穢れなき禽獣は魔都に憩う

其の十三 有産階級(ブルジョワジー)の世界

　澪子さんは美しい眉根まゆねに心苦しそうな影を作り、レエスの手袋に覆おおわれた手をそっと胸に押し当てると、
「先日、久方ぶりに蘇芳様をはじめ冬月家の方々と再会致しましたあの席上に於おきましても、黒葛つづらの蘇芳様に対する態度は礼を失しておりました。私わたくしどもはこれについて甚はなはだ許し難い物と捉え、黒葛を譴責けんせきして反省を促したつもりでございましたが……」
「そちらが使用人の言動を──ましてこの僕に対する無作法を等閑とうかんに付ふす筈がない事はわかっていますよ。先程申し上げた通り、僕は全く気にしていませんから貴女が気づまりに思われる必要はありません。ああいう陰険いんけんさは番・犬・には寧むしろ必要でしょう。ですが多少の愛嬌あいきょうがあっても損にはならないでしょうね。いずれにしても犬は躾しつけが肝要かんよう。主人のみならず犬自身の為にも、自分の立場をわからせ誰に従うべきか教えてやる事は、まず何を置いても取り組むべき愛・犬・家・の・務・め・である事は間違いありませんね」
　僕は冬月のあまりの言い種ぐさに唖然あぜんとし、聲も出せなかった。しかし澪子さんは如何にも神妙しんみょうな様子で頷うなずくと、たわわに実った葡萄ぶどうの色の唇を開いて、
「御尤ごもっともですわ。この次にお逢いする時までにはきちんと躾しつけが行き届くよう努力致します」
「あの手の犬の躾しつけは骨が折れるでしょう。何でしたらうちの方で預かって礼儀作法を仕込んでも構いませんが、しかしうちの調教係は手加減を知らないのであまり反抗的な態度を続けていては勢い余って殺してしまわないとも限らない。此処はやはり女性の柔らかな手による教導こそが効果を発揮するでしょう。まさか尻尾しっぽを振るまでの事は望みませんが、せめて会談中は目を伏せて控えめにするぐらいの嗜たしなみは期待したいところですね。大型の犬は伏せているとなかなか可愛げがあるように見えるものですし、貴女の教団にとっても何かの折に役に立つ事があるかもしれません」
「仰る通りですわ。御寛大なお心遣い、感謝致します」
　澪子さんはその華やかな面立おもだちの上に、薔薇ばらの蕾つぼみが朝陽あさひを浴びて花開くような微笑を咲かせ、浮き立つような嬉しさを全身に表しながら辞儀じぎをした。
　まるで時候の挨拶あいさつでもするような具合のに・こ・や・か・さ・で、過激と言っても過言かごんではない会話を行う冬月と澪子さんの様子に、およそ凡俗ぼんぞくの頭では理解出来ない世界が其処そこにあるのを目の当たりにした気分になった僕は、この麗うるわしい一組の男女を遠巻きに見詰めるようにして眺めながら、引き攣つった笑いに頬を痙攣けいれんさせた。

　──これが有産階級ブルジョワジーの日常会話なんだろうか……。

　思いつつ、冷や汗を拭ぬぐった。
　先程の澪子さんの黒葛つづらに対する手厳しくも冷たい態度は、或ある意味では主人としての当然の責務せきむとして、心を鬼にしてそうしているのだろうと思い、両者に同情をするような気持ちもあったが、冬月の悪態や毒舌を物ともしないばかりか、寧むしろ胸ときめかせているような様子が澪子さんの素振そぶりの端々はしばしに垣間見かいまみえるのに至いたっては、如何な包み込むような優しい笑顔にも、正直尻尾しっぽを巻いて逃げ出したい心境に駆かられてしまうのだった。
　暫しばし何処とも知れぬ遠い世界に逃走していた僕の意識を引き戻したのは、次第に大きく響き出すように聞こえ始めた澪子さんの聲だった。
　はっとして見ると、申し訳なさそうな微笑を浮かべてほんの少し此方に身を傾けるようにした澪子さんが、気遣うような仕草で頻しきりと優美な頸くびを動かしながら、僕に何か話し掛けていた。
「……だったでしょう？　もっと早く黒葛つづらを去らせておくべきでしたわ。本当にごめんなさいね、小鳥遊先生」
　労いたわるような微笑みの美しさと、分不相応な「先生」という敬称で呼び掛けられた事に仰天ぎょうてんし、椅子の上で慌てふためきながら、
「あ、あの……っ、僕は本当に先生などと呼んで戴いただくような立場などでは……っ」
「後からこんな風に申し上げてはまるで嘘のように聞こえますけど、私わたくし、いつもは初対面の方がいらっしゃるお席では余程気をつけるように心がけておりますのよ？　それが今日は蘇芳様にお逢いする嬉しさに、ついうっかりと失念してしまっておりましたの。何だか言い訳をするようで潔くありませんけれど、決してわざと黒葛をいつまでも立ち去らせずにいたのではない事、先生には御理解して戴きたくて。小鳥遊先生のような御ご繊細せんさいな方には黒葛のような男はあまりにも武骨ぶこつで、さぞや気が張ってしまわれた事でしょう。本当に申し訳ありませんでしたわ」
「そ、そんな、僕は、せ、繊細なんて……」
　ずり落ちた眼鏡を押し上げようとしては何度も手を滑らせて失敗する無様ぶざまな僕の狼狽ろうばいぶりにも、澪子さんはただ艶つやめく秋を映した唇を優しい微笑に引き上げて、
「お気に障さわったのなら謝りますわ。でも、決して先生を貶けなすような意味で申し上げたのではありませんのよ。殿方は物に感じやすい性質などは軟弱だとでも見做なすのでしょうか、まるで悪弊あくへいか何かのように言って放擲ほうてきなさろうとしたり、隠そうとなさったりするようですけれど、私は生まれ育ちのせいか、人間の感覚的な部分や情緒じょうちょというものは蔑ないがしろにすべきではないと常々つねづね考えておりますの。先生もそのようにお思いにはなりませんか？」
「え、あ、は……っ。あ、あの、僕は、その……」
　最早もはや混乱を極めて思考がぐちゃぐちゃに乱れてしまった僕は、まともな返答も出来ず、ただ呻うめくようにもごもごと意味もなく口を動かすだけだった。
　と、僕と澪子さんの遣やり取りを黙って眺めていた冬月が、僅わずかに苛立いらだちの混じった冷笑に鼻を鳴らして脚を組み替え、琥珀色の瞳をじろりと僕に向けた。
「しどろもどろしているばかりでどうもはっきりしないな。君は仮にい・か・が・わ・し・い・勧・誘・を・す・る・者・に遭あった場合にもそんな調子で居るのかい」
「え……、え……？」
「まぁ、蘇芳様。その御心配はなさらなくても大丈夫なのでは？　先生はお可愛らしいお顔をされていますけど、とても堅固けんごでいらっしゃいますもの」
「え……っ」
　全くの初対面で会話らしい会話すら交わしていないにもかかわらず、包み込むような優しい瞳を向ける澪子さんにまで自分の頑かたくなな性格を見抜かれて指摘されたのかと思うと、またしても可愛らしいと言われた恥ずかしさと相俟あいまって、動揺どうようせずにはいられなかった。
　思わず肩を竦すくめるようにして眼鏡を上げた僕の横で、僅わずかに身を前に乗り出した冬月が、にやにやと横目に僕を見遣みやりながら、
「貴女にもおわかりになりますか、この男のまるで役に立たない頑迷がんめいさが。僕も常々つねづね手を焼いているのですよ」
　一拍の空白の後、頭の中にし・た・り・顔・に歪んだ面足おもだる冬月のその顔がじわじわと浸透しんとうするように広がるのを感じるや否いなや、僕はぎょっと目を見開いて冬月を見た。

　──はっ!?　 いったい僕がいつ冬月の手を焼かせるような事をしたって？

　出鱈目でたらめにも等しい言い種ぐさに絶句して凝視ぎょうしする僕を鼻で一嗤ひとわらいし、冬月は皮肉っぽい笑みを浮かべたまま、匙スプーンと肉刺フォークで出来た小さな火・ば・さ・み・のような物を取り上げると、紅茶淹れティーポットの横の檸檬れもんの輪切りが乗った小皿から、薄く切られた一切れを摘つまみ上げ、紅茶茶碗ティーカップの中に無造作に落とした。それから先程自分の手の甲に乗せて遊ばせていた茶匙ティースプーンで、茶碗の底に檸檬を押し付けながら、つまらなそうに掻き回し始めた。
　匙が茶碗カップに当たる微かすかな音を聞いていると、無性に紅茶が飲みたくなった。先程からの緊張と混乱の連続で、喉はすっかりカラカラだった。
　折角せっかく冬月が手ずから注ぎ入れてくれたのだし……、と目の前の茶碗に手を伸ばし掛けたが、中身を掻き回すだけで未だ口をつけようとしない冬月を差し置いて、本来この場に無関係の僕が正式に勧められた覚えもないのに率先して飲んでしまうというのも礼儀に外れるようで気が引けた。それに紅茶を飲みつけない僕には、恥を掻く懼おそれもあった。飲みたいのをぐっと我慢していると、
「先生、紅茶はお嫌いですか」
　計はかったような澪子さんの問い掛けと優しく輝くばかりの微笑に、これぞ天の助けと勢い込んで答えようとした僕より早く、傍かたわらの冬月が口を開いた。
「先・生・は不味まずくて安い珈琲コーヒーがお好みなんですよ」
　僕はまたしても言葉を失い、退屈を持て余すように胸元のタイの歪みを直し始めた冬月を凝然ぎょうぜんと見た。
「まあ、気がつかなくて申し訳ありませんわ。それでは珈琲を注文致しましょう」
「い、いえ……っ、そんな……っ。どうぞお気遣いなく……っ」
「御遠慮なさらないで。今珈琲を……」
「いえっ、本当に……っ。こ、これを戴きますので……っ」
　言いながら急いで茶碗の細い取手を持ち上げたが、冬月が檸檬の輪切りを入れていた事を思い出し、慌てて茶碗を受け皿に戻すと、小さなは・さ・み・を取り上げて、どうにかこうにか自分の茶碗の底に檸檬を沈めた。
　思わずほっと息を吐き、冬月がやった通りに小匙で檸檬を潰して掻き混ぜ、改めて茶碗を持ち上げ一口含んだ。

　──……不味まずい……。これが紅茶という飲み物か……。いつも行くあの喫茶店の珈琲の方がずっと旨うまく感じる……。

　上流の人たちはこんな物を好んで飲むのだろうか──そう思いながらそっと顔を上げると、僅わずかばかり美しい目を見開かせて見ている澪子さんと目が合った。
　どうやら一連の作業をずっと見守られていたらしい事に気がつくと、その驚いているとも呆れているとも取れるような澪子さんの表情とも相俟あいまって、僕の顔からは羞恥心しゅうちしんの火が噴いた。
　長い睫毛まつげに縁ふちどられた大きな瞳をパチパチと瞬しばたかせ、僕を見詰める澪子さんに、もしかして何か酷ひどい失敗をしでかしたか非礼を働きでもしたのだろうかと俄にわかに色を失い、大慌てで茶碗を円卓テーブルに戻しつつ、不安な気持ちから、こっそりと窺うかがうように傍かたわらに視線を向けたが、冬月はやはり紅茶には目もくれず、退屈そうな視線をあらぬ方角に投げているだけだった。
　助け舟を冬月に求めた方が莫迦ばかだったと目線を卓の上の紅茶に戻し、それから再びそっと前を向くと、今度はにこにこと華やかな笑みをいっぱいに咲かせた澪子さんに、小首を傾かしげるようにして頷き掛けられた。
　思わず引き攣つった笑いを返したが、どうにも変な汗が止まらない。

　──嘲笑ちょうしょうされたという訳ではなさそうだが……。冬月のやった通りに真似をしたと思ったが、何か違っていたのだろうか……。それともまさかこういう場では、男は飲み物を口にしてはいけないという決まりでもあるのだろうか……。

　そう思いついた途端、血の気が失せた。此処ここは兎とも角かくも、謝罪した方が良さそうだと判断し、口を開こうとした時、嬉しげな笑いの響きを宿した聲で澪子さんが言った。
「私わたくし、とても感動致しておりますのよ。本当によ・い・も・の・を見せて戴いただいて、何だかとても感慨かんがい深い気持ちになっておりますの」
「え……っ？」
　何の事だかわからずにきょとんと見詰め返してしまった僕に、澪子さんは一段と優しさを深めた微笑を見せると、
「小鳥遊先生を拝見していると、それだけで心が和なごむようですわ」
「え……っ!?」
　予期せぬ言葉にずり落ち掛けた眼鏡を押さえたまま固まっていると、澪子さんは優美ゆうびな眉を僅わずかに曇くもらせ、晩秋の夕暮れの里を濡らす霧雨ほどに静かな聲で言った。