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3章 神様を地に落とす
23、水光
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ふと、誰かが、頭を撫でてくれていた気がする。触れるか触れないかの手つき。柔らかで、優しく。心地よい。優しいころの千冬の母だったか、千冬本人だったか、それとも別の誰だったか。以前にも、そんなことがあった気がする。
明里はゆっくりと覚醒する。暗闇の中、ゆらゆら揺れる燭台。障子窓から月夜を眺める人影が一瞬、想い人とだぶった。
「ち──」
振り向いたその顔を見て、明里は名前を飲み込みなおした。
「千影さま……」
「起きたか。具合はどうだ?」
言われて、明里は頭を押さえた。ぐわんぐわんする。慣れない酒を飲んだのだった。社務所の六畳の座敷。打掛は畳まれ、明里は小袖姿で布団の上で寝かされていた。日はとうに落ちて、宵の口。身を起こすと、襖の外から「失礼いたします」と巫女の声がした。
「幻神さま、お水をお持ちいたしました」
「ああ、助かる。ちょうど起きたところだ」
巫女が襖を開き、盆に乗った餅と水器を差し出す。
「簡単なお食事ですが、祝いのつき餅です。お召し上がりください。まだ祝言の宴は続いておりますので、私は境内に戻ります。──頃合いを見て、皆に濁り酒をふるまっても、よろしいでしょうか?」
「任せる。このまま明里といるから、あとは適当に」
かしこまりました、とすぐ巫女は身を引いた。ぼんやりしていた明里は忙しそうな巫女を見て呟いた。
「私も、お手伝いに行ったほうがいいでしょうか」
「……いいわけないだろう。まだ寝ぼけているのか」
千影は水を飲め、と明里に水器を渡した。
「何のために、俺とお前が宴から席を外したと思っている。それくらいは分かるだろう」
言われて気づく。出席者に濁り酒や白酒をふるまうのは、床入りのそれとない報告の仕方。床入りを終えて初めて、両者の婚姻の成立がされる。親戚どころか、境内にいた村の者、皆に知らせると聞いて明里は頬を赤くした。
「す、すみません」
「まったく、気概があるのかないのか。今夜はこの部屋から出るなよ」
水を飲み干し、頭がはっきりする。つまり、この部屋は初夜を迎えるための一室。段取り通りではあるが、そわそわと落ち着かない。千影はそれもお見通しなのか。
「心配せずとも、手は出さん。うっかり神殺しの言霊なぞ使われたら元も子もない」
棚機のときと同じ轍を踏めと? と顔を顰められ、明里はまた顔を赤くさせた。
「腹が減っているなら食事を済ませろ。どうせすることもないのだから」
ぐうと腹が鳴った。何も食べていなかったのを思い出し、明里はつきたての餅をもごもごと頬張る。ハレの日ですらなかなか口にすることはない。まだ温かく美味しかった。ひとつ食べ終わり、腹が落ち着くと気持ちもまた安らいだ。
「千影さまも、どうぞ」
千影は一瞬、怪訝そうな顔をした。
「……直会のこと、知っていて酒も餅も俺に差し出すのだな。お前は」
言っている意味が分からず、明里は小首を傾げた。
「巫女から聞いたのだろう? 俺が共に食事を取っていた理由を」
「ええと……一緒の食事をとることで神様との結びつきをよくする、って意味ですよね?」
ああ、と千影は頷いた。その表情の意味は読めなかった。
「俺はお前を楔にして、実体を強めていた。お前を惑わしやすくする。そのためだけに」
千影は明里の差し出した餅を手にして、咀嚼する。何度か共にした食事の光景。それにどんな特別な意味があるのか、明里にはよく分からなかった。結びつきをよくしたところで、なにか実害があったわけではない。
「……以前から思っていたが、お前は少し油断がすぎる。拒絶するわりに、食事をとりに来たと言えば、迎え入れるのもどうかと思っていたぞ」
そうして、千影はまた明里の手から餅を一つ奪った。
「仮の夫婦が形式上、周りから見た外側の結びつきだとするなら、共に食事をとるのは内側、中の結びつきということだ。人とは違うモノ、魔性やあやかしと中身まで近づきたいとは思うまい。そのことに本能的に怯えたから三々九度で躊躇したのだろう?」
言わんとすることも分からないでもなかったが、明里は別にあやかしや魔性と結びを交わしたつもりはなかった。
「でも、私が盃を交わしたのも、今こうしてお食事しているのも、あやかしや魔性じゃなくて、あなたです」
確かに、出会ってすぐの頃、もし遺灰を持っていなければすぐに幻術をかけられていたのだろう。棚機の晩、千冬だと思い込まされたときのことを思うと身がすくんだ。そのくせ、以前の明里は、千冬の姿をした神様のことを考えるのも嫌で思考放棄していた。言われるがまま、神様と食事を共にしていた。油断がすぎるといえばその通りだと思う。けれど、明里はこうして、今も無事でいる。それは別に偶然だけではなく。
「千影さまは、遺灰を取り上げたりはしなかった、から」
千影は押し黙る。そうなのだ。神様にとって、死の不浄の塊である遺灰に、触れることすら憚られるなら。巫女や村人に言いつけて取り上げさせればいいだけなのだ。食事を重ねるより、ずっと簡単なはずなのに。
遺灰を明里から手放させたのは、社の神域に入る直前。神様が譲歩できるぎりぎりの境界まで迫ってからだ。しかも、ちゃんと明里の了承を得て、巫女に預けさせている。
明里は千影の顔を見る。ちゃんと、考えてみる。やっぱり変なところが不器用で、抜けている。
(このヒトはたぶん、本当に)
謀るが、騙すことが、得意ではない。
そういう神様。そういうひと。惑わすのが性質であるのに、その不均衡さは不思議だった。根がどうしようもないほど、純粋で無垢。清廉──そんな性根を持った存在と結びついたところで、畏れはしても、嫌悪や忌避が沸かないのはむしろ納得してしまう。
「私から見ると、あなたはただ私の看病をして、ご飯を一緒に食べてくれていただけです」
「……お前、俺をばかにしているわけではないよな」
「え、」
むしろ、その逆ではないだろうか。むすり、と千影が拗ねてしまったので、何も言えなかったが。
「そうでなくても、神秘や魔性の性質を言い当てるなんて、調伏に使う手口だ。人間の物事や原理で説明してしまったら、神霊も魔性もなにも恐ろしくないだろう」
「え、でも」
明里は戸惑う。そういうつもりは一切なく
「知る、とは。そういうことだと思います」
答えを出すと決めた。その猶予を神様がくれた。だったら、明里だって示さねばならない。
「わたし、あなたのこと、もっと知りたいから。頑張って見つけます。あなたのことが分からないと、答えなんて出せません。だから」
そこで言葉を区切り、明里は千影を見た。千冬に聞けなったこと。千冬が言わなかったこと。千冬が失くしてしまったこと。
「あなたの、好きな食べ物は、好きな花は──好きなものはなんですか?」
千影は目をぱちくりとさせて、戸惑うような、声を出した。
「……好きなもの?」
「はい。祝いの品に希望があれば言ってくれと、村長が千影さまに。なにかお渡ししたいそうです。たぶん供物を横取りしていたことが後ろめたいのでしょう」
一度怒らせたのが効いているのか、明里は村長にひそかに頼まれたのだった。何故か、千影は反応に困っていた。
「供物を、選んでいいのか?」
「? はい。千影さま、欲しいものはありますか? 食べ物とか装飾品とか。受け取れば気が済むみたいなので」
謝罪の品を受け取ってもらえれば、許しを得たということなのだろう。小心者らしい村長の詫びの仕方に千影は一層困惑した。
「供物とは一方的に捧げられるもの。受け入れたのちに、恩恵や災厄を与えこそすれ、捧げられるものを事前に選んだりするものではない」
今度は明里が戸惑った。そんな大層なものではなく、単なる村長の心遣いなのだが。
「返さなくていいので、気軽に選んでいいんですよ」
「……一層難しい。もらう、のはともかく、選ぶことは」
驚いた。その発想の仕方に。でも、そうか。神様になにか渡す、捧げるというのはそういう意味になってしまうのか。
「でも、千影さま」
数少ない、覚束ない食事の光景を思い出して。
「お酒は、お好きですよね? お粥とかおにぎりとかも」
「それは……言われてみればそうだな。稲作、米というのはこの國を象徴するものであるから、それに連なって作られるものは馴染深い」
ああ、でも、と千影は思いついたように言った。
「獣の肉は、好きではないな。血の匂いがする。魚や鳥はまだ食べられるのだが、それでも水菓子や野菜のほうが食べやすい」
「ああ、なるほど? なんとなく、分かる気がします」
突破口が見えそうだったので、明里は千影の隣に座り直した。千影は律儀に考えこんでいた。
「好きな花も、特に思いつかない。花は芽吹く姿が美しいから、しいていうなら──春や夏のみずみずしい草花であるなら、なんでも。あとは、そうだな。実のなる花が好きだな」
明里は千影の言葉に静かに耳を傾けていた。自分の中の“好きなもの”を見つけていく姿は微笑ましかった。
「他に好きなもの、は──」
千影がこちらを向いた。間近な瞳がじっくりと、明里のまるい瞳と交わり、「よく、分からない」と呟いた。
「……そうですか」
明里はまた皿に残った餅を千影に差し出す。
「でしたら、お餅を頂いていきましょう。ああ、お米が好きなら、お煎餅も好きかもしれませんね。食べたことありますか? 実のなる花でしたら、縁起物の中に南天があったかな。でも、今時期ならコムラサキのほうが綺麗かもしれません。お部屋に飾りましょうか」
あれこれ指折り数える。教えてくれるのが、嬉しくて。考えてくれるのが、喜ばしくて。きっと他にも神様の好きなものは見つかるはずだと。
明里は楽しそうに微笑む。その笑顔を眩しいものを見るように、神様は見ていた。
相手のことを初めて知る夜。それが、二人の初夜だった。
***
翌日の早朝、明里は身支度をして、巫女に頭を下げた。
「それではお気をつけてお帰りください。困ったことがあれば、いつでもおっしゃってくださいね。幻神さまのこと、よろしくお願いいたします。」
「ありがとう巫女さま、長らくお世話になりました」
明け方まで続いた宴は村人の鬱憤晴らしにもなったらしい。各々落ち着きを取り戻し、普段の日常に戻っていった。明里と千影はそのまま社で同居する案もあったが、やはり村中に住まうほうが馴染むだろうと。明里の家で暮らすことになった。
「明里の家は蕗がいろいろ様子を見ていてくれたようです」
「そうなのですか。戻ったら、一度お礼に行きますね」
棚機からひと月近く、家を空けてしまった。盗まれるものなどさしてないが、従姉妹が見ていてくれたなら有難い。打掛を風呂敷で包み、もう一度頭を下げて、社を後にしようとしたとき、巫女に話しかけられた。
「そうだ、明里。蕗や村人が何か言ってくるかもしれませんが」
巫女は言葉に迷った後。
「まあ、適当に。頑張ってください」
「? はい」
普段の彼女らしくない物言いに、明里は首を傾げたが、巫女は早々に頭を下げて、去ってしまった。社の鳥居の下では、千影が待っていた。その手には笹に包んだ餅とコムラサキの実。明里は微笑んで、隣に並ぶ。階段を下り、村中に向かう。道中、農作業中の村人がちらちらとこちらを窺っていたが、祝言を終えてからはそこまで気にならなかった。どころか、千影が満面の笑みで「精が出るな」と微笑むので、そちらのほうが驚いてしまった。村人は曖昧に頭を下げ、見ないふりを決め込んだ。
畦道を抜け、田畑を抜け、村外れの数件連なる茅葺屋根。そのひとつ。
実にひと月ぶりの我が家であった。質素な土間も厨房も囲炉裏も懐かしさすらある。
「従姉妹が見てくれていたようですが、一度、厨を掃除しますね。そうしたら、ご飯にしましょう」
敷居の前で、千影が足を止めた。さして大きくもない庶民の茅葺屋根を見上げていた。
「千影さま……?」
「……俺は本当に入っていいのか?」
「今更どうしたんですか? どうぞ?」
家の敷居、境界。外側、内側。
千影は一息つくと、その敷居を跨いだ。足を、踏み入れた。それだけのことがなにか大切な儀式のようだった。ひとつひとつ、まるで出会いからやり直しているように。
「明里、俺も──」
踏み込んだ足音が、まっすぐに明里に近づく。
「俺も知りたい。もっと、俺自身を」
明里の顔に、影が落ちる。昨夜の話の続きだと気づいたときには、もうすぐそこまで。吐息が触れるくらい近くに迫っていた。
「──もっと、お前のことを」
明里は大きく目を見開いた。千影の指がその頬に触れて──……。
「明里ちゃん、お祝いだよ!」
唐突に明るい声が響いた。ふっくらとした身重の柔和な娘が、立っていた。
「蕗?」
ぱっと千影のそばから離れる。なんだか、一瞬妙な雰囲気になったので、顔を見ることができなかった。
蕗はどどん、と玄関先に荷物を置いた。
「これ、ご近所さんからのお祝いの品ね。お漬物とか昆布とか、あるから食べてね。皆怖がってうちに渡すんだもん」
「あ、ありがとう。こっちからお礼に行こうと思ってたのに。そんなお腹で無茶しちゃだめだよ」
「いいよ、いいよ。すぐそこだし。重いものは、あとで弟にでも持ってこさせるから。少し散歩がてら、来ただけ。様子も見にね」
ちらり、と蕗は千影を窺う。
「本当に、一緒に住むんだね。大丈夫?」
明里が返事に迷っていると、これからはご近所さん同士なんだから、と蕗は意味ありげに声をひそめた。
「幻神さまに、なにかひどいことされたら言ってね?」
え、え、と明里は戸惑う。
千影は心底、面倒くさそうな顔をした。
明里はゆっくりと覚醒する。暗闇の中、ゆらゆら揺れる燭台。障子窓から月夜を眺める人影が一瞬、想い人とだぶった。
「ち──」
振り向いたその顔を見て、明里は名前を飲み込みなおした。
「千影さま……」
「起きたか。具合はどうだ?」
言われて、明里は頭を押さえた。ぐわんぐわんする。慣れない酒を飲んだのだった。社務所の六畳の座敷。打掛は畳まれ、明里は小袖姿で布団の上で寝かされていた。日はとうに落ちて、宵の口。身を起こすと、襖の外から「失礼いたします」と巫女の声がした。
「幻神さま、お水をお持ちいたしました」
「ああ、助かる。ちょうど起きたところだ」
巫女が襖を開き、盆に乗った餅と水器を差し出す。
「簡単なお食事ですが、祝いのつき餅です。お召し上がりください。まだ祝言の宴は続いておりますので、私は境内に戻ります。──頃合いを見て、皆に濁り酒をふるまっても、よろしいでしょうか?」
「任せる。このまま明里といるから、あとは適当に」
かしこまりました、とすぐ巫女は身を引いた。ぼんやりしていた明里は忙しそうな巫女を見て呟いた。
「私も、お手伝いに行ったほうがいいでしょうか」
「……いいわけないだろう。まだ寝ぼけているのか」
千影は水を飲め、と明里に水器を渡した。
「何のために、俺とお前が宴から席を外したと思っている。それくらいは分かるだろう」
言われて気づく。出席者に濁り酒や白酒をふるまうのは、床入りのそれとない報告の仕方。床入りを終えて初めて、両者の婚姻の成立がされる。親戚どころか、境内にいた村の者、皆に知らせると聞いて明里は頬を赤くした。
「す、すみません」
「まったく、気概があるのかないのか。今夜はこの部屋から出るなよ」
水を飲み干し、頭がはっきりする。つまり、この部屋は初夜を迎えるための一室。段取り通りではあるが、そわそわと落ち着かない。千影はそれもお見通しなのか。
「心配せずとも、手は出さん。うっかり神殺しの言霊なぞ使われたら元も子もない」
棚機のときと同じ轍を踏めと? と顔を顰められ、明里はまた顔を赤くさせた。
「腹が減っているなら食事を済ませろ。どうせすることもないのだから」
ぐうと腹が鳴った。何も食べていなかったのを思い出し、明里はつきたての餅をもごもごと頬張る。ハレの日ですらなかなか口にすることはない。まだ温かく美味しかった。ひとつ食べ終わり、腹が落ち着くと気持ちもまた安らいだ。
「千影さまも、どうぞ」
千影は一瞬、怪訝そうな顔をした。
「……直会のこと、知っていて酒も餅も俺に差し出すのだな。お前は」
言っている意味が分からず、明里は小首を傾げた。
「巫女から聞いたのだろう? 俺が共に食事を取っていた理由を」
「ええと……一緒の食事をとることで神様との結びつきをよくする、って意味ですよね?」
ああ、と千影は頷いた。その表情の意味は読めなかった。
「俺はお前を楔にして、実体を強めていた。お前を惑わしやすくする。そのためだけに」
千影は明里の差し出した餅を手にして、咀嚼する。何度か共にした食事の光景。それにどんな特別な意味があるのか、明里にはよく分からなかった。結びつきをよくしたところで、なにか実害があったわけではない。
「……以前から思っていたが、お前は少し油断がすぎる。拒絶するわりに、食事をとりに来たと言えば、迎え入れるのもどうかと思っていたぞ」
そうして、千影はまた明里の手から餅を一つ奪った。
「仮の夫婦が形式上、周りから見た外側の結びつきだとするなら、共に食事をとるのは内側、中の結びつきということだ。人とは違うモノ、魔性やあやかしと中身まで近づきたいとは思うまい。そのことに本能的に怯えたから三々九度で躊躇したのだろう?」
言わんとすることも分からないでもなかったが、明里は別にあやかしや魔性と結びを交わしたつもりはなかった。
「でも、私が盃を交わしたのも、今こうしてお食事しているのも、あやかしや魔性じゃなくて、あなたです」
確かに、出会ってすぐの頃、もし遺灰を持っていなければすぐに幻術をかけられていたのだろう。棚機の晩、千冬だと思い込まされたときのことを思うと身がすくんだ。そのくせ、以前の明里は、千冬の姿をした神様のことを考えるのも嫌で思考放棄していた。言われるがまま、神様と食事を共にしていた。油断がすぎるといえばその通りだと思う。けれど、明里はこうして、今も無事でいる。それは別に偶然だけではなく。
「千影さまは、遺灰を取り上げたりはしなかった、から」
千影は押し黙る。そうなのだ。神様にとって、死の不浄の塊である遺灰に、触れることすら憚られるなら。巫女や村人に言いつけて取り上げさせればいいだけなのだ。食事を重ねるより、ずっと簡単なはずなのに。
遺灰を明里から手放させたのは、社の神域に入る直前。神様が譲歩できるぎりぎりの境界まで迫ってからだ。しかも、ちゃんと明里の了承を得て、巫女に預けさせている。
明里は千影の顔を見る。ちゃんと、考えてみる。やっぱり変なところが不器用で、抜けている。
(このヒトはたぶん、本当に)
謀るが、騙すことが、得意ではない。
そういう神様。そういうひと。惑わすのが性質であるのに、その不均衡さは不思議だった。根がどうしようもないほど、純粋で無垢。清廉──そんな性根を持った存在と結びついたところで、畏れはしても、嫌悪や忌避が沸かないのはむしろ納得してしまう。
「私から見ると、あなたはただ私の看病をして、ご飯を一緒に食べてくれていただけです」
「……お前、俺をばかにしているわけではないよな」
「え、」
むしろ、その逆ではないだろうか。むすり、と千影が拗ねてしまったので、何も言えなかったが。
「そうでなくても、神秘や魔性の性質を言い当てるなんて、調伏に使う手口だ。人間の物事や原理で説明してしまったら、神霊も魔性もなにも恐ろしくないだろう」
「え、でも」
明里は戸惑う。そういうつもりは一切なく
「知る、とは。そういうことだと思います」
答えを出すと決めた。その猶予を神様がくれた。だったら、明里だって示さねばならない。
「わたし、あなたのこと、もっと知りたいから。頑張って見つけます。あなたのことが分からないと、答えなんて出せません。だから」
そこで言葉を区切り、明里は千影を見た。千冬に聞けなったこと。千冬が言わなかったこと。千冬が失くしてしまったこと。
「あなたの、好きな食べ物は、好きな花は──好きなものはなんですか?」
千影は目をぱちくりとさせて、戸惑うような、声を出した。
「……好きなもの?」
「はい。祝いの品に希望があれば言ってくれと、村長が千影さまに。なにかお渡ししたいそうです。たぶん供物を横取りしていたことが後ろめたいのでしょう」
一度怒らせたのが効いているのか、明里は村長にひそかに頼まれたのだった。何故か、千影は反応に困っていた。
「供物を、選んでいいのか?」
「? はい。千影さま、欲しいものはありますか? 食べ物とか装飾品とか。受け取れば気が済むみたいなので」
謝罪の品を受け取ってもらえれば、許しを得たということなのだろう。小心者らしい村長の詫びの仕方に千影は一層困惑した。
「供物とは一方的に捧げられるもの。受け入れたのちに、恩恵や災厄を与えこそすれ、捧げられるものを事前に選んだりするものではない」
今度は明里が戸惑った。そんな大層なものではなく、単なる村長の心遣いなのだが。
「返さなくていいので、気軽に選んでいいんですよ」
「……一層難しい。もらう、のはともかく、選ぶことは」
驚いた。その発想の仕方に。でも、そうか。神様になにか渡す、捧げるというのはそういう意味になってしまうのか。
「でも、千影さま」
数少ない、覚束ない食事の光景を思い出して。
「お酒は、お好きですよね? お粥とかおにぎりとかも」
「それは……言われてみればそうだな。稲作、米というのはこの國を象徴するものであるから、それに連なって作られるものは馴染深い」
ああ、でも、と千影は思いついたように言った。
「獣の肉は、好きではないな。血の匂いがする。魚や鳥はまだ食べられるのだが、それでも水菓子や野菜のほうが食べやすい」
「ああ、なるほど? なんとなく、分かる気がします」
突破口が見えそうだったので、明里は千影の隣に座り直した。千影は律儀に考えこんでいた。
「好きな花も、特に思いつかない。花は芽吹く姿が美しいから、しいていうなら──春や夏のみずみずしい草花であるなら、なんでも。あとは、そうだな。実のなる花が好きだな」
明里は千影の言葉に静かに耳を傾けていた。自分の中の“好きなもの”を見つけていく姿は微笑ましかった。
「他に好きなもの、は──」
千影がこちらを向いた。間近な瞳がじっくりと、明里のまるい瞳と交わり、「よく、分からない」と呟いた。
「……そうですか」
明里はまた皿に残った餅を千影に差し出す。
「でしたら、お餅を頂いていきましょう。ああ、お米が好きなら、お煎餅も好きかもしれませんね。食べたことありますか? 実のなる花でしたら、縁起物の中に南天があったかな。でも、今時期ならコムラサキのほうが綺麗かもしれません。お部屋に飾りましょうか」
あれこれ指折り数える。教えてくれるのが、嬉しくて。考えてくれるのが、喜ばしくて。きっと他にも神様の好きなものは見つかるはずだと。
明里は楽しそうに微笑む。その笑顔を眩しいものを見るように、神様は見ていた。
相手のことを初めて知る夜。それが、二人の初夜だった。
***
翌日の早朝、明里は身支度をして、巫女に頭を下げた。
「それではお気をつけてお帰りください。困ったことがあれば、いつでもおっしゃってくださいね。幻神さまのこと、よろしくお願いいたします。」
「ありがとう巫女さま、長らくお世話になりました」
明け方まで続いた宴は村人の鬱憤晴らしにもなったらしい。各々落ち着きを取り戻し、普段の日常に戻っていった。明里と千影はそのまま社で同居する案もあったが、やはり村中に住まうほうが馴染むだろうと。明里の家で暮らすことになった。
「明里の家は蕗がいろいろ様子を見ていてくれたようです」
「そうなのですか。戻ったら、一度お礼に行きますね」
棚機からひと月近く、家を空けてしまった。盗まれるものなどさしてないが、従姉妹が見ていてくれたなら有難い。打掛を風呂敷で包み、もう一度頭を下げて、社を後にしようとしたとき、巫女に話しかけられた。
「そうだ、明里。蕗や村人が何か言ってくるかもしれませんが」
巫女は言葉に迷った後。
「まあ、適当に。頑張ってください」
「? はい」
普段の彼女らしくない物言いに、明里は首を傾げたが、巫女は早々に頭を下げて、去ってしまった。社の鳥居の下では、千影が待っていた。その手には笹に包んだ餅とコムラサキの実。明里は微笑んで、隣に並ぶ。階段を下り、村中に向かう。道中、農作業中の村人がちらちらとこちらを窺っていたが、祝言を終えてからはそこまで気にならなかった。どころか、千影が満面の笑みで「精が出るな」と微笑むので、そちらのほうが驚いてしまった。村人は曖昧に頭を下げ、見ないふりを決め込んだ。
畦道を抜け、田畑を抜け、村外れの数件連なる茅葺屋根。そのひとつ。
実にひと月ぶりの我が家であった。質素な土間も厨房も囲炉裏も懐かしさすらある。
「従姉妹が見てくれていたようですが、一度、厨を掃除しますね。そうしたら、ご飯にしましょう」
敷居の前で、千影が足を止めた。さして大きくもない庶民の茅葺屋根を見上げていた。
「千影さま……?」
「……俺は本当に入っていいのか?」
「今更どうしたんですか? どうぞ?」
家の敷居、境界。外側、内側。
千影は一息つくと、その敷居を跨いだ。足を、踏み入れた。それだけのことがなにか大切な儀式のようだった。ひとつひとつ、まるで出会いからやり直しているように。
「明里、俺も──」
踏み込んだ足音が、まっすぐに明里に近づく。
「俺も知りたい。もっと、俺自身を」
明里の顔に、影が落ちる。昨夜の話の続きだと気づいたときには、もうすぐそこまで。吐息が触れるくらい近くに迫っていた。
「──もっと、お前のことを」
明里は大きく目を見開いた。千影の指がその頬に触れて──……。
「明里ちゃん、お祝いだよ!」
唐突に明るい声が響いた。ふっくらとした身重の柔和な娘が、立っていた。
「蕗?」
ぱっと千影のそばから離れる。なんだか、一瞬妙な雰囲気になったので、顔を見ることができなかった。
蕗はどどん、と玄関先に荷物を置いた。
「これ、ご近所さんからのお祝いの品ね。お漬物とか昆布とか、あるから食べてね。皆怖がってうちに渡すんだもん」
「あ、ありがとう。こっちからお礼に行こうと思ってたのに。そんなお腹で無茶しちゃだめだよ」
「いいよ、いいよ。すぐそこだし。重いものは、あとで弟にでも持ってこさせるから。少し散歩がてら、来ただけ。様子も見にね」
ちらり、と蕗は千影を窺う。
「本当に、一緒に住むんだね。大丈夫?」
明里が返事に迷っていると、これからはご近所さん同士なんだから、と蕗は意味ありげに声をひそめた。
「幻神さまに、なにかひどいことされたら言ってね?」
え、え、と明里は戸惑う。
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