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其の十八 毒舌王子の隠れ家(29)~眼鏡の記憶1
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この出来事が今になって琴枝の幻に突拍子もない事を言い出させたのだろうが、僕と同じようにこの眼鏡を大事にしてくれた琴枝の口から新調などという言葉が飛び出した事には、たとえ幻影だとわかっていても、些かならず動揺してしまった。
早くに両親と死に別れた僕にとって、この眼鏡は「父の形見」と一言で終わらせてしまうには不充分なほど大切なものだった。
幼くして二親とも亡くすのはよくある話で、自分だけが悲劇に見舞われた訳ではないし、捨て子になってもおかしくないところを、こうして立派に成人まで出来たのだから、運に恵まれていると言っても傲りにはならないだろうが、僕はそれ以上に、父の形見のこの眼鏡がいつも側にあったからだと思っている。
単なる気持ちの問題だと言われてしまえばそれまでだが、僕にとって、この眼鏡は「父の形見」である以上に、「お守り」としての意味合いの方が強かったのだ。度数も顔の幅にも合わない眼鏡を今もずっと掛け続けているのも、金が勿體無いからではなく、それが理由だった。
僕は、僕を産んですぐに死んだ母に代わり、父の男手一つに育てられていた。けれど、その父も、僕が二つになるかならないかの頃に死んでしまった。だから母の事は勿論、父についても殆ど何も憶えていない。
ただ、後年、世話になった幾つかの縁者の元を訪ねて回り、当時の経緯を何とか聞き出して、断片的に知る事は出来た。それによると、父はある特別に寒い冬、流行り病に罹ってどうにもならなくなり、猛吹雪の中、赤ん坊だった僕の預け先を探して、少ない知人や親族の家の戸を叩いて回ったらしい。
しかし、いずれの人たちともずっと疎遠にしていた上、ただでさえ生活苦に喘いでいる者たちには、他人の子まで養う余裕などなかった。
最後の頼みの綱は父の遠縁にあたる人間の家だったが、県をまたぐ山の向こうにあった。父は病を押し、僕が凍えないよう着物の帯と腰紐で防寒着の内側の自分の胸にしっかりと括り付け、どうにか山を越え、縁者の元を訪れた。
この縁者は往来の無かった父の予期せぬ訪問に仰天し、一度は土間に上げたものの、事情を聞くと愈々顔色を変え、父を追い返そうとした。自分は厄介になるつもりはなく、ただこの子だけを頼みたいと必死に懇願していた父は、縁者の妻が同情的に目を伏せた一瞬を見逃さなかった。もう後がないとわかっていた父は、幾らも入っていない銭入れと一緒に、ぐずる僕を縁者の妻の腕に無理矢理押し付けてしまうと、離した両手を固く握り合わせ、目蓋に焼き付けんばかりに僕の顔を見ながら、ただ一言、「泣くな」と言って黙り込んだそうだ。
それから最後の気力を振り絞るようにして掛けていた眼鏡を外し、息も絶え絶えに「お前に遺してやれるのはこれだけだ」と呟いて、僕の着物の内側に滑り込ませると、ふらつく足取りで土間を後にしたと言う。
これが僕と父の今生の別れになる事は誰の目にも明らかで、さすがに一家も哀れになったらしく、吹き荒ぶ雪嵐に揉まれながら立ち去って行く襤褸襤褸の防寒着と深靴姿の背中に向かって「一晩だけならあんたも」と叫んだそうだが、烈しい風雪の音に掻き消され、父の耳には届かなかった。父はそのまま地吹雪の向こうに呑まれるように消えて行き、その後父の姿を見た者は居ない。
早くに両親と死に別れた僕にとって、この眼鏡は「父の形見」と一言で終わらせてしまうには不充分なほど大切なものだった。
幼くして二親とも亡くすのはよくある話で、自分だけが悲劇に見舞われた訳ではないし、捨て子になってもおかしくないところを、こうして立派に成人まで出来たのだから、運に恵まれていると言っても傲りにはならないだろうが、僕はそれ以上に、父の形見のこの眼鏡がいつも側にあったからだと思っている。
単なる気持ちの問題だと言われてしまえばそれまでだが、僕にとって、この眼鏡は「父の形見」である以上に、「お守り」としての意味合いの方が強かったのだ。度数も顔の幅にも合わない眼鏡を今もずっと掛け続けているのも、金が勿體無いからではなく、それが理由だった。
僕は、僕を産んですぐに死んだ母に代わり、父の男手一つに育てられていた。けれど、その父も、僕が二つになるかならないかの頃に死んでしまった。だから母の事は勿論、父についても殆ど何も憶えていない。
ただ、後年、世話になった幾つかの縁者の元を訪ねて回り、当時の経緯を何とか聞き出して、断片的に知る事は出来た。それによると、父はある特別に寒い冬、流行り病に罹ってどうにもならなくなり、猛吹雪の中、赤ん坊だった僕の預け先を探して、少ない知人や親族の家の戸を叩いて回ったらしい。
しかし、いずれの人たちともずっと疎遠にしていた上、ただでさえ生活苦に喘いでいる者たちには、他人の子まで養う余裕などなかった。
最後の頼みの綱は父の遠縁にあたる人間の家だったが、県をまたぐ山の向こうにあった。父は病を押し、僕が凍えないよう着物の帯と腰紐で防寒着の内側の自分の胸にしっかりと括り付け、どうにか山を越え、縁者の元を訪れた。
この縁者は往来の無かった父の予期せぬ訪問に仰天し、一度は土間に上げたものの、事情を聞くと愈々顔色を変え、父を追い返そうとした。自分は厄介になるつもりはなく、ただこの子だけを頼みたいと必死に懇願していた父は、縁者の妻が同情的に目を伏せた一瞬を見逃さなかった。もう後がないとわかっていた父は、幾らも入っていない銭入れと一緒に、ぐずる僕を縁者の妻の腕に無理矢理押し付けてしまうと、離した両手を固く握り合わせ、目蓋に焼き付けんばかりに僕の顔を見ながら、ただ一言、「泣くな」と言って黙り込んだそうだ。
それから最後の気力を振り絞るようにして掛けていた眼鏡を外し、息も絶え絶えに「お前に遺してやれるのはこれだけだ」と呟いて、僕の着物の内側に滑り込ませると、ふらつく足取りで土間を後にしたと言う。
これが僕と父の今生の別れになる事は誰の目にも明らかで、さすがに一家も哀れになったらしく、吹き荒ぶ雪嵐に揉まれながら立ち去って行く襤褸襤褸の防寒着と深靴姿の背中に向かって「一晩だけならあんたも」と叫んだそうだが、烈しい風雪の音に掻き消され、父の耳には届かなかった。父はそのまま地吹雪の向こうに呑まれるように消えて行き、その後父の姿を見た者は居ない。
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