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母の愛は無限じゃない

2.

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 レッチェルト男爵家での暮らしは、私にとって天国のようだった。

 この家には、私を貶めたり虐めたりする者はいない。祖父母は血の繋がらない私を本当の孫のように可愛がった。叔父夫婦は貴族学院へ通わせるためにと私を養女にしてくれたし、従兄たちは「妹ができた」と大喜びで色々な遊びを教えてくれた。
 
 私は生まれて初めて、家とは心安らぐ場所なのだと知った。
 
 祖父は母へ再婚を勧めたが、彼女は断って独身を貫いた。当人曰く、もう結婚はこりごりらしい。
 私が学院へ通うようになって暇が出来ると、知り合いの資産家の依頼でご令嬢の家庭教師を勤めたりして過ごしていた。


 それから数年が経った頃だろうか。突然、兄フランツが我が家を訪ねてきた。
 
 久々に目にした彼は、横に大きいサイズは相変わらずだが、何だか窶れているように見えた。服はサイズが合わずぴちぴちだし、髪は伸びてボサボサだ。私たちが家にいた頃は、いつもピカピカの服を着ていたのに。

「ごきげんよう、お兄様」
「……まさか、フィーネか!?」

 淑女らしく完璧なカーテシーをする私。それを見つめる兄の顔は、ひどく歪んでいた。
 
 もう、以前のオドオドとしていた私はどこにもいない。
 自分がまあまあの容姿であるということは、この家に来てから知った。それに貴族学校へ通って教養と行儀作法を学び、男爵家の令嬢として多少は自信もついた。
 一方で躾もなっておらず、醜く肥え太った兄。愛人の子と見下していた私が自分より格上の存在となった事を知り、プライドの高い彼はさぞ悔しかっただろう。

 兄は私を無視し、母へ向かって話し始めた。
 
 新しい継母は我が儘な兄を嫌っており、自分は家の中で居場所がない。父は妻のいいなりで、祖母は痴呆となって頼りにならない。
 さらに、継母の産んだ子供は男だった。彼女は自分の息子を跡取りにしたいらしく、兄を遠い寄宿学校へ追い出そうと画策している。ちなみにその学校は規律が厳しいことで有名だ。

 そんなことを切々と訴える。
 それを聞いて「あらまあ、大変ねえ」と他人事のように答える母に、兄は怒り出した。

「何だよその態度!息子がこんな酷い目に遭ってるのに、もっと言う事は無いのか!?」
「あら、私の事なんて母親と思わないと言ったのは貴方でしょう」
「……っ、あのときはそう思ってたけど……今は違う!母様、俺もこの家に置いてよ。あんな家にいるより、ここの方がマシだ」
「貴方、貧乏男爵家に行くなんて真っ平じゃなかったかしら?貧しい食事しか食べられないんだろう、服もツギハギだらけに違いないとも言っていたかしら」

 過去の自分の暴言を並べ立てられ、青くなる兄。
 そんな彼に、母はきっぱりと「この家に貴方の居場所は無いわ。帰ってちょうだい」と伝えた。

「何でだよ!?俺はそこの女と違って、母様の本当の子だ!フィーネを家へ送り返せばいいじゃないか。母様の子じゃないんだから」
 
 そう言い放った兄を見つめる母の表情は、今でも忘れられない。

 そこに私の知っている、厳しくも優しい母はいなかった。ひどく冷酷な、まるで虫けらを見るような目。母のあんな顔は、後にも先にも見たことがない。

「貴方が私を母親とは思わないように、私も貴方のことを自分の子供とは思ってないの。私の子供は、フィーネだけよ」

 母の冷たい答えを聞いた兄は呆然としていた。常に自分へ慈愛深く接してきた母の変貌が、信じられなかったのだろう。
 その後もあれこれと訴えて縋ろうとしたが取り付く島もなく追い出され、兄は泣きながら帰って行った。


 結局、兄は寄宿学校に入れられた。だが同級生と諍いが起きて暴力を振るい、退学になったそうだ。
 家に戻ってきたものの離れに押し込められ、引き籠っているらしい。

 何故そんなに詳しいかというと、兄が逐一手紙で知らせてくるからだ。
 兄は自分が如何に辛い状況にあるかを訴え、最後には必ず「母様と一緒に暮らしたい。俺を迎えてに来てくれ」と書いてある。

『あいつら、俺の容姿を馬鹿にしたんだ。だからちょっと小突いてやったら退学になった。あんな学校、行きたくなかったからいいけどな!』
『せっかく家へ戻ったのに、離れへ行けと言われた。使用人は二人しかいないし、食事は少なくて全然足りない』
『父様の仕事を手伝うようになったよ。偉いだろう?』
『父様にひどく怒られて、もう手伝いは不要と言われた。ちょっと失敗しただけなのに……。父様は弟ばかり可愛がって、俺に冷たいんだ』
『弟を跡取りにするって言われた。何でだよ!俺は長男なのに!』
『ここは寂しい。誰も俺を見てくれない。母様だけが俺を叱ってくれた。愛してくれた』
『何で返事をくれないんだ。何で何で何で何で何で……』

 自分の置かれた状況を嘆くだけで母への謝罪が一切書かれていないのは、全くもってあの兄らしいと思う。


 私はその後、叔父夫婦の勧めで知り合いの男爵家へ嫁いだ。夫も義父母も、平民出身の私を差別することなく迎えてくれた。平凡ながらも幸せな生活だ。

 母は、以前担当した家庭教師の評判が良かったらしく、下位貴族や金持ちの商家から「うちの娘にも」と声がかかるようになった。今も数人のご令嬢を指導している。
「素直で可愛い子ばかりよ。遣り甲斐があるわ」と嬉しそうに笑っていた。

 兄は未だに手紙を送り続けてくるらしい。
 叔父夫婦を通して迷惑だからもう送ってくるなと伝えたのだが、家人の目を掻い潜って送って来るそうだ。
 何通出したところで返事は来ないことに、いいかげん気づいてほしい。


 今は、私も子を持つ身となった。
 我が子は愛しい。自らの命に代えても守りたいと思うほどに。
 
 だけどあの日の冷たい母の顔を思い出すたびに、背筋が寒くなる。
 自分があの頃の母のように子から蔑まれ、毎日のように罵声を浴びせられたら……私も母のようになってしまうかもしれない。

 兄はいつか気付くのだろうか。
 
 優しさや思いやりを受け取っておきながら、自らはそれを返さない。それは愛情の搾取だ。
 そして一方的に奪われ続けたものは、いずれ枯れ果てる。
 母の愛にも、限りはあるのだ。
 
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