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八月、禁断の台詞、未練
第6話
しおりを挟む「え、はぐ、俺の事何だと思ってんの」
「……」
「……俺は、紅井すぐり、だけど?」
大体の女は、俺が“紅井すぐり”だと知って近づいてくる。だから、こうして、ちゃんと家まで送ってあげればとても喜ぶ。
大事にされてると思うらしい。いや大事とかそう言う事じゃなくて、単純に俺から離れて行かなければそれでいいんだけど、と思いながらも、望むことなのならばと思って、運転手にいつも遠回りをさせていた。
今回も同じ。はぐみとこういう関係になって、すぐにはぐみの家の位置を調べさせた。
そう言えば、今まではぐみの事を家まで送った事は無かったなと思って、どうしてだろう、と思った。
「はぐが送って欲しいなら、いつも送るけど」
そう言えば、彼女は、酷く哀しそうに俺の事を見る。繋がれているままの指に、きゅうと力が籠って俺の指にはぐみの指が絡みついた。瑞々しいその感触にドクリと心臓がひとつ大きく鳴る。
刹那、彼女の指が離れていく。俺の手に残った感情を何と呼べばよいのか。
名残惜しい?
そんな簡単なものじゃない。
そんな事を考えている間にも、運転手が開いたドアから、彼女は朝陽輝く屋外へと去っていく。
部屋着の背中がとても輝いて見えた。まるで羽でも生えて居るかの様にやっぱり酷く自由に見えた。
見ていたくなくて目を逸らす。自分だけが取り残された様に思えて仕方が無かった。そんな訳は無いのに。
「こんなに朝早くに、ありがとうございました」
お礼を言っている声に、運転手に丁寧にお辞儀でもしている姿が、見ていなくても手に取る様に分かった。
「すぐり」
その声に、名を、呼ばれた。視線だけを車の外にやれば彼女は泣きそうな顔でこっちを見ていた。
如何してそんなに、哀しい顔をするのか。
「しあわせが無い、って言ったわね」
「……言った。それがどうか」
したの、と吐き捨てようとした言葉は、はぐみが落とした言葉の所為で、喉の奥に滑って落ちて行った。
「……私は、すぐりと一緒に歩いたあの日が、一番のしあわせだと、そう思うわ」
息が止まった。言の葉は見つからなかった。何度も開け閉めした唇からは、何も落ちて来なかった。
じゃあ、またね。
そう言って何も言えない俺に、小さくゆるりと手を振って彼女は自分の家の中へ姿を消した。
じっと、はぐみが消えて行ったごく普通の一軒家のドアを見つめた。きっと彼女は、両親に怒られるのだろう。昨日の様に、喧嘩するのかもしれない。
俺は、それが酷く羨ましくてならないのだ。怒ってもらえる事が、気にしてもらえる事が。
だって、怒るという事、それは気にかけてくれている証拠だろう?
愛情の反対は、無関心。無関心ほどに、怖いものはない。
そう思って、また溜息を零した。車の空気中に、しあわせが溶けていく。俺に残ったのは、酷く粘っこい嫌な感情。
ああ、この感情は、未練だ。認めたくないけれど、はぐみの事を放すのが怖い。
いつもなら、すきだと言われたら終わりにしていた。
けれど、俺は、はぐみの事だけは手放せない――いや違う、手放したくないのだ。
その告白を無かった事にしようが、はぐみを傷付けようが、我儘だろうが何だろうが、まだ、手放したくない。
それは、俺自身の過去に理由がある。
ぎゅっと未練を握りつぶす様に手のひらを握りしめた。運転手はいつも通りに何も言わずに車を発車させる。小刻みに伝わってくるエンジンの振動音が、さらに遣る瀬無さを助長する。
はあ、とまた溜息が零れた。
俺のしあわせなんて、この身体に一滴たりとも残ってなどいないのだ。もう、あの日々で、使い切ってしまったのだから。
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