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第一話〈ナウラ〉
しおりを挟むその日、あっという間に決まった私の縁談話は、どうやら養い親にとっては願ってもない話だったようで。
婚儀の日が決まった晩、私の前で養父は言った。
「六年分の恩返しにしては上等だ、ナウラ」
♢♢♢
縁談相手のその人は、知人の隊商へ加わってから約三ヶ月ぶりに故郷へ帰る途中で、私が暮らすこの土地から馬で二日はかかる山向こうで暮らす人だった。
ちょうど嫁探しをしていたそうで。
どこから何を聞いたのか知らないが、我が家を訪ねて私に縁談を申し込んだ。
二日はこの地に泊まるから、良い返事を聞かせてほしいと。
返事をする権利など私にあるはずがなく、全ては養父に委ねられた。
きっと無理に違いない。
私はそう思っていた。
なぜなら私には養父が水面下で推していた縁談があったから。
あまり快く思っていない相手だけれど、仕方ない。
そう思っていたのだが……。
彼の訪問から二日。
私の結婚相手は金持ちだがあまり評判の良くなかった街の者ではなく、行商帰りで遠くの山向こうに暮らすアクバルト、という名前のその人になぜか決まっていた。
そして二十日後の月初めにはこの地を離れて嫁ぐのだと言われ、婚儀の日取りまでも決まっていた。
その間、アクバルトさんは遠い山向こうから、わざわざ二度もこの地へ足を運んでいたらしいが。
養父母が私に会わせてくれることはなかった。
申し込みから一ヶ月も経たない間に、養い親と嫁ぎ先とで、どんな話し合いがされたのかはわからない。
養父母は幼い頃に亡くなった父方の遠い親戚だ。私は十歳のときに母を病で亡くしてから、子供のいなかった親戚夫婦に引き取られ、六年間養ってもらった身の上だったので、縁談話に口など出せるわけもなく……。
養父母にとって、私はどうやら「役に立てた子供」なのだと、そのときの私にはそう思うことで納得する他はなく、この縁談を受け入れたのだった。
♢♢♢
養母は言った。
『いいかい、ナウラ。結婚ってのはね、契約みたいなもんなのさ。
一族が絶えないために男は女を欲しがる。女は子を産んで一生を捧げるかわりに、身分を約束してもらう。
たとえ何番目でも〈妻〉という身分は大事だからね。
まあ、相手によっては使用人付きのお屋敷と豊かで安定した暮らしも手に入るが。
そんなのは一握り。
でもあんたは幸運だよ、ナウラ。
二番目の妻になるけど、前妻はもう亡くなってるというし、子供もいないしね。
使用人を抱えるほどのお屋敷じゃないけれど、家持ちでヤギや馬や家畜、兄弟親戚も彼には多いと聞いてる。
堅い絆のある一族は良縁だ、きっとおまえを大事にしてくれるよ。
ナウラ、あんたはホントに幸運な子だよ』
♢♢♢
たしかに、家畜が多い家は裕福な証拠だ。
結納の品として家畜を交わす場合も多い。
私は家畜何頭と取り引きされたんだろう。
それともお金かな。
養父母は貨幣が好きな夫婦だから。
家に家畜が増えた様子はなかった。
動物は受け取らなかったようだ。
養い親の元を離れるとき、私はそんなことを考えていた。
六年間、義務的で深い愛情を感じることのなかった養父母たちとの暮らしに別れを告げることは然して苦にはならなかったが。
結婚生活という新しい暮らしについては、不安ばかりが残っていた。
私が暮らしていた場所では、花嫁は嫁ぎ先の地で婚礼を行うのが風習だった。
山向こうからお義兄さんと親戚数人を連れて、私を迎えに来てくれたアクバルトさんの顔を、故郷を立つその日、私は初めて見た。
柔らかそうな真っ黒の髪。
瞳は茶色にほんの少し赤土色が混ざったような不思議な色をしていた。
二十八歳。かなり年上だ。
私の身近にいる男性といえば、小柄な養父以外に見慣れていないせいもあり、背の高いアクバルトさんはとても大きな人に思えた。
だから少し怖いな、とも思った。
でも遠い道のりを馬の背に揺られながら、常に私を気遣い、優しい言葉をかけてくれるアクバルトさんに、初対面で感じた怖いという印象は少しずつ払拭された。───けれど。
それまでまったく面識のなかった男性と、いきなり二人きりの生活を送ることに、正直なところとても不安だった。
『最初の夜さえ越えちゃえば平気だよ』
先に嫁いだ何人かの友人は皆、そんなことを言っていたけれど。
心構えや知識だけは養母に教えてもらってもいたけれど……。
───『最初だけ、我慢だよ』
そんなふうにも言われてたけれど。
───けれど、婚礼の晩は何もなかった。
少し動揺したが、内心はホッとしていた。
山を越え、二日かけて嫁ぎ先へ着き、疲れを残し慣れないまま、翌日には婚礼で。
朝から重い婚礼衣装を長時間着せられ、食事も思うように摂る時間もなく過ごしていたせいで、婚礼が終わった宵の頃には、かなりの疲労が蓄積されていた。
───その夜、
「疲れただろう。おやすみ」
夫となったアクバルトさんのこの言葉にホッとして、その晩の私は、あっという間に眠りに落ちた。
でも、それから毎日、一緒の寝所で布団を並べて眠っているけれど。
次の日も、その次の日も………次の日もずっと。
アクバルトさんが私に触れることはなかった。
眠る前には必ず「疲れただろう」とか、「よく休みなさい」などと言ってから最後に微笑んで。
「おやすみ」で、締めくくる。
そんな毎日だった。
そして───、
嫁いでからそろそろ一ヶ月が経とうとしていた。
このままでいいのだろうか。
ときどきそう思うときもあったが。
『夜の行為は夫に任せておけばいい』
養母もこう言っていたのだ。
私では何もわからないもの。
アクバルトさんが触れてこないなら、それでいいのかな。
何か理由があるのかもしれないし。
そしてそれは、きっと私がまだ知らなくてもいいことなのかもしれないから。
そんなふうに思いながら、私は然して気にすることもなく日々を過ごした。
そしてあっという間の一ヶ月。
嫁いでみると、それまで当たり前だと思っていたことも、微妙に違っていることがあったりと、ここでの暮らしは覚え直すことも多かった。
そして覚えたいと思うこともまた多くあり、隣家の女性たちや、アクバルトさんの兄嫁、弟嫁方に教わることもたくさんあった。
同じ嫁仲間として親しくもなった。
それまであまり馴染みのなかった調理方法。発酵させる食材や燻製など保存食の作り方まで。
織や刺繍の手仕事も、彼女たちの指導はときに厳しさもあったが養母から基礎的な教えしか受けていなかったこともあり、幅広い知識が得られることに私は喜びを感じた。
慣れない土地での新婚生活は大変でもあったが、私は毎日がとても新鮮だった。
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