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其の七 冬月帝国
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その色々な意味から衝撃的と言わざるを得ない初来駕以降、冬月はしばしば研究室にやって来るようになったのだが、それが予想以上に頻繁であった為、研究室には日々困惑と緊張に加え、不安と不満、そして意外の気色が色濃くなっていった。
尤も、研究の進捗を見極め、今後の援助の方針を立てる為であるとすれば度々の訪問も当然の事だろうが、しかし調査の為の来訪と言うよりは、まるで来遊するような具合の冬月の態度からは、研究やその成果に対する関心を見出す事は出来ず、それがまた研究員たちの癇に障るようだった。
意外の色と言うのには、「良きにつけ悪しきにつけ、結局はおざなりな調査でお茶を濁して終わりに違いない」という大方の予想に反し、その来訪が頻繁であったという事の他にも理由があった。
と言うのも、冬月はいつも悠然と研究室の扉を開けて入って来ると、微かな戸惑いと緊張を見せつつ出迎えた御子柴先生を、僅かに頸を傾けるようにして顎を持ち上げながら見下ろし、極めて短い時候の挨拶をさっさと済ませてしまうと、専ら僕の所にやって来たからだ。
そうして取り留めのない話などをしながら──勿論これは会話というよりは、冬月が一方的に話す事を僕が(理解出来るか否かは別として)懸命に相槌を打ちつつ聞いているだけなのだが──小一時間ほど過ごすと、後はもう研究室を一顧だにせず、大股で帰って行くのだった。
そういう訳で、最初の出会いの印象から、小鳥遊柊萍という存在が、冬月蘇芳にとって取るに足りない物としてきっちり認定されたものと思い做していた僕自身を含めた研究員たちの間には、大変な驚きと衝撃がもたらされたのだった。
冬月のこうした振る舞いは、誰一人予想のつかなかった大事件として取り沙汰された。
その結果、僕は研究室の扉が開いて毎回違う三つ揃いと帽子、猟犬の握りのステッキという垢抜けた出で立ちの冬月が現れると、初めての出会いの時などより余程緊張し、そわそわと落ち着きを失くすようになった。
しかし冬月が薄い皮肉的な嗤いにその端正な顔立ちを歪めつつ、勝手知ったる足取りで悠然と此方にやって来て、小さな形ばかりの僕の作業机の端に凭れ掛かるような恰好で浅く腰掛け、長い脚を優雅に交差させるのを見ると、腹を括って冬月に向き合おうと決心するのだが、結局は机の上に置かれた未整理の資料や書類などを取り上げては如何にも関心なさそうに斜めに読みながら、僕にはさっぱり理解の出来ない話をする冬月に、「はぁ……」とか「そうですか……」などと、合いの手とも返事とも言えないような間の抜けた返しをする事で手一杯になるのが常だった。
けれどもっと胃の痛い事には、冬月が時折僕の発言を促すような時がある事だった。そういう場合、不用意に物を言って冬月の機嫌を損ねるような事があっては一大事であるという思いから、全神経を張り巡らせるようにして恐る恐る口を開く。すると冬月は決まって唇の片側を吊り上げ、天成の麗質を敢えて皮肉っぽい笑みに歪めながら、
「そう固くなる必要はないよ。僕は無駄に気を遣われるのは好きではないし、君とはちょうど同じ年だ。それに別に僕は君の主人でもないのだから、僕に対して敬語を使ったり、さっきのように僕を冬月様などと呼んだりする必要はない。僕の事は冬月、とそう呼んでくれ給え」
などと言って、僕自身は勿論、周りで耳を聳てている研究員たちの度肝を抜くのだった。
冬月がどうした訳か何の取り柄もない単なる雑用係に関心を示しているような状況を前に、研究室には静かな狂瀾とも言うべき奇奇怪怪な空気が押し広げられた。
しかし折しも大学側から御子柴先生の研究に対する予算を削減するという通達が出された研究室では、この怪事件を寧ろ有効に活用する事こそ得策だという結論に達したようだった。
研究資金はどれだけあっても困るものではない。寧ろなければ途端に立ちいかなくなる。外部からの援助金を調達する事は研究室にとっての死活問題だった。
存続か否かという二進も三進も行かない大問題が、言ってみれば冬月蘇芳の胸一つで決まるという現況にあって、一筋の光明たり得るものが、箸にも棒にもかからない存在でしかなかった僕であるというのは、研究員たちからすれば皮肉な笑い話のようなものではあったようだが、兎に角も、僕に対する彼らの目がこの事変を契機に変わったのは確かだった。
──そう、傲岸不遜に顎を上げ、驕慢な薄笑いで見くびるような言動をして研究員たちの反感を買った冬月蘇芳は、取りも直さず、その名を口にする人が必ずと言ってよい程「あの」という指示語をつけて語る冬月一族の人間なのだから。
冬月のその氏素性は、彼が少なからず周囲に対して威丈高で礼儀を欠いた振る舞いをしたとしても「然もありなん」と開けて通されるだけの力を持っており、同時にまた、ある階級より上に所属しているという自負がある人々にとっては、羨望に根差した対抗心や嫉妬心というものを刺激される存在でもあるらしかったから、冬月の関心を引いたように見える僕への人々の認識が変わったとしても不思議ではなかった。
──などと言ってはいるが、勿論、八カ月前まで帝都から遠く離れた田舎町に住んでいた僕が、冬月蘇芳について、その素性の詳しいところなどを知っている筈はなく、故に冬月と知り合って以降に見聞きした情報を頼りに──尤も、それは情報というよりは断片的な噂話を寄せ集めたようなものに過ぎなかったが──冬月蘇芳がどういった出自を持つ青年であるかを自分なりに理解していくしかなかった。
そうやって集めた情報によって知り得たところによると、彼は所謂「上流」とか「ブルジョワジー」と呼ばれる人々の間で、ある種の揶揄と些かならざる畏怖の念をもって『冬月帝国』とも呼び表されている累代の資産家一族の嫡子であるという事だった。
とは言え、帝国などと言う仰々しい呼称で囁かれていながら、冬月家が実際に何によって財を成したかや、一族の妻女や子弟にどのような人物が居るのかなど、その実態とも言うべき冬月家の全貌について知る人は殆ど居なかった。
ただ、旧来よりこの一族に対するお上の恩寵が手厚いという事は、ある一定の階級以上の人々の間では共通した認識であるらしかった。
巷では、この国でも最も上層に位置する人々──即ち華族や政治家などという貴紳に対する貸金業で成り上がって来たというのが専らの噂であるようだったが、しかし僕は人々が「金貸し」などと口にする時の彼等の顔つきや聲の調子が幾らか侮蔑的であるのを見ると、それが単に「冬月の一族は貸金業を生業とする卑しむべき集団である」と貶める事によって、自分たちの嫉妬心を宥め、留飲を下げようとしているだけのように感ぜられ、確信はないものの、人々の一族に対する無責任な放言は悉く全くの出鱈目の俗論であり、寧ろ邪説であるような気さえして仕方がなかった。
いずれにしても、その実態の見えない生活ぶりは虚実ない交ぜの噂を泡の如く湧き上がらせ、弾けた水泡が作る濃い霧で冬月家をますますもって覆い隠すようだった。
するとそれがまたこの一族への興味や関心を掻き立て、些か悪意に満ちた想像や下賤な妄想を止めどなく溢れさせるという図式が膨らんでいくらしかった。
一方で、確実に真実であるとわかっている事柄もあった。冬月家がその莫大な資産を活かして、御子柴先生の研究室だけに留まらず、随所で相当額の援助や寄付をしているという事だ。
だがそうした慈善的活動も、一部の人々からは「自分たちの利益とならないとわかるや否や無慈悲に援助を打ち切るらしい。所詮は血も泪もない因業な人間の集まりだ」などと陰口を叩かれ、僻みと嫉みの対象となっているようだった。
何にせよ、人々が冬月蘇芳に対してある意味畏れとも言うべき感情を抱くのは、そうした無責任な噂話による事も然りながら、やはりどうしてもその容姿によるところが大きいと言わざるを得ないようだった。
大日本帝国有数の資産家一族としてその名を轟かす冬月家の実態を知る者は皆無と言っても過言ではない実情にあって、少なくとも現当主──これは即ち冬月蘇芳の父親の事だ──の母だか祖母だかに当たる人が、何処か西欧のさる王家の血筋を引く女性であるとかないとか言う噂に関しては、冬月蘇芳のその傲慢を伴った優雅を見る限り、事実であるような気がするのだった。
研究室で働く人々は、冬月が燦然と煌めくような光を纏って姿を現すと、まるで冬月を真っ直ぐ見ては自尊心が損なわれるとでも言わんばかりの態度で無視しようとするのだが、その実、その一挙手一投足に全神経を集中させているのが傍目にも明らかにわかるのだ。
彼等の冬月を盗み見る目には、例えば貴重な美術品や美しい芸術品に対するような讃嘆と驚嘆、そして憧憬が見て取れるのだった。
周囲の複雑な胸の内を知ってか知らずか、当の冬月はと言えば、自分に向けられる如何なる賛否の視線にも無関心を示した。それがまた人々にとっては称賛や嫉妬、諂いや敵意と言った正負両極の感情を複雑怪奇に煽るようで、どうしようもない苛立ちに苛まれると共に、完膚なきまでに打ちのめされる絶望に悵然と打ちひしがれる事態に追い遣られ、何とも言えない気持ちに歯噛みをさせられるらしかった。
人々のそうした精神状態に追い打ちを掛けるように、冬月は時として、必要以上に挑発的な言動を繰り返す事があった。そうやって顔色を変えた相手を見るや、その神秘を湛えた琥珀のような目をいよいよ愉快な揶揄の色に光らせ、ますます以って毒壺に浸した舌先を揮っては、相手の感情をこれでもかと波立たせる事を愉しむようなのだった。
けれど僕にはそうする時の冬月が、意地悪く嘲弄しているように見えて、その実相手の挙動をつぶさに観察しているように思えてならなかった。
とは言え、僕も初めのうちはそんな冬月の所業に翻弄され、脅威を感じずには居られなかった。
ところが、頻繁に顔を合わせるうち、或る意味、冬月蘇芳という人物に対し、その行状や彼が放つ眩いばかりの光波への免疫が獲得されていくらしい事を感じ始めると、自分自身、その奇跡的な変化に驚きを隠せなかった。
不思議な物で、そうなってみると、次第に冬月の辛辣で他に阿る事のない言動には、その視線の強さに既に表されているのと同様の物怖じの無さや、信念の固さと言った物とは別に、彼の少々どぎついユーモアの感覚や、裏表のない正直さなどがありありと浮き出して見えるようになり、それが何とも好ましく思え始めた。
信じ難い事だったが、それは冬月に対する慣れと同時に親しみの感情の呼び水ともなり、鯱張った敬語で辛うじて相槌を打つだけだった僕に、いつしか冬月の一言一行への疑義を唱えさせたり、稀には反論するような言葉を言わせるように仕向けた。
元来、他人とうまく付き合う術を持たない筈の僕にとって、これは或る意味天地を揺るがす大事件にも等しかった。
しかしそれ以上に、いつもそれとなく此方の様子を窺っている研究員たちにとっては、冬月に対する僕の不心得で分不相応な発言は驚天動地の異常事態であり、そうした行いをする僕はかつてない程の顰蹙の対象となった。
研究員たちの矢のように突き刺さる視線によって示される非難と叱責は周囲を澎湃と取り巻いて、迂闊にもそういう状況を作ってしまう僕を溺れさせるのだったが、冬月当人は──実に意外な事でもあったのだが──僕が何か言い掛けると、にやにや嗤いに歪めた顔で面白そうに眺めながらも、どうやらまともに耳を傾けているらしい様子を見せるのだった。
それが却って僕を変な具合にどぎまぎさせ、舌を縺れさせてしまうものだから、いつも言い掛けた言葉は中途半端なところで虚空へと吞まれて行き、結局は揶揄と皮肉をその玉のような琥珀色の瞳にのぼらせた冬月の華麗とも言うべき言説の数々でもって、叩きのめされるかの如く言い込められるのが落ちだった。
けれど、そういう遣り取りの中に、僕はおよそ自分の属する世界とはかけ離れた所に棲む冬月が、僕という存在にまともに向き合い、一個の人間らしく扱ってくれているような感覚を覚え、図らずも胸の奥底に仄かな光が明滅するのを感じずには居られなかった。……縦しんばそれが単なる思い過ごし──都合のいい勘違いであったとしても──……。
尤も、研究の進捗を見極め、今後の援助の方針を立てる為であるとすれば度々の訪問も当然の事だろうが、しかし調査の為の来訪と言うよりは、まるで来遊するような具合の冬月の態度からは、研究やその成果に対する関心を見出す事は出来ず、それがまた研究員たちの癇に障るようだった。
意外の色と言うのには、「良きにつけ悪しきにつけ、結局はおざなりな調査でお茶を濁して終わりに違いない」という大方の予想に反し、その来訪が頻繁であったという事の他にも理由があった。
と言うのも、冬月はいつも悠然と研究室の扉を開けて入って来ると、微かな戸惑いと緊張を見せつつ出迎えた御子柴先生を、僅かに頸を傾けるようにして顎を持ち上げながら見下ろし、極めて短い時候の挨拶をさっさと済ませてしまうと、専ら僕の所にやって来たからだ。
そうして取り留めのない話などをしながら──勿論これは会話というよりは、冬月が一方的に話す事を僕が(理解出来るか否かは別として)懸命に相槌を打ちつつ聞いているだけなのだが──小一時間ほど過ごすと、後はもう研究室を一顧だにせず、大股で帰って行くのだった。
そういう訳で、最初の出会いの印象から、小鳥遊柊萍という存在が、冬月蘇芳にとって取るに足りない物としてきっちり認定されたものと思い做していた僕自身を含めた研究員たちの間には、大変な驚きと衝撃がもたらされたのだった。
冬月のこうした振る舞いは、誰一人予想のつかなかった大事件として取り沙汰された。
その結果、僕は研究室の扉が開いて毎回違う三つ揃いと帽子、猟犬の握りのステッキという垢抜けた出で立ちの冬月が現れると、初めての出会いの時などより余程緊張し、そわそわと落ち着きを失くすようになった。
しかし冬月が薄い皮肉的な嗤いにその端正な顔立ちを歪めつつ、勝手知ったる足取りで悠然と此方にやって来て、小さな形ばかりの僕の作業机の端に凭れ掛かるような恰好で浅く腰掛け、長い脚を優雅に交差させるのを見ると、腹を括って冬月に向き合おうと決心するのだが、結局は机の上に置かれた未整理の資料や書類などを取り上げては如何にも関心なさそうに斜めに読みながら、僕にはさっぱり理解の出来ない話をする冬月に、「はぁ……」とか「そうですか……」などと、合いの手とも返事とも言えないような間の抜けた返しをする事で手一杯になるのが常だった。
けれどもっと胃の痛い事には、冬月が時折僕の発言を促すような時がある事だった。そういう場合、不用意に物を言って冬月の機嫌を損ねるような事があっては一大事であるという思いから、全神経を張り巡らせるようにして恐る恐る口を開く。すると冬月は決まって唇の片側を吊り上げ、天成の麗質を敢えて皮肉っぽい笑みに歪めながら、
「そう固くなる必要はないよ。僕は無駄に気を遣われるのは好きではないし、君とはちょうど同じ年だ。それに別に僕は君の主人でもないのだから、僕に対して敬語を使ったり、さっきのように僕を冬月様などと呼んだりする必要はない。僕の事は冬月、とそう呼んでくれ給え」
などと言って、僕自身は勿論、周りで耳を聳てている研究員たちの度肝を抜くのだった。
冬月がどうした訳か何の取り柄もない単なる雑用係に関心を示しているような状況を前に、研究室には静かな狂瀾とも言うべき奇奇怪怪な空気が押し広げられた。
しかし折しも大学側から御子柴先生の研究に対する予算を削減するという通達が出された研究室では、この怪事件を寧ろ有効に活用する事こそ得策だという結論に達したようだった。
研究資金はどれだけあっても困るものではない。寧ろなければ途端に立ちいかなくなる。外部からの援助金を調達する事は研究室にとっての死活問題だった。
存続か否かという二進も三進も行かない大問題が、言ってみれば冬月蘇芳の胸一つで決まるという現況にあって、一筋の光明たり得るものが、箸にも棒にもかからない存在でしかなかった僕であるというのは、研究員たちからすれば皮肉な笑い話のようなものではあったようだが、兎に角も、僕に対する彼らの目がこの事変を契機に変わったのは確かだった。
──そう、傲岸不遜に顎を上げ、驕慢な薄笑いで見くびるような言動をして研究員たちの反感を買った冬月蘇芳は、取りも直さず、その名を口にする人が必ずと言ってよい程「あの」という指示語をつけて語る冬月一族の人間なのだから。
冬月のその氏素性は、彼が少なからず周囲に対して威丈高で礼儀を欠いた振る舞いをしたとしても「然もありなん」と開けて通されるだけの力を持っており、同時にまた、ある階級より上に所属しているという自負がある人々にとっては、羨望に根差した対抗心や嫉妬心というものを刺激される存在でもあるらしかったから、冬月の関心を引いたように見える僕への人々の認識が変わったとしても不思議ではなかった。
──などと言ってはいるが、勿論、八カ月前まで帝都から遠く離れた田舎町に住んでいた僕が、冬月蘇芳について、その素性の詳しいところなどを知っている筈はなく、故に冬月と知り合って以降に見聞きした情報を頼りに──尤も、それは情報というよりは断片的な噂話を寄せ集めたようなものに過ぎなかったが──冬月蘇芳がどういった出自を持つ青年であるかを自分なりに理解していくしかなかった。
そうやって集めた情報によって知り得たところによると、彼は所謂「上流」とか「ブルジョワジー」と呼ばれる人々の間で、ある種の揶揄と些かならざる畏怖の念をもって『冬月帝国』とも呼び表されている累代の資産家一族の嫡子であるという事だった。
とは言え、帝国などと言う仰々しい呼称で囁かれていながら、冬月家が実際に何によって財を成したかや、一族の妻女や子弟にどのような人物が居るのかなど、その実態とも言うべき冬月家の全貌について知る人は殆ど居なかった。
ただ、旧来よりこの一族に対するお上の恩寵が手厚いという事は、ある一定の階級以上の人々の間では共通した認識であるらしかった。
巷では、この国でも最も上層に位置する人々──即ち華族や政治家などという貴紳に対する貸金業で成り上がって来たというのが専らの噂であるようだったが、しかし僕は人々が「金貸し」などと口にする時の彼等の顔つきや聲の調子が幾らか侮蔑的であるのを見ると、それが単に「冬月の一族は貸金業を生業とする卑しむべき集団である」と貶める事によって、自分たちの嫉妬心を宥め、留飲を下げようとしているだけのように感ぜられ、確信はないものの、人々の一族に対する無責任な放言は悉く全くの出鱈目の俗論であり、寧ろ邪説であるような気さえして仕方がなかった。
いずれにしても、その実態の見えない生活ぶりは虚実ない交ぜの噂を泡の如く湧き上がらせ、弾けた水泡が作る濃い霧で冬月家をますますもって覆い隠すようだった。
するとそれがまたこの一族への興味や関心を掻き立て、些か悪意に満ちた想像や下賤な妄想を止めどなく溢れさせるという図式が膨らんでいくらしかった。
一方で、確実に真実であるとわかっている事柄もあった。冬月家がその莫大な資産を活かして、御子柴先生の研究室だけに留まらず、随所で相当額の援助や寄付をしているという事だ。
だがそうした慈善的活動も、一部の人々からは「自分たちの利益とならないとわかるや否や無慈悲に援助を打ち切るらしい。所詮は血も泪もない因業な人間の集まりだ」などと陰口を叩かれ、僻みと嫉みの対象となっているようだった。
何にせよ、人々が冬月蘇芳に対してある意味畏れとも言うべき感情を抱くのは、そうした無責任な噂話による事も然りながら、やはりどうしてもその容姿によるところが大きいと言わざるを得ないようだった。
大日本帝国有数の資産家一族としてその名を轟かす冬月家の実態を知る者は皆無と言っても過言ではない実情にあって、少なくとも現当主──これは即ち冬月蘇芳の父親の事だ──の母だか祖母だかに当たる人が、何処か西欧のさる王家の血筋を引く女性であるとかないとか言う噂に関しては、冬月蘇芳のその傲慢を伴った優雅を見る限り、事実であるような気がするのだった。
研究室で働く人々は、冬月が燦然と煌めくような光を纏って姿を現すと、まるで冬月を真っ直ぐ見ては自尊心が損なわれるとでも言わんばかりの態度で無視しようとするのだが、その実、その一挙手一投足に全神経を集中させているのが傍目にも明らかにわかるのだ。
彼等の冬月を盗み見る目には、例えば貴重な美術品や美しい芸術品に対するような讃嘆と驚嘆、そして憧憬が見て取れるのだった。
周囲の複雑な胸の内を知ってか知らずか、当の冬月はと言えば、自分に向けられる如何なる賛否の視線にも無関心を示した。それがまた人々にとっては称賛や嫉妬、諂いや敵意と言った正負両極の感情を複雑怪奇に煽るようで、どうしようもない苛立ちに苛まれると共に、完膚なきまでに打ちのめされる絶望に悵然と打ちひしがれる事態に追い遣られ、何とも言えない気持ちに歯噛みをさせられるらしかった。
人々のそうした精神状態に追い打ちを掛けるように、冬月は時として、必要以上に挑発的な言動を繰り返す事があった。そうやって顔色を変えた相手を見るや、その神秘を湛えた琥珀のような目をいよいよ愉快な揶揄の色に光らせ、ますます以って毒壺に浸した舌先を揮っては、相手の感情をこれでもかと波立たせる事を愉しむようなのだった。
けれど僕にはそうする時の冬月が、意地悪く嘲弄しているように見えて、その実相手の挙動をつぶさに観察しているように思えてならなかった。
とは言え、僕も初めのうちはそんな冬月の所業に翻弄され、脅威を感じずには居られなかった。
ところが、頻繁に顔を合わせるうち、或る意味、冬月蘇芳という人物に対し、その行状や彼が放つ眩いばかりの光波への免疫が獲得されていくらしい事を感じ始めると、自分自身、その奇跡的な変化に驚きを隠せなかった。
不思議な物で、そうなってみると、次第に冬月の辛辣で他に阿る事のない言動には、その視線の強さに既に表されているのと同様の物怖じの無さや、信念の固さと言った物とは別に、彼の少々どぎついユーモアの感覚や、裏表のない正直さなどがありありと浮き出して見えるようになり、それが何とも好ましく思え始めた。
信じ難い事だったが、それは冬月に対する慣れと同時に親しみの感情の呼び水ともなり、鯱張った敬語で辛うじて相槌を打つだけだった僕に、いつしか冬月の一言一行への疑義を唱えさせたり、稀には反論するような言葉を言わせるように仕向けた。
元来、他人とうまく付き合う術を持たない筈の僕にとって、これは或る意味天地を揺るがす大事件にも等しかった。
しかしそれ以上に、いつもそれとなく此方の様子を窺っている研究員たちにとっては、冬月に対する僕の不心得で分不相応な発言は驚天動地の異常事態であり、そうした行いをする僕はかつてない程の顰蹙の対象となった。
研究員たちの矢のように突き刺さる視線によって示される非難と叱責は周囲を澎湃と取り巻いて、迂闊にもそういう状況を作ってしまう僕を溺れさせるのだったが、冬月当人は──実に意外な事でもあったのだが──僕が何か言い掛けると、にやにや嗤いに歪めた顔で面白そうに眺めながらも、どうやらまともに耳を傾けているらしい様子を見せるのだった。
それが却って僕を変な具合にどぎまぎさせ、舌を縺れさせてしまうものだから、いつも言い掛けた言葉は中途半端なところで虚空へと吞まれて行き、結局は揶揄と皮肉をその玉のような琥珀色の瞳にのぼらせた冬月の華麗とも言うべき言説の数々でもって、叩きのめされるかの如く言い込められるのが落ちだった。
けれど、そういう遣り取りの中に、僕はおよそ自分の属する世界とはかけ離れた所に棲む冬月が、僕という存在にまともに向き合い、一個の人間らしく扱ってくれているような感覚を覚え、図らずも胸の奥底に仄かな光が明滅するのを感じずには居られなかった。……縦しんばそれが単なる思い過ごし──都合のいい勘違いであったとしても──……。
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