まぼろしの恋

ちづ

文字の大きさ
上 下
39 / 56
4章 神様と血を流す

35、陰日向

しおりを挟む
 無条件の愛情を明里はもらったことがない。
 だから焦る、だから戸惑う。同時に、疑問にも思った。
 いったい千影は自分のどこを好きになってくれたんだろう。

 明里の愛情はいつも一方的に捧げるばかりで、献身するばかりで、返ってくることは一度もなかった。
 両親には届かなかった。従姉妹の家では邪険にされた。千冬には重荷だった。
 もはや、愛情が返ってくることなんて諦めてすらいた。それなのに。

「明里、俺はお前が、好きだ」

 正直少し怖かった。
 その手が、その声が、その目が、あんまりにもまっすぐな愛情を向けてくるたびに、その理由が実感できなくて。
 千影は嘘はつかない。信じられる。信じたい。でも、もし。
 もし、また義務とか労わりとか優しさだったらどうしよう。
 今度こそ立ち直れなくなってしまいそう。
 千冬と同じくらいあの人も優しいから、見捨てられなかっただけじゃないのか、と。

 卑屈な自分がずっとそう耳打ちしていた。

 ──けれど。

 明里は千冬のことが本当に好きだったから。愛することは知っていたから。それだけは千冬が教えてくれたから。

「俺のこと、分かってくれて、ありがとう」

 見つけてもらえること、分かってもらえることの喜びだけは知っていた。
 ──だから千影の気持ちが、すとん、と腑に落ちた。腑に、落ちてしまった。

(ああ、この人は本当に、私のことが好きなんだ)



***

「はぁ……千影さまの顔、また見れなくなっちゃった」
「え!? まだそんなこと言ってるの!?」

 独り言のつもりだったが、ふきが素早くつっこんできた。

「長老さまにも正式に認められたんでしょ? だったら、なにも気にすることないじゃない」
「そう、なんだけど」

 長老の家に招かれてから一気に風向きが変わった。誰も千影と明里を恐れたり揶揄する者はいなくなった。そこにいるのが当然として扱われ、村仕事も他の村人と同じように割り振られたし、『千影』の名前を呼ぶ者も増えた。人の輪の中にいる千影はなんだか嬉しそうで、家畜の世話やなわないの仕方など生活に必要な知識を熱心に教わっていた。「今日は清治せいじと釣りに行った」とか「にしきから酒に誘われた」とか夕餉時に逐一報告する姿は微笑ましくもあった。

「もう誰も邪魔しないから、存分にいちゃいちゃしなさいよ。してたけど」

 産着を編みながら、囲炉裏の傍で蕗は辟易していた。お産が迫り、村の産屋うぶやにも数日後には移る予定である。明里も着古した着物を解き、おむつを作る手伝いをしていた。

「うん、でも、私たぶん重いから……千影さま、私のこと嫌にならないかな」
「幻神さまも相当だけど、明里ちゃんも大概だよね。いい加減にしてくれない?」

 うへ、と蕗は口に水飴をつっこまれたような顔をした。

「明里ちゃん、真面目に考えすぎなんじゃないの、あんなに千冬さんのこと引きずってた明里ちゃんに好き好き言ってくる人なら大丈夫でしょ」

 蕗は心底うんざりしていたが、歯に衣着せぬ物言いは逆に安心すら覚えた。

「そうかな」
「そうだよ。千冬さんのことだって、もう整理はついてるんでしょ?」

 明里は俯いた。明里のことを心配していたと、蕗に聞いてから気持ちはだいぶ楽にはなっていた。千冬のことで胸を痛ませることもほとんどなくなった。それは単純に、時間が解決してくれる問題でもあった。

「……うん、最近はあんまり思い出すこともなくなってきたんだ。不思議だね。あんなにつらかったのに」

 日常は忙しなく、生きている者はやっぱり強い。
 千影の姿を見て、千冬と見間違えることは一切なくなっていた。

「もう、千影さまのこと、好きになってもいいのかな」
「いいでしょ──って、とっくに好きじゃなかったの!?」

 え、と明里は目をぱちくりすると、蕗は「自覚なし?」と肩をすくめた。

「明里ちゃんっていい子ちゃんだから、怒るのは好きな人のことばっかりだったじゃない。あんなにめちゃくちゃあたしに怒鳴っといてよく言うよ」

 蕗のあきれ果てた言葉で、また腑に落ちる。すとん、と理解する。
 長老の言葉に、よぎった本音がすべて。

「幻神さまを神殺しできるか?」

 ──そんなことするくらいなら、災厄で村を潰したほうがはるかにマシだ。




 明里は足早に蕗の家から帰宅する。
 早く会いたくて、早く伝えたくて。駆け足で畦道あぜみちを行く。
 夕日は落ちきってはいなかったけれど、冬に差し掛かった日の入りは早くて余計急かされる気持ちになった。息が切れて白い吐息が漏れる。たいした距離はないのになんだか遠く感じた。辺りが薄暗闇に覆われる中、ぽっかりと家の灯りが灯っているのが見えて胸の内は温かくなる。

 ちゃんと言葉にできるだろうか。気持ちを伝えたら、千影は喜んでくれるだろうか。

「ああ、明里。おかえり」

 いろいろ考えたけれど、土間でかまどの前にいた千影を見たら、用意していた台詞なんて吹き飛んでしまった。

「早かったな、帰るまでに作ろうと思ったのに間に合わなかった」

 かまどには火が灯されていた。鍋がぐつぐつ音を立てている。台所に立つ姿は物珍しかったので、思わず覗き込んでしまった。

「千影さま? なにしてるんですか?」
「長老殿からいわしをもらったので、つみれ汁にしていた」


 水干の袖をたすき掛けにして、千影は捌いた鰯をすり鉢で潰していた。まな板には魚の血がわずかにほとばしっていた。

「……血、触って大丈夫なんですか?」
「得意ではないが、魚ならそこまででもない。獣の肉を口にしてしまったのなら今更だしな」

 ──今更。その言葉にわずかに引っ掛かりを覚えたが、千影は魚の肉をこね、鍋に落とした。

「それに、お前、肉が好きなことを俺に黙っていただろう」
「え……ま、まあそうですが、肉なんてそんなに滅多に口にできませんし、」

 明里は俯いた。本当に遠慮とかではなくて。

「……ご飯は一緒に食べたほうが美味しいです」
「……そうか」

 千影は葱や大根を細かく切るとざっと鍋に入れた。湯気が立ちこめ、いい匂いがした。

「肉はさすがに食べられないが、これなら食べられる。明里、魚は好きか?」

 こくり、と頷く。千影は「よかった」と顔を綻ばせた。

「なら、一緒に食べよう」

 優しい笑顔に胸の真ん中がぎゅう、と締めつけられて、言葉が出なくなって──明里は勢い余ってその腹に抱き着いた。

「! なんだ、危ないぞ」

 千影が慌てて包丁を置く。無視して顔を埋めた。

「あかり? どうしたんだ? なにかあったのか」
「……」
「また誰かに何か言われたのか? 宗吾そうごにからかわかれたのか? ふきに小言でも言われたか?」

 ぶんぶん、と明里は抱き着いたまま首を振る。
 気遣ってくれる声が切なくて、大事にしてくれる気持ちが嬉しくて、うまく言葉にできない。無言で張り付いている明里に、千影は困ったように頭を撫でた。

「……急にどうしたというのか。そんなに俺のこと恋しかったのか?」

 千影が軽口を叩く。そう言えば明里が驚いて身を離すだろうと思ったのか。
 それすら伝わって、明里はさらに強く、ぎゅ、と力を込めた。千影はその反応に硬直した。

「……明里?」

 腹に押し付けていた顔を上げる。戸惑いに揺れる蒼い瞳とぶつかった瞬間に、千影は息を呑んだ。おそらく明里の顔は真っ赤だったのだろう。明里の顔を見て、千影もまた、伝染したように真っ赤に頬を染めたから。

「──……本当に?」

 千影の心臓が大きく跳ねあがったのが分かって、明里の動悸も速まった。恥ずかしくなってまた胸に顔を埋める。千影の腕がおずおずと明里の背中に回った。明里が抵抗しないのが分かると、力いっぱい胸に押し付けられた。頬がつぶれて痛い。痛いけど嬉しい。落ち着かないのに、もっと触れたくて。隔てるものすべて邪魔に感じて。

「……ちかげ、さま」
「あかり」

 絞り出した声は名前を呼ぶのに精一杯だった。けれど、意図は充分伝わった。
 放置されたままの鍋が、ぶくぶく噴きこぼれだす。

 ああ、鍋が煮立っちゃう。火を止めないと。でもそのために離れることすら惜しい。自分以外に意識を向けられるのも嫌だ。そんな自分勝手な我儘を考えていたら、千影がかまどにフッと一息ふきして、火が落ちた。室内は急速に冷え込んだ。それでもちっとも寒くなかった。どころか、二人の身体は湯だったように熱い。音を立てていた鍋は、しん、と静まり返った。せっかく作ってくれたのに冷めてしまうかも。でも冷めたって、きっと二人なら美味しく食べられる。

「明里、ちゃんと言葉で──」

 熱い手が伸びて、明里の頬に添えられた。引き寄せられるように顔が近づき、明里は目を閉じた。
 吐息が、触れるくらい近づいて。「わたし、千影さまのことが──」唇が重なる寸前で呟いたら。

 唐突に、千影が手を離した。

「……ままならないな、」
「え?」
「間が悪い」

 なに、と声を出そうとした瞬間、じわ、と下腹部が痛んだ。夢から覚めるような痛み。ずきりと、冷や水を浴びせられるような、鈍い重み。──月の障り。

「い、た」
「……本当に申し訳ないが、俺はその血にも侵されてしまう。錦を呼んでくるから、身体を冷やさず待っていてくれ」

 千影は御衣おんぞを手に取って明里にかぶせると、眉を下げて微笑み、

「惜しかった。今なら本当の妻にできたのに」

 そのまま明里に指一本触れずに出て行った。

 なんで、なんで今なのか、と明里は腹を押さえて悔しくなる。離れてしまった熱が恋しくて、遠ざかる背中が寂しくて、無理にでも縋りつきたくなってしまった。

 一度自覚してしまえばあふれでる──その身をけがしてでも、触れてほしかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

年上カメラマンと訳あり彼女の蜜月までー月の名前ー

玖羽 望月
恋愛
綿貫 咲月 (わたぬき さつき) 26歳 コンプレックスをバネに、ヘアメイクの仕事に生きがいを見つけた女子。 でも、恋愛は奥手。今だにバージン守ってます。 岡田 睦月 (おかだ むつき) 38歳 カメラマンとして独立したばかりの笑い上戸。 誰にも分け隔てなく優しくしてしまうためフラれてしまう男。 拗らせ女子のジレジレ年の差ラブ……?に見せかけたジェットコースターラブ。 ヒロインとヒーローの相互視点です。 R18シーンのあるページは*が付きます。 更新は毎日21時。 初出はエブリスタ様にて。 本編  2020.11.1〜2021.11.18 完結済 多少の加筆修正はしていますが、話は変わっておりません。 関連作品 (読んでいただくとより楽しんでいただけるかと) 「One night stand after〜俺様カメラマンは私を捉えて離さない〜」恋愛 R18 「天使に出会った日」BL R15

sinful relations

雛瀬智美
恋愛
「もう会うこともないだろうが……気をつけろよ」 彼女は少し笑いながら、こくりと頷いた。 それから一緒に眠りに落ち、目覚めたのは夜が明けた頃。  年上男性×年下少女の重ねる甘く危険な罪。すれ違いじれじれからハッピー甘々な展開になります。 階段から落ちたOLと医師のラブストーリー。

教師と生徒とアイツと俺と

本宮瑚子
恋愛
高校教師1年目、沢谷敬介。 教師という立場にありながら、一人の男としては屈折した感情を持て余す。 そんな敬介が、教師として男として、日に日に目で追ってしまうのは……、一人の女であり、生徒でもあった。 ★教師×生徒のストーリーながら、中身は大人風味の恋愛仕立て。 ★未成年による飲酒、喫煙の描写が含まれますが、あくまでストーリー上によるものであり、法令をお守り下さい。 ★こちらの作品は、他サイトでも掲載中のものに、加筆・修正を加えたものです。

犬、やめました。【コミカライズ企画進行中作品】

たんたん
恋愛
✨あらすじ✨ そんな物で脅さなくたって、特上の女がわんさか寄ってくるのに ⋯⋯どうして私にこんな事するの? 「お前、俺にそんな態度とっていいと思ってんの?」 その言葉に奥歯を噛み締め振り返る。 すると誰もが認める程の端正な顔をした奴が、私を見下ろしてニヤリと笑っていた。 こいつは日本を代表する程の大企業の御曹司。 そして⋯⋯ 私がこの世で1番嫌いな幼馴染でもある。 あんたに何度傷付けられたか分からない。 あんたのせいで散々な人生を歩んできた。 もう嫌っ もう私の人生に干渉しないで 早く私の前から消えてよ そう、思うのに⋯⋯ 【主要登場人物】 ・白藤遥 20歳 訳あって夜の店で働く女子大生 ミスキャンパスにも選ばれる美人 男を毛嫌いしている ・東十条彰 20歳 遥の幼馴染 目付きも口も悪い御曹司 ある物で脅して遥を自分の犬にした男 ・東十条崇 23歳 彰の兄で、遥の初恋の人 優しくて王子様のような笑顔が素敵 でも、謎多き男 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼ 注意:強引なえっちでえろっぽいシーンもチラホラあります。苦手な方はご注意下さい。 本棚、スタンプ、コメントなど、本当に嬉しいです。ありがとうございます😭 イラストはミカスケさんのフリー素材を使用させて頂いております。 三角関係 身分差 溺愛(できあい) じれじれ いじめられっ子 両片思い 嫌われ すれ違い

薔薇のまねごと

るうあ
恋愛
人外美形(吸血鬼)の青年ユエルに仕える、元人間の少女で「眷族」のミズカ。 ある日ミズカは「眷族」の存在理由を知らされます。それはただ従属するための存在ではなくて…。 夏の避暑地、何かが変わってゆくような、そんな予感にとまどいがちなユエルとミズカの物語。

愛されない花嫁は初夜を一人で過ごす

リオール
恋愛
「俺はお前を妻と思わないし愛する事もない」  夫となったバジルはそう言って部屋を出て行った。妻となったアルビナは、初夜を一人で過ごすこととなる。  後に夫から聞かされた衝撃の事実。  アルビナは夫への復讐に、静かに心を燃やすのだった。 ※シリアスです。 ※ざまあが行き過ぎ・過剰だといったご意見を頂戴しております。年齢制限は設定しておりませんが、お読みになる場合は自己責任でお願い致します。

【R18】黒猫は月を愛でる

夢乃 空大
恋愛
■2021.8.21 本編完結しました ■2021.9.4 番外編更新始めました ■2021.9.17 番外編&スピンオフ「初恋やり直しませんか?」更新始めました ■2021.11.3 第1話から加筆修正始めました。 大手商社に勤める仲原 名月(なかはら なつき) は5年付き合った同期の誠治からプロポーズされる! ……と思っていたデートで、「結婚するから別れてくれ」と一方的に別れを告げられる。 傷心の名月は公園でやけ酒をしている時に出会った黒猫に癒しを求めるが… 目が覚めたら知らない人とベッドを共にしていた!? その相手とは…会社の上司でスーパー営業マンだった。 大手商社の営業マン猫実 弦(ねこざね げん) は一見人あたりの良いスーパー営業マンだが、実は他人に興味がない色々と問題のある外面建前男だった?! それぞれ傷のあったふたりが恋に落ちる? 他人に興味が持てない猫さんの長い初恋は実を結ぶ? 名月は幸せになれる? ※ヒロイン目線とヒーロー目線でお話が進みます。 ※ヒーローは紳士系ちょっとSな初恋拗らせ男子です。 ※ヒーロー目線の物語と第一章はとにかく焦れ焦れします。 ※溺愛ハピエン、いちゃラブは番外編です。 ◇改稿多めです。キチンと出来上がってから投稿したいのですが、勢いで投稿してしまう癖があります。ご迷惑をおかけしてすみません。 ◇改稿後の作品には、新要素や新描写が沢山あります。 ◇焦れるのが好きな方どうぞ♡ ◇R話は※マークで注意喚起してます。ねちっこめです。

【完結】サルビアの育てかた

朱村びすりん
恋愛
「血の繋がりなんて関係ないだろ!」  彼女を傷つける奴は誰であろうと許さない。例えそれが、彼女自身であったとしても──  それは、元孤児の少女と彼女の義理の兄であるヒルスの愛情物語。  ハニーストーンの家々が並ぶ、ある田舎町。ダンスの練習に励む少年ヒルスは、グリマルディ家の一人息子として平凡な暮らしをしていた。  そんなヒルスが十歳のとき、七歳年下のレイという女の子が家族としてやってきた。  だが、血の繋がりのない妹に戸惑うヒルスは、彼女のことをただの「同居人」としてしか見ておらず無干渉を貫いてきた。  レイとまともに会話すら交わさない日々を送る中、二人にとってあるきっかけが訪れる。  レイが八歳になった頃だった。ひょんなことからヒルスが通うダンススクールへ、彼女もレッスンを受けることになったのだ。これを機に、二人の関係は徐々に深いものになっていく。  ダンスに対するレイの真面目な姿勢を目の当たりにしたヒルスは、常に彼女を気にかけ「家族として」守りたいと思うようになった。  しかしグリマルディ家の一員になる前、レイには辛く惨い過去があり──心の奥に居座り続けるトラウマによって、彼女は苦しんでいた。  さまざまな事件、悲しい事故、彼女をさいなめようとする人々、そして大切な人たちとの別れ。  周囲の仲間たちに支えられながら苦難の壁を乗り越えていき、二人の絆は固くなる──  義兄妹の純愛、ダンス仲間との友情、家族の愛情をテーマにしたドラマティックヒューマンラブストーリー。 ※当作品は現代英国を舞台としておりますが、一部架空の地名や店名、会場、施設等が登場します。ダンススクールやダンススタジオ、ストーリー上の事件・事故は全てフィクションです。 ★special thanks★ 表紙・ベアしゅう様 第3話挿絵・ベアしゅう様 第40話挿絵・黒木メイ様 第126話挿絵・テン様 第156話挿絵・陰東 愛香音様 最終話挿絵・ベアしゅう様 ■本作品はエブリスタ様、ノベルアップ+様にて一部内容が変更されたものを公開しております。

処理中です...