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其の十二 気高き狼眼(ウルフ・アイ)
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何か意味深長な様子で微笑んでいた澪子さんは、白い卓布の上に手袋の両手をゆっくりと重ね置くと、
「これでは勿体ぶった厭な女と思われてしまいますわね。いえ、決してそんなつもりではございませんのよ。まして口外出来ない事情があるという訳でもありませんの。ただ、稀な事ではございますけれど、当家の生業についてあまりはっきりと申し上げますと、御不快に感じられる方々がいらっしゃいますのよ。私と致しましては、小鳥遊様がそうでない事を切に願う限りですわ」
「……は、はあ……」
いったいどういう事か呑み込めず、額に滲んだ汗を手の甲でそっと拭う僕を見ていた澪子さんは、僅かに小首を傾けて笑みを深くすると、
「私、宗教家の娘ですの」
凛、と鈴の鳴るような清冽さの響く聲で言った澪子さんに、
「宗教家?」
思わず訊き返すと、澪子さんは華やかに咲いた笑顔をこっくりと頷かせ、
「天華宗という名をお耳になさった事はございませんか?」
「天華宗……? あ、あの、すみません、僕はそういう方面に暗くて……」
恐縮に首を縮め、ペコペコと頭を下げていると、澪子さんは葡萄の色に染まった唇の微笑はそのままに、優雅な仕振りでゆっくりと頸を横に振った。
「御存知でなくても当然ですわ。当家の祖先が山岳信仰を根幹に百年ほど前に興したしがない団体ですもの。現在は私の父が宗主を務めております」
「ひ、百年とは御立派な歴史をお持ちで……。か、寡聞で申し訳ありません……」
円卓の上にひれ伏すように頭を下げ、気まずさに眼鏡を押し上げながら頭を元に戻した僕は、澪子さんの背後に立ち詰めた猛禽が、狙い定めたようにその鋭い眼で僕を射抜いている事に気がついた。
ぎくりと肝を冷やした僕を睥睨したまま、猛禽の男は徐に黒い革の手袋を嵌めた片手を自分のこめかみ辺りに持って行くと、きっちりと撫でつけられた如何にも強そうな真っ黒な髪の中に五指を差し入れ、後頭部の方へゆっくりと滑らせた。その手の動きに合わせ、男の髪がざわざわと波打った。
不吉な猛禽の羽繕いを彷彿させるその仕草には、僕への威嚇と牽制がはっきりと表現されており、僕は蛇に見込まれた蛙よろしく椅子の上に身を固まらせた。
帝都での暮らしの中で、大海に出て道を知る事の出来る井底の蛙というのはほんの一握りなのだという現実を痛感してはいたが、男の視線の脅威に脅かされる今、最早自分などは大空を滑空する猛禽の餌でしかないのだという考えに囚われ、油汗を掻きつつ微かに顫えを帯びた手で眼鏡を押し上げた。
僕のただならぬ気配を察したらしく、華やかな微笑をふと閉じた澪子さんが、濃く長い睫毛を伏せるようにしながら、ほっそりと伸びた頸を僅かばかり捻って、チラリと背後を窺った。
それからすぐに正面に向き直ると、澪子さんは豊かな秋の色に染まった唇を開き、男の方は振り返らないまま、
「黒葛、外して頂戴」
冬月や僕に対して発話される時の嫋やかな印象とは違い、酷く厳かな、ややもすれば冷たく心臓を射抜くようなその聲に思わず背筋が伸びた。
黒葛と呼ばれた猛禽の男は敏捷な身のこなしで澪子さんの傍らに一歩足を踏み出して立つと、堅牢を絵に描いたような体躯を二つに折って真深く頭を下げた。
叩頭せんばかりの黒葛の方を見ようともしない澪子さんからはそれまでの包み込むような温かさが消え、物遠い澆薄ばかりが、しんしんと降る雪のように黒葛と澪子さんの間の深い溝にうず高く積もっていった。
けれど黒葛が自分よりも年若い女主からの冷遇を甘んじて受け入れているのみならず、寧ろ享受しているらしい事は、宛ら如来か何かを伏し拝むかの如く首を垂れるその様子から明らかだった。
僕は充分に時間を掛けて礼をした黒葛が、鋼の通った背筋を元に戻そうとする一瞬に、澪子さんの整った横顔に素早く走らせた視線の名状し難い色合いに気がつくと、そわそわと浮き立つように動揺し、何度も眼鏡を触らなければならなかった。
瞬きをする間よりも短い、ほんの刹那の一瞬に現れた黒葛のその目の中の色には、僕や冬月に対して向けられる獲物を狩らんとする猛禽の獰猛さではなく、何処までも主人に付き従おうとする下僕の忠義と献身が光っていた。
だが僕を動揺させたのは、他人を脅迫的に威圧する男の見せた忠僕の真情ではなく、その忠信の奥に垣間見える、忸怩とした悔恨のさざ波だった。
それがいったい何に対しての物であるのかは、局外に立つ僕などには知る由もなかったが、それまでの恐ろしい捕食者然とした黒葛に対して、何かしら同情的な共感が芽生え掛けていた僕は、しかし次の瞬間、さっと身を翻した黒葛にギロリと睨み下ろされると、やはり小心翼翼、寒心に堪えず首を竦めてしまった。
黒葛は嫌厭の色を隠しもしない視線で冬月を射ると、通り過ぎざま低音の押し殺した聲で、
「──凶眼め」
吐き棄てるように言った。
冬月は椅子の背凭れに深く身を預けたまま片頬を歪めると、くいと顎を上げ、薄ら嗤いに黒葛を睨め返し、
「鷲眼と言ったのかな。確かに僕は視野を広く保とうと心掛けてはいるが、あまりに拙い発音で本当にそう言われたのか定かじゃないから頷き返してやる事は出来ないな。僕は他人が思う程には自惚れ屋ではないからね。言われてもいない賛辞などで悦に入っていると思われては片腹痛くてかなわない。しかし参考までに一つ助言を与えよう。これからの社会では簡単な英語くらいは話せる程度の教養がないと通用しない。大切な御主人様に恥を掻かせないよう勉強しておき給え。どうせ如何にも犬らしく数字の1を繰り返すくらいしか能がないんだろ。ワンワンってね。しかしそれだって外国人には犬の吠え聲とは認識されないよ。あちらでは犬はBOWWOWと鳴くからね」
次第に大きく見開かれていく黒葛の鋭い目には危険な光が閃き始めた。黒葛は怒気が揺らめく屈強な體をゆっくりと冬月の方に向き直らせ、覆い被さらんばかりに迫ろうとした。
刹那、毅然とした聲の一矢が黒葛の広い背中に向かって鋭く放たれた。
「黒葛、これ以上蘇芳様への無礼を重ねる事は許しません」
顎を高く上げ、きりりと柳眉を引き上げた澪子さんの言葉に黒葛は一瞬打たれたように動きを止めると、素早く澪子さんの方に向き直り、跪かんばかりの勢いで頭を下げた。
「──失礼しました、お嬢様」
「私ではなく、蘇芳様に謝罪なさい」
手厳しい叱責の口調で言った澪子さんに、冬月は薄ら嗤いで片手を軽く挙げると、
「澪子さん、僕は犬の無駄吠えをとやかく言う程狭量ではありませんよ。それにそもそも御婦人方の浅薄な駄弁程の価値もない口先だけの謝罪などに貸す耳も時間も僕は生憎と持ち合わせては居ませんので」
「ふ、冬月……っ」
先程からの辛辣な物言いにハラハラと気を揉んでいた僕は、冬月が澪子さんの前にもかかわらず、言うに事欠いて、まるで女性を侮辱していると取られてもおかしくない発言をした事に愈々青くなり、椅子の上に反り返るようにして座っている冬月の方に思わず身を乗り出した。
ところが僕の心配を他所に、澪子さんは神妙な顔つきで円卓の上にレエスの手袋の両手を揃えると、
「蘇芳様をお相手に形だけの謝罪をなどと申した私が愚かでしたわ。黒葛に代わって誠心誠意からお詫び致します」
言って美しい瞳を伏せ、ほっそりと優雅な頸を前傾させるのだった。
まるで白鳥がお辞儀をするようなその仕草と言葉の内容とに驚かされ、目を瞠っていると、殊更に片方の頬を皮肉っぽい嗤いに引き上げた冬月が、
「貴女には何の落ち度もないのだから顔を上げて下さい。貴女の誠意はきちんと受け止めますが、しかし貴女としても僕がまるで衆人環視の中で女性に頭を下げさせて喜ぶ下劣な男だと誤解される事をお望みになっている訳ではないでしょう」
冬月のその台詞で、周囲の視線が僕たちの円卓に集中している事に初めて気がついた。鵜の目鷹の目で此方を見る客たちの視線に我知らず度を失いそうになっていると、前傾させていた頸をすっと元に戻した澪子さんが、こっくりと刻むような頷きをして、
「仰る通りですわ、蘇芳様。黒葛、行きなさい」
厳しく命じられ、黒葛はもう一度澪子さんに向かって深く頭を下げると、機敏な動きで向きを変え、速やかに喫茶室の出口へと向かった。
客たちの視線を集めながら黒葛が扉の外に立ち去ると、冬月はふん、と鼻を鳴らし、
「邪悪も鷲も悪くはないけどね」
そう言っていつもの如く皮肉めいた嗤いを口元に浮かべた。
冬月は手遊びめいた感じで茶碗の横に置かれていた銀の小匙を取って左手の甲に乗せると、いったいどういう具合にするのか、甲の上でくるくると匙を転がし始めた。
まるで西洋奇術師を思わせる流麗な手つきに思わず引き込まれていると、手の甲で自在に匙を動かしながらチラリと僕に目をくれた冬月が、
「君は狼の目を見た事があるかい?」
出し抜けな問い掛けに、僕はハッと我に返って匙から目を離し、ずり落ちていた眼鏡を押し上げた。
「さ、さぁ……どうだろう……。……いや、見た事はないな……」
僕の返事を聞くと、冬月は端正な唇の片側をにっと吊り上げ、手の甲を往復させていた匙を茶碗の横に優雅に置いた。
冬月はニヤニヤ嗤いのその顔を此方に向けて僕を見ると、右手の人差し指と中指で自分の目元を指した。
「彼等の目はちょうどこんな色をしているんだよ。だから西洋では僕の目は『狼眼』と言われるんだ」
「そ、そうなのか……」
「悪魔や鷲なんかより余程高等だと僕は思うけどね。君はどう思う? 小鳥遊」
「え……っ、う、うん……」
悪魔も鷲も狼もよく知らない僕は、薄い嗤いの浮かぶ琥珀の瞳に困惑し、もごもごと曖昧に口を動かした。
迂闊な返答をする訳にもいかないだろうし……と気ばかり焦ったが、冬月は僕の答えなど端から期待していなかったようで、僕がはっきりとした返事をするより前に、片側に高く吊り上げていた唇を開いた。
「彼等の目は合わせ鏡なんだよ。じっと此方を見透かすように見詰めるその瞳には偽善も欺瞞も虚飾もない。その眼の前には浅はかな虚仮威しもつまらない虚勢も一切通用しない。人間が狼を恐れるのは彼等がただ家畜を喰らい、人命を危険に晒すという理由からだけではない。狼と向き合い、喰うか喰われるかの瀬戸際に、人は自分の生を強く意識させられる。その一瞬に人生のすべてが集約するんだ。どんなに綺羅を飾ろうとも死の前には無意味。彼等狼の眼はいつでもただ真実を見据えるが、それは同時に狼の眼を見る者の真実を暴き、その鼻先に突き付ける事でもある。だから古今東西、人は狼を畏怖するんだよ。西洋では狼を嫌う傾向が強いが、この国では古来、狼を真神と呼んで神格化して来た。無論、こうした違いは国土に根差した風俗や習俗の違いから生まれる宗教観の相違が多いに影響した結果である事は否めない上、近年はこの国でも欧米化に伴い狼の駆除が積極的に為された煽りを受け、嘗て農耕の守護者として崇め祀られた狼はその神格を失い、絶滅したも同然だ。だがいずれにしても憎しみであれ怖れであれ畏敬であれ、人間の狼に対する感情が並々ならない物であるというのは事実だ。──想像して見給え。明かり一つない深夜の森を歩き回る狼たちを。夜の暗闇の中に金色の光を放つ彼等の目が浮かび上がる様はどんな美景も及ばない実に素晴らしい光景だよ。そして彼等の遠吠え。特に厳冬の頃、骨まで凍らせる白く冷たい雪で覆われた森の崖で、彼等の瞳と同じ色の氷輪に向かって喉を反らした狼たちが一斉に上げる聲には格別の趣がある」
僕は冬月の滔滔たる語り口に引き込まれるように聞き入っていた。いつしか僕の眼前には、真冬の闇夜を照らす寒月の下で吼える狼たちの姿が広がっていた。
「群れのリーダーは特に美聲を響かせる。森の為政者としての威厳と誇りをその一聲に燦然と煌めかせてね。あれこそまさに自然界に於ける最上の調和だよ」
「──それは……とても崇高な音楽だろうな……」
目の前に広がる幻想的で神秘的な狼たちの幻影に見惚れていた僕は、つい無意識にそう呟いてしまってから、ハッと我に返った。
冬月と澪子さんが、まじまじと僕を見ている事に気がつくと、頬が勢いよく紅潮していくのを感じ、羞恥心に顔を伏せ、眼鏡を押し上げた。
冬月にまた何か揶揄めいた事を言われるかと身構えていたが、それより先に、上品な美しい聲が、絹の卓布のように沈黙の上に広がった。
「……ともあれ、蘇芳様には本当に御無礼申し上げましたわ」
徐に口を開いた澪子さんに救われた思いで、僕は思わず小さく安堵の息を吐くと、そっと顔を上げた。
「これでは勿体ぶった厭な女と思われてしまいますわね。いえ、決してそんなつもりではございませんのよ。まして口外出来ない事情があるという訳でもありませんの。ただ、稀な事ではございますけれど、当家の生業についてあまりはっきりと申し上げますと、御不快に感じられる方々がいらっしゃいますのよ。私と致しましては、小鳥遊様がそうでない事を切に願う限りですわ」
「……は、はあ……」
いったいどういう事か呑み込めず、額に滲んだ汗を手の甲でそっと拭う僕を見ていた澪子さんは、僅かに小首を傾けて笑みを深くすると、
「私、宗教家の娘ですの」
凛、と鈴の鳴るような清冽さの響く聲で言った澪子さんに、
「宗教家?」
思わず訊き返すと、澪子さんは華やかに咲いた笑顔をこっくりと頷かせ、
「天華宗という名をお耳になさった事はございませんか?」
「天華宗……? あ、あの、すみません、僕はそういう方面に暗くて……」
恐縮に首を縮め、ペコペコと頭を下げていると、澪子さんは葡萄の色に染まった唇の微笑はそのままに、優雅な仕振りでゆっくりと頸を横に振った。
「御存知でなくても当然ですわ。当家の祖先が山岳信仰を根幹に百年ほど前に興したしがない団体ですもの。現在は私の父が宗主を務めております」
「ひ、百年とは御立派な歴史をお持ちで……。か、寡聞で申し訳ありません……」
円卓の上にひれ伏すように頭を下げ、気まずさに眼鏡を押し上げながら頭を元に戻した僕は、澪子さんの背後に立ち詰めた猛禽が、狙い定めたようにその鋭い眼で僕を射抜いている事に気がついた。
ぎくりと肝を冷やした僕を睥睨したまま、猛禽の男は徐に黒い革の手袋を嵌めた片手を自分のこめかみ辺りに持って行くと、きっちりと撫でつけられた如何にも強そうな真っ黒な髪の中に五指を差し入れ、後頭部の方へゆっくりと滑らせた。その手の動きに合わせ、男の髪がざわざわと波打った。
不吉な猛禽の羽繕いを彷彿させるその仕草には、僕への威嚇と牽制がはっきりと表現されており、僕は蛇に見込まれた蛙よろしく椅子の上に身を固まらせた。
帝都での暮らしの中で、大海に出て道を知る事の出来る井底の蛙というのはほんの一握りなのだという現実を痛感してはいたが、男の視線の脅威に脅かされる今、最早自分などは大空を滑空する猛禽の餌でしかないのだという考えに囚われ、油汗を掻きつつ微かに顫えを帯びた手で眼鏡を押し上げた。
僕のただならぬ気配を察したらしく、華やかな微笑をふと閉じた澪子さんが、濃く長い睫毛を伏せるようにしながら、ほっそりと伸びた頸を僅かばかり捻って、チラリと背後を窺った。
それからすぐに正面に向き直ると、澪子さんは豊かな秋の色に染まった唇を開き、男の方は振り返らないまま、
「黒葛、外して頂戴」
冬月や僕に対して発話される時の嫋やかな印象とは違い、酷く厳かな、ややもすれば冷たく心臓を射抜くようなその聲に思わず背筋が伸びた。
黒葛と呼ばれた猛禽の男は敏捷な身のこなしで澪子さんの傍らに一歩足を踏み出して立つと、堅牢を絵に描いたような体躯を二つに折って真深く頭を下げた。
叩頭せんばかりの黒葛の方を見ようともしない澪子さんからはそれまでの包み込むような温かさが消え、物遠い澆薄ばかりが、しんしんと降る雪のように黒葛と澪子さんの間の深い溝にうず高く積もっていった。
けれど黒葛が自分よりも年若い女主からの冷遇を甘んじて受け入れているのみならず、寧ろ享受しているらしい事は、宛ら如来か何かを伏し拝むかの如く首を垂れるその様子から明らかだった。
僕は充分に時間を掛けて礼をした黒葛が、鋼の通った背筋を元に戻そうとする一瞬に、澪子さんの整った横顔に素早く走らせた視線の名状し難い色合いに気がつくと、そわそわと浮き立つように動揺し、何度も眼鏡を触らなければならなかった。
瞬きをする間よりも短い、ほんの刹那の一瞬に現れた黒葛のその目の中の色には、僕や冬月に対して向けられる獲物を狩らんとする猛禽の獰猛さではなく、何処までも主人に付き従おうとする下僕の忠義と献身が光っていた。
だが僕を動揺させたのは、他人を脅迫的に威圧する男の見せた忠僕の真情ではなく、その忠信の奥に垣間見える、忸怩とした悔恨のさざ波だった。
それがいったい何に対しての物であるのかは、局外に立つ僕などには知る由もなかったが、それまでの恐ろしい捕食者然とした黒葛に対して、何かしら同情的な共感が芽生え掛けていた僕は、しかし次の瞬間、さっと身を翻した黒葛にギロリと睨み下ろされると、やはり小心翼翼、寒心に堪えず首を竦めてしまった。
黒葛は嫌厭の色を隠しもしない視線で冬月を射ると、通り過ぎざま低音の押し殺した聲で、
「──凶眼め」
吐き棄てるように言った。
冬月は椅子の背凭れに深く身を預けたまま片頬を歪めると、くいと顎を上げ、薄ら嗤いに黒葛を睨め返し、
「鷲眼と言ったのかな。確かに僕は視野を広く保とうと心掛けてはいるが、あまりに拙い発音で本当にそう言われたのか定かじゃないから頷き返してやる事は出来ないな。僕は他人が思う程には自惚れ屋ではないからね。言われてもいない賛辞などで悦に入っていると思われては片腹痛くてかなわない。しかし参考までに一つ助言を与えよう。これからの社会では簡単な英語くらいは話せる程度の教養がないと通用しない。大切な御主人様に恥を掻かせないよう勉強しておき給え。どうせ如何にも犬らしく数字の1を繰り返すくらいしか能がないんだろ。ワンワンってね。しかしそれだって外国人には犬の吠え聲とは認識されないよ。あちらでは犬はBOWWOWと鳴くからね」
次第に大きく見開かれていく黒葛の鋭い目には危険な光が閃き始めた。黒葛は怒気が揺らめく屈強な體をゆっくりと冬月の方に向き直らせ、覆い被さらんばかりに迫ろうとした。
刹那、毅然とした聲の一矢が黒葛の広い背中に向かって鋭く放たれた。
「黒葛、これ以上蘇芳様への無礼を重ねる事は許しません」
顎を高く上げ、きりりと柳眉を引き上げた澪子さんの言葉に黒葛は一瞬打たれたように動きを止めると、素早く澪子さんの方に向き直り、跪かんばかりの勢いで頭を下げた。
「──失礼しました、お嬢様」
「私ではなく、蘇芳様に謝罪なさい」
手厳しい叱責の口調で言った澪子さんに、冬月は薄ら嗤いで片手を軽く挙げると、
「澪子さん、僕は犬の無駄吠えをとやかく言う程狭量ではありませんよ。それにそもそも御婦人方の浅薄な駄弁程の価値もない口先だけの謝罪などに貸す耳も時間も僕は生憎と持ち合わせては居ませんので」
「ふ、冬月……っ」
先程からの辛辣な物言いにハラハラと気を揉んでいた僕は、冬月が澪子さんの前にもかかわらず、言うに事欠いて、まるで女性を侮辱していると取られてもおかしくない発言をした事に愈々青くなり、椅子の上に反り返るようにして座っている冬月の方に思わず身を乗り出した。
ところが僕の心配を他所に、澪子さんは神妙な顔つきで円卓の上にレエスの手袋の両手を揃えると、
「蘇芳様をお相手に形だけの謝罪をなどと申した私が愚かでしたわ。黒葛に代わって誠心誠意からお詫び致します」
言って美しい瞳を伏せ、ほっそりと優雅な頸を前傾させるのだった。
まるで白鳥がお辞儀をするようなその仕草と言葉の内容とに驚かされ、目を瞠っていると、殊更に片方の頬を皮肉っぽい嗤いに引き上げた冬月が、
「貴女には何の落ち度もないのだから顔を上げて下さい。貴女の誠意はきちんと受け止めますが、しかし貴女としても僕がまるで衆人環視の中で女性に頭を下げさせて喜ぶ下劣な男だと誤解される事をお望みになっている訳ではないでしょう」
冬月のその台詞で、周囲の視線が僕たちの円卓に集中している事に初めて気がついた。鵜の目鷹の目で此方を見る客たちの視線に我知らず度を失いそうになっていると、前傾させていた頸をすっと元に戻した澪子さんが、こっくりと刻むような頷きをして、
「仰る通りですわ、蘇芳様。黒葛、行きなさい」
厳しく命じられ、黒葛はもう一度澪子さんに向かって深く頭を下げると、機敏な動きで向きを変え、速やかに喫茶室の出口へと向かった。
客たちの視線を集めながら黒葛が扉の外に立ち去ると、冬月はふん、と鼻を鳴らし、
「邪悪も鷲も悪くはないけどね」
そう言っていつもの如く皮肉めいた嗤いを口元に浮かべた。
冬月は手遊びめいた感じで茶碗の横に置かれていた銀の小匙を取って左手の甲に乗せると、いったいどういう具合にするのか、甲の上でくるくると匙を転がし始めた。
まるで西洋奇術師を思わせる流麗な手つきに思わず引き込まれていると、手の甲で自在に匙を動かしながらチラリと僕に目をくれた冬月が、
「君は狼の目を見た事があるかい?」
出し抜けな問い掛けに、僕はハッと我に返って匙から目を離し、ずり落ちていた眼鏡を押し上げた。
「さ、さぁ……どうだろう……。……いや、見た事はないな……」
僕の返事を聞くと、冬月は端正な唇の片側をにっと吊り上げ、手の甲を往復させていた匙を茶碗の横に優雅に置いた。
冬月はニヤニヤ嗤いのその顔を此方に向けて僕を見ると、右手の人差し指と中指で自分の目元を指した。
「彼等の目はちょうどこんな色をしているんだよ。だから西洋では僕の目は『狼眼』と言われるんだ」
「そ、そうなのか……」
「悪魔や鷲なんかより余程高等だと僕は思うけどね。君はどう思う? 小鳥遊」
「え……っ、う、うん……」
悪魔も鷲も狼もよく知らない僕は、薄い嗤いの浮かぶ琥珀の瞳に困惑し、もごもごと曖昧に口を動かした。
迂闊な返答をする訳にもいかないだろうし……と気ばかり焦ったが、冬月は僕の答えなど端から期待していなかったようで、僕がはっきりとした返事をするより前に、片側に高く吊り上げていた唇を開いた。
「彼等の目は合わせ鏡なんだよ。じっと此方を見透かすように見詰めるその瞳には偽善も欺瞞も虚飾もない。その眼の前には浅はかな虚仮威しもつまらない虚勢も一切通用しない。人間が狼を恐れるのは彼等がただ家畜を喰らい、人命を危険に晒すという理由からだけではない。狼と向き合い、喰うか喰われるかの瀬戸際に、人は自分の生を強く意識させられる。その一瞬に人生のすべてが集約するんだ。どんなに綺羅を飾ろうとも死の前には無意味。彼等狼の眼はいつでもただ真実を見据えるが、それは同時に狼の眼を見る者の真実を暴き、その鼻先に突き付ける事でもある。だから古今東西、人は狼を畏怖するんだよ。西洋では狼を嫌う傾向が強いが、この国では古来、狼を真神と呼んで神格化して来た。無論、こうした違いは国土に根差した風俗や習俗の違いから生まれる宗教観の相違が多いに影響した結果である事は否めない上、近年はこの国でも欧米化に伴い狼の駆除が積極的に為された煽りを受け、嘗て農耕の守護者として崇め祀られた狼はその神格を失い、絶滅したも同然だ。だがいずれにしても憎しみであれ怖れであれ畏敬であれ、人間の狼に対する感情が並々ならない物であるというのは事実だ。──想像して見給え。明かり一つない深夜の森を歩き回る狼たちを。夜の暗闇の中に金色の光を放つ彼等の目が浮かび上がる様はどんな美景も及ばない実に素晴らしい光景だよ。そして彼等の遠吠え。特に厳冬の頃、骨まで凍らせる白く冷たい雪で覆われた森の崖で、彼等の瞳と同じ色の氷輪に向かって喉を反らした狼たちが一斉に上げる聲には格別の趣がある」
僕は冬月の滔滔たる語り口に引き込まれるように聞き入っていた。いつしか僕の眼前には、真冬の闇夜を照らす寒月の下で吼える狼たちの姿が広がっていた。
「群れのリーダーは特に美聲を響かせる。森の為政者としての威厳と誇りをその一聲に燦然と煌めかせてね。あれこそまさに自然界に於ける最上の調和だよ」
「──それは……とても崇高な音楽だろうな……」
目の前に広がる幻想的で神秘的な狼たちの幻影に見惚れていた僕は、つい無意識にそう呟いてしまってから、ハッと我に返った。
冬月と澪子さんが、まじまじと僕を見ている事に気がつくと、頬が勢いよく紅潮していくのを感じ、羞恥心に顔を伏せ、眼鏡を押し上げた。
冬月にまた何か揶揄めいた事を言われるかと身構えていたが、それより先に、上品な美しい聲が、絹の卓布のように沈黙の上に広がった。
「……ともあれ、蘇芳様には本当に御無礼申し上げましたわ」
徐に口を開いた澪子さんに救われた思いで、僕は思わず小さく安堵の息を吐くと、そっと顔を上げた。
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