孤悲纏綿──こひてんめん

Arakane

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五十崎檀子の手記 

二十五

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 そのとき突然、びりびりと絹の布を引き裂くような音が蔵の薄闇に大きく響き渡りました。その音は少女の首にも聞こえたらしく、ぎくりと宙で動きを止めたのが目に入りました。わたし達は同時に音のした方──青白く発光する繭の方に顔を向けました。
 ──ああ、そのとき目にしたものを、わたしは何度脳裏に思い描いてきたことでしょう。神奇に満ちた聖なるものの生まれたあの瞬間を……!
 光る繭を食い破ってこの現世に生まれ出でて来たもの──それはあえかな月光ほどの青白い光を放つ龍でした。
 わたしは息をするのも忘れ、長い胴腹をくねらせながら全身を蔵の天井いっぱいに伸ばしていく龍を茫然と見上げました。
 暗がりにぽうっと浮かぶ燐光を思わせる龍の光は、幽玄で神秘的でさえありました。まるで心の深い部分を押し広げて入り込んでくるような龍の神奇な清らかさに圧倒され、わたしは無意識のうちに両手を合わせていました。
 しかしこの威容の生き物を生んだ子壺たる光る繭が、朽ち果てた花の残骸の如く蔵の床の上にばらばらに砕けて散らばっているその中に、李大龍の姿を見つけることができないことに気がついた途端、この龍によって李大龍が喰われてしまったかという恐ろしい考えが過り、激しい震えが全身を襲いました。
 悲愴な恐怖に震えるわたしの眼前で、龍が地鳴りのような大音声を轟かせて鳴いたのに驚いて、思わず龍の顔を見上げました。その青白く光る龍の両眼に抗いがたい力で強く惹きつけられた瞬間、わたしはこの龍こそが李大龍その人であるという天啓ともいうべき直感によって撃ち抜かれました。
 安堵の涙が込み上げる目で龍を見つめていると、威風で辺りをはらうようなこの龍が、どこか繊細な物静かさに満ちた趣を湛えているのにも気づかされ、そのことが確かにこの龍をして李大龍の化身した姿であることをいよいよ深く確信させ、わたしは名状しがたい悦びと感動に激しく打ち震えました。
 ところがわたしのその歓喜を打ち破るかの如く、少女の首が甲高い悲鳴を上げました。見ると、少女の顔は恐ろしいほどに蒼ざめ、恐怖とも苦悶ともつかない表情を浮かべているのでした。少女の首は突如として半狂乱のていとなって、取り乱したように辺りをぐるぐると飛び回り始めました。どうやら逃げ道を探しているようでしたが、しかし蔵の中はことごとく龍の光る体によって埋められて、少女の行く手を遮っていました。
 逃げることができないと覚った少女の首は、怯え切った様子で祖父の方を振り返りました。すると何事が起ったのか理解できず少女の首が宙を飛び狂うのを呆気に取られて眺めていた祖父は、俄かに我に返って声にならない悲鳴を喉の奥で上げました。
 その祖父に向き合って、少女の首は哀願するように何かを訴えかけ始めました。しかし少女の話す言葉が通じるはずもなく──仮に言葉が理解できたところで祖父が少女の訴えに耳を貸すはずはなかったでしょうが──ますますの恐れと嫌悪の色も露わに、あらぬ方向に顔を背けてかたく目を閉じ、大声に般若心経を唱え始めました。
 一瞬、少女の首には何とも言い難い静けさが訪れました。それは陰鬱な無言を貫きながらもざわざわと肌や心を刺激する嵐の前の大気によく似た、暗く不気味な沈黙でした。
 しかし刹那の静けさは少女の首が撒き散らし始めた凄まじい瘴気によって打ち破られ、周囲にはあっという間に禍々しい黒雲が立ち込めていきました。蔵に蔓延する瘴気はわたしの周囲にまで迫り、その魔手はわたしの口をこじ開けて無理やり喉の奥へと侵入しました。黒い毒気に吐き気を催しましたが口元を押さえて必死に堪えていると、毒々しい瘴気を吐いていた少女が怨嗟と呪いの怒号を上げて猛然と祖父に向かって突進しようとするのが見えました。
 祖父が恐怖の悲鳴を絶叫し、羽織の両腕を上げて身を隠すと同時に、再び大気を揺るがす龍の咆哮が響き渡ったと思うや否や、嵐のような突風が蔵の中を吹き荒れました。わたしはその烈風に薙ぎ倒されてしまわないよう茶箪笥の縁にしがみつかなければなりませんでした。



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