まぼろしの恋

ちづ

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3章 神様を地に落とす

幕間 煮え湯──幻神と過去の贄の話②

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 声が聞こえた。誰かを恋しいと願う声。

「あなた……?」

 その贄は、今にも仏門に入るところであった。長く美しい黒髪を下ろそうというときに、幻神げんしんは現れた。

 初夏の気配が近づく六月。その年は空梅雨で、日差しはじりじりと暑かった。青葉生い茂る中、幻神の姿を見て驚愕している上品な婦人。とある武家の奥方。今回の贄。幻神を呼び寄せた声の主。

 この國にはしきたりがある。一月から十二月。暦に割り振られた十二柱の神様に、その生まれ月の若者が贄に選ばれ、伴侶として捧げられる儀式。十二年に一度、一柱のみ伴侶が選ばれる習わし。贄の望む姿で顕現けんげんする幻神は、自身の姿を今一度確認した。

 切れ長な鋭い瞳。筋肉質な腕。背の高い身体。低く野太い声。
 奥方の夫、直垂姿ひたたれすがたの屈強な武士。それが、今回の写し身だった。

「あなた、どうしてここに……」

 すでに伴侶のいる身の人間が贄に選ばれるのは珍しいが、まったくないわけでもない。婚姻したとて誰かを求める声を上げる人間はごまんといる。この贄はまごうことなき、自分の夫を求めていたが。

 唐突に現れた夫の姿を見て、奥方は困惑しているようだ。水鏡で記憶を探る。武家屋敷から遠く離れたお堂に一人隠れ住むように暮らしている奥方の経緯。

 その贄は、夫の側室を手にかけていた。直接ではないが、殺していた。夫は激しく、奥方を恨んだ。離縁することはなかったが、遠くのこの地に幽閉した。夫に見放され、罪に苛まれた奥方は仏門に入り、尼になろうとした。詳細は分からない。そんなことはどうでもいい。必要なのは贄が望む姿と言葉。

「──奥、お前を“許す”」

 奥方は大きく目を見開くと、ぽろぽろと涙を流した。側室を殺めた理由。跡取りの問題か。誰かの甘言かんげんか。単なる嫉妬か。どうでもよかった。仏道に入られては、あとは御仏の役目であり、神様の出番はなくなってしまう。重要なのは、激しく夫が妻を恨んでいる事実であり、奥方は許されたがっている。それだけ知れば十分だった。

「あなた、本当に申し訳ございません。お許しいただけるのですか」

 奥方はお堂から出ると幻神──“殿”に泣きついた。もちろん本物の殿は元の武家屋敷でいまだに彼女を恨んでいるだろう。だから、気づかれないうちに、いつものように幻神は幻術をかけた。一層本物と思い込むように。

「もちろんだ、さあ帰ろう」

 奥方は、“殿”と一晩過ごし、そのまま姿を消した。空梅雨だった空は陰り、雨が大地を潤わせた。





 ──天界。

 幻神の社は、贄の望む住まいに様変わりする。奥方が望んだのはもちろん“殿”と暮らした武家屋敷。側室を殺める事件が起こる前の平穏な生活。奥方と“殿”に跡取りの子はいなかったが、天界では出世争いも跡取り問題も起きないので何も問題はない。捻じれるわけでもなく、壊れるわけでもなく、幸福な生活が続いた。夫が戦に出る必要もなく奥方は幸せそうに暮らしていたが、時折思い出したようにうなされた。幻神の幻術が弱まるときは、たいてい地上で、戦や飢饉が起きて大量の血が流れたり、災害で水が穢されたときだ。奥方は正気に戻りかけ、罪悪感に苛まれていた。そのたびに、“殿”は奥方を許し続けた。その深い意味も分からず。

「あなた、やっぱり御仏みほとけにおすがりしとうございます。私はなんということを。人ひとりの命を奪ってまで平穏に生きていいはずありません」
「なにを言う、奥。他でもないオレが許すのだ。だから、なにも心配はいらない。共に前を向いて生きていこう」

 許す許す許す。言葉だけの慰めを“殿”は繰り返した。

 贄の心さえ満たされていれば。贄さえ生きてさえいれば。神様にとってはどうでもいい。

 けれど、繰り返された許しを、ある日奥方はつっぱねた。美しかった顔がくしゃくしゃになり、“殿”を見て絶望していた。その手には懐剣。幻神に出会う前から、奥方が身に着けていた花嫁道具の護り刀。天界のまがい物だらけに混じる数少ない本物だった。

「あなたが本当に私のことを愛していらっしゃるか、分からなくなりました。以前のあなたなら、私のことを叱り、怒ってくれたのに」

 ──その日は地上で大きな戦があって、おそらく奥方の本物の“殿”も死んだ。だから、きっと幻術の効きも悪かったのだ。

「ご側室にお子が生まれて、嫉妬に狂った私は愚かなことをいたしました。あなたは、亡くなったご側室のことだけではなく、私が──私自身が、罪を犯したことを、怒ってくれていたのに。嘆いてくれていたのに。それに気がついたから、私も罪を認めることができたのに。もはや私のことなど、どうでもいいのでしょうか?」

 “殿”は首を傾げた。
 怒る? 嘆く? 何故。怒ったとて、嘆いたとて奥方の咎がなくなるわけではない。むしろ、“殿”が怒ることで追い詰められていたはずの贄が、何故それを望むのか分からない。最終的には奥方は「許されたい」のだから、それを与えて何が悪いのか分からない。

「こんなことなら、御堂でやはり、あのまま罪を背負って死ぬべきでした」

 贄が自身の首に懐剣を当てた。その瞬間、神様は刃物を手で弾き飛ばしていた。ほとんど無意識に。ガワをかぶるのも忘れて死を振り払った。死に寄るのだけは許せない。死の穢れだけは罪より重い。

「あなた……?」

 奥方が戸惑うようにこちらを窺う。はじけ飛んだ懐剣が、金属音を立てる。幻術が解かれかかる。もともと術が弱っているところに、ガワをかぶることを忘れた行動を起こせば、ひび割れるのは道理。けれど、幻神は後悔していない。あの日、幻神が現れなければ、この贄は髪を下ろした後、死ぬ気だった。贄の声を聞き届け、現界した矢先、死のうとしていた贄を見て、惑わしてまで延命させた。それが命を言祝ことほぐ神様の在り方だから。

「許す──から、死ぬな」

 この國の神様は生きる道を示したりしない。罪の償い方など教えてくれない。祓いも清めも、死や血の不浄が生者にとって危険だから、遠ざけているだけ。ただ生まれ、年を重ね、結ぶことを祝福する。それが本質。だから、自分の罪科に苦しむ贄を救うことができない。心の内の中にある不浄まで、とってやることができない。そんな方法は神様は知らない。御仏みほとけなら、本物なら、できたかもしれないが。

「気にするな、たいした存在じゃなかったのだ。側室の命など」

 朗らかな軽い言葉に、奥方は震えた。死ぬなという言葉が本当であるのが分かるだけに、その慰めの上面さが理解できなくて。今目の前にいるのが“殿”なのか、なんなのか分からなくなっていた。だから、必死に訴えた。

「私は、裁かれたかったのです。裁かれた末、罰を受けた末、あなたに許されたかった。命が果てた先、もし許されるのなら、来世でお会いしたかった」

 神様にはやっぱり意味が分からない。欲しい結果は『許し』なのだから、わざわざ、裁きだとか罰だとか償いとか過程を踏む理由が分からない。そういう“概念”が神様には存在しない。

「私はあなたが分かりません。愛していないのに、死ぬなというあなたが」
「なにをいう、オレはお前を愛している」

 だったら、と奥方は泣きぬれた目を向けた。

「罪を背負って、一緒に死んでください」

 奥方の美しい顔にぽろぽろと涙が零れ落ちた。意味が分からないけれど、幻神は涙が嫌いだ。神様の前で涙を流すなんて、願いも叶えられない、無力な存在だと言われているようなものだから。

「──いいぞ」

 びくり、と震えた奥方の身体を“殿”は抱きしめた。

 室内の燭台しょくだいの火が倒れる。あっという間に、武家屋敷は火の海になる。いくら木造といえど異常な火の回りの速さ。幻なのだから、当たり前だが。でも、熱風も黒い煙も激しく、本当に身を焼き尽くさんばかり炎だった。

 “殿”の右半分が焼けただれ、右手の骨がむき出しになった。奥方は震えて叫んだ。その奥方の身体も幻の炎が包み込む。

 ──幻といえど。人間は暗示で死ぬことができる。思い込みで、本当に死ぬことがある。それほどまでに精神の負荷とは重い。だから、自身を焼いたと思い込んで奥方は心臓を止めた。腕の中で事切れた。その顔はなんだか、ほっとしているようにも見えた。罪も罰も償いも、神様には分からない。初宮参はつみやまいり、袴着はかまぎ、成人、帯結おびゆい、長寿。人生儀礼。節目ごとの祝い。それすべて生への祝福。

 命を言祝ぐ神様が、なによりも命が生まれ出づることを祝福する神様が、死を乞われてどう思ったか。死を叶えることをどう思ったか。それは誰にも分からなかった。神様自身にも分からなかった。

 ただ、ほろりと涙がこぼれて、贄の顔に落ちた。

御仏みほとけであるならば──……本物であるならば、この贄の心は救えたのだろうか)

 いくつも零れ落ちる涙は、めらめら燃える偽りの炎に紛れて。贄が結んだ写し身はまたほどけて。まぼろしの炎の中で、一緒に燃え尽きた。

 分からないから、分からないなりの、ずれたままの、神様が精一杯できる、生贄にんげんへの寄り添いだった。
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