孤悲纏綿──こひてんめん

Arakane

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五十崎檀子の手記 

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 わたしは生まれた時分からひ弱な性質でしょっちゅう風邪を引いたりお腹を壊したりして寝込むことが多く、家の者は急なわたしの病気にも慣れっこになっていましたので、わたしが悪者にかどわかされそうになって大声を上げたのではなく、ただ発熱しているだけであるとわかって思わず安堵したということを責める気など、わたしにはもちろん毛頭ありませんでした。
 そんなことよりもさっき見た化け物の黒い影の方こそわたしの精神を脅かしていましたから、朦朧とする意識の中恐る恐る目を開け、部屋のあちこちに視線を走らせてみましたが、不気味な異形の影は既にどこにも見当たりませんでした。わたしはほっと安心すると同時に、ますます力の抜け落ちた体をぐったりと母の胸に預けました。
「聡子さん、あなた昼間ちゃんと檀子の様子に気を配ってたの? 母親ならしっかり見てないといけないでしょ。それにしたってこう体が弱いなんて、あなたこの子がお腹にいるとき、格好ばかり気にして薄着でいたでしょ。それが原因じゃないかしらねぇ」
 祖母は冷たい夜気に手をこすり合わせながら、母の胸の中のわたしを覗き込んで言いました。俄かに固いぎこちなさの浮かび上がった腕で無言のまま布団を手繰り寄せた母は、わたしをさらにしっかりと抱きかかえると、
「大丈夫よ、檀子。すぐに良くなるから」
 と、どこか抑揚を欠いた声でわたしの耳元に囁きかけました。
 父と祖母は早々に自室に引き上げましたが、祖父は一人残って、母が看病の準備をするためにこども部屋を出ている間、わたしの枕元に座っていてくれました。
 わたしは祖父がそばで見守ってくれる安心感と嬉しさから、苦しい息の合間にもにこりと笑って祖父を見上げました。すると祖父は黙ってわたしの手を大きな手のひらで包んでくれました。わたしは祖父のそのまるで堅牢な大樹の木肌にも似た手が大好きだったのです。
「おじいちゃん」
「うん? どうした、檀子。苦しいのか?」
「ううん、大丈夫。おじいちゃん、明日はおじいちゃんがお客様の相手をするの?」
 わたしの問いかけに、祖父は一瞬表情を固くしましたが、わたしが変に思うより前に口元を緩めると、
「檀子は昼間見たその人のことをどう思った? 怖かったか?」
「全然そんなこと思わなかったな……」
 そう答えながら、わたしは李大龍が纏っていた生き物のような妖気のことや、さっき夢の中や或いはまた部屋の暗がりで蠢いていた妖しい生き物のことなどを祖父に話そうかどうか迷いましたが、結局はそれを言う代わりに、
「どうしてお母さんやおばあちゃんは、あの人のことをあんなに怖がったり、悪く言うのかな? あの人が外国人だから?」
「どうかな……。なぁ檀子、田舎では住んでいる人も少ないから、どうしたって誰もが顔見知りになるし、うちは特に訪ねて来る人も多くて、村の人は皆なんだか親戚みたいなところがあるだろう? そこへ知らない人が来ると、たとえそれが日本人だったとしても、どういう人かがよくわからないから、怖いと思うことだってあるだろう」
「うん、そうだね。檀子も知らない人とお話しするのはちょっと怖いもん」
「ははは……そうだなぁ」
 祖父はわたしの顔をやさしく見つめながら、
「でもな、檀子。お母さんもおばあちゃんも、もちろんお父さんやわしもそうだが、檀子のことが可愛くて、だからこそ心配で、あんな風に言うんだよ。田舎だからと言って、いつも平和とは限らない。知らない人が檀子を連れて行くようなことが、絶対にないとは言い切れない。もしもそんなことになったら、とても悲しいだろう? だから知らない人を余計に恐れたり、何でもないことを怪しいと感じてしまうんだな。それはわかるな?」
「うん、わかる。だけど、あの人は悪い人じゃないと思うよ。最初はびっくりしたし、確かに少し怖いと感じたけど……。でも、初めて外国の人を見たせいだと思う。……あの人、不思議な雰囲気の人だったな……。ねぇおじいちゃん、外国の人ってみんなあんな感じなの? みんなあの人みたいに不思議で……きれいなの?」
「……不思議、か……。しかしそんなにきれいな人だったか」
「うん、あんなきれいな人、初めて見た。それに、あんな青い目も……」
「……」
「だからかな、ちょっとどきどきした」
「ははは、そうか。檀子がそんなに言うなら、わしもぜひ会ってみなくちゃな」
 祖父の手のあたたかさを感じるうちに、わたしは次第にうつらうつらと眠りと覚醒とを繰り返し始めました。
 一瞬深い眠りの谷に落ちかけたとき、部屋の障子がそっと開いて桶や手ぬぐいや水差しなどを抱えた母が入って来る気配がしてふと目醒めましたが、なんだか目を開けることが億劫で、そのまま目を閉じたままでいました。
「お義父さん、すみません。……檀子、眠ったんですね」
「ああ、病気のときにはとにかくよく眠ることがいちばんだからな」
 声を潜めて囁くように話す母と祖父の声が心地よく、わたしは祖父の手を握りしめたまま、再び夢うつつの状態になっていました。
 耳元で母が水に浸した手ぬぐいを固く絞る音がわたしの眠気をさらに誘いました。ひんやりと心地良く湿った手ぬぐいが額に乗せられると、わたしの体は心地良さにどこまでも緩んでいくようになり、何かわたしについてしゃべっている二人の声も子守唄のようで、わたしは深い眠りのために意識を手放そうとしました。
 そのとき不意に耳に入った祖父の低く沈んだ声が頭に響き、その残響が眠りかけたわたしの意識を現実に引き戻しました。

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