに夢中になった。

「ん~……」

 メリーが鼻を鳴らして服を引っ張る。ベッドの中で丸くなっているメリーが大きなあくびをして目をしぱしぱと瞬かせた。

「眠たくなってしまったんですね?もう今日は、お終いにしましょう」

 ベッドの脇に腰かけた俺が気遣わしげにメリーの髪を撫でると、メリーがいやいやと頭を振る。

「ろー」

 囁いたメリーの水色の目はもう閉じかけている。上掛けひっぱるとそっとその身体を覆う。ほっとしたようなため息。中でもそもそと身体が動いた。すると、もう開けられないというように水色の目がすっかり閉じてしまった。
 寝てしまったのかと眺めていると、静かになった布団がまたもそもそと動いて、ほっそりとした手が俺の服の裾を引く。
 まだ続けようと誘っているのだ。
 とても眠いのに、それでも俺を喜ばせようとするメリーに愛しさがこみあげる。

「愛しています」

 真実、嘘偽りのない気持ちでそう囁いて、甘い唇にキスを落とすと、メリーはもう寝息を立てていた。なんて可愛いんだろうと微笑むと、もにゃもにゃとメリーが祈りの言葉を呟いた。

 ぞくりと背中に何かが走った。
 皮膚の内側を撫でられるような感触。

「っ……はっ……」

 胸を押さえて動悸が治まるのを待った。震える指でメリーの頬をなぞると、喜びが嵐のように身体を駆け巡るのを感じた。
 今のは成功したのだろうか?ああ、きっとそうに違いない。

 飛び上がって喜びたい気持ちを抑えられそうにない。だが、ここで暴れてはメリーが目を覚ましてしまうだろう。立ち上がって素早く道着に着替えると外へ向かった。

 喜びのままに突きや蹴りを繰り出した。そして、腕が震え、息がすぐ切れるのに気がついて、ため息をついた。
 そろそろ鍛錬はやめなければいけないだろう。体力の限界が近いのだ。

 メリーを抱き上げることが出来なくなったらまずい。

 俺は肉を食うのをやめていた。

 食欲がなくなっていたのもあるのだが、元のままの俺では、もしメリーに何かがあって暴走してしまった時のことが怖かったのだ。メリーを失った痛みで暴走した結果、メリーの両親や兄を襲い、手にかけてしまうのが怖かった。

 メリーはそんな俺に何かを感じているようで、自分の食事の時にしきりと俺の口に果物を詰めたがった。
 俺は甘いものが苦手だが、甘党のメリーの食事は甘い。詰められた物を出そうとするとぶうぶうとメリーが唇を鳴らし、飲み込まないと口を山のような形にして突き出して泣きはじめるので、結局飲み込んでいた。

 その後にしてやったという風ににこにこと笑うのはもう分かっていたのだが、結局、俺はメリーに逆らうことなど出来ないのだ。

 それでもゆるゆると鍛錬をしていると、何かが頬に当たった。

「雪……」

 妖精王の居城は常春の森に囲まれた山の上に建っている。
 ここでは木々は枯れず、果物は永遠に実り続ける。

 雪が積もることなど考えられなかった。
 だが風に乗って雪はやってきたのだろう。

 とすれば、城の外は雪が積もっているのかもしれない。
 外界にはもう冬が来ている。
 ……メリーは冬を越すことが出来るのだろうか。不安にぎゅっと心が縮んだ。

 また当たった雪の冷たさに故郷を思い出した。オオカミの国には雪が降る。
 俺はそれが好きだった。

 雪を見たいと思ったのは何故だったのか。

 もうすぐ、そう考えても行くだけの体力がなくなると思ったのかもしれない。気がついた時にはメリーに厚着をさせていた。

 ここに来る時に使った布の紐を身体に巻きつけて、メリーをそれに乗せて横抱きに固定する。それから、背中に食い物や飲み物の入った袋を背負うと、学園の茶色のフードつきの外套を羽織って、メリーに巻きつけると紐で縛った。
 最初は見張られていたのかもしれないが、落ち着いてしまった今では監視の目は無きに等しい。特に今は城が浮き足立っている。抜け出すことは難しくないだろう。

 腕の中のメリーを見下ろす。メリーがぼんやりと俺を見た。

「冒険に行きましょう。雪を見るんです。静かにできますか?」

 しーっと指を立てて囁いた。へにゃりとメリーが笑って両手で口を塞いだ。

 暖炉の中に何本か薪を突っ込んだ。こうして置けば、塔から出る煙が俺達がここにいるのだと思わせてくれるだろう。
 こうして偽装をすることの意味を俺は知っている。悪意を持ってメリーを連れ出すのだと、そう判断されて当たり前のことだ。エルフの国の宝であるメリーを盗もうとしているのだと。
 だが、今の俺を止める事の出来る者は一人だけだ。
 そして、唯一俺を止めることが出来る人は、この腕の中にいる。

 鼻をくんと鳴らして匂いをかいだ。

 城の匂い。外の匂い。

 気を薄く四方に発しながら、壮麗な城を下に下にと下りて行く。

 外的から守る作りになっているのだろう、最下層はいくつもの通路のある迷宮のようになっていた。

 水の流れる音が聞こえる。外界の匂いも。

 慎重に道を選びながら外を目指した。

 腕の中のメリーは大人しい。うとうとしている姿はいつも俺を不安にさせたが、今だけはありがたかった。

 水路にぶつかった。

 綺麗な水が流れている。そこにはわずかに人の通れる部分があった。水路の終る部分にたどり着くと、俺は顔を歪めた。
 外に続く部分には結界と思われる魔法陣が浮かんでいた。
 これを破れば城は大騒ぎになるのだろう。

 結界に近づき、せめてと思って外をみた。

 ここは城から流れ落ちる滝の裏側になっているらしい。見えるのは流れ落ちる水だけだった。歯を食いしばって嘆きの声を堪えた。

 もそりと腕の中でメリーが動く。

「あ~」

 伸びてきた腕が首に絡む。布の中でメリーを縦に抱き起こすとしっかりと抱き寄せて、首に顔を埋めた。

「あなたと雪を見ることは出来ないみたいです」

 じわりと浮かぶ涙を瞬きで断ち切った。
 そして、メリーと二人で雪が見たいといった小さな望みが、どれだけ自分に重要だったかを思い知る。


 これきりかもしれないのに。


 その言葉が浮かんで、息が詰まった。
 堪え切れず頬を涙が落ちて行く。

 メリーが不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。

「ろー?」

 ん?っとメリーの指が外を指す。行こうと誘っているのだ。
 だが、その前には結界があって、通ることができない。

「俺にはこの結界は破れない」

 そっと頭を振るとメリーが首を傾げる。
 俺の頬をまた涙が滑り落ちた。

 流れる涙をメリーの指がなぞる。
 情けなくて、俯いてしまった顔にじっと注がれる視線を感じた。メリーはオレの不安や恐怖を感じてしまうのだから、こんな風に嘆いてはいけないのだ。そうわかっているのに、どうしても涙は止らなかった。

 腕の中でもそりとメリーが動いた。はっとして顔を上げるとメリーが腕を伸ばしている。ん~っと伸び上がった身体を落としそうになって抱きなおした。

 さらりと銀の髪が流れる。

 メリーは結界に手を伸ばしていた。

「触っては……」

 言った時には遅かった。メリーの指が結界に触れている。


 結界が霧散した。


 はあっと息を吐いてメリーを抱き寄せた。

「怪我をしていたかもしれないんですよ!」

 結界に触れた手をつかむと手のひらを調べた。白い指先に異常はない。
 手のひらにキスをすると、へにゃりとメリーが笑う。

「ん~」

 白い指先が踊って、外を指さす。ぺちぺちと頬を叩かれて、腕の中の身体がもどかしげに動く。

「ありがとう。メリー」

 俺はメリーを慎重に抱き直すと、城の外へと走り出た。

 結界が破れたせいで、もし追っ手がかかるとしても、一目だけでも見たかった。滝の裏側を回って森の中に入る。

 そこは冬の匂いがした。木々の葉は落ち、下草は枯れている。
 だが雪は積もっていない。

 常春の魔法が影響しているのだろう。
 遠くに見える山は真っ白になっている。

 森の中を静かに走り続けた。時折、足跡を消す為に高く飛びあがり、木の枝をつかむと適当な方向へ飛んだ。

 木の枝の上でじっと聞き耳を立てる。
 怪しい物音はしなかった。匂いもしない。

 メリーは王族だから気づかれずに結界を抜けることが出来たのかもしれない。

 寝ているメリーの頬に触れると、もにゃもにゃと口を動かす。腹が減っているのだろうか。そっと唇に指を触れると、はくっとくわえられた。

 どこか休める場所を探さなければ。

 木の上から飛び降りると、メリーが起きぬように衝撃を殺して着地する。

 メリーが目を覚ます頃合を見計らって、丁度いい岩陰を見つけると、持ってきた袋を開けた。果物を取り出してナイフで切り取るとメリーの口に差し出した。

 あーんと口を開ける姿はいつも可愛い。

 微笑んで見ているとメリーが手を差し出した。
 切った果物を手に乗せてやると、メリーが果物を俺の口にくっつけた。

「俺はいりません」

 首を振るとメリーの顔が曇る。口がきゅっと山の形になる。ふうと息を吐くと口を開けた。
 ぱっと輝く顔に、やはりオレはこの人には叶わないのだと思う。
 甘い果物をゆっくりと齧りながらメリーの為にもう一口分を切り取って差し出す。今度は素直に食べてくれた。

 メリーはやはり気づいているのだろうか。オレが物を食べなくなった事に。そんな筈はなかった。メリーは幼児なのだから。
 だが、もう一口と差し出すと、メリーはそれを口には入れずに俺の口の中に捻じ込んだ。やはり、見透かされているのかもしれない。
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