穢れなき禽獣は魔都に憩う

Arakane

文字の大きさ
上 下
54 / 56

其の十八 毒舌王子の隠れ家(29)~眼鏡の記憶1

しおりを挟む
 この出来事が今になって琴枝の幻に突拍子もない事を言い出させたのだろうが、僕と同じようにこの眼鏡を大事にしてくれた琴枝の口から新調などという言葉が飛び出した事には、たとえ幻影だとわかっていても、いささかならず動揺してしまった。
 早くに両親と死に別れた僕にとって、この眼鏡は「父の形見」と一言で終わらせてしまうには不充分なほど大切なものだった。
 幼くして二親とも亡くすのはよくある話で、自分だけが悲劇に見舞われた訳ではないし、捨て子になってもおかしくないところを、こうして立派に成人まで出来たのだから、運に恵まれていると言ってもおごりにはならないだろうが、僕はそれ以上に、父の形見のこの眼鏡がいつも側にあったからだと思っている。 
 単なる気持ちの問題だと言われてしまえばそれまでだが、僕にとって、この眼鏡は「父の形見」である以上に、「お守り」としての意味合いの方が強かったのだ。度数も顔の幅にも合わない眼鏡を今もずっと掛け続けているのも、金が勿體無もったいないからではなく、それが理由だった。
 僕は、僕を産んですぐに死んだ母に代わり、父の男手一つに育てられていた。けれど、その父も、僕が二つになるかならないかの頃に死んでしまった。だから母の事は勿論、父についても殆ど何も憶えていない。
 ただ、後年、世話になった幾つかの縁者の元を訪ねて回り、当時の経緯を何とか聞き出して、断片的に知る事は出来た。それによると、父はある特別に寒い冬、流行はやり病にかかってどうにもならなくなり、猛吹雪の中、赤ん坊だった僕の預け先を探して、少ない知人や親族の家の戸を叩いて回ったらしい。
 しかし、いずれの人たちともずっと疎遠にしていた上、ただでさえ生活苦に喘いでいる者たちには、他人の子まで養う余裕などなかった。
 最後の頼みの綱は父の遠縁にあたる人間の家だったが、県をまたぐ山の向こうにあった。父は病を押し、僕が凍えないよう着物の帯と腰紐で防寒着の内側の自分の胸にしっかりとくくり付け、どうにか山を越え、縁者の元を訪れた。
 この縁者は往来の無かった父の予期せぬ訪問に仰天し、一度は土間に上げたものの、事情を聞くと愈々いよいよ顔色を変え、父を追い返そうとした。自分は厄介になるつもりはなく、ただこの子だけを頼みたいと必死に懇願していた父は、縁者の妻が同情的に目を伏せた一瞬を見逃さなかった。もう後がないとわかっていた父は、幾らも入っていない銭入れと一緒に、ぐずる僕を縁者の妻の腕に無理矢理押し付けてしまうと、離した両手を固く握り合わせ、目蓋まぶたに焼き付けんばかりに僕の顔を見ながら、ただ一言、「泣くな」と言って黙り込んだそうだ。
 それから最後の気力を振り絞るようにして掛けていた眼鏡を外し、息も絶え絶えに「お前に遺してやれるのはこれだけだ」と呟いて、僕の着物の内側に滑り込ませると、ふらつく足取りで土間を後にしたと言う。
 これが僕と父の今生の別れになる事は誰の目にも明らかで、さすがに一家も哀れになったらしく、吹きすさぶ雪嵐に揉まれながら立ち去って行く襤褸襤褸ぼろぼろの防寒着と深靴姿の背中に向かって「一晩だけならあんたも」と叫んだそうだが、はげしい風雪の音に掻き消され、父の耳には届かなかった。父はそのまま地吹雪の向こうに呑まれるように消えて行き、その後父の姿を見た者は居ない。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれた女子高生たちが小さな公園のトイレをみんなで使う話

赤髪命
大衆娯楽
少し田舎の土地にある女子校、華水黄杏女学園の1年生のあるクラスの乗ったバスが校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれてしまい、急遽トイレ休憩のために立ち寄った小さな公園のトイレでクラスの女子がトイレを済ませる話です(分かりにくくてすみません。詳しくは本文を読んで下さい)

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

[恥辱]りみの強制おむつ生活

rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。 保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。

処理中です...