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其の十 帝都ホテルにて
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──それらしくって、いったい何だ……!?
車中に取り残された僕はすっかり混乱し、動揺のあまりずり下がった眼鏡を押し上げる事も忘れ、颯爽と車から降りて地面に立っている冬月の背中を茫然と見詰めていた。
「冬月様。いらっしゃいませ」
冬月に深々と頭を下げた制服の男が、ちらりと目だけ動かして車内の僕を見た。その一瞬の品定めで僕を取るに足らない存在と断定したらしく、男はすっと視線を外すと殆ど直角に折り曲げていた腰を無言のまま立てた。
男の冷ややかな態度にますます緊張が煽られ、すっかり狼狽して座席に尻を張りつかせていると、肩越しにちょっと頸を捻って振り返った冬月が、
「何を愚図愚図しているんだ。早く降り給え」
「あ、す、すまない、今……」
慌てて降りようとした僕は自動車の天井に頭をぶつけそうになった。
係の男が一瞬唇の端を歪ませたような気がして、顔から火が出そうだった。
「──お供の方も、ようこそ当館へ」
慇懃な物言いだったが、僕をお供と言ったその口ぶりには針のような侮蔑が潜み、先から身の置き所のない僕は、いよいよ身を縮ませながら、男に辞儀をした。
何とか車から降りて後ろに立った僕を振り返る事なく、長い脚を蹴り出すようにして早速歩き出した冬月に、係の男は低頭し、
「どうぞごゆっくりと御滞在──」
言い掛けた男の言葉を遮って、冬月はステッキの握りの猟犬で背後の僕を指すと、
「彼は大日本帝国大学の御子柴玄人教授の愛弟子だ。教授自ら他所から引き抜いて来たと言えば一介のポーターに過ぎない君にも彼がどれ程優秀かはわかるだろう。今後教授と共に此処を利用する事もあるかもしれない。見知っておき給え」
と言い捨てるようにして、男の鼻先を通り過ぎた。
係の男は俄かに色を失くして冬月の背中を見送りながら、
「……え……っ、御子柴教授の……。さ、左様でございましたか……、存じ上げず失礼を致しました」
僕の真正面に急いで體を向き直らせると、気の毒なぐらいの勢いで腰を折った。
けれど冬月の言葉に肝を潰したのは寧ろ僕の方だった。
僕は冷や汗を掻きつつ、しどろもどろに「いえ……っ」とか「あの……っ」とか口走りながら、青ざめて伏せた顔を上げようとしない係の男にぺこぺこと頭を下げていたが、僕をその場に残して歩いて行った冬月が、今まさにホテルの中に入ろうとしているのを見ると、大慌てにその後を追った。
やっと追いついたのは吹き抜けになった玄関広間だった。僕はその壮麗さに半ば圧倒されつつも、大股で闊歩する冬月に小走りでついて行きながら、聲を潜めて言った。
「僕が先生の愛弟子だなんて大嘘を言わないでくれ。後で問題になったらどうするんだ」
「君は生真面目な上に小心だな。それでよく生き牛の目を抉る研究者たちの間で今日まで無事な姿のまま来られたものだ」
「こ、これは真面目とか小心とかいう問題とは──」
冬月はさっと片手を挙げて煩そうに僕の言葉を遮ると、颯然と風を切ってロビーを横切った。遅れまいと必死に後について歩いていると、
「これは冬月様。御贔屓にして頂き有難う存じます」
にこやかな笑顔で近づいてきた燕尾服姿の男性に冬月は軽く頷き返すと、
「支配人、単刀直入だが女性と待ち合わせている」
「はい、承知致しております。貴賓喫茶室にてお待ちでございます。どうぞ此方へ」
そう言うと、支配人は腰を低くして冬月の少し前を歩き始めた。
午前中のまだ早い時分という事もあってか、館内に人はまばらで、僕と冬月と支配人の靴音が高い天井に響く音が妙に耳につき、弥が上にも緊張が高まった。
ホテルの奥まった部分まで来ると、重そうな木製の扉の前で支配人が立ち止まった。それを見計らうように間髪を入れず内側から扉が開かれ、頭を下げた支配人の前を吸い込まれるように入って行った冬月について恐る恐る室内に足を踏み入れた僕は、目に飛び込んで来た豪奢な内装と、着飾った紳士淑女たちが一斉に向けた射すような視線に、危うく意識が遠のきかけて大いに焦った。
内側から扉を開けたのは、垢抜けた西洋風のお仕着せに身を包んだ給仕長と思しき中年の男だった。
「お帽子とステッキをお預かり致しましょう」
冬月の前に手を差し出そうとした男を、僕たちの後ろに控えていた支配人の軽い咳払いが押し止めた。支配人は静かに男に近寄ると、極めて小さな聲で耳打ちをした。
「君、冬月様がお帽子とステッキをお側に置いておかれる事をお好みになるのを忘れたのか。大切なお客様の習慣は憶えておき給え」
「は……っ、これは失礼致しました……」
慌てて手を引っ込めた男には目もくれず、冬月は無言で支配人に頷きかけると、帽子の縁に指先を当て、ステッキの猟犬を肩に引っ掛けながら、僅かに僕を振り返って目顔でついて来るように指示した。
豪華な喫茶室の中を如何にも物慣れた様子で奥へと進む冬月に、室内の空気は俄かにピリピリと引き締まった。
目配せをしながらひそひそと低く言葉を交わし合う人々の間を滑るように歩く冬月の後ろを、これ以上ない程身を縮めてついて行きながら、じろじろと無遠慮な視線に晒された僕の頬には熱い血がのぼった。
勢い俯き加減に歩いていた僕は、前を歩く冬月がいきなり立ち止まったのに気づくのが遅れ、もう少しでその背中にぶつかるところだった。
急停止した僕が驚きつつ顔を上げるのと、上等な帽子を取って赤褐色の髪を露わにした冬月が朗朗たる聲を発したのは、ほぼ同時だった。
「お待たせ致しました、澪子さん」
冬月が慇懃な仕草で礼をした相手は、喫茶室の最奥の窓際に据えられた、白い卓布の上に華やかな紅茶の茶器が並んだ円卓に、薄曇りの初秋の日を浴びて座っていた。
羽根付きの深い葡萄色の帽子の下に豊かに波打つ黒髪を肩の辺りまで垂らしたその女性を一目見た僕は、一瞬唖然と口を開け、不躾にも熟視してしまうという失態を演じてしまった。
冬月に澪子さんと呼ばれたその女性は、目の覚めるような美女だったのだ。
夜目に輝く猫のような大きな双眸は長く濃い睫毛に彩られ、聡明さの一端を窺わせる光を放って強く目を引いた。やはり葡萄の色に染められた、ぽってりとしていながら上品な唇に咲く微笑は、魅惑的でありながら何処か包み込むような優しさに満ちており、より一層の印象深さで僕の目を奪った。
西洋的で現代的な明朗と、日本古来の大和撫子とが共存するようなその女性の﨟長けた雰囲気と美貌に、僕は無作法にも見惚れ、釘づけになってしまった。
冬月ほどの男の見合い相手というからには、家柄や人柄が申し分ない事は言わずもがな、容姿が優れている事も、或いは最低限の条件として挙げられているとしても驚くべき事ではないのだろうが、それにしたって目の前に座る女性の美しさは並外れている。
これ程の女性との縁談を冬月が本当に断ろうとしているのだとしたら、それはもう信じ難い暴挙であるとさえ思えた。
宛らこの国で位人臣を極めた大官貴紳の姫君を描いた西洋絵画を見ているような気になって、半ば陶然と夢見心地に耽り掛けていた僕は、けれど次の瞬間、その優雅な美を醸し出す女性の背後、太い柱の陰に、一種異様とも言うべき異質さで以って周囲を圧している物体が在る事に気がつかされると、たちどころに酔いが醒めていくように我に返った。
──いや、物体というのは間違いだ。何故なら、それは物ではなく、れっきとした人間だったからだ……。
その美しい令嬢の背後には、一人の男が立っていた。
ただの男ではない。頑強を絵に描いたような男だった。
嵐にも動じぬ樫の樹木を思わせる精悍な肉体を黒い背広とズボンで包み、同じく黒いタイを太い首に締め、微動だにせず令嬢の背後に立ち詰めているその男は、見た者を必ず不安にさせるのでは思わせる鋭い視線と、仁王像も裸足で逃げ出しかねない威圧感で、令嬢の周囲に堅牢な壁を築いているようだった。
目付きの険のある鋭さと重厚な大木を彷彿とさせる雰囲気の為に老成して見えるが、恐らく三十には届かない年の頃だと思われる。
男の眼は、まさに猛禽のそれだった。その鋭い目つきが、男が紛れもなく狩る側の人間である事を示していた。その眼で、男は冬月を射るように睨みつけていた。
けれど当の冬月はと言えば、男の鋭い視線はおろか、その存在すら目に入らないといった風情で令嬢に向かって言葉を発した。
「長くお待たせしていなければいいのですが」
そう言いつつ一切悪びれるところのない口ぶりで言った冬月は、黒ずくめの男の一層鋭さを増した視線を気にも留めない様子でいつもの皮肉的な嗤いを頬に刻むと、令嬢が勧めるより前に悠然と向かいの席に腰を下ろした。
「まさか、待たされてなどおりませんわ。それに、たとえ長くお待ちする事になったとしても、蘇芳様をお待ちする時間は私には何より心躍らせるひと時ですもの。寧ろお逢い出来る瞬間の喜びを長く引き伸ばす楽しみで、本当に踊り出したい心境になれますわ」
薔薇模様の浮き出た臙脂色のレエスの手袋を嵌めた手で口元を覆い、大輪の花のように微笑んだ令嬢の、その率直な物言いに、僕の心臓がドキッと大きく脈打った。
部外者である僕が照れているというのに、冬月自身は令嬢の言葉を意に介する様子もなく、傍らの椅子の上に帽子とステッキを置きながら此方をチラリと振り返り、
「君、何を唐変木みたいな顔をして突っ立っているんだ。早く席に着き給え」
「と、唐変木って……」
思わず言い掛けて、微笑みに彩られた令嬢の視線が此方を向いた事に気がついた途端、ぼっと燃え上がるように火のついた恥ずかしさにもぞもぞと體を動かしながら、口を噤んだ。
「ほら、林檎みたいにのぼせて居ないでさっさと座り給え。女性を待たせるなんて紳士に有るまじき振る舞いだぞ」
皮肉たっぷりの口調で愚弄され、頸筋にまで羞恥心の炎が広がった。
微笑みを絶やさず僕を見上げる令嬢にそそくさと頭を下げて眼鏡を押し上げると、黒ずくめの男の鋭い視線に委縮しつつも、空いていた冬月の傍らの席にそっと腰を下ろした。
僕が着席するのを見届けて、令嬢は華やかな微笑をそのまま冬月に振り向けると、
「蘇芳様、此方のお方は?」
如何にも淑女らしい美しい聲で言われたその台詞から、自分が名乗りもせずに着席するという大失態を演じた事に気がついた僕の肝は、これ以上ない程の冷気に晒された。
勿論、この場合本来ならば冬月が僕を令嬢に紹介するのが筋である訳だが、そんな常識的且つ良識的な礼儀を冬月に期待する前に、自ら名乗って然るべきだった。
僕は慌てて立ち上がり、令嬢に向かって背中が見えるほどの辞儀をした。
「失礼しました。小鳥遊柊萍と申します。え……と、あの、冬月とはその……」
何と言うべきかと傍らの冬月に助けを求める視線を巡らせたが、当の本人は椅子の背に深く凭れて脚を組み、まるで自分の与り知るところではないとでも言うような涼しい顔で卓の上を眺めているだけだった。
黙って座っていればいいと言った冬月自身が何も言わないなんて、あまりに無責任ではないかと泣きたい気分になった。まさかずっとこの調子で通すつもりじゃないだろうな……と、早くも不安が押し寄せた。
困惑しながら、無駄だと知りつつも、救いを求める視線を冬月に向けたまま椅子の前に立ち尽くしていた僕の耳に、突然嬉々とした令嬢の聲が飛び込んだ。
「まぁ、蘇芳様にこんなお可愛いらしい御友人がいらっしゃったなんて、私とした事がちっとも存じ上げませんでしたわ」
──か、可愛いらしい……!?
華やいだ聲を上げて僕と冬月とを交互に見ている令嬢の笑顔を前に、僕の意識は今度こそ本当に遠のきそうになった。けれど歯を喰いしばって堪えると、茫然と突っ立ったまま、鼻先にずり落ちた眼鏡を上げようとした。ところが内心の動揺が伝染ったものか、指先が顫えてうまく押し上げられず、羞恥と焦りで額には汗が滲んだ。
──さすが冬月と見合いをしようと言うだけあって、なかなか型破りな令嬢のようだ……。
ばくばくと轟音を立てて脈動する心臓にますます動揺して狼狽えていると、
「どうぞお座りになって下さいませ、小鳥遊様」
令嬢に美しく優しい微笑みを手向けられた上、「様」などという敬称付きで呼び掛けられた僕は、最早震天動地の出来事に遭遇してしまったかのように動顛し、情けなくもわなわなと顫え始めた膝をどうにかこうにか折って、そろそろと椅子に腰を下ろした。
「小鳥遊様、初めまして。私は天花寺澪子と申します。蘇芳様の婚約者……と申し上げても構いませんかしら?」
優雅な微笑で自らの名を僕に名乗った令嬢は、艶やかさと慈愛の共存する眼差しをゆっくりと冬月に向けた。
車中に取り残された僕はすっかり混乱し、動揺のあまりずり下がった眼鏡を押し上げる事も忘れ、颯爽と車から降りて地面に立っている冬月の背中を茫然と見詰めていた。
「冬月様。いらっしゃいませ」
冬月に深々と頭を下げた制服の男が、ちらりと目だけ動かして車内の僕を見た。その一瞬の品定めで僕を取るに足らない存在と断定したらしく、男はすっと視線を外すと殆ど直角に折り曲げていた腰を無言のまま立てた。
男の冷ややかな態度にますます緊張が煽られ、すっかり狼狽して座席に尻を張りつかせていると、肩越しにちょっと頸を捻って振り返った冬月が、
「何を愚図愚図しているんだ。早く降り給え」
「あ、す、すまない、今……」
慌てて降りようとした僕は自動車の天井に頭をぶつけそうになった。
係の男が一瞬唇の端を歪ませたような気がして、顔から火が出そうだった。
「──お供の方も、ようこそ当館へ」
慇懃な物言いだったが、僕をお供と言ったその口ぶりには針のような侮蔑が潜み、先から身の置き所のない僕は、いよいよ身を縮ませながら、男に辞儀をした。
何とか車から降りて後ろに立った僕を振り返る事なく、長い脚を蹴り出すようにして早速歩き出した冬月に、係の男は低頭し、
「どうぞごゆっくりと御滞在──」
言い掛けた男の言葉を遮って、冬月はステッキの握りの猟犬で背後の僕を指すと、
「彼は大日本帝国大学の御子柴玄人教授の愛弟子だ。教授自ら他所から引き抜いて来たと言えば一介のポーターに過ぎない君にも彼がどれ程優秀かはわかるだろう。今後教授と共に此処を利用する事もあるかもしれない。見知っておき給え」
と言い捨てるようにして、男の鼻先を通り過ぎた。
係の男は俄かに色を失くして冬月の背中を見送りながら、
「……え……っ、御子柴教授の……。さ、左様でございましたか……、存じ上げず失礼を致しました」
僕の真正面に急いで體を向き直らせると、気の毒なぐらいの勢いで腰を折った。
けれど冬月の言葉に肝を潰したのは寧ろ僕の方だった。
僕は冷や汗を掻きつつ、しどろもどろに「いえ……っ」とか「あの……っ」とか口走りながら、青ざめて伏せた顔を上げようとしない係の男にぺこぺこと頭を下げていたが、僕をその場に残して歩いて行った冬月が、今まさにホテルの中に入ろうとしているのを見ると、大慌てにその後を追った。
やっと追いついたのは吹き抜けになった玄関広間だった。僕はその壮麗さに半ば圧倒されつつも、大股で闊歩する冬月に小走りでついて行きながら、聲を潜めて言った。
「僕が先生の愛弟子だなんて大嘘を言わないでくれ。後で問題になったらどうするんだ」
「君は生真面目な上に小心だな。それでよく生き牛の目を抉る研究者たちの間で今日まで無事な姿のまま来られたものだ」
「こ、これは真面目とか小心とかいう問題とは──」
冬月はさっと片手を挙げて煩そうに僕の言葉を遮ると、颯然と風を切ってロビーを横切った。遅れまいと必死に後について歩いていると、
「これは冬月様。御贔屓にして頂き有難う存じます」
にこやかな笑顔で近づいてきた燕尾服姿の男性に冬月は軽く頷き返すと、
「支配人、単刀直入だが女性と待ち合わせている」
「はい、承知致しております。貴賓喫茶室にてお待ちでございます。どうぞ此方へ」
そう言うと、支配人は腰を低くして冬月の少し前を歩き始めた。
午前中のまだ早い時分という事もあってか、館内に人はまばらで、僕と冬月と支配人の靴音が高い天井に響く音が妙に耳につき、弥が上にも緊張が高まった。
ホテルの奥まった部分まで来ると、重そうな木製の扉の前で支配人が立ち止まった。それを見計らうように間髪を入れず内側から扉が開かれ、頭を下げた支配人の前を吸い込まれるように入って行った冬月について恐る恐る室内に足を踏み入れた僕は、目に飛び込んで来た豪奢な内装と、着飾った紳士淑女たちが一斉に向けた射すような視線に、危うく意識が遠のきかけて大いに焦った。
内側から扉を開けたのは、垢抜けた西洋風のお仕着せに身を包んだ給仕長と思しき中年の男だった。
「お帽子とステッキをお預かり致しましょう」
冬月の前に手を差し出そうとした男を、僕たちの後ろに控えていた支配人の軽い咳払いが押し止めた。支配人は静かに男に近寄ると、極めて小さな聲で耳打ちをした。
「君、冬月様がお帽子とステッキをお側に置いておかれる事をお好みになるのを忘れたのか。大切なお客様の習慣は憶えておき給え」
「は……っ、これは失礼致しました……」
慌てて手を引っ込めた男には目もくれず、冬月は無言で支配人に頷きかけると、帽子の縁に指先を当て、ステッキの猟犬を肩に引っ掛けながら、僅かに僕を振り返って目顔でついて来るように指示した。
豪華な喫茶室の中を如何にも物慣れた様子で奥へと進む冬月に、室内の空気は俄かにピリピリと引き締まった。
目配せをしながらひそひそと低く言葉を交わし合う人々の間を滑るように歩く冬月の後ろを、これ以上ない程身を縮めてついて行きながら、じろじろと無遠慮な視線に晒された僕の頬には熱い血がのぼった。
勢い俯き加減に歩いていた僕は、前を歩く冬月がいきなり立ち止まったのに気づくのが遅れ、もう少しでその背中にぶつかるところだった。
急停止した僕が驚きつつ顔を上げるのと、上等な帽子を取って赤褐色の髪を露わにした冬月が朗朗たる聲を発したのは、ほぼ同時だった。
「お待たせ致しました、澪子さん」
冬月が慇懃な仕草で礼をした相手は、喫茶室の最奥の窓際に据えられた、白い卓布の上に華やかな紅茶の茶器が並んだ円卓に、薄曇りの初秋の日を浴びて座っていた。
羽根付きの深い葡萄色の帽子の下に豊かに波打つ黒髪を肩の辺りまで垂らしたその女性を一目見た僕は、一瞬唖然と口を開け、不躾にも熟視してしまうという失態を演じてしまった。
冬月に澪子さんと呼ばれたその女性は、目の覚めるような美女だったのだ。
夜目に輝く猫のような大きな双眸は長く濃い睫毛に彩られ、聡明さの一端を窺わせる光を放って強く目を引いた。やはり葡萄の色に染められた、ぽってりとしていながら上品な唇に咲く微笑は、魅惑的でありながら何処か包み込むような優しさに満ちており、より一層の印象深さで僕の目を奪った。
西洋的で現代的な明朗と、日本古来の大和撫子とが共存するようなその女性の﨟長けた雰囲気と美貌に、僕は無作法にも見惚れ、釘づけになってしまった。
冬月ほどの男の見合い相手というからには、家柄や人柄が申し分ない事は言わずもがな、容姿が優れている事も、或いは最低限の条件として挙げられているとしても驚くべき事ではないのだろうが、それにしたって目の前に座る女性の美しさは並外れている。
これ程の女性との縁談を冬月が本当に断ろうとしているのだとしたら、それはもう信じ難い暴挙であるとさえ思えた。
宛らこの国で位人臣を極めた大官貴紳の姫君を描いた西洋絵画を見ているような気になって、半ば陶然と夢見心地に耽り掛けていた僕は、けれど次の瞬間、その優雅な美を醸し出す女性の背後、太い柱の陰に、一種異様とも言うべき異質さで以って周囲を圧している物体が在る事に気がつかされると、たちどころに酔いが醒めていくように我に返った。
──いや、物体というのは間違いだ。何故なら、それは物ではなく、れっきとした人間だったからだ……。
その美しい令嬢の背後には、一人の男が立っていた。
ただの男ではない。頑強を絵に描いたような男だった。
嵐にも動じぬ樫の樹木を思わせる精悍な肉体を黒い背広とズボンで包み、同じく黒いタイを太い首に締め、微動だにせず令嬢の背後に立ち詰めているその男は、見た者を必ず不安にさせるのでは思わせる鋭い視線と、仁王像も裸足で逃げ出しかねない威圧感で、令嬢の周囲に堅牢な壁を築いているようだった。
目付きの険のある鋭さと重厚な大木を彷彿とさせる雰囲気の為に老成して見えるが、恐らく三十には届かない年の頃だと思われる。
男の眼は、まさに猛禽のそれだった。その鋭い目つきが、男が紛れもなく狩る側の人間である事を示していた。その眼で、男は冬月を射るように睨みつけていた。
けれど当の冬月はと言えば、男の鋭い視線はおろか、その存在すら目に入らないといった風情で令嬢に向かって言葉を発した。
「長くお待たせしていなければいいのですが」
そう言いつつ一切悪びれるところのない口ぶりで言った冬月は、黒ずくめの男の一層鋭さを増した視線を気にも留めない様子でいつもの皮肉的な嗤いを頬に刻むと、令嬢が勧めるより前に悠然と向かいの席に腰を下ろした。
「まさか、待たされてなどおりませんわ。それに、たとえ長くお待ちする事になったとしても、蘇芳様をお待ちする時間は私には何より心躍らせるひと時ですもの。寧ろお逢い出来る瞬間の喜びを長く引き伸ばす楽しみで、本当に踊り出したい心境になれますわ」
薔薇模様の浮き出た臙脂色のレエスの手袋を嵌めた手で口元を覆い、大輪の花のように微笑んだ令嬢の、その率直な物言いに、僕の心臓がドキッと大きく脈打った。
部外者である僕が照れているというのに、冬月自身は令嬢の言葉を意に介する様子もなく、傍らの椅子の上に帽子とステッキを置きながら此方をチラリと振り返り、
「君、何を唐変木みたいな顔をして突っ立っているんだ。早く席に着き給え」
「と、唐変木って……」
思わず言い掛けて、微笑みに彩られた令嬢の視線が此方を向いた事に気がついた途端、ぼっと燃え上がるように火のついた恥ずかしさにもぞもぞと體を動かしながら、口を噤んだ。
「ほら、林檎みたいにのぼせて居ないでさっさと座り給え。女性を待たせるなんて紳士に有るまじき振る舞いだぞ」
皮肉たっぷりの口調で愚弄され、頸筋にまで羞恥心の炎が広がった。
微笑みを絶やさず僕を見上げる令嬢にそそくさと頭を下げて眼鏡を押し上げると、黒ずくめの男の鋭い視線に委縮しつつも、空いていた冬月の傍らの席にそっと腰を下ろした。
僕が着席するのを見届けて、令嬢は華やかな微笑をそのまま冬月に振り向けると、
「蘇芳様、此方のお方は?」
如何にも淑女らしい美しい聲で言われたその台詞から、自分が名乗りもせずに着席するという大失態を演じた事に気がついた僕の肝は、これ以上ない程の冷気に晒された。
勿論、この場合本来ならば冬月が僕を令嬢に紹介するのが筋である訳だが、そんな常識的且つ良識的な礼儀を冬月に期待する前に、自ら名乗って然るべきだった。
僕は慌てて立ち上がり、令嬢に向かって背中が見えるほどの辞儀をした。
「失礼しました。小鳥遊柊萍と申します。え……と、あの、冬月とはその……」
何と言うべきかと傍らの冬月に助けを求める視線を巡らせたが、当の本人は椅子の背に深く凭れて脚を組み、まるで自分の与り知るところではないとでも言うような涼しい顔で卓の上を眺めているだけだった。
黙って座っていればいいと言った冬月自身が何も言わないなんて、あまりに無責任ではないかと泣きたい気分になった。まさかずっとこの調子で通すつもりじゃないだろうな……と、早くも不安が押し寄せた。
困惑しながら、無駄だと知りつつも、救いを求める視線を冬月に向けたまま椅子の前に立ち尽くしていた僕の耳に、突然嬉々とした令嬢の聲が飛び込んだ。
「まぁ、蘇芳様にこんなお可愛いらしい御友人がいらっしゃったなんて、私とした事がちっとも存じ上げませんでしたわ」
──か、可愛いらしい……!?
華やいだ聲を上げて僕と冬月とを交互に見ている令嬢の笑顔を前に、僕の意識は今度こそ本当に遠のきそうになった。けれど歯を喰いしばって堪えると、茫然と突っ立ったまま、鼻先にずり落ちた眼鏡を上げようとした。ところが内心の動揺が伝染ったものか、指先が顫えてうまく押し上げられず、羞恥と焦りで額には汗が滲んだ。
──さすが冬月と見合いをしようと言うだけあって、なかなか型破りな令嬢のようだ……。
ばくばくと轟音を立てて脈動する心臓にますます動揺して狼狽えていると、
「どうぞお座りになって下さいませ、小鳥遊様」
令嬢に美しく優しい微笑みを手向けられた上、「様」などという敬称付きで呼び掛けられた僕は、最早震天動地の出来事に遭遇してしまったかのように動顛し、情けなくもわなわなと顫え始めた膝をどうにかこうにか折って、そろそろと椅子に腰を下ろした。
「小鳥遊様、初めまして。私は天花寺澪子と申します。蘇芳様の婚約者……と申し上げても構いませんかしら?」
優雅な微笑で自らの名を僕に名乗った令嬢は、艶やかさと慈愛の共存する眼差しをゆっくりと冬月に向けた。
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