まぼろしの恋

ちづ

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1章 神様の上面を破壊する

9、荒天

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 気がつくと辺りは暗闇に落ちていた。

 麻袋を握りしめたまま、寝入ってしまったらしい。昼過ぎから横になっていたはずだが、身体が重い。幻神げんしんのこと。贄のこと。村のこと。すべての事柄が伸し掛かってくるようだった。

 霞む目にゆらゆらと燭台しょくだいの灯りが揺れる。巫女が火を灯しているところだった。

「目が覚めましたか。ずいぶんお疲れのご様子でしたので、食事は作っておきましたが、食べられそうですか?」
「……ありがとう、巫女さま。あとで頂きます。今日はこちらに泊まるのですか?」
「そのつもりだったのですが、急に風が強まりまして、祭事の飾りを見に戻らないと。‥‥‥あの、大丈夫ですか?」

 明里は苦笑する。なにを持って大丈夫だと聞いているのか。贄のことか、棚機たなばたのことか。それとも明里の気持ちのことか。どれをとっても大丈夫なことなどひとつもない。けれど巫女が聞きたいことは察しがついた。

「そんなに私に張り付いていなくても、自害なんてしません。村のことは守ります」

 おそらく村の出入り口や隣村に通じる橋には男衆が陣取っているだろう。村中が監視している中、逃げても無駄なのに。もちろん、本気で覚悟を決めたなら、この場で舌を噛み切るだけでいいのだけれど。──そういうことではなくて。

「千冬が洪水に巻き込まれたのは、村を守るためです。私が台無しにするわけにいきません」
(こんなことなら、千冬がいなくなった日に後を追ったほうがマシだったな)

 その本音は伏せておく。千冬の名を聞いて巫女はようやく納得した。

「分かりました。なにかありましたら、社までお知らせください」

 立ち上がった巫女が戸口に立つ。ガタガタと茅葺屋根が揺れる音。確かに風は強そうだ。

「少し冷めてしまいましたが、粥があります。お早めに召し上がってくださいね」

 その言葉を聞いて、ふと明里は思い出す。時刻は宵の口。いつもなら、とっくにはた迷惑な来訪がある時間。

「巫女さま、幻神さまはもういらっしゃったのですか?」
「いえ、今晩はまだいらしておりません。雲行きが怪しいので、今日は社の神饌所で召し上がっているのでは?」
「そう、ですか」

 土砂降りの雨の中、清治との約束を果たすために飛び出していったいつかの後ろ姿を思い出す。なにを考えているのか分からないけれど、あの神様は約束だけは違えないのだ。わずかな引っかかりを感じたが、どんな顔で会えばいいのか分からず黙っていた。せめて寝入っている隙に帰っていてくれていればよかったのに。

「少し降ってきました。荒れそうですね。明里も今日は無理せず、よく休んでください」

 曖昧に微笑んで、巫女を見送った。誰もいなくなった室内に風の音が響く。降り出した雨はすぐに滝のようになった。激しい雨風。月も星も隠れた闇夜は、どす黒く重い。

──直に嵐が来る。

 昼間の神様の言葉を思い出した。




 食欲はなかったが、仕方なしに明里は粥を啜った。口に含んだ米は冷たく、味がしない。冷めた食事がこれほど口が進まないとは。ひとりきりで食事をとるのも久々だった。ほとんど会話のない食事だったが、あんな神様でもいないとまるで家の中は火が消えたようだ。雨風は強まり、明里の家を揺らす。家の中はまるで空洞のように風が吹き抜けていく。

 そのせいで知りたくもない事実に気づく。黙って食事をする幻神の姿は、千冬に見まごうばかりで、いけないと思いつつも明里の寂しさをほんの少し、癒やしていたことに。

(来るなら、さっさと来たらいいのに)

 そうしたら、思い切り悪態をつけるのに。神様の思い通りに贄の儀式は行われると、あなたのせいで明里も千冬も犠牲になるのだと。思い切り当たり散らすことができるのに。

(……私はいったいなにを恋しがっているんだろう)

 一人でいると、なんだが考えがおかしなほうにずれていく。もう儀式は決まったのだから、考えるだけ無駄なことだ。明里とて、村人全員の命を天秤にかけられて拒絶できるほど薄情になれない。だから──仕方がない。

 口の中の粥はまるで泥水のように重くなった。明里は諦めて箸を置いた。せっかく作ってもらったのにだいぶ余ってしまった。

 もう朝まで眠ってしまおうと再び床に入ったが、妙に目は冴えてしまっていた。じっとしていると、嫌なことばかり浮かぶ。時間が立つのが遅い。外の風が煩い。悔しい。悲しい。寂しい。どうしてこんなことになったのか。一年前に洪水が起きなければ。千冬が死ななければ。贄の儀式が今年でなければ。いくつもの不条理が思考を支配する。

 でも、ひとつだけ、神様に言われたことがあった。千冬を写し身に選んだ理由は明里が願ったからだと。明里のせいなのだと。まるでなにかの呪いのように心にまとわりついていた。

(……まさか、この嵐も私のせい?)

 後ろ向き考えは、さらに後ろ向きな思考を連れてくる。顔が青ざめた。まさか、そんなはずはない。夏の嵐は珍しいことではない。けれど、まったくないとは言い切れない。だって神様直々に贄を拒否すれば「村を潰す」と宣言したのだから。この嵐が災厄ではない保証はどこにもない。夕餉に来ない理由も説明がつく。追い立てる雨音で、動悸が逸りだす。もし今、山が崩れたら。もし今、雷が落ちたら。もし今──川が氾濫したら。

(お願い、早く止んで……)

 祈りは虚しく、自然の猛威にはあまりに無力で、無常にも風は増すばかり。

 ただの嵐なのか、災厄なのか誰にも判断は付かない。それこそ神様にしか分からない。いつもすげなくあしらうせいで気にも留めていなかったが、昼間の明里の態度で贄の儀式を諦めたのだとしたら。神様は災厄を起こすことを告げる必要すらないのだ。村だけでなく、神様にすら見捨てられたとしたら本当の終わりだったのだと今更気がついた。

 がらん、と大きな音がした。入り口に乱雑に積んだままだった水桶が倒れたようだ。それがきっかけで、明里は恐慌状態になった。

(もう、いや)

 耳を塞ぎ、身体をできるだけ丸めて歯を食いしばった。明里を蝕む孤独は底なし沼のようで、今にも暗闇に落ちそうだ。

「──怖いなら、目を閉じていろ」

 ふと、影がさした。ゆらゆら揺れる千冬の幻。露草色の衣がふわりと全身を覆う。それだけで、風の音が止んだ。

「何も考えず、俺の声だけ聞いておけ」

 ──だめだ。それだけは。

 頭に過る理性が、一瞬明里を冷静にさせたが、その優しい声に抗うことができない。 
 千冬の声。千冬の身体。千冬の匂い。

「大丈夫、俺はここにいる」
「ちふゆ……っ」 

 ゆらゆら揺れる千冬の幻。正気に戻る前に優しく視界を覆われる。ずっと我慢していた。ずっと名前を呼びたかった。千冬が恋しい。明里はたぶんそれ以上に、人恋しいのだ。誰も味方はいない。誰にも頼れない。誰にも相談できない。その寂しさゆえ、明里はついに籠絡した。

「安心して眠れ。明里」 

 千冬の幻がフッと息を一吹きすると、家中の灯りが落ちた。外の豪雨が遠くなる。労る手付きと温かい体温。

 ‥‥‥神様に体温がなかったはずなのに、どうしてだろう。

 それは神様が人に近づいた証。千冬に完全に成り代わろうとしている証拠。眠りに落ちる寸前に焦燥のような予感がした。




‥‥‥‥

‥‥‥

 腕の中で、気絶した明里の顔を幻神は凝視した。その表情に、いつもの張り付いた笑顔はなく、まるで蛇が獲物を狙うように、瞬きひとつしない。その瞳は金色こんじきに輝いていた。

「なかなか手強い娘だな」

 誰に言うわけでもなく、幻神は呟いた。明里の目元に滲む涙の跡。夜目の利く神様にはよく見て取れた。ここまで来てまだ、幻惑にかかりきらない。

 直会なおらい。──神人共食しんじんきょうしょく

 もっと簡単に言えば、同じ釜の飯。
 神様と同じ食事。

 神と人が同じ食事をとることは、結びつきを強くするための儀式。人々が手づから作り上げた作物を、神に振る舞い、同じ空間で口にする。それはただの食事ではないのだ。本来は正月や節句のときの祭事のみに行われるはずの儀式をこの娘は毎日行った。おかげで幻神は実体をより人間に近づけることができた。幻神が写し身へ馴染めば馴染むほど、逆に明里は神への領分に近づく。幻神の幻術にかかりやすくなる。幻神は隠しもしていない。最初にちゃんと宣言している。「幻惑を司る神である」と。

 それでも、まだ足りない。本来ならとっくに明里どころか村人全員が幻神を『千冬』だと認識してもおかしくないはずだった。理由はひとえに贄である明里が抗っているからだ。起点となる明里が幻術にかからなければ、それ以外に波及することはない。

「……」

 幻神は明里の首元に手を伸ばす。喉から覗いている組み紐をつ、と引っ張る。ぽろりと襟から麻袋がこぼれ落ちた。死の香り──本物の千冬の遺灰。

 写し身に心を移さない理由。それはまだ、本物がまだここにいるからだ。この娘はあろうことか、死と血の不浄に心を奪われている。生者の写し身より、亡者の本物を求めている。

「──物好きな」

 ぴしゃり、と背後に雷が落ちた。とどろくような天からの怒りの雷鳴だった。
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