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第八話〈西山へ〉
しおりを挟む翌朝。
朝食中にアクバルトさんが言った。
「ナウラ、昨夜のことなんだが。覚えているよな?」
「遅くまで起きてたことですか?」
頷いたアクバルトさんに私は謝った。
「ごめんなさい……」
「いや、謝らなくてもいいんだよ。ほら、色のこととか」
「はい、覚えてます。アクバルトさんは翠が好きなんですよね?」
好きな色が一緒だったことが嬉しくて。
頭は半分寝ていたが、それだけはしっかりと覚えていた。
「……ああ、まぁそうなんだが。そのほかにもさ」
「ほかに?」
「ほら、嫁が先に寝てしまうのはどうとかって言ってたろ?」
「ああ、はい」
「あれは気にしなくていいから」
「でも」
「ナウラが暮らしてたところじゃそうだったのかもしれないが、ここではそれは無し。俺の仕事があっても君は先に寝てくれ。でないと気になって集中できないから」
気になる………?
「仕事に集中できないということですか?」
「うん、まぁ、とにかく。ナウラにはしっかり休んでほしいからさ。あ、そうだ。食事の片付けが済んだら今日は一緒に出かけよう」
「え、出かけるんですか?どこへ?」
「西山の方へ」
「何をしにですか?」
尋ねるとアクバルトさんは私から視線を外し、何か考えている様子だったが、再び口を開いた。
「ナウラはルリノミを知ってるか?」
「るりのみ? 知らないです。なんですか?」
私の返事にアクバルトさんはなぜか嬉しそうな顔で言った。
「驚かせたいから着くまで内緒だ。昼過ぎまでかかると思うから、パンや干し肉とか、何か軽い昼食を二人分用意してくれ」
「お弁当持参ですか」
「ああ。ルリノミは今が丁度いい時期だと思うからな。俺は弟のところから馬を借りてくるから、支度をして待っていてくれ」
♢♢♢
ルリノミ?
驚かせたいから内緒?
いったいなんだろう。
でも、二人で何処かへ出かけるなんて初めてだった。
昨夜、好きな色を聞こうと思ってドキドキしながら待っていたあの感覚が甦る。
緊張するけど、なぜかワクワクしてる。
心地良くも思うその気持ちを不思議に思いながら。
私は急いで支度にとりかかった。
♢♢♢
「ナウラ、おまえその格好で行くのか?」
馬を借りて戻ったアクバルトさんは、私を見て少し驚いたように尋ねた。
「ぇと……。変、ですか?」
「いや、変というか………。それ暑くないか?」
どうやらアクバルトさんは、私が頭から被り口元や首回りまでしっかり覆っている薄布のことを言っているらしい。
「私が暮らしていたあの地方では、こんなふうに布を巻くのが普通で。本当はご近所へ行くだけでもこうやって巻いてたりしてたので」
ここへ嫁いでからはさすがに、ご近所へこの格好で行くことはなくなったが、遠出となると……。
「なんだかつい、習慣で」
やっぱり、変なのだろうか。
「そうか。でもこっちじゃそういう風習みたいなものはないからなぁ。顔まですっぽりは逆に目立つぞ」
「そ、そうですか……」
目立つのは嫌だなァと私は思った。
「そうですよね、やっぱり取ります。 スミマセン、まだ慣れなくて。巻いていないと、なんだか不安というか……」
「んー、じゃぁ、ちょっと貸してみな」
アクバルトさんは、私からストールを外した。
「こんなにぐるぐる巻かなくても、ほら、このくらいに……」
薄布がふわりと、私の頭から肩へ流れ、首元を優しく覆った。
「こうやって日除け程度に頭に被るくらいにしておけ」
私の顔のすぐ近くで、アクバルトさんが笑った。
「ちっとも変じゃない。その色、よく似合ってるよ」
その柔らかな眼差しに、私の鼓動がとても速まる。
「淡くて柔らかな黄色だな。 紗織りで刺繍は少ないが 染めが濃いところと薄いところと。それがとても自然で目に馴染む。高価なものなんじゃないのか? 山歩きに付けて行くにはもったいないような気がするが」
「これはここへ嫁ぐ前に私が染めたものです」
「えッ、凄いじゃないか、ナウラ」
アクバルトさんはとても驚いた様子で、ストールを見つめながら言った。
「こっちじゃ染めをやる奴はいないから。向こうではあたり前なのか?」
「いいえ。養母が草木染めが得意で、村の女性たちからもよく頼まれて布や糸を染めてたんです。私もその手伝いをしていたから自然と覚えることができて」
「そうか、驚いたな。街の市場でも、こんなに美しい染物はなかなかお目にかかれないからな」
布と私を交互に見つめながら感心した様子でいるアクバルトさんの視線の近さに、さっきからずっと、心が落ち着かない。
「でも、私の染めはまだまだだって、いつも養母に言われてて」
そんなことないよ、と言いながらアクバルトさんは目を細めた。
……なんだか胸が熱くなる。
私は不思議な感覚を味わった。
布染めで褒められたことなどなかったから。
でもすごく嬉しい。
「あの、山へ行くならついでに染めができる野草があったら摘んでもいいですか? 時間に余裕ができたらまた染物をやりたいなぁって、思ってたんです」
「ああ、いいよ」
アクバルトさんは頷きながら微笑んだ。
「それなら籠か布袋を余計に持って行こう。それから弓矢も用意しないとな」
「弓矢も?」
「何か獣が仕留められそうなとき用に、無いよりあった方がいい」
「アクバルトさん、ルリノミっていったいなんですか?」
「着いてからのお楽しみだ」
アクバルトさんはチラリと私を見てから笑って、弓矢を取りに納屋へと向かった。
アクバルトさんが納屋から戻るまで、私は馬を前に緊張していた。
乗馬が苦手という理由もあるが、アクバルトさんが借りてきた馬が一頭だけ、という理由もあった。
一頭だけということは、この馬に二人で相乗り⁉
嫁ぐために山を越えて来たときも、アクバルトさんの乗る馬に一緒に乗せられて来たことを思い出した。
あのときも慣れなくて、とっても緊張したっけ……。
私が前で、アクバルトさんが後ろで。
今日もまたそうなのかな。
固まるような気持ちで待っていた私に、納屋から出てきたアクバルトさんが言った。
「よし、これで準備もできたことだし、行くとするか。ナウラは前に乗れよ」
「は、はぃ……」
返事はしたものの、躊躇する私の前で焦げ茶色の馬が早く乗れとばかりに、ブルルッと鼻を鳴らして驚かせた。
「────おいで、ナウラ」
不意にアクバルトさんの腕が伸び、私の腰を支えたかと思うと、
「アッ……わ⁉」
ふわりと身体を持ち上げられ次の瞬間にはもう、私は馬の背に座っていた。
「走らせるから横座りは無しな」
「はい……」
「しっかり跨いで手綱も握るんだぞ」
私は頷きながら馬の背を跨いだ。その直後、腰から下が揺れて、私の後ろにアクバルトさんが馬に跨るのが判った。
そして後ろから私の両腕に沿うように、アクバルトさんの逞しい腕が伸びた。
私の背中に……たぶん、アクバルトさんのお腹とか胸とか……当たっている部分が、じんわりと温かくなる。
それだけなのに、どうしてこんなに落ち着かない気持ちになるんだろ。
身体が強張って固まったようになるのに、鼓動だけは早く打ってて。
なんだかとても逃げたしたい気持ちになる。
「ナウラは馬が苦手なんだな」
後ろから私の耳元へアクバルトさんの優しい声が届いて。
とても近いその声に、私の心臓は飛び跳ねた。
「はッ、はぃ……」
「もう少し肩の力を抜いて、背を丸めずに姿勢をよくな。緊張感は馬にも伝わるぞ」
私は頷くのが精一杯だった。
「力を抜いて馬の揺れに合わせるように。少し走らせるから、気をつけないと落ちるぞ」
「えッ⁉」
アクバルトさんが馬の腹を軽く蹴った。
途端に馬は軽やかに走り出し、私は慌てた。
おまけに「少し走らせる」という言葉から私が想像していた馬の駆ける速さにはかなりの違いがあって。
────はっ、速すぎてッ………こ、怖い!
緊張はやがて情けないことに恐怖感へと変わろうとしていて、身体が強張る。
駆ける馬から伝わる振動は骨まで響き、身体は不安定に揺れ続けて。
慣れてない者には苦痛で、目眩さえ感じるほどだ。
「────っ⁉」
ぐらりと身体が傾きかけ、ぎゅっと目を閉じてしまった瞬間、手綱を握る私の両手に温かな何かが触れた。
アクバルトさんの大きな手が私の手に添えられていた。
そしてその腕は、私の両腕ごと包むように抱き寄せた。
もう片方の手はしっかりと手綱を握ったまま。
私は彼の腕の中へ すっぽりと収まったようになった。
かなり密着しているせいか馬上の揺れがそれほど気にならなくなり、恐怖感は解けていった。
「もっと寄りかかっていいから、怖かったら俺の腕に掴まってな」
頭のすぐ上の声と背中から感じる温かさに、私は少しずつ身体がほぐれていくのを感じた。
「……はい」
頷きながらアクバルトさんの腕の方が手綱よりずっと安定感があるなぁと思った。
そして結局、馬が駆けている間中、私は彼の腕にしがみついていた。
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