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終章 神殺し
結び まぼろしの恋(完)
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その年の六月、千冬の二周忌は晴天だった。
梅雨の晴れ間、明里は千冬の埋葬地で手を合わせていた。墓土が盛られていただけの寂しい場所に、今は立派な慰霊碑が建てられていた。新生した幻神の贄として捧げられた千冬の魂。その埋葬地が野ざらしのままというのは体裁が良くないからという思惑の絡んだ理由。けれど、祀る魂は千冬だけではなく、水難や病死、不慮の事故で亡くなった者たちの眠る場所として村の中では扱われていた。明里が供えた花以外の供え物もいくつか置かれている。大事な人を亡くした心の整理をつける場所。区切りをつける場所。死者を慰めたいと思う気持ち。鎮魂。供養。そういう思いを抱えた人間は明里だけではないのだろう。
明里は閉じていた目を開ける。初夏の陽気を思わせる眩しい日差し。
「鏡さま……幻神さまとは会えた? こっちも相変わらずいろいろ大変だけど上手くやっているよ。私は大丈夫だから、ゆっくり眠ってね。また来年ね、千冬」
おやすみなさい、と最後に石碑に触れて、明里は立ち上がった。振り返らずに自らの伴侶の待つ家に足を向けた。湿気の含んだ風が緩く吹き抜ける。明日も晴れるだろうか。それとも、雨に逆戻りだろうか。
千冬が亡くなって二年。千影と出会って一年経った。
家に帰ると、千影が夕餉の支度をして待っていてくれた。苦手だった食事の味付けも少しずつ覚え、陶器のひび割れのような傷痕は人間の古傷と呼べるものに変化し、柔らかな指先は農作業や山の整備で皮が厚くなっていた。けれど、明里の顔を見て優しく浮かべる笑顔だけは同じ。
「千冬とゆっくり話はできたか?」
「はい、いろんなことがありましたから、たくさん話しこんじゃいました」
夕食を終え、寝所に蚊帳を吊るし、寝そべりながら千影は団扇で明里を扇ぐ。
二人が本当の夫婦になって半年。鏡が幻神を継いで半年。なにもごともなく平和──というわけでは決してなく。
神様を殺した忌地ではなく神様の再生の地となった村への周辺集落からの目、信仰を束ねる者たちの取り入り。人間になった千影に対するいざこざ、神気の残った明里の“揺らぎ”、邪気払いの巫女がいると聞きつけたあやかし退治の依頼まで厄介事は後を絶たない。二人を取り巻く環境は目まぐるしかったが、村の一員として千影を受け入れてくれた村人たちの手を借りて、今もどうにか二人はやってこれている。
「長老殿が隠居できんとこぼしてたよ。幸いの土地として取り入ろうとする者が多くなったと」
「……長老さまが目を光らせているから、村に怪しい人も入って来ないですしね。またお礼に行かなくちゃ」
明里は心配そうにしたが、千影は気安く笑った。
「どうだかなあ、そんなに気に病むこともなさそうだけど。口で文句を言ってるだけで生き生きしていたぞ。俺のことなんか小間使いにしてるし。長者や平太はうまいこと商いに繋げていて逞しいよ。悪いことばかりじゃないってさ」
千影は長老のそばによく控えるようになり。近隣や遠方から舞い込む面倒事をいなしたり、なだめたりしていた。神がかり的なことは無論できないけれど、元神様として千影を扱うほうが信心深い奴らには話が通りやすくなると年役たちは豪語していたらしい。したたかな年寄りたちらしいと言えばらしい。
「取り入ろうとする者たちを治めることより、明里が呪いを巻き散らかすほうが怖い、だそうだよ。しっかり明里を捕まえとけと言われた。ゆめゆめ浮気心など起こさぬように、あれは怒らすと手に負えないと有難い忠告を受けた」
「ええ、ひどい、呪いなんてそんなことしませ……するかも?」
む、と反論したあと、思い直した明里を見て、千影はまた笑った。
「心配せずとも、俺はお前に首ったけだ。お前こそ、俺を捨てないでくれよ」
「それこそありえないです。千影さまこそ、また勝手に無茶したら私化けて出ちゃうから」
「それは怖い。俺とお前が仲睦まじくしていることが村の安寧にも繋がるわけだ」
千影は明里に頬ずりし、明里は千影の袖を引いた。団扇を置き、いつものように千影は明里に覆いかぶさる。じっとりとした六月の夜。ただでさえ蒸し暑いのに二人は好き好んでお互いの熱を焚きつける。燻る熱を吐き出すように名前を呼ぶと千影がふいに肌を探っていた手を止めた。
「……ところで、いつまで俺のこと“千影さま”呼びするんだ」
え、明里は目を瞬かせた。
「俺はもう神様でもなんでもない。敬られる立場でもない。ただのお前の夫だ。村の者のほうがよっぽどそれを理解しているのに、なんで妻のお前が一番距離のある言い方をするんだ」
「そう……ですけど、なんですかいきなり」
「別に。前から思っていたことだ」
もごもごと明里は言いよどむ。今更そんなこと言われても。千影が真面目な顔で「ほら」と名前を呼ぶように促したので、明里は一層口ごもった。
「ち、ちかげ……や、やっぱり無理です」
「何故」
むにり、と千影が明里の頬をつまむ。痛くはないが、拗ねてしまったようだ。
「だって、なんか馴染んじゃったし……呼び捨ては恥ずかしくて……」
千影が怪訝な顔をする。自分の下で露わになった明里の肌をじっくり眺め、
「呼び捨てよりよっぽど恥ずかしいことしていると思うが……」
と、宣った。明里は真っ赤になり、
「……まさか千影さま、千冬のことは呼び捨てなのに、とか変な焼きもちじゃないですよね? まだ私の気持ち疑ってるんですか?」
身も心もここまで明里の中に入り込んでおいて、距離があるとかどの口が言うのか。
明里が睨むと千影は痛いところを突かれたように眉を下げた。
「明里の気持ちを疑ってなんかいないよ。他の誰であってもお前の心に入り込める奴がいるなんて思えない。俺にはお前だけだし、お前には俺だけだ。けど」
千影は甘えるように、明里の胸元に顔を埋めた。
「……千冬だけは、特別だからな」
「……そうですか」
二周忌前に物思いにふけっていた明里に千影は何も言わなかった。
どんなに想いを交わしても、肌を重ねてみても、千影は時折不安そうにする。千冬の影がちらつく瞬間はいつも寂しそうに言葉を呑み込む。
「もう誰かの代わりは嫌だ」と、蝕神の穢れに侵されたときに叫んだ悲痛な本音。過去の贄との生活はそれほど深く千影の胸に影を落としている。呼び捨てにしてほしいだとか、千冬より距離があるのは嫌だとか、子どものような我儘を明里にねだるほど。
「でも、私、千冬とあなたを同じにするつもりはないんです。千冬は千冬で──千影さまは千影さまだから」
千冬にそうしていたから、千影にもそうする、そんな呼び方はしたくない。いつか敬称も飾りもない名前だけで呼ぶ日が来るかもしれないけれど、それは自然と口をついて言葉にするときがいい。それにやっぱり千影は明里にとってただ一人の、明里だけの神様だから。
「それでも不安だって言うのなら、何度でも確かめて」
明里は腕を伸ばして、その首に抱き着いた。
「あなたが安心できるまで、何度だってあなたのものにして」
「……明里」
千影もまたその細い背を胸板に押し付けた。凹凸を無視して二人の身体は重なる。なにひとつ、隔てるものを許さないように。
「結びを交わしましょう。何度でも、何度でも。あなたとわたしが決して解けたりしないように」
──この恋が、まぼろしにならないように。
……
………。
暗い、水の底で。
苦しくて、苦しくて、息ができない。
もがいて、あがいて、「たすけて」と、その叫びさえ水に呑まれて。そうして、ふとすべての苦しみから解放されてみると、なにをそんなに必死にあがいていたのか分からなくなる。
考えてみれば、水の上でだって──生きていた頃だって、空気の薄い世界で必死に呼吸していたようなものだった。それに比べたらここは暗くて寒いけれど、静かで穏やかで苦しくもない。村の中でうまく立ち回ることも、母親の癇癪に振り回されることも、いずれ伴侶となる娘への気遣いもなにもしなくていい。だったら、今のほうがずっと楽。肩の力がようやく抜けた。手足をいっぱいに広げて揺蕩う。生に未練はない。死にたかったわけではないけれど、さして生きたいわけでもなかった。
でも──ただひとつ、心残りがあるとするならば。
どうせこんなふうに終わってしまうのなら。
もっと早く、あの子と──明里と向き合っていればよかった。
一人残された明里はずっと自分を想うだろう。そういう娘だ。重くて一途で、まっすぐで。自分にはとても抱えきれない。だったら、はっきりと愛せないと言ってやればよかった。そうすればこんな冷え切った自分に縛られることもなかったのに。愛することも、傷つけることからも全部、全部逃げていた。
あの日、夕暮れのクスノキの木の根元で、帰る場所が分からず、精一杯身体を縮めて消え入るように膝を抱えていた少女がまるで自分のようだったから。だから、声をかけたのに。声をかけたのは自分なのに。
だれか、だれか、だれでもいいから。
あの子のそばにいてあげて。
その願いは叶ったのか。『神様』に、届いたのか。
暗い水の底で、不思議なまぼろしを見るようになった。
泡の中に浮かんでは消える。不思議な夢。
自分と同じ顔をした“誰か”が、明里と恋に落ちる──そういうまぼろしだった。
二人は反発し合い、喧嘩し合い、目をそらさず、真正面から向き合い、ゆっくりとお互いを知り、幸せな夫婦になっていた。
それが眩しい。嫉妬も湧いて出ないほど、自分にはできないことだと分かるから。冷え切った自分にはただ眩しくて。
でも、あんなに俯いてばかりいた娘が、ちゃんと相手を見て、向き合って、伴侶を見つけて、前を向いて生きていた。
──ああ、よかったな、と心から思った。
それはまぼろしの恋だったけれど、千冬には救いのように思えた。明里と幸せな家庭を築く自分の姿。そうなりたくて、そうなれなかった決して叶わない夢だったから。
……
………。
どれくらい、夢の泡を見ていただろう。
「──ああ、よかった。やっと浄化できました。あなたに声が届きました」
光が差した。誰かが千冬の手を取った。
「遅れて申し訳ありませんでした。しつこい穢れで覆い隠されていて。蝕神さまが言うには死者の魂を守るためでもあるらしいのですけど、もう、だったら私情で遺灰を使うのはどうなんでしょうね、文句を言わねば」
千冬は目を見開く。声の主はよく分からない内容を話していたけれど、その顔はよく見知ったものだった。思わず、千冬はその名を呼ぶ。
「──……“明里”?」
鏡は目を瞬いたあと、困ったように微笑んだ。
「……なんだ、あなたは私にその姿を見るのですね」
名前を呼ばれ、幻神は贄の望む姿にカタチを変える。贄の心を鏡に映す。
“明里”はにっこりと微笑んだ。
「──千冬、迎えに来たよ。ここは暗くて寒いでしょう? あっちの明るいほうに行こう」
千冬は大きく目を見開き、その手を握り返し、ほろりと涙を流した。
「明里……ごめん、ごめんな。ひとりにして。ちゃんと向き合ってやれなくて。俺は怖かった。俺はお前を愛することができないって、誰かを愛することができないって自覚するのが怖かったんだ。俺は俺で手一杯だったから、お前のこと全然見てやれなかった。ごめん、ごめん」
“明里”は静かに千冬の懺悔を受け取った。
合わせ鏡は反射する。千冬が聞きたかった言葉を、明里が伝えたかった言葉を。
「そんなことないよ、人を大事にする方法は恋だけじゃないから。千冬は私のことちゃんと大事にしてくれたよ。そんなあなただから好きだったの。あなたを愛することができたから。私は今幸せなの。見ていたでしょう?」
「うん、見てた。よかった、本当に、よかった」
千冬は微笑んだ。偽物ではない。感情を殺した笑顔ではない。彼本来の優しい笑顔で。“明里”はとびきりの笑顔で微笑み返す。
「千冬のこと、見つけてあげられなくて、ごめんなさい。私のこと、見つけてくれてありがとう。……だから、迎えに来たの」
たくさんの夢の泡が光の粒になり、暗い水底を照らした。
優しいまぼろしに抱かれて、千冬は安らかに目を閉じる。
「寒くても大丈夫だなんて、自分をごまかさないで。暖かくて、明るいところに、私が連れて行くから。安心しておやすみなさい──千冬」
手を引かれ、千冬は水の中から抜け出した。
夢の泡が消える。
暗闇に明かりがさす。
──常冬は溶ける。
<まぼろしの恋 完>
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「鏡さま……幻神さまとは会えた? こっちも相変わらずいろいろ大変だけど上手くやっているよ。私は大丈夫だから、ゆっくり眠ってね。また来年ね、千冬」
おやすみなさい、と最後に石碑に触れて、明里は立ち上がった。振り返らずに自らの伴侶の待つ家に足を向けた。湿気の含んだ風が緩く吹き抜ける。明日も晴れるだろうか。それとも、雨に逆戻りだろうか。
千冬が亡くなって二年。千影と出会って一年経った。
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「千冬とゆっくり話はできたか?」
「はい、いろんなことがありましたから、たくさん話しこんじゃいました」
夕食を終え、寝所に蚊帳を吊るし、寝そべりながら千影は団扇で明里を扇ぐ。
二人が本当の夫婦になって半年。鏡が幻神を継いで半年。なにもごともなく平和──というわけでは決してなく。
神様を殺した忌地ではなく神様の再生の地となった村への周辺集落からの目、信仰を束ねる者たちの取り入り。人間になった千影に対するいざこざ、神気の残った明里の“揺らぎ”、邪気払いの巫女がいると聞きつけたあやかし退治の依頼まで厄介事は後を絶たない。二人を取り巻く環境は目まぐるしかったが、村の一員として千影を受け入れてくれた村人たちの手を借りて、今もどうにか二人はやってこれている。
「長老殿が隠居できんとこぼしてたよ。幸いの土地として取り入ろうとする者が多くなったと」
「……長老さまが目を光らせているから、村に怪しい人も入って来ないですしね。またお礼に行かなくちゃ」
明里は心配そうにしたが、千影は気安く笑った。
「どうだかなあ、そんなに気に病むこともなさそうだけど。口で文句を言ってるだけで生き生きしていたぞ。俺のことなんか小間使いにしてるし。長者や平太はうまいこと商いに繋げていて逞しいよ。悪いことばかりじゃないってさ」
千影は長老のそばによく控えるようになり。近隣や遠方から舞い込む面倒事をいなしたり、なだめたりしていた。神がかり的なことは無論できないけれど、元神様として千影を扱うほうが信心深い奴らには話が通りやすくなると年役たちは豪語していたらしい。したたかな年寄りたちらしいと言えばらしい。
「取り入ろうとする者たちを治めることより、明里が呪いを巻き散らかすほうが怖い、だそうだよ。しっかり明里を捕まえとけと言われた。ゆめゆめ浮気心など起こさぬように、あれは怒らすと手に負えないと有難い忠告を受けた」
「ええ、ひどい、呪いなんてそんなことしませ……するかも?」
む、と反論したあと、思い直した明里を見て、千影はまた笑った。
「心配せずとも、俺はお前に首ったけだ。お前こそ、俺を捨てないでくれよ」
「それこそありえないです。千影さまこそ、また勝手に無茶したら私化けて出ちゃうから」
「それは怖い。俺とお前が仲睦まじくしていることが村の安寧にも繋がるわけだ」
千影は明里に頬ずりし、明里は千影の袖を引いた。団扇を置き、いつものように千影は明里に覆いかぶさる。じっとりとした六月の夜。ただでさえ蒸し暑いのに二人は好き好んでお互いの熱を焚きつける。燻る熱を吐き出すように名前を呼ぶと千影がふいに肌を探っていた手を止めた。
「……ところで、いつまで俺のこと“千影さま”呼びするんだ」
え、明里は目を瞬かせた。
「俺はもう神様でもなんでもない。敬られる立場でもない。ただのお前の夫だ。村の者のほうがよっぽどそれを理解しているのに、なんで妻のお前が一番距離のある言い方をするんだ」
「そう……ですけど、なんですかいきなり」
「別に。前から思っていたことだ」
もごもごと明里は言いよどむ。今更そんなこと言われても。千影が真面目な顔で「ほら」と名前を呼ぶように促したので、明里は一層口ごもった。
「ち、ちかげ……や、やっぱり無理です」
「何故」
むにり、と千影が明里の頬をつまむ。痛くはないが、拗ねてしまったようだ。
「だって、なんか馴染んじゃったし……呼び捨ては恥ずかしくて……」
千影が怪訝な顔をする。自分の下で露わになった明里の肌をじっくり眺め、
「呼び捨てよりよっぽど恥ずかしいことしていると思うが……」
と、宣った。明里は真っ赤になり、
「……まさか千影さま、千冬のことは呼び捨てなのに、とか変な焼きもちじゃないですよね? まだ私の気持ち疑ってるんですか?」
身も心もここまで明里の中に入り込んでおいて、距離があるとかどの口が言うのか。
明里が睨むと千影は痛いところを突かれたように眉を下げた。
「明里の気持ちを疑ってなんかいないよ。他の誰であってもお前の心に入り込める奴がいるなんて思えない。俺にはお前だけだし、お前には俺だけだ。けど」
千影は甘えるように、明里の胸元に顔を埋めた。
「……千冬だけは、特別だからな」
「……そうですか」
二周忌前に物思いにふけっていた明里に千影は何も言わなかった。
どんなに想いを交わしても、肌を重ねてみても、千影は時折不安そうにする。千冬の影がちらつく瞬間はいつも寂しそうに言葉を呑み込む。
「もう誰かの代わりは嫌だ」と、蝕神の穢れに侵されたときに叫んだ悲痛な本音。過去の贄との生活はそれほど深く千影の胸に影を落としている。呼び捨てにしてほしいだとか、千冬より距離があるのは嫌だとか、子どものような我儘を明里にねだるほど。
「でも、私、千冬とあなたを同じにするつもりはないんです。千冬は千冬で──千影さまは千影さまだから」
千冬にそうしていたから、千影にもそうする、そんな呼び方はしたくない。いつか敬称も飾りもない名前だけで呼ぶ日が来るかもしれないけれど、それは自然と口をついて言葉にするときがいい。それにやっぱり千影は明里にとってただ一人の、明里だけの神様だから。
「それでも不安だって言うのなら、何度でも確かめて」
明里は腕を伸ばして、その首に抱き着いた。
「あなたが安心できるまで、何度だってあなたのものにして」
「……明里」
千影もまたその細い背を胸板に押し付けた。凹凸を無視して二人の身体は重なる。なにひとつ、隔てるものを許さないように。
「結びを交わしましょう。何度でも、何度でも。あなたとわたしが決して解けたりしないように」
──この恋が、まぼろしにならないように。
……
………。
暗い、水の底で。
苦しくて、苦しくて、息ができない。
もがいて、あがいて、「たすけて」と、その叫びさえ水に呑まれて。そうして、ふとすべての苦しみから解放されてみると、なにをそんなに必死にあがいていたのか分からなくなる。
考えてみれば、水の上でだって──生きていた頃だって、空気の薄い世界で必死に呼吸していたようなものだった。それに比べたらここは暗くて寒いけれど、静かで穏やかで苦しくもない。村の中でうまく立ち回ることも、母親の癇癪に振り回されることも、いずれ伴侶となる娘への気遣いもなにもしなくていい。だったら、今のほうがずっと楽。肩の力がようやく抜けた。手足をいっぱいに広げて揺蕩う。生に未練はない。死にたかったわけではないけれど、さして生きたいわけでもなかった。
でも──ただひとつ、心残りがあるとするならば。
どうせこんなふうに終わってしまうのなら。
もっと早く、あの子と──明里と向き合っていればよかった。
一人残された明里はずっと自分を想うだろう。そういう娘だ。重くて一途で、まっすぐで。自分にはとても抱えきれない。だったら、はっきりと愛せないと言ってやればよかった。そうすればこんな冷え切った自分に縛られることもなかったのに。愛することも、傷つけることからも全部、全部逃げていた。
あの日、夕暮れのクスノキの木の根元で、帰る場所が分からず、精一杯身体を縮めて消え入るように膝を抱えていた少女がまるで自分のようだったから。だから、声をかけたのに。声をかけたのは自分なのに。
だれか、だれか、だれでもいいから。
あの子のそばにいてあげて。
その願いは叶ったのか。『神様』に、届いたのか。
暗い水の底で、不思議なまぼろしを見るようになった。
泡の中に浮かんでは消える。不思議な夢。
自分と同じ顔をした“誰か”が、明里と恋に落ちる──そういうまぼろしだった。
二人は反発し合い、喧嘩し合い、目をそらさず、真正面から向き合い、ゆっくりとお互いを知り、幸せな夫婦になっていた。
それが眩しい。嫉妬も湧いて出ないほど、自分にはできないことだと分かるから。冷え切った自分にはただ眩しくて。
でも、あんなに俯いてばかりいた娘が、ちゃんと相手を見て、向き合って、伴侶を見つけて、前を向いて生きていた。
──ああ、よかったな、と心から思った。
それはまぼろしの恋だったけれど、千冬には救いのように思えた。明里と幸せな家庭を築く自分の姿。そうなりたくて、そうなれなかった決して叶わない夢だったから。
……
………。
どれくらい、夢の泡を見ていただろう。
「──ああ、よかった。やっと浄化できました。あなたに声が届きました」
光が差した。誰かが千冬の手を取った。
「遅れて申し訳ありませんでした。しつこい穢れで覆い隠されていて。蝕神さまが言うには死者の魂を守るためでもあるらしいのですけど、もう、だったら私情で遺灰を使うのはどうなんでしょうね、文句を言わねば」
千冬は目を見開く。声の主はよく分からない内容を話していたけれど、その顔はよく見知ったものだった。思わず、千冬はその名を呼ぶ。
「──……“明里”?」
鏡は目を瞬いたあと、困ったように微笑んだ。
「……なんだ、あなたは私にその姿を見るのですね」
名前を呼ばれ、幻神は贄の望む姿にカタチを変える。贄の心を鏡に映す。
“明里”はにっこりと微笑んだ。
「──千冬、迎えに来たよ。ここは暗くて寒いでしょう? あっちの明るいほうに行こう」
千冬は大きく目を見開き、その手を握り返し、ほろりと涙を流した。
「明里……ごめん、ごめんな。ひとりにして。ちゃんと向き合ってやれなくて。俺は怖かった。俺はお前を愛することができないって、誰かを愛することができないって自覚するのが怖かったんだ。俺は俺で手一杯だったから、お前のこと全然見てやれなかった。ごめん、ごめん」
“明里”は静かに千冬の懺悔を受け取った。
合わせ鏡は反射する。千冬が聞きたかった言葉を、明里が伝えたかった言葉を。
「そんなことないよ、人を大事にする方法は恋だけじゃないから。千冬は私のことちゃんと大事にしてくれたよ。そんなあなただから好きだったの。あなたを愛することができたから。私は今幸せなの。見ていたでしょう?」
「うん、見てた。よかった、本当に、よかった」
千冬は微笑んだ。偽物ではない。感情を殺した笑顔ではない。彼本来の優しい笑顔で。“明里”はとびきりの笑顔で微笑み返す。
「千冬のこと、見つけてあげられなくて、ごめんなさい。私のこと、見つけてくれてありがとう。……だから、迎えに来たの」
たくさんの夢の泡が光の粒になり、暗い水底を照らした。
優しいまぼろしに抱かれて、千冬は安らかに目を閉じる。
「寒くても大丈夫だなんて、自分をごまかさないで。暖かくて、明るいところに、私が連れて行くから。安心しておやすみなさい──千冬」
手を引かれ、千冬は水の中から抜け出した。
夢の泡が消える。
暗闇に明かりがさす。
──常冬は溶ける。
<まぼろしの恋 完>
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【完結】サルビアの育てかた
朱村びすりん
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※当作品は現代英国を舞台としておりますが、一部架空の地名や店名、会場、施設等が登場します。ダンススクールやダンススタジオ、ストーリー上の事件・事故は全てフィクションです。
★special thanks★
表紙・ベアしゅう様
第3話挿絵・ベアしゅう様
第40話挿絵・黒木メイ様
第126話挿絵・テン様
第156話挿絵・陰東 愛香音様
最終話挿絵・ベアしゅう様
■本作品はエブリスタ様、ノベルアップ+様にて一部内容が変更されたものを公開しております。
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神作品です。最高でした!
わぁなんと嬉しいお言葉です!!読んでくださりありがとうございました!!(*´▽`*)