穢れなき禽獣は魔都に憩う

Arakane

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其の十二 気高き狼眼(ウルフ・アイ)

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  何か意味深長な様子で微笑んでいた澪子さんは、白い卓布テーブルクロスの上に手袋の両手をゆっくりと重ね置くと、
「これでは勿体もったいぶったいやな女と思われてしまいますわね。いえ、決してそんなつもりではございませんのよ。まして口外出来ない事情があるという訳でもありませんの。ただ、まれな事ではございますけれど、当家の生業なりわいについてあまりはっきりと申し上げますと、御不快に感じられる方々がいらっしゃいますのよ。わたくしと致しましては、小鳥遊様がそうでない事を切に願う限りですわ」
「……は、はあ……」
 いったいどういう事か呑み込めず、額に滲んだ汗を手の甲でそっとぬぐう僕を見ていた澪子さんは、わずかに小首を傾けて笑みを深くすると、
「私、宗教家の娘ですの」
 りん、と鈴の鳴るような清冽せいれつさの響く聲で言った澪子さんに、
「宗教家?」
 思わずき返すと、澪子さんは華やかに咲いた笑顔をこっくりと頷かせ、
天華宗てんげしゅうという名をお耳になさった事はございませんか?」
「天華宗……? あ、あの、すみません、僕はそういう方面に暗くて……」
 恐縮に首を縮め、ペコペコと頭を下げていると、澪子さんは葡萄ぶどうの色に染まった唇の微笑はそのままに、優雅な仕振しぶりでゆっくりとくびを横に振った。
「御存知でなくても当然ですわ。当家の祖先が山岳信仰を根幹に百年ほど前におこしたですもの。現在は私の父が宗主を務めております」
「ひ、百年とは御立派な歴史をお持ちで……。か、寡聞かぶんで申し訳ありません……」
 円卓テーブルの上にひれ伏すように頭を下げ、気まずさに眼鏡を押し上げながら頭を元に戻した僕は、澪子さんの背後に立ち詰めた猛禽もうきんが、狙い定めたようにその鋭い眼で僕を射抜いている事に気がついた。
 ぎくりと肝を冷やした僕を睥睨へいげいしたまま、猛禽の男はおもむろに黒い革の手袋をめた片手を自分のこめかみ辺りに持って行くと、きっちりと撫でつけられた如何いかにもこわそうな真っ黒な髪の中に五指を差し入れ、後頭部の方へゆっくりと滑らせた。その手の動きに合わせ、男の髪がざわざわと波打った。



 不吉な猛禽の羽繕いを彷彿ほうふつさせるその仕草には、僕への威嚇いかく牽制けんせいがはっきりと表現されており、僕は蛇に見込まれた蛙よろしく椅子の上に身を固まらせた。
 帝都での暮らしの中で、大海に出て道を知る事の出来る井底せいていというのはほんの一握りなのだという現実を痛感してはいたが、男の視線の脅威におびやかされる今、最早もはや自分などは大空を滑空する猛禽の餌でしかないのだという考えに囚われ、油汗をきつつかすかにふるえを帯びた手で眼鏡を押し上げた。
 僕のただならぬ気配を察したらしく、華やかな微笑をふと閉じた澪子さんが、濃く長い睫毛まつげを伏せるようにしながら、ほっそりと伸びたくびわずかばかりひねって、チラリと背後をうかがった。
 それからすぐに正面に向き直ると、澪子さんは豊かな秋の色に染まった唇を開き、男の方は振り返らないまま、
黒葛つづら、外して頂戴ちょうだい
 冬月や僕に対して発話される時のたおやかな印象とは違い、ひどおごそかな、ややもすれば冷たく心臓を射抜いぬくようなその聲に思わず背筋が伸びた。
 黒葛つづらと呼ばれた猛禽の男は敏捷びんしょうな身のこなしで澪子さんのかたわらに一歩足を踏み出して立つと、堅牢けんろうを絵に描いたような体躯たいくを二つに折って真深く頭を下げた。
 叩頭こうとうせんばかりの黒葛の方を見ようともしない澪子さんからはそれまでの包み込むような温かさが消え、物遠ものどお澆薄ぎょうはくばかりが、しんしんと降る雪のように黒葛と澪子さんの間の深い溝にうず高く積もっていった。
 けれど黒葛が自分よりも年若い女主あるじからの冷遇れいぐうを甘んじて受け入れているのみならず、むし享受きょうじゅしているらしい事は、さなが如来にょらいか何かをおがむかのごとこうべれるその様子から明らかだった。
 僕は充分に時間を掛けて礼をした黒葛が、はがねの通った背筋を元に戻そうとする一瞬に、澪子さんの整った横顔に素早く走らせた視線の名状し難い色合いに気がつくと、そわそわと浮き立つように動揺し、何度も眼鏡を触らなければならなかった。
 またたきをする間よりも短い、ほんの刹那せつなの一瞬に現れた黒葛のその目の中の色には、僕や冬月に対して向けられる獲物を狩らんとする猛禽の獰猛どうもうさではなく、何処どこまでも主人に付き従おうとする下僕しもべの忠義と献身が光っていた。
 だが僕を動揺させたのは、他人を脅迫的に威圧する男の見せた忠僕ちゅうぼく真情しんじょうではなく、その忠信ちゅうしんの奥に垣間かいま見える、忸怩じくじとした悔恨かいこんのさざ波だった。
 それがいったい何に対しての物であるのかは、局外きょくがいに立つ僕などには知るよしもなかったが、それまでの恐ろしいとした黒葛に対して、何かしら同情的な共感が芽生え掛けていた僕は、しかし次の瞬間、さっと身をひるがえした黒葛にギロリとにらみ下ろされると、やはり小心翼翼しょうしんよくよく寒心かんしんえず首をすくめてしまった。
 黒葛は嫌厭けんえんの色を隠しもしない視線で冬月をると、通り過ぎざま低音の押し殺した聲で、
「──凶眼イーブル・アイめ」
 吐きてるように言った。
 冬月は椅子の背凭せもたれに深く身を預けたまま片頬を歪めると、くいとあごを上げ、うすわらいに黒葛をめ返し、
鷲眼イーグル・アイと言ったのかな。確かに僕は視野を広く保とうと心掛けてはいるが、あまりにまずい発音で本当にそう言われたのか定かじゃないから頷き返してやる事は出来ないな。僕は他人が思う程には自惚うぬぼれ屋ではないからね。言われてもいない賛辞さんじなどでえつに入っていると思われては片腹痛くてかなわない。しかし参考までに一つ助言を与えよう。これからの社会では簡単な英語くらいは話せる程度の教養がないと通用しない。に恥をかせないよう勉強しておきたまえ。どうせ如何にも数字の1を繰り返すくらいしか能がないんだろ。ってね。しかしそれだって外国人にはとは認識されないよ。あちらでは犬はBOWWOWと鳴くからね」
 次第に大きく見開かれていく黒葛の鋭い目には危険な光がひらめき始めた。黒葛は怒気が揺らめく屈強なからだをゆっくりと冬月の方に向き直らせ、おおかぶさらんばかりに迫ろうとした。
 刹那せつな毅然きぜんとした聲の一矢いっしが黒葛の広い背中に向かって鋭く放たれた。
「黒葛、これ以上蘇芳様への無礼を重ねる事は許しません」
 あごを高く上げ、きりりと柳眉りゅうびを引き上げた澪子さんの言葉に黒葛は一瞬打たれたように動きを止めると、素早く澪子さんの方に向き直り、ひざまずかんばかりの勢いで頭を下げた。
「──失礼しました、お嬢様」
わたくしではなく、蘇芳様に謝罪なさい」
 手厳しい叱責しっせきの口調で言った澪子さんに、冬月は薄ら嗤いで片手を軽く挙げると、
「澪子さん、僕は犬のをとやかく言う程狭量きょうりょうではありませんよ。それにそもそも御婦人方の浅薄せんぱく駄弁だべん程の価値もない口先だけの謝罪などに貸す耳も時間も僕は生憎あいにくと持ち合わせては居ませんので」
「ふ、冬月……っ」
 先程からの辛辣しんらつな物言いにハラハラと気をんでいた僕は、冬月が澪子さんの前にもかかわらず、言うに事いて、まるで女性を侮辱ぶじょくしていると取られてもおかしくない発言をした事に愈々いよいよ青くなり、椅子の上にり返るようにして座っている冬月の方に思わず身を乗り出した。
 ところが僕の心配を他所よそに、澪子さんは神妙な顔つきで円卓テーブルの上にレエスの手袋の両手をそろえると、
「蘇芳様をお相手に形だけの謝罪をなどと申した私が愚かでしたわ。黒葛に代わって誠心誠意からおび致します」
 言って美しい瞳を伏せ、ほっそりと優雅なくびを前傾させるのだった。
 まるで白鳥がお辞儀をするようなその仕草と言葉の内容とに驚かされ、目をみはっていると、殊更ことさらに片方の頬を皮肉っぽい嗤いに引き上げた冬月が、
「貴女には何の落ち度もないのだから顔を上げて下さい。貴女の誠意はきちんと受け止めますが、しかし貴女としても僕がまるで衆人環視しゅうじんかんしの中で女性に頭を下げさせて喜ぶ下劣げれつな男だと誤解される事をお望みになっている訳ではないでしょう」
 冬月のその台詞せりふで、周囲の視線が僕たちの円卓テーブルに集中している事に初めて気がついた。の目たかの目で此方こちらを見る客たちの視線に我知らず度を失いそうになっていると、前傾させていたくびをすっと元に戻した澪子さんが、こっくりと刻むようなうなずきをして、
おっしゃる通りですわ、蘇芳様。黒葛、行きなさい」
 厳しく命じられ、黒葛はもう一度澪子さんに向かって深く頭を下げると、機敏きびんな動きで向きを変え、すみやかに喫茶室サロンの出口へと向かった。
 客たちの視線を集めながら黒葛が扉の外に立ち去ると、冬月はふん、と鼻を鳴らし、
邪悪イーヴルイーグルも悪くはないけどね」
 そう言っていつもの如く皮肉めいた嗤いを口元に浮かべた。
 冬月は手遊てすさびめいた感じで茶碗カップの横に置かれていた銀の小匙こさじを取って左手の甲に乗せると、いったいどういう具合にするのか、甲の上でくるくると匙を転がし始めた。
 まるで西洋奇術師を思わせる流麗な手つきに思わず引き込まれていると、手の甲で自在に匙を動かしながらチラリと僕に目をくれた冬月が、
「君は狼の目を見た事があるかい?」
 出し抜けな問い掛けに、僕はハッと我に返って匙から目を離し、ずり落ちていた眼鏡を押し上げた。
「さ、さぁ……どうだろう……。……いや、見た事はないな……」
 僕の返事を聞くと、冬月は端正な唇の片側をと吊り上げ、手の甲を往復させていた匙を茶碗の横に優雅に置いた。
 冬月はニヤニヤ嗤いのその顔を此方こちらに向けて僕を見ると、右手の人差し指と中指で自分の目元を指した。
彼等かれらの目はちょうどこんな色をしているんだよ。だから西洋では僕の目は『狼眼ウルフ・アイ』と言われるんだ」
「そ、そうなのか……」
「悪魔やわしなんかより余程高等だと僕は思うけどね。君はどう思う? 小鳥遊」
「え……っ、う、うん……」
 悪魔も鷲も狼もよく知らない僕は、薄い嗤いの浮かぶ琥珀の瞳に困惑し、もごもごと曖昧あいまいに口を動かした。
 迂闊うかつな返答をする訳にもいかないだろうし……と気ばかり焦ったが、冬月は僕の答えなどはなから期待していなかったようで、僕がはっきりとした返事をするより前に、片側に高く吊り上げていた唇を開いた。
「彼等の目は合わせ鏡なんだよ。じっと此方こちら見透みすかすように見詰めるその瞳には偽善ぎぜん欺瞞ぎまん虚飾きょしょくもない。その眼の前には浅はかな虚仮威こけおどしもつまらない虚勢きょせいも一切通用しない。人間が狼を恐れるのは彼等がただ家畜かちくらい、人命を危険にさらすという理由からだけではない。狼と向き合い、喰うか喰われるかの瀬戸際せとぎわに、人は自分の生を強く意識させられる。その一瞬に人生のすべてが集約するんだ。どんなに綺羅きらを飾ろうとも死の前には無意味。彼等狼の眼はいつでもただ真実を見据えるが、それは同時に狼の眼を見る者の真実をあばき、その鼻先に突き付ける事でもある。だから古今東西、人は狼を畏怖いふするんだよ。西洋では狼を嫌う傾向が強いが、この国では古来、狼を真神まかみと呼んで神格化して来た。無論、こうした違いは国土に根差した風俗や習俗の違いから生まれる宗教観の相違が多いに影響した結果である事はいなめない上、近年はこの国でも欧米化に伴い狼の駆除が積極的にされたあおりを受け、かつて農耕の守護者としてあがまつられた狼はその神格を失い、絶滅したも同然だ。だがいずれにしても憎しみであれ怖れであれ畏敬いけいであれ、人間の狼に対する感情が並々ならない物であるというのは事実だ。──想像して見給みたまえ。明かり一つない深夜の森を歩き回る狼たちを。夜の暗闇の中に金色の光を放つ彼等の目が浮かび上がる様はどんな美景も及ばない実に素晴らしい光景だよ。そして彼等の遠吠え。特に厳冬の頃、骨まで凍らせる白く冷たい雪でおおわれた森のがけで、彼等の瞳と同じ色の氷輪つきに向かって喉をらした狼たちが一斉に上げる聲には格別のおもむきがある」
 僕は冬月の滔滔とうとうたる語り口に引き込まれるように聞き入っていた。いつしか僕の眼前には、真冬の闇夜を照らす寒月かんげつの下でえる狼たちの姿が広がっていた。
「群れのリーダーは特に美聲びせいを響かせる。森の為政者いせいしゃとしての威厳と誇りをその一聲に燦然さんぜんきらめかせてね。あれこそまさに自然界にける最上の調和だよ」
「──それは……とても崇高な音楽だろうな……」
 目の前に広がる幻想的で神秘的な狼たちの幻影に見惚みとれていた僕は、つい無意識にそう呟いてしまってから、ハッと我に返った。
 冬月と澪子さんが、まじまじと僕を見ている事に気がつくと、頬が勢いよく紅潮していくのを感じ、羞恥心しゅうちしんに顔を伏せ、眼鏡を押し上げた。
 冬月にまた何か揶揄やゆめいた事を言われるかと身構えていたが、それより先に、上品な美しい聲が、絹の卓布クロスのように沈黙の上に広がった。
「……ともあれ、蘇芳様には本当に御無礼申し上げましたわ」
 おもむろに口を開いた澪子さんに救われた思いで、僕は思わず小さく安堵あんどの息を吐くと、そっと顔を上げた。

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