孤悲纏綿──こひてんめん

Arakane

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五十崎檀子の手記 

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 どこか白けたような、一方では張り詰めたような沈黙が続く食卓で、ついに我慢の限界が来たわたしの口は我知らず勝手に開いていました。
「あの人、手に何か書いてた」
 衝動的に出た言葉がそんな中身の薄いものだったことに、自分で自分に腹が立つと同時に涙が出そうになりました。きっと軽くあしらわれて終わるだろうと思っていたわたしは、しかし大人たちが俄かに緊張感の高まった様子で一斉に振り向いたことで、予期せず座の中心に引っ張り出されたような驚きに見舞われました。わけても祖父がいち早く顔を上げ、驚愕の表情を隠しもせずにわたしの顔を見つめたことで、身の内に奇妙な興奮が高まって来るのまで味わっていました。
 わたしの発言が大人の関心を引くに十分な重要性を持っていたということを意識すると同時に、もしかするとわたしだけが李大龍に関する重大な秘密を知っているのかもしれないという一種恍惚として勝ち誇るような感情が、一時にわたしの体に激流となって押し寄せていました。
「何かって?」
 普段あまりわたしの話に耳を貸すことの少ない父に尋ねられ、わたしは全身に熱い血の流れが怒涛の如く広がっていくのを感じながら、
「字。服の下に隠れてたし、難しい漢字だったから読めなかったけど、手にたくさん書いてあるのが見えた」
 実際には袖口からちらりと文字の一部が見えていただけだったのですが、わたしは無意識にそう口走ってしまいました。しかし半ばはそれが事実であるような気もしていました。何故かそのとき、わたしは李大龍の服の下にはたくさんの文字が棲んでいる・・・・・と思ったのです。
 けれど一瞬だけ垣間見えたその字の一部が、魚のように李大龍の肌の上で踊ったということは言わずにおきました。見間違いかもしれないと思ったからと言うよりは、それを口にしないほうが賢明だろうと思ってのことでした。
 大人たちは凍りついたように沈黙していましたが、祖父が再び食卓に目を落とし、ぎこちない様子ではありましたが黙々と食事の続きを始めると、祖母は大きく息を吸い込んで、嫌悪感も露わな低い声で言いました。
「まさか、やくざ者じゃないでしょうね。そんな連中に出入りされて変な噂がたったら困りますよ」
 それを聞くと父は少しばかり引きつった笑いを浮かべ、
「入れ墨をしていたからって、すぐにそうと決まる訳じゃないさ。伝統的な風習で入れ墨をしているのかもしれないし。中国にはいくつも少数民族があるから、もしかしたらそういう風習を持つ部族があって、その男はそうしたところの出なのかもしれないだろ」
「また明日来るって言ってたけど、どうしたらいいの」
 母は握り締めた箸の先を小刻みに震わせながら父を見ました。
「そりゃあ……」
 父はちらりと祖父に視線を向けました。
「親父、見せるくらいはいいよな」
 父の言葉につられ、皆の視線が一斉に集まる中、祖父は静かに啜っていた汁椀を置きました。
 一同が固唾を飲んで答えを待っていると、祖父は母の方に目を向けて、
聡子さとこさん、あんたも檀子まゆこの言うその漢字を見たのかね」
 母はわたしの方に目を向け、思い出すような顔つきになりながら、
「どうでしょう……。もしかしたらお金を見せられたときに、ちらっと見えたような気もしますけど、はっきりとは……」
「うん、そうか……。それでその男は李大龍リーダーロンと名乗ったんだったな? そして目は青かった……」
「ええ、それは両方とも間違いありません。……とにかく、いきなりあんな大金を見せられて驚いてしまって……」
 母の返事に、祖母は大仰なため息を吐きました。
「これだから一人娘で育った者はねぇ。ぼんやりしていては困るわよ。それで檀子が心配だなんて言って、母親ならもっと目端を利かせなくてどうするの」
 祖母に睨まれた母は首をすくめて俯きました。
「すみません……」
「お袋、今そんな話をしたって仕方ないだろ。とにかく、明日どうするかだ。べつに家の中を見たいと言ってきたわけじゃない。檀子が心配なら、そいつが蔵を見ている間、檀子を絶対に近づけないようにしておけばいい話だ。ともかく、俺は蔵を見せるくらい構わないと思うんだがな。なぁ、親父。見せてやるぐらい問題ないよな?」
 祖父は黙ったまま、思案しているようでした。父はそんな祖父に畳みかけるように、
「蔵なんて体裁のいいことを言ってるが、もう何年も入口を開けたことすらないがらくた置き場じゃないか。そいつの目的が何であれ、うちの蔵にそんな御大層なものがあるとも思えないし、こっちに被害が及ぶような話じゃないだろ。それにもしその男の話が事実だったとしたら、協力してやらないのはそれこそまずいんじゃないか。万一うちの蔵にそれらしいものがあってみろよ、それこそ後々国際問題にならないとも限らないじゃないか。とにかく一度見せてやれば、向こうも納得するだろ。なぁ、親父?」
「……うん、そうだな」
 祖父は低い声で呟きました。途端に父は明るい笑顔になって、
「よし、決まりだな」
 勢いよくビールのコップを煽り、満足そうに頷きました。祖母は何か言いたそうにしていましたが、祖父の決めたことですから、結局は何も言わずに湯のみのお茶を啜っていました。





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